昭和天皇には戦争の責任がある
August 8, 2024
毎年、夏になると「昭和天皇の戦争責任」についての意見や記事が出る。「この件を日本国民は忘れるべきではない」とする意見(2024年8月8日朝日)に、私は同感である。
昭和天皇が記者会見(1975年10月31日)で戦争責任について問われたときの「戦争責任というような言葉のあやについては、私は文学方面についてはきちんと研究していないので、答えかねます」、「原爆投下はやむをえないことと、私は思ってます。」との発言に、日本人が納得し賛同したとは、私にはとても思えない。
昭和天皇は日本国民の戦争被害を何と考えているのか。戦禍に苦しめられた国民に対して不誠実であり、卑怯で失礼な発言である。昭和天皇は国民の前で土下座して謝罪するべきであった。(「君が代」が日本国民全体の繁栄を願うのではなく、単に皇室の繁栄を願う歌でしかないために、その斉唱に従来から私が反対しているのはそのためである。「戦争責任者を称える歌」を日本の国民が歌えないのは当然であろう)
あの記者会見での発言について、日本が意外に静かだったのは、「納得はしないが責任者への責任の深追いはしない」という ”日本的な国民的情緒や文化” によるのもしれない。(日本の近代政治史上、首相として稀に見る悪行を重ねた安倍晋三への断罪と追及が、当人の死後、急に鎮静化していることも、同じ理由であるように私には思える)
なお、天皇の戦争責任をGHQが問わなかった理由として、定説とされているのは以下である。「GHQ(連合国軍最高指令官総司令部)のマッカーサーは、占領統治をスムーズにするため、昭和天皇の戦争責任を問わないことにした。 昭和天皇の罪を追及すると、武装蜂起する者などが現れ、占領のコスト(負担)が高くつく。 そこで急いで1週間で、武装解除と天皇を象徴とすることを柱とした新憲法をつくった」
東京裁判において昭和天皇が訴追されなかった最大の理由は「アメリカが、対日占領政策の円滑化のために昭和天皇の温存・利用の道を選択したためであり、 天皇不訴追の決定に決定的な役割を果たしたのは連合国軍最高司令官 (SCAP) マッカーサー元帥であった」とされている。
沖縄戦から79年
June 24, 2024
2024年6月23日は、20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から79年。
2021年8月12日には宮良ルリ先生が逝去された。1998年6月に、私と学生たちは研修旅行で沖縄へ行った。その時、”ひめゆり学徒隊” の生き残りである宮良ルリ先生をホテルの一室に招いて、学生たちを前に、沖縄での戦場の様子を語っていただいた。
学生たちは、始めは「普通のおばさんの戦争体験談かな」という表情で聞いていたが、生々しい体験談を聞いているうちに、学生たちは次第に表情が固くなり静まりかえった。旅行から帰ってきて、学生全員に感想文を書いてもらい、それを宮良先生に送り届けた。すると、宮良先生は著書の「私のひめゆり戦記」に自筆の署名を添えてお贈りくださった。宮良ルリ先生の御冥福を祈る。
「原発再稼働に都合の良い試算」に騙されまい
June 17, 2024
「再稼働に「都合のいい試算」を公表した新潟県の思惑 原発事故のリスクを無視、大きな数字で印象操作?」(2024年6月16日東京新聞)
前新潟県知事の泉田と米山の両氏は柏崎刈羽原発の再稼働に慎重な姿勢を貫いた。一方、花角現知事の就任当初から、姑息な県民懐柔に都合の良いこうした ”試算結果” が作成され公表されることは、すでに予想されていた。原発を推進する自民党の推薦を受けて就任し、今や馬脚を表している花角知事の策動に新潟県民は騙されてはならない、と改めて私は思う。
この記事の末尾はこう述べている「金が動けば何らかの経済効果が生じるのは当たり前の話。だが、人はもっともらしい数字に引きずられやすい。万博のように開催せんがためのにおいがする「効果」もある。柏崎刈羽も本当に「一つの材料」か。リスクを隠し、再稼働せんがための世論誘導だとしたら、非常に悪質だ。」
沖縄米軍基地の問題には日米安保条約と国防政策の検討が含まれる
May 18, 2024
52年前(1972年)の5月15日、沖縄が正式に日本に復帰した。
1973年(本土復帰の翌年)の3月に、私は初めて沖縄に行ったが,そこで受けた強い印象は「これはもうたまらない」であった。昼,夜を問わず,頻繁なものすごい軍用機の爆音。そのため,時にはどの学校でも授業が中断され,まともに教育が出来ない。
さらに,無性に腹立たしかったことは,「一旦,外国軍の軍政下に置かれたら,その地の住民はこれほどまで,馬鹿にされ,蹂躙されるのか」という印象であった。 米軍の兵士は,まさに,やりたい放題であった。泥棒,ひき逃げ,強姦,殺人など,何をしようとも,素早く,基地内へ逃げ込めば,日本の警察は,手出しができない。米軍としては,その犯人を早急に本国へ転勤させてしまえば,一件落着である。
沖縄の人々は,ただただ,屈辱と悔し涙にくれるだけであった。しかし,土地を強制収用されて以来今日まで土地の借用代金を受給して生活している人々は,もはや,農業には戻れない。また,米軍を相手に商売を営んでいる人々は,怒りと屈辱に堪えながらも,それで生きるしかない。日本は,対米従属の屈辱的な「密約」に縛られたままである(吉田敏浩 著「密約」2010年毎日新聞社発行)。ここで、改めて、沖縄問題と、独立した主権国家としての日本の安全保障を考えてみよう。
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「秘密のファイル,CIAの対日工作」(上,下) ,春名幹男(共同通信の論説副委員長)著(共同通信社 2000年6月発行)には,驚くべき事実が満載されている。
私は,まさに目から鱗が落ちる思いで読んだ。この本の下巻には、1947年に昭和天皇が自ら,アメリカに「沖縄における米軍の長期占領」を申し出たことが暴露されている (P.287-288)。
終戦当時は,アメリカ国務省は,「沖縄は日本の支配下におき,非軍事化すべき」と考えていたが,アメリカ軍部の考えは,「軍事戦略の上から沖縄を自由に使いたい」であり,国務省とアメリカ軍部の考えは対立していた (P.287)。
「中国やソ連に日本への手出しをさせないために,アメリカに半永久的な沖縄軍事基地使用を認める。天皇の意図はそんなところにあったのだろう。本土のために,沖縄の意志も聞かずに犠牲を負わせる,という意味では,戦後の「琉球処分」とも言える」(P.288)。
しかし,その後,国務省は「対日政策に関する勧告」をまとめ,沖縄における米軍基地を長期間維持することに政策変更した。米軍は,核兵器の配備も含めて沖縄の基地が自由に使用できることに安住し続けた。ベトナム戦争の拡大で,後方基地としての沖縄の役割が増した。だが,日本政府も,1960年代中期に至るまで沖縄返還には積極的には取り組まなかった(P.290)。
普天間基地の移設問題を考えると,突き当たるのは,1960年1月19日に新日米安保条約に基づいて日米両国間で締結された不当極まりない日米地位協定や,その新安保条約の取り扱いである。締結以来64年も経た今も、一度も改定されていない。
つまり,「アメリカは日本の安全を保障する」,「日本はアメリカ軍基地の維持費用を負担する」という,安保条約の二大原則と「沖縄の米軍基地の国外移設」をどう両立させるか,の高度な政治決着に最大の困難がある。日米安保条約は10年ごとの更新時に,一方からの通告のみにより解消できる。これも,日本とアメリカの双方にとって極めて重要な条項である。
日米地位協定の不当な現状を見れば,「米軍は沖縄から出て行け」という沖縄の人々の声,そして,「米軍は来るな」という徳之島の人々の声は、市民感情として当然のことである。
戦争放棄や恒久平和を目指す日本憲法の精神は,もちろん,誰もが賛成であろう。一方,真の独立した主権国家とは,国外からの侵略を自力で(外交努力と国際協力のもとに)防止できる国であろう。すなわち,真の独立国家とは、外交努力と国際協力のもとで「自国民の生活と安全を自力で守り保障できる国家」である。そのため、今日の日本に必要なのは「独立国家の要件とは」という国民的な議論の開始であろう。
憲法学者の多数意見によれば、日本の憲法第9条は自衛権を否定していない。そうであれば、憲法第9条の文言を例えば以下のように明解に改訂したらどうか( ”改憲” の必要は全くない)。
「我が国は独立した主権国家として、自衛の交戦権を有する。ただし,そのための武力行使は,自国の領土,領海、領空が侵略され,自国民の生活や安全が脅かされた場合に限る」
これであれば,国際的にも普遍的な理解が得られ,国防軍としての自衛隊の存在にも明確な整合性がうまれ、なんら法的な齟齬もない。これが,独立した主権国家としての真の平和憲法というものであろう。(この考えは、敵基地攻撃能力の完備だの、集団的自衛権だの、憲法に自衛隊容認の文言を入れよ、などの ”浅薄で安直な国防論議” とは全く異なる)
「米軍基地は,日本から出て行け」と主張するのはやさしい。しかし,その主張の背後に,日本の国防政策についての”思考停止の影”をいつも感じるのは私だけであろうか。
1960年代末から70年代に,当時の社会党は,日本の将来像として「非武装中立」を公言していたが,その不見識と無責任さには,今思い出しても呆れるばかりだ。「危機には座して死を待て」と国民に要求する ”能天気な政党” に,どうして国政など任せられよう。
独立した主権国家としての日本の自衛権を認める一方で,自衛隊は違憲であるから段階的解消を目指すとする共産党の主張は、自己矛盾の論理破綻であり、国民への説得力が全くない。「憲法9条は自衛権を認めている」とするならば、では有事の際の国防は何に頼るのか。それは自衛隊しかなかろう。ならば結論として「自衛隊の合憲性」はすでに明白であろう。
2年前、当時の志位委員長は「急迫不正の主権侵害が起きた場合には、自衛隊を活用する」、「憲法9条は無抵抗主義ではないから個別的自衛権は存在し、必要に迫られた場合には、その権利を行使することは当然だ」と述べ、それが話題になった。
その話題の中では、「(自衛隊を)合憲だとは認めないが、自衛隊なしに日本は守れないから活用するという理屈はおかしい」、「現実を踏まえて ”違憲の自衛隊” の存在を容認するのか、という疑問がわく」、「自衛隊は必要ではあるが、それを合憲だとする政府の憲法解釈に無理がある、というなら、まずは共産党自身が9条の改定を表明して自衛隊の合憲性を明言するべきだ」という意見が出ていた。これらは当然の意見であろう。
米軍基地が日本から完全になくなったら,中国や北朝鮮からの威嚇,沖縄,南西諸島,南方諸島などの安全と防衛,尖閣諸島の守備防衛,千島列島の帰属問題で,日本は自衛隊と海上保安庁だけで対応できるのかについて,どの政党も自信ある政策を示せない。それどころか、今日,どの政党も,日本の「国防の完備」の議論から逃避しているように私には見える。
「革新」を自認する野党も,日本から米軍基地が完全になくなった後に厳しく求められる「独立した主権国家としての日本の国防完備」の政策が出せない。それどころか,従来から,「米軍基地反対」の声は,しばしば ”自衛隊反対” の声と合体している。それは自国の国防の完備についての思考停止であり無責任といえよう。
日本の国防政策と現憲法との関連が充分に国内で議論されておらず、日本の与野党もそれを避けていることは,当然,「日本の弱み」として,アメリカ政府は以前から看破しており,それが,日本を「密約」で縛って平然としていられるアメリカの自信を補強しているのである。
不当極まりない日米地位協定の中でも,第17条、第5項の(C)「日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員又は軍属たる被疑者の拘禁は、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行なうものとする。」は,日本の政治と政府が、アメリカ政府に足元を見られて馬鹿にされている証拠の最たるものといえよう。
沖縄の米軍の普天間基地は,結局は,国外への移設しか根本的な解決策がないと私は思う。だが,その決断のためには,必ず,日米安保条約や日米地位協定の正否の論議が必須である。これらの議論をもはや先送りすることは出来ない。
日米の友好協力関係が大切であることは,日米双方の国民の総意であり異論はあるまい。そのため,沖縄の米軍基地の国外移設問題は,必ず,日米安保条約の正否と日本の国防政策を合わせた3点セットで再検討しなければならない。そうでなければ合理的な解決策は決して出ない。その3点セットの検討のためにかなりの時間が必要とされるのはやむを得ないことである。
今日の日本は,「改憲か護憲」か,などという空疎で粗雑な二者択一論議をしている場合ではない。沖縄の米軍基地を国外に移設するからには,独立した主権国家としての日本の国防政策の議論がまず必要であり,次に,その議論を踏まえた国民投票が必要なのである。日本政府はその投票結果に基づき,日米安保条約や日米地位協定の改定や解消を視野に入れた上で,沖縄を含む在日米軍基地全体の処遇について高度な政治判断をするしかない。
日本の学術行政と大学教員
March 19, 2024
今日、日本の国立学校は、年間の一般校費が以前に比べて大きく削減され、一方、”卓越研究大学”に認定された大学には巨額の予算が交付される、という「過度の傾斜配分主義」に直面している。
複数の大学院生が在籍する研究室を抱える大学教員が、その運営の維持費を求めて、アンモニア燃焼だの水素燃焼だの、そう遠くない時期に不合理が判明して廃れるであろう「無駄な研究」にも飛びつくのは、やむを得ない面がある。
”時流に乗って金が取れそうな研究” に「学問的価値は二の次にして」飛びつくしかない日本の大学教員。「すぐにはお金にはならない」基礎研究がこのように冷遇される日本の学術行政に、私は大きな危惧を感ずる。(10年以上前の私の在職中は、一般校費と民間助成金とたまに当たる科研費を合わせると、それほど研究費に困ったことはなかった。優秀な学生の協力のもとで自由に研究論文が作成できた)
私が知る限り、アメリカの大学教員への研究費交付は、今日の日本の大学教員が直面しているほどの極端な不合理ではない。NSF (National Science Foundation)では多数の審査委員により十分な審査がなされ、基礎研究から応用研究まで、幅広く研究費が交付される(そのために大学教員にとって、研究費申請の書類作成は、毎年の重要な仕事である)。
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燃焼技術におけるアンモニアや水素の使用が、環境保護とエネルギ有効利用の見地からいかに不合理であるかを、環境工学者は詳細に警告している。
「君が代」、「仰げば尊し」、「蛍の光」
February 29, 2024
明日から3月。卒業式の季節だ。今日では、多くの小中学校で「蛍の光」や「仰げば尊し」の斉唱はなくなったが、一方、「君が代」の斉唱を公立学校に強制している自治体が多いようだ。文部科学省は「君が代の斉唱」を「強制ではない」と強弁しつつも,実質は,各県の教育委員会を通して公立学校におけるその斉唱を要求し,斉唱の実施状況の点検とその報告を要求している。
入学式や卒業式の季節になると,各県の教育委員会から「君が代斉唱」の職務命令が出され,その斉唱の実施状況の報告が学校長に求められる。毎年の春,教育現場における管理職と教職員との軋轢がこうして繰り返され,教育委員会も学校長も,ジレンマの渦中に陥る。1999年2月末、広島の県立高校の校長が卒業式における君が代斉唱問題に悩んで卒業式の前日に自殺した。東京都は「君が代斉唱」に協力しなかった教職員を処分している。
「君が代」が,日本の国民全体を主体とし,その繁栄を希求して謳う歌では決してなく,実質的には,明治以来の天皇の長寿を願い,皇国史観を賛美するだけの歌でしかないことは,多くの識者がしばしば指摘していることである。
それだけではない。「君が代の斉唱」を強制させる政治動向には,今までの幾度かの戦争において皇国史観を旨とする日本の軍国主義がアジアの諸国民に与えた甚大な被害に対する無言の開き直りと無反省の影が色濃く付きまとう。日本の軍国主義により,すさまじい暴虐と陵辱の被害を受けたアジア周辺の諸国から強い批判が出るのは当然だ。
在職中に、日頃,アジアからの留学生と接することの多かった私は(高校時代に「君が代」の歌詞の馬鹿らしさを知り)、今日でもその斉唱には参加しない。(一方、そうは思わない人々もたくさんいよう。多様な考え方があってよい。歌いたい者が歌えばよい)
「仰げば尊し」の「恩着せがましさ」は、昔から私も感じていた。子供たちにとって、学校では色々な教職員との出会いがあり、「良い思い出」ばかりではないはずだ(教師による暴言、差別の印象、暴力、セクハラ、いじめの放任などもあったかもしれない)。そう考えると、やはり「仰げば尊し」の斉唱は時代錯誤の強制であり、子供たちに歌わせるべきではないと私は思う。「螢の光」については、知人が以下を述べている。
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子供の頃は「蛍の光」を何も考えずに歌っていましたが、以下の歌詞をよく見ると「仰げば尊し」よりも難しくて、意味を分かっていたのかどうか.............。
1. 蛍雪の故事のように、勉強と毎日を重ねてきましたが、いつのまにか年が過ぎ、ついに今朝、別れていきます。
2. 在校生も卒業生も今日限り。お互いを思う万感の気持ちの一端を一言、幸せを願って歌います。
以下の3番と4番は知りませんでしたが、すごい歌詞ですね。ご存知でしたか。
3. 九州の端から東北の端まで海や山に遠く隔てられていても、心に隔たりはありません。お国のために一致団結しましょう。
4. 千島も沖縄も日本の国土です。攻め込んでくる国には男らしく戦ってください、あなた。でも、死なないで。
沖縄でなく台湾だったとかいう話もありますが、これでは、子供たちに歌わせることは出来ませんね。
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あらためて調べてみると、確かに「蛍の光」は「君が代」と同じく、「皇国史観」の色濃い歌詞だと私も思う。この二つの歌は、私の世代であれば大多数が小学生の時に、意味も分からず(知らされず)歌わされていたと思う。
計算ソフトの結果の判断
February 26, 2024
今日では優れた計算(数式処理)ソフトがたくさんある。しかし、そのソフトが表示する結果について、その便利さを盲信するのではなく、ユーザー(人間)が元の原理(計算方法)を理解した上で、その計算のアルゴリズムを機械(コンピュータ)に実行させているにすぎない、という姿勢でユーザはそのソフトを使い、その便利さを味わう(楽しむ)のが良い。
例えば、分散した多くのデータを処理するときに、最小二乗法のソフトは色々な近似式(相関式)で結果を表示できる。しかし、どのような近似式が「実際のデータの傾向」として最適なのかは、人間が判断(決断)しなくてはならない。
色々なデータについて、統計計算のソフトは、例えば、分散、偏差値、標準偏差などを瞬時に表示する。しかし、その結果を直ぐに盲信してデータ内容の特徴(特性)を判断することは危険である。ソフトに入力したデータが「正規分布していることの保証」がないためである。その保証(実証)がなければ、ソフトが表示した統計計算の結果は全くのデタラメでありゴミクズに過ぎない。そのため、統計処理の結果を盲信することの危険性を警告する書がたくさん出ている(「統計の9割はウソ」、「統計はこうしてウソをつく」、「統計でウソをつく方法」、「統計という名のウソ」その他)。
Excelによる関数グラフ
February 23, 2024
最近、Excelによる関数グラフ表示の性能の良さと面白さに魅了されている。あれこれのパラメータを変えると、Excelが瞬時にグラフを表示してくれることに驚き、感心してしまう。
例えば、高校一年程度の簡単な非線形の数式、f(X)=A^X-X^A (A=2,3,4,5,....) について、そのグラフを描かせてみると、面白い結果が瞬時に表示され、その理由を考えるのもまた面白い。そのため、あれこれのパラメータを変えて、時間を忘れて楽しめる。(通常の関数電卓でこれを計算したら、かなりの長時間を要するであろう)
今は便利な時代になったものだ。関数電卓なるものがカシオから世に出たのは、私が大学院の時であり、貧乏学生であったが、アルバイトで得た貴重なお金をはたいて、その「カシオ関数電卓」を買った。べき乗の指数が整数に限るという電卓であったが、それでも四則演算はもちろん、定数演算、三角関数、指数、対数、逆数、平方根、立方根、などが瞬時にできることに感激した当時を思い出す。
心電図とカテーテル手術
February 10, 2024
2月8日に、心電図の最終検査があり、その結果は10ヶ月ぶりに正常に戻っていた。しかし、今後に再び「心房粗動」が起きないように、軽症で済んだ今のうちにカテーテル手術を受けることにした。13日には病院へ行き、医師と相談することになった。
心電図検査をした病院で、カテーテル手術が実施できる病院への紹介状を作成してもらったが、それが入った封筒の宛先が「外来語担当医師 御机下」となっていた。
私が(笑いをこらえて)「外来語の良し悪しを診断する医師ですか?」と受付の職員にきくと、「あ、間違えました。返してください」、「いや、私はこれでもいいのですが」、「いえ、返してください。書き直しますから」とのやり取りがあったので、周囲で大笑いになった。私が 「外来御担当医師 御机下」などとしなくても、「外来担当医師 御机下」で十分じゃないですか」というと、「外来担当医 先生 御机下」と書き変えられていた。随分、荘重な書き方をするものだ。そもそも、医師の仕事は ”教えること” ではないから ”先生” は不要だろう。(国会議員も先生と呼称されることがあるから、先生という呼称には、そもそも、大した意味がないのかもしれない)
あるOBとの対話
February 3, 2024
大学院で物理学を専攻し、現在は、ある大企業の管理職となっている、子育て世代真っ盛りのA君は私の研究室のOBであり、優秀で頼もしい青年であった。その彼から私宛に以下の意見が来た。
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「原発については人それぞれ意見があると思いますが、私はどちらかというと容認派です。結局は人の生活がある以上エネルギー確保しなければならないわけです。その手段として、今のところは、選択肢として原発は許容せざるを得ないと思います。」
「原発のコストに、福島みたいになった時に生じる補償費までいれたら、それは採算が取れないことは自明です。結局は、どこまでを、考える範囲に入れるか、何を優先事項とするか、リスクをどう考えるかに尽きると考えます。太陽光発電であっても、ライフサイクルでみたら、CO2の排出が多いですし、リサイクルの手段もできていませんし、コストも高いです。山を切り開いて太陽光つくれば、土砂崩れの心配で安全の問題もある。どの手段だけが良い悪いとかなく、バランスの問題と思います。」
「どっちが良い悪いの議論をするつもりもなく、純粋に先生に一つ質問です。先生が、この意見が正しいとか、この意見は違うのでは?と思う際の根拠はどこにあるのでしょうか? 先生はどのような根拠で、この人の意見、この記事の意見、この本の意見は正しいと思うのか、教えてください。」
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私は以下のように返信した。
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「先生が、この意見が正しい とか、この意見は違うのでは?と思う際の根拠はどこにあるのでしょうか?」
いい質問ですね。ありがとうございます。今までに他からも何度か同じような質問を頂いています。
私の判断の根拠の立場はいつも同じです。科学的な根拠に照らして、自分で本当に納得できるかどうかです。つまり、まともに理工学教育を受けた者であれば誰もが熟知している自然科学の大原則である「質量保存法則」、「エネルギ保存則」、「熱力学第2法則」そして「初等物理学に照らしての矛盾の有無」などを冷静に考えてみることにしています。
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電力供給源として何を用いるかについては、結局は、「適材適所」の手法を取り入れるしかない。確かに、太陽光発電、風力発電、潮力発電、原子力発電など、どれにも一長一短があるから、それらの電力供給源の設置場所の決定には、国土の地理、地形、気候などを考慮して、事故や災害(地震や津波)において人間の生活に被害が極力及ばないような「適材適所」の方策を用いるしかない。
その見地に立つと、原発の設置場所は、人間の生活圏から離れた日本近辺の無人島しかない。しかし、原発が無くても、日本の電力事情には不足がないので、結論として日本には原発は不要といえる。
母の49日供養
January 30, 2024
昨日(1月29日)は、先月14日に亡くなった母の「49日供養」。秋には「墓じまい」をすることで、私と姉と住職とで合意した。墓石の撤去費用と、お寺の境内にある永代供養に遺灰を納め、墓に入っていた祖父、父、母の名札をお寺の本堂に納める費用を支払って完了、ということになり、これでようやく一段落した。
私と家内、そして姉(夫はすでに逝去)は、死後は「葬式は不要、遺骨の処理方法(海への散骨や永代供養)は子供たちに任せる」として、決着している。私達のような後期高齢者には、こうした「人生の後始末の作業」が付随する。ようやく完了して安堵している。
字幕翻訳者の日本語努力
December 24, 2023
私は、映画の字幕翻訳者である戸田奈津子さんのフアンである。彼女が以下を述べている(2023年12月23日朝日)。私は全く同感である。
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<<スターの信頼得た戸田奈津子さん 英語上達のために学んでほしいこと>>
「最近のような会話重視は、私は間違っていると思います。やっぱりまずは基本をしっかりやるべきです。中学3年生の文法でいいんです。あとはボキャブラリーを増やしていけば、言葉を入れ替えてどんな文章でも作れるようになります。 会話のために同じ文章をオウムみたいに繰り返して暗記しても、応用はできません。文の作り方の基本をしっかりと勉強したうえで、表現をふくらませていくことです」
「書くことも大事です。会話は、多少間違えても相手に通じますし、その場で消えてしまいます。でも、書いたことは紙の上に歴然と残って、自分がどこを間違えたのか認識することができます。間違いを認識するということが、学ぶということなんです。例えば、三単現(三人称単数現在形)の ”s”を落としていても会話は通じますが、それを続けていたら、この人は教養がないなと思われてしまいます」
「英語、英語って言いますが、日本人のうちどれぐらいの人が、人生で英語を必要とするでしょうか。海外に出てグローバルに活躍する人は、もちろん死ぬ気になってやらないといけない。好きな人は英語をやればいい。 でも、そうじゃない人だっていっぱいいるわけです。なぜもっと母国の日本語を教えないのか、と私は思います。美しい日本語がどんどん失われていっているし、スマホでメッセージを送っているだけでは、長い文章が書けなくなります」
「字幕翻訳の仕事でも、求められるのは80%が日本語の力なのです。自分は英語がしゃべれるから字幕もできるんじゃないかと思う人もいますが、それはとんでもない誤解です。字幕翻訳をやりたい人なら原文がわかるのは当たり前。一方、字幕は、短く、的確に、みんなに分かる言葉で、見ている人の感情に訴えなければなりません。そのためには日本語の力が必要なのです」
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裁判関係の映画が好きな私は、法廷劇のDVDを時々買って見てきた。戸田奈津子さんの字幕翻訳による10編以上の映画を見てきたが、その中で、時々、思わず感心させられることがあった。
以前、「映画を見ている人は、字幕を読みに来ているのではなく、映画の場面に没入しているのです」、「そのため、字幕翻訳者は、セリフをその場面の状況を端的かつ的確に表現できる日本語にするべく、本当に苦心しているのです」、「字幕のためには日本語を磨くことが必須です」という趣旨のことを、戸田さんは言っておられた。
戸田さんが字幕翻訳を担当した「真実の行方」(リチャード・ギア主演)のラストシーン近くで、あるセリフについて、「ひとつ利口になったと思いな!」という字幕が出た時には、私は思わず感心してしまった。(こうした体験は、他の映画でもたくさんあった)
戸田さんが言うように、映画の中のある場面のセリフにふさわしい日本語を字幕に出すには、相当な日本語訓練が必要であろう。(そのために、同じセリフでも字幕翻訳者の判断により、ニュアンスが若干異なる日本語が表示されるのは当然ありうる)
例えば、None of your business! を「お前には関係ない!」だけでなく、「うるせえ!」、「黙ってろ!」、「静かにしろ!」、「俺は今忙しいんだ!」などと使い分けるのは、字幕翻訳者のまさにプロとしての腕の見せどころといえよう。
戸田さんが字幕翻訳を担当した多くの映画の中で、たまに、女性としては口に出すのもはばかられるようなセリフが出ることがあるが、戸田さんが「その場面にふさわしい端的な日本語を出す」というプロ精神に徹していることの証左といえよう。
叔父と母の旅立ち
December 16, 2023
先日(12月12日)は、叔父(父の弟)の葬儀。享年89歳。囲碁5段、将棋5段、毛筆の達人、尺八の奏者、フォークダンスの愛好者、という見事に多彩な叔父であった。叔父が13歳の中学生の時に私が生まれ、私が子供の頃から叔父は私をかわいがってくれた。
普段はめったに会う機会のない親族が何十年ぶりかに顔を合わせ、昔話に花を咲かせるのが葬儀だ。血の繋がった親族とはいえ、初対面なので、お互いの名前を言って自己紹介をして「ああそうなのですか」などと言い交わす光景は面白い。
一昨日(12月14日)の朝、ホームにいる母の様子を見に行くと、一見して ”危ない” ことが感じられた。そして、深夜、呼吸が止まったとの連絡が来たので、急遽、ホームへ車で駆けつけた。昨日(15日)の朝、医師が来て死亡診断書を作成した。死因は「誤嚥性肺炎とアルツハイマー症による認知症」。92歳。遺体を葬儀場に運び、住職や火葬場の都合から、葬儀は17日の午後となった。立会人は私と姉のみという小さな小さな家族葬。この6日間に葬儀を2回体験することになった。
後日、母の納骨が終了した後は「墓じまい」をする予定。新潟市には他に親族がいないので、遠隔地にいる子どもたちに迷惑がかからぬように、私と家内は、自分達の葬儀や墓を不要とし、遺骨は永代供養の中に入れるか、樹木葬や海への散骨が良いと、子どもたち伝えている。
タイヤの偏平率とは
November 29, 2023
この冬に車のタイヤをスノータイヤに交換するにあたり、新品のスノータイヤに替えることにした。毎年タイヤ交換をお願いしている店に連絡すると現タイヤの規格を訊かれたので調べてみた。すると、おかしなことに気づいたので、タイヤメーカーに以下のように問い合わせた。
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貴社のHPにて、タイヤの偏平率についての説明を見ました。
偏平率を表す式が(タイヤの高さ/タイヤの断面幅)×100 となっておりますが、偏平という言葉の意味からいえば、分母と分子が逆ではないでしょうか。普通に考えれば、偏平率の「数値が大きい」タイヤは、その数値が小さいタイヤよりも断面の「偏平の度合い(ペシャンコの度合い)」が大きいとの意味になります。しかし、上の式ではそれが逆になり、偏平率の「数値が小さい」ほど偏平の「度合いが大きい」ことになってしまいます。例えば、ある道路での車の一定通行数に対する交通事故の件数を、その道路での「交通事故率」とすれば、交通事故率が「高い」ことは、その道路での交通事故が「多い」ことを意味します。
タイヤの業界では、偏平率を上の式で表すのが定例なのかもしれませんが、偏平率という言葉からユーザーが受け取る意味を正確にするために、上の式を改訂するべきではないでしょうか。
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同日に、タイヤメーカーから以下の返信が来た。
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扁平率とはタイヤの断面幅に対する断面高さの比ですので、数値が低くなるほど断面高さが低くなります。
また、分母と分子を逆にするとタイヤ断面高さに対するタイヤ断面幅の比になる為、数値が大きくなると断面幅が広く、数値が小さいと狭くなるという意味となり、タイヤ断面高さの扁平を表す数値とはならないため、式の改訂は出来かねます。
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同日に、私は以下のように返信した。
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どうやら、偏平という形状の意味を誤解されているのではないでしょうか。
偏平率が大きいタイヤとは、偏平の度合い(ペシャンコの度合い)が大きい、すなわち、タイヤの横幅の割にはタイヤの高さが低いタイヤですから、偏平率とは「タイヤ断面高さに対するタイヤ断面幅の比」であり、この数値が大きいほど「偏平率が大きい」ことになります。
そもそも、A/B とは、Bに対するAの比率の意味ですから、偏平率の式を(タイヤの高さ/タイヤの断面幅)×100 とすると、この値が大きいほど”非偏平”であることになり、”非偏平率”を意味することになります。そのため、偏平率を表す式は、分母と分子を逆にしなければなりません。
例えば、「立てた円形が偏平になる」とは、その円形が「もとの高さに比べて横幅が大きくなる」すなわち、横幅に比べて高さが低くなる(ペシャンコになる)という解釈は御了解いただけますね。日本語で普通に考えれば、偏平率が大きいタイヤとは、偏平率が小さいタイヤよりも「偏平の度合い(ペシャンコの度合い)」が大きいタイヤのことでしょう。
タイヤの業界では、偏平率を現状の式で表すのが定例なのかもしれませんが、ユーザーが偏平率という言葉で受け取る意味を正確にするために、式の分母と分子を逆にして修正しなければなりません。私のこの意見は、周囲の複数の方々からも賛同をいただいております。
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翌日に来た返信:「扁平率につきましては規格で決まっており、弊社では対応できかねます。ご確認の程、よろしくお願いいたします。」つまり、「タイヤ製造業界の一社である弊社だけでは用語の修正はできない」という予想通りの回答。タイヤ業界の日本語能力には疑問がわく。
「扁平率(へんぺいりつ、扁率、扁平度とも、flattening, oblateness)とは、楕円もしくは回転楕円体が、円もしくは球に比べてどれくらい扁平か(つぶれているか)を表す値である。円もしくは球では値が 0 である。つぶれるに従って値は 1 に近づく」(Wikipedia)
袴田事件と冤罪
October 27, 2023
今日(10月27日)、静岡地裁で袴田事件の再審公判が始まった。今日の日本で,冤罪を主張している事件は,他にもたくさんあるが、その根源は,「起訴されたが無罪判決が出た」という場合を「検察側の黒星」と見なす考え方の誤謬性にあると私は思う。
袴田事件のように,明らかな反証が出てきても、何が何でも再審に反対する検察側には,無実を訴えている被告の人権尊重よりも「先輩検察官が起訴して有罪判決を導き出した事実を,ここで否定する訳にはいかない」とする「検察官のプライド優先」の姿勢が明らかだ。
検察官は,普通に職務を遂行しており、事実関係を調査して起訴を決定した場合に、裁判官から無罪判決が出たとしても,それは ”裁判の結果” であり,「起訴自体が間違っていた」や「検察の黒星」とはいえない。その認識が個々の検察官と検察の世界に定着すれば,冤罪事件は激減するであろう。
今日の日本の検察官や裁判官は,袴田事件(1966年)の当時には,まだ生まれてもいない,あるいは,まだ小学生であった人が大半であり、その事件そのものを知らない方々も多いはずだ。被告から冤罪の訴えが出され、弁護団から客観的な証拠をもとに再審請求が出されたときには,「過去における先輩検察官や裁判官の判断」を、まずは棚上げし,再審請求人の主張に真摯に向き合うことが,検察官や裁判官に求められる。
裁判における鑑定人や参考人になると、同じ分野の学会で顔見知りの仲間であっても、互いが検察側と弁護側とに分かれて、相手の見解を否定するべく意見を述べ合うことがある。(特に、法医学の学者の間ではそれが多いようだ)
しかし、研究者の役割は、科学的な見地から意見を出すというだけであり、その結果が判決にどう影響するかは裁判所の判断に委ねるしかない。(裁判官は、全くの文系なので、研究者が科学的な意見を彼らに理解させるのは、実はとてもむずかしい)
意見書を作成するときに重要なことは、科学的な事実を検察官や裁判官に分かってもらえるべく作文することだが、専門用語を極力排除し、重要な事実や意見を日常生活の中の普通の言葉で説明しなければならないために、その作成にはかなり気を使い、分量の割には相当な時間がかかるので疲れる。(裁判で判決が出た後には、判決文、鑑定書、意見書は、全て最高裁に送付されて保存され、控訴審や上告審での重要な資料となる)
私は、大阪の東住吉事件と北海道の恵庭OL殺害事件の弁護団に協力したが(大阪の東住吉事件は無罪が確定)、北海道の恵庭OL殺害事件では、札幌高裁における再審請求審で、弁護団による石田の証人申請には札幌高検の検察官が激しく反対し、なんと、札幌高裁はそれを認め、再審請求を却下してしまった。 被告の女性は、16年の刑期を終えて出所したが、弁護団は、まだまだ、再審請求に向けて頑張っている。私の意見書について、八田氏はこう述べている。
自動翻訳ソフトへの丸投げは危険だ
October 17, 2023
以下の記事は、2名のILO職員が大使を表敬訪問した内容だが、そのAI生成自動翻訳の結果を見ると、主語と目的語が逆になっており唖然とする。received が「接待した」や「表敬訪問した」になる不思議さ。人間による訳なら決して起きないことだ。(receivedを「承諾して受け入れた」と捉えるなら「接待した」も間違いではないかもしれない。しかし、received を received a courtesy visit by として "自動判定" したとしても、訳文は主客転倒だ)こうしたことが頻繁に起きる現状を見ると、今日のAI生成自動翻訳は、まだまだ、発展途上の初歩段階といえる。(なお、このreceived をwelcomed に交換すると、まともな訳文が出る)
AI生成自動翻訳のソフトの中では、DeepLが他に比べて良質と私は感じているが、それでも、主語と目的語が逆である訳文を出すという現状。官庁や会社などで大量の英文資料の訳を自動翻訳ソフトに丸投げした場合には、かなりの ”間違い” も含まれていると見なければなるまい(場合によっては、その間違いが大きな問題を引き起こすこともあろう)。そのことを担当部署の職員が分かっているのかどうか、私は気になる。
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Ambassador Received International Labour Organization (ILO) officers
On October 5th, Ambassador received two ILO officers, Ms. Heejin AHN and Mr. Rui PACHECO.
Through the fund from the people of Japan, ILO has been working in partnership with three training centers, Fundacao Cicanda (STVJ), Pro Ema and East Timor Development Agency (ETDA), delivering pilot entrepreneurship trainings to 90 students in Dili, Timor-Leste.
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DeepL 訳:
大使、国際労働機関(ILO)職員を表敬訪問
10月5日、アン・ヒジン氏とルイ・パチェコ氏の2名のILO職員を大使が表敬訪問しました。
ILOは、日本の皆様からの基金を通じて、Fundacao Cicanda (STVJ)、Pro Ema、East Timor Development Agency (ETDA)の3つの研修センターと協力し、東ティモールのディリで90名の学生に試験的な起業家研修を実施しています。
Google 訳:
大使が国際労働機関(ILO)職員を接待
10月5日、大使は2人のILO職員、アン・ヒジン氏とルイ・パチェコ氏を表敬訪問しました。
ILOは、日本国民からの基金を通じて、フンダカオ・チカンダ(STVJ)、プロ・エマ、東ティモール開発庁(ETDA)の3つの訓練センターと連携して、東ティモールのディリで90人の学生にパイロット起業家精神訓練を実施している。
緊急脱出を請け負う会社
October 15, 2023
昨日(10月14日)、イスラエルにいる日本人の緊急避難のために、航空自衛隊の飛行機が日本から出発した。2006年に治安が悪化した東ティモールからチャーター機で脱出した日本人の一人である私は、イスラエルの現地にいる日本人とその家族の脱出準備の様子が想像できる。(東ティモールからの脱出では、機内に持ち込むスーツケースは一人一個とし、お金や貴重品はすべて肌身につけて持てとの指示が出た)
私達日本人が東ティモールから脱出した時の飛行機は、自衛隊機ではなく、緊急脱出を専門に請け負う会社(名前を忘れた)が手配した航空機であり、Pelita Air というインドネシアの航空会社の航空機であった。その機内には、負傷者用のベッド(ストレッチャー)があり、簡単な軽食も用意されており、なんと日本人のスタッフ(女性)もいた。
その会社は、一国の政府から「現地が危険状態なので、自国民を緊急脱出させたい」との要請があった場合には、直ちにそれを引き受け、近隣の国の航空機をチャーターし、現地の空港へ向かわせるようだ。その会社の案内書を見ると、世界のどの国からの要請にもすぐに対応できるべく、常にスタンバイ状態にあり、世界中のどんな空港へも、通常の運行スケジュールの隙間を縫って、チャーター機を到着させる用意があるとのこと。これには驚いた。
東ティモールから脱出した私達は、まず、深夜のジャカルタの空港に着き、JICA(国際協力機構)の現地支所が用意してくれたバスに乗り、市内のホテルに入った。そして、翌日の夜に日本の航空機で成田に向かった。JICAによるこうした手厚い対応に、私は深く感謝した。
自動翻訳ソフトの現状
October 10, 2023
自動翻訳のソフトは日々改良され進歩しているが、以下は、それがまだまだ改良途上にあることを痛感させる最近の実例である。
「AI生成の自動翻訳」において、一つの単語が異なる意味を持つ場合の文中での正確な意味の判別、自動詞と他動詞の判別、他動詞の目的語の判別、過去形と過去分詞の判別、分詞構文の意味の判別、などに ”失敗” した場合には、人間による訳では決して発生しない ”迷訳” や ”珍訳” が出来上がる。
それを常に監視し訳文の真偽を判断するのは人間の役割だ。高校時代の「読解,文法,作文」という英語授業の有り難さを、私は今も痛感する。高校時代の英語の特訓は”貴重な機会”なのであり、決して ”受験英語” として忌避されるものではない。
CBS News (October 9, 2023):
Colorado wildlife authorities said that a mother bear and her cub were killed after she charged two young boys in Colorado Springs.
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Google 訳:
コロラド州野生動物当局は、コロラドスプリングスで少年2人を告訴した後、母グマとその子グマが殺害されたと発表した。
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DeepL 訳:
コロラド州の野生動物当局によると、コロラド・スプリングスで母熊とその子供が2人の少年に襲いかかり死亡した。
”国側”という当事者の内容
September 28, 2023
昨日(2023年9月27日)、大阪地裁は、原告全員が水俣病を患っていると認め、今までの患者救済の仕組みを批判し、不十分であると厳しく断じた。「断罪された国の姿勢」とする意見(2023年9月28日朝日)は、誰もが納得できよう。
国側の責任を厳しく問うこうした裁判の記事を見るたびに、私がいつも疑問に思うことは、裁判で ”国側” とされる当事者の具体的な内容である。それはどのような人員で構成されているのか。管轄省庁の裁判担当者か、管轄する省庁からの委託を受けた ”有識者会議” の人員か。
いずれにしても、血の通った生身の人間で構成されているはずであるが、どのような裁判でも、いかなる判決でも、あくまでも「法律論で冷徹に対抗」し、上訴に持ち込む姿勢を維持する(できる)構成員の信条や思考を私は知りたい。
地方私大の存続と学生の進学機会確保
September 17, 2023
20年以上も前から、日本では「今後も18歳人口が減り続ける」と警告されていた。「しかし、大学進学率が上昇するから、大学入学者の総数はそれほど減少しないであろう」との予測のもとに、文科省は大学の新設や学部の増設を ”安認可” してきた。日本の大学が800校以上というのは、国の人口比でみると世界的にも異常に多い数だ。
「入学者が定員を満たせない私立大学が半数以上になり、特に、地方の小規模大学は深刻だ」、「生き残りしか考えていない大学は、在学生を送り出す余力のあるうちに撤退を決断するべきだ」、「一方、地方の私大がなくなると、経済的に自宅通学しか許されない家庭の子は大学進学が不可能になる」、「日本の将来にとって、地方から大学が消えることの損失は大きいから、入学者定員を満たせない地方私大は、地域との連携を強め、存在価値と特色をアピールせよ」、「地方の疲弊が進めば、日本の持続的な発展が危うくなるから、私学助成の指標に、その大学の地域貢献度を含めたらどうか」(2023年9月17日朝日社説)
これらの意見に私も同感だが、一方、これらはかなり難しい課題でもある。「存在価値の薄れた地方私大は早急に閉鎖するべし」と「経済的に自宅通学しか許されない家庭の子の大学進学の機会を失わせない」とを、どのように両立させるのか。
結局は、「(地方私大は)卒業者の地元就職率の向上や、地域課題の解決に取り組む件数を増やすこと、同時にそれを国が高く評価する姿勢と財政施策が必要だ」(同社説)これしか方策がないように私は思う。
生成AI、自動翻訳と英語教育
September 13, 2023
作文学習における生成AIの利用の現状は「両刃の剣」である、とする意見(2023年9月13日朝日)は予想通りのことであり、私は深く納得できる。
ところで、今日、誰でも手軽に利用できる自動翻訳については、どうだろうか。無料ソフトであるDeepL翻訳の最近の進歩は目覚ましい。それをdownloadしてPCにinstallしておくと日常的にとても便利である。”AIを使った機械翻訳”であるために、訳文の中に、時々、多少のぎこちなさが含まれるのは仕方がないが、原文の記事全体の趣旨が正確に訳出されており、私は感心してしまう。
英語以外の大抵の外国語の翻訳にも、もちろん、対応している。CNN、NBC、ABC、BBCなどに長文の記事が出ているときは、私は通常、DeepL翻訳による日本語訳を読む。DeepL翻訳が使っているAIのアルゴリズムが優れているのであろう。
私自身は、英語の原稿を作成するときは、日本語の原稿を作らず、始めから英語文を作成しているが、その英語原稿をDeepL翻訳で日本語に訳し、それが自分の意の通りであれば、その英文原稿を良しとし、そうでなければ、元の英語文を見直し改訂し、再度、DeepL翻訳による日本語訳を確認する。DeepLによる翻訳ソフトの目覚ましい進歩は、AIを駆使する「ニューラル学習」の進歩によるらしい。
なお、機械翻訳において、一つの単語が異なる意味を持つ場合の文中での正確な意味の判別、自動詞と他動詞の判別、過去形と過去分詞の判別、分詞構文の意味の判別、などに ”失敗” した場合には、人間による訳では決して発生しない ”迷訳” や ”珍訳” が出来上がる。そして、それを感知するのは、いつの時代でも常に人間の役割であろう。よって、高校時代の英語授業における「読解,文法,作文」という特訓の有り難さを、私は今も痛感する。普通の日本人にとっては,英語の教育は高校卒業で終わるために,高校時代の英語授業は貴重な機会なのであり、決して ”受験英語” として忌避されるものではない。
私が接してきた東南アジアからの留学生達のTOEICの成績は、日本人の学生に比べて格段に良かった。しかし、少しまとまった内容の英語文章を彼等に書かせてみると,文章に口語調が目立ち,また,文法の間違いがとても多かった。ある時,「学校では英語の文法をどのように習ってきたか」と彼等に訊いてみると,「英語の授業は会話の訓練だけであり,英文法の授業はなかった」とのこと。そのため、英語力の指標としてのTOEICの信頼性には、私は大きな疑問を持っている(一方、TOEFLの成績にはかなり信頼性がある)。
今日,私達は,インタネットにより世界中の英語ニュースや英語新聞の記事に接することができる。また,仕事上で必要な英文資料を世界中で検索し,それを読むことが出来る。仕事によっては,自分自身が英文を作成しなければならない。
そのような時に必要なことは,やはり,正確な読解力と作文力(そのための正確な文法の知識)である。経済学者の野口悠紀雄氏は,著書の中で「今日のインタネットの時代では,英語を話す能力よりも、英語を正しく書ける能力が大切だ」と強調しており、また、英語を聞く力や話す力をつけるためには、インタネットの英語ニュースや英語会話のCDを活用すれば十分であり、英会話学校へ通う必要は全くない、と断言している。
今日では,AIによる自動翻訳機能や,ワードプロセッサでの英文の校正機能が著しく進歩しており,仕事で英語を使う人には、それらは大変に便利であり助かっている。しかし一方、AIによる翻訳文やワードプロセッサが例示する英文を点検し校正することは,常に人間の役割であり,それは,いかにAIやソフトが進歩しても,今後も続く ”人間の作業” であろう。即ち,仕事で英語を使う中では,高校の英語授業における「読解,文法,作文」の特訓が大切であり、それは貴重な学習の機会なのである。
研究費の効果的な配分方法
September 12, 2023
「研究費の配分方法は ”広く浅く” のほうが良い」とする分析結果。(2023年9月12日朝日)
在職中の私は、毎年、研究費の獲得に必死であった。科研費が当たった年は民間助成金が外れ、科研費が外れた年は民間助成金が当たり、その繰り返しで、4,5人の学生を抱える研究室の年間運営費を、毎年なんとか工面していた。数十万円程度の助成金でも本当に嬉しく、胸をなで下ろしたものである。まさに、自転車操業を続けていた。(理工学の研究者にとって、研究費の削減や枯渇は、研究者生命の”終焉宣告”につながる)
大きな研究プロジェクトを企画し潤沢な予算を配分された大講座の中で、複数の教員、大学院生、卒研生を擁する一部の大規模大学を除けば、ごく普通の大学の教員は、誰もが私と同じ体験をしているのではないだろうか。自分の研究室の運営と研究活動の毎年の維持に、誰もが一生懸命であり、自転車操業をしているのが普通ではないだろうか。その意味で、この記事にある分析結果が、今後の日本の研究費配分施策に反映されることを、私は強く望む。
上が南である世界地図もあって良い
September 11, 2023
30年以上前、初めてオーストラリアへ行った時に、私は書店で「We are not the bottom!」という表題がついた面白い地図を買ってきた。
私達は(世界では)子供の時から、”地図の表示は北が上” と教えられ、その表示法が脳裏に定着している。ところが、この地図では南極が上に表示されており、南半球の大国オーストラリアの人々による「私達はUpperでありBottomではない!」という矜持のユーモアが出ており、とても面白い。
この地図を見ながら、私はいろいろなことを考えさせられた。”上が南である地図” もあって良いはずだ。”上が北である必然性はない" はずだ。結局、"北を上にする表示法” は、オーストラリアという新大陸が発見される以前の、欧米諸国(すべて北半球)の人々の航海と地理表示の都合に合わせて "勝手に決められた" に過ぎないのであろう。
今は残念ながら、その地図を私はどこかにしまい忘れ、長い間、私は見ることを諦めていた。しかし、最近、インタネットで、ついにそれを発見し、再見することが出来た。とても嬉しくなり、早速その画像を保存した(もちろん、これを他に流用はしない)。
年表を見て感慨新た
September 3, 2023
「よくやってこられた。今さらだけど、家計を取り仕切った妻には頭が上がらない」、「たどる我が家の年表は感謝の歴史かもしれない」(2023年9月3日 朝日) 私とまさに同年の団塊世代の男性の意見。私も、全く同感であり、身につまされる思いで読んだ。
脱炭素の政策には科学的根拠なし
August 19, 2023
化学工学の優れた研究者である旧知の友人は「脱炭素には科学的根拠がない」と明言し、以下を提言している。私は納得できる。
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「地球温暖化問題は、いつの間にか気候変動問題にすり替わった。最近の大雨や山火事の頻発を報道は盛んに取り上げて、異常気象だ大変だと危機を煽る。その対策はと言えば、相も変わらず脱炭素ばかりで、CO2排出削減に偏重している。ここにも、大きな論理的飛躍がある」、
「TVなどに出て威勢よく人為的温暖化説の宣伝に努めている人たちは、本当に「科学の徒」なのだろうか? 10年も経てば、何が正しいか、事実が明らかにするだろうに」、
「科学的な根拠に基づかない政策に、貴重な税金を湯水のように使うことは許されない。今の日本で人為的温暖化説を信奉する、あるいはそのフリをする人々は、GX予算などの補助金にぶら下がる利権集団に属すると思う。マスコミもそのお先棒担ぎをしている例が多い。「○○ムラ」の類である」、
「この「脱炭素ムラ」も、予算額が大きくなるにつれて、次第に強大なものになりつつある。最近の報道状況を見ているとそれを痛感する。多くの人は、騙されていても気がつかない。だからこそ、事実はどうであるのかを、言い続けなければならない」
彼は「科学者・研究者だけでなく一般市民も声を上げるべき」と述べている。私も同感だ。
ある外国人研究者との交流
July 18, 2023
20年近く前のこと、面識のない外国の大学院生からメールが来た。彼は博士課程の学生であり、自分の研究に関する文献を探索しているうちに、私が公刊してきた数編の論文に出会ったとのことで、「それらの論文のPDFファイルを送っていただけませんか。また、他にも公刊した論文があれば、それを紹介していただきたい」とのこと。
「論文の著作権は出版社に譲渡しているので、その論文のPDFファイルを私から送ることは出来ない。そのため、論文を入手するには図書館や出版社に問い合わせていただきたい」と私は返信した。
それから数年後、彼から再びメールが来た。首尾良く博士号を取得したこと、私との共著の論文も公刊できたこと、現在はその大学の専任研究員になっているとのこと。
最近、彼から久しぶりにメールが来た。彼はその大学の ”研究担当の准教授” に応募しているので、私に ”学外からの審査委員” になっていただけませんか、そして、彼についての私の所見を送っていただけませんか、とのこと。 彼からのメールには、博士号取得後の研究活動を示す公刊論文のリスト、今までに獲得してきた研究費のリスト、学外の研究機関との共同研究の内容、などのたくさんの資料が添付されていた。
その大学は教員の昇任審査に慎重であり、一年以上もの時間をかけ、その応募者を知る学内外(国内外)の複数の審査委員からの意見を聴取することが通例のようだ。
メールに添付されてきた資料をもとに、私は彼についての所見を作成して送ったが、外国へ送る所見は、それを受け取る相手に対する作成者の誠意と、作成者自身の見識の信用性を示す ”鑑定書” であるために、気を使わせられた(日本における ”推薦書” とは全く違う)。彼の昇任審査の結果が出たときには、彼からその知らせのメールが来るであろう。それを私は静観して待つことにした。
学術雑誌の高騰を考える
July 14, 2023
「論文の投稿者が”掲載料”を払い、読者は無料でその論文を読めるという”オープンアクセス”という学術誌が増えており、その掲載料が著しく高騰している」、「それは、研究費が潤沢ではない大学や研究者に深刻な影響をもたらしている」、「購読料と掲載料への緊急的支援と、抜本的な改善を図る体制づくりが必要だ」、「論文が引用された回数に過度に頼って学者を評価する現状も再検討が必要だ」、「対策の遅れは、研究力が低下しつつある日本の将来を閉ざしかねない」(2023年7月13日朝日社説)
「研究の成果は学術誌に論文として公刊されて初めて、成果として認められる」、「その論文の価値は、他の論文に引用された回数で測られ、それが研究者や組織の評価につながる」これらは、研究者の世界では常識であり、普通に考えれば、それは今後も変わらないであろう。
私は退職して10年過ぎたが、在職中に掲載料を払って学術雑誌に論文を公刊してもらったことはない。投稿論文の査読依頼が私に来た学術誌の中で投稿者に掲載料を要求する雑誌はなかった。私が所属していた分野では、私が知る限り、まともな学術雑誌であれば論文の投稿者に掲載料を要求する雑誌はなかった。 ”オープンアクセスのジャーナル” の存在を聞いたこともなかった。
しかし、最近では、高額の掲載料を払えば、どんな論文でも掲載するいい加減な(まともな査読プロセスを備えていない)”学術誌” もあり、内情を知る研究者の間では当然無視され、”ハゲタカジャーナル” と揶揄されている例もある。”論文の数を増やしたい” とする研究者が、そのような ”オープンアクセスのジャーナル” の顧客になっている、と聞いたこともある(”論文の本数” を金で買う者は研究者ではない)。
こうした現状を見ると、この社説の指摘と提言は不十分といえる。研究者への論文掲載料や雑誌購入費用の予算的支援の施策よりも、まともな研究者であれば「高額な掲載料を要求するオープンアクセスのジャーナルには論文を投稿しない」という社会的コンセンサスの確立が先決であろう。
学術雑誌の価値と評価は、その雑誌のImpact Factor 、まともな査読の制度、そして掲載論文の引用数で判断される。そのため、例えば国会図書館などの公的な機関が、高額な掲載料を要求する ”オープンアクセスのジャーナル” の実態を調査し、昨今に指摘されている ”ハゲタカ・ジャーナル” と称されるデタラメ学術誌を公開し、それらを図書館としては無視して所蔵しない、という社会的な施策が今日では必要なのだ。
「君が代」の暗記調査は人権侵害だ
July 3, 2023
大阪府吹田市教育委員会が、学校での ”君が代斉唱” の徹底を求める一人の市会議員の質問に答えるために、市内の小中学校に「子供たちは ”君が代” を暗記しているか」の調査を実施していた。それは2012年以来、今回が5回目とのこと。
「教育基本法とその関連法案に照らせば、特定の主義主張を掲げる政治家の求めに応じて調査すること自体、吹田市教育委員会は拒否するべきであった」、「子ども一人ひとりの尊厳を守り、多様な価値観を認め合うのが教育の基本であり、それは学校が繰り返し確認するべき原則だ」、「全国の教育委員会は、吹田市教委の今回の愚行を ”他山の石” として肝に銘ずるべきだ」(2023年7月3日朝日社説)これがごく普通の意見であろう。
「君が代の斉唱」が強制すべきものではないことぐらいは,思想信条の自由を明言する日本国憲法に照らせば,学校長,教育委員会,教育長,文部科学省の職員であれ,誰にも分からないはずはない。
行政担当者に求められるのは,特定の政治家からの理不尽な要求を無視し拒否する「行政担当者としての勇気と強さ」であり,理不尽な政治動向を平常心で黙殺する「行政の専門官としてのプライド」である。それは行政担当者としての ”信条” にもつながる。
「君が代」が,日本国民の全体を主体としてその繁栄を希求して謳う歌では決してなく,実質的には,明治以来の天皇の長寿を願い,皇国思想を賛美するだけの歌でしかないことは,多くの識者がしばしば指摘していることである。
それだけではない。君が代の斉唱を強制させたいとする政治家(とその党派)には,皇国思想を背景にした日本軍国主義が過去の戦争の中でアジアの諸国民に与えた甚大な被害に対する無反省と開き直りの姿勢が色濃く付きまとう。 そのため、日本の軍国主義により,すさまじい暴虐と陵辱の被害を体験したアジア周辺諸国の人々から、彼等への強い批判が出るのは当然だ。
”君が代暗記調査” は、子供の内心の自由を脅かす人権侵害であるだけでなく、アジア周辺諸国の人々に深刻な悪印象を与えることに全国の教育委員会は注意しなければならない。
言語と言語感覚
June 11, 2023
「言語は生き物である」、「新しさ古さに関係なく、気をつけるべきは居心地の悪さを感じさせる表現だろう」、「新語は生まれても、多くが廃れ消えてゆく」(2023年6月11日天声人語)この意見に私も同感である。
「めっちゃ......」、「めちゃくちゃ...........た」、「チャパツにガングロ」、「マジで.....」なども遠からず廃れてゆくかもしれない。一方、発言の冒頭に「なので」、「ですので」、「にもかかわらず」を持ち出す口癖は、テレビやラジオで、アナウンサーや出演者がそれを普通に使っており、今も健在のようだ。子供たちはそれを見ている。
もはや、それらは日本語の日常会話の中で定着しつつあるのかもしれないが、しかし、普通の成人の作成した文章の中で、接頭辞に「なので」、「ですので」、「にもかかわらず」が多用されているとすれば、御当人の見識と言語感覚に私は大きな疑問を持つ。
憲法記念日に日本国憲法を振り返る
May 7, 2023
下記の憲法第九条の英語訳を比較すると、第二段落において, will, shall, does が使い分けられており、ニュアンスに違いがある。その原因はもとの”欠陥日本語文”にある。
................................
① 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
② 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
...................................
”公式な英訳”とされている英語文。
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
...................................
DeepL による英語訳文。
The people of Japan sincerely desire international peace based on justice and order, and forever renounce war as a sovereign right of nations and the threat or use of force as a means of settling international disputes.
In order to achieve the objectives, set forth in the preceding paragraph, land, naval, air, and other forces of war shall never be maintained. The right of belligerency of nations shall not be recognized.
この英文のDeepL による日本語訳。
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国家の主権としての戦争と、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇または武力の行使を永久に放棄する。
前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。また、国家の交戦権は、これを認めない。(「**は、これを**しない」? 原文とは一致しないおかしな”日本語訳”だ)
......................................
Googleによる英語訳文。
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as a means of settling international disputes.
In order to achieve the purpose set forth in the preceding paragraph, the land, sea, and air forces and other forces will never be retained. The nation's right to belligerence does not recognize this.
この英文のGoogleによる日本語訳。
日本国民は、正義と秩序に基づく国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇又は武力の行使を永久に放棄する。
前項の目的を達成するために、陸、海、空軍およびその他の戦力は決して維持されない。 国家の交戦権は認められない。
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以前から多くの人が指摘しているが、日本憲法の条文の定例文型「**は、これを**する」、「**は、これを**しない」は二重主語(主語不明、主語述語関係の破綻)の欠陥文章である。経済学者の野口悠紀雄氏は、著書「書くことについて」(角川新書)の中で以下を述べている (P.180-)。
「悪文の代表選手である日本国憲法を読んでいると陶酔状態に導かれる」、「日本国憲法前文は不思議な文章であり、”複文の問題点” が見事に集約されている」、「日本国憲法の内容は高邁な理想を謳う素晴らしいものだが、文章は最低だ。おそらく、英語の原文を急いで訳したからであろう」
長谷川三千子なる人物
April 21, 2023
産経新聞の記事(2017年4月20日)「平和を破壊する憲法九条二項 なぜかくも長く放置されたのか」(埼玉大学名誉教授・長谷川三千子)について、国会議員の米山隆一氏は以下を述べている。私も全く同感だが、そもそも、このような不見識な者がどのような経緯で大学の教授に採用されたのか、さらに、学生たちと接する中でどのような影響を与えたのかを考えると、私は暗澹たる思いに駆られる。
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この方は、「憲法9条2項は、自衛権も否定している。従って主権も否定している。」と主張し、それ故に憲法全体が欠陥だと帰結しています。
ところで、憲法9条2項の標準的解釈は、自衛権を全く否定していません。故にということではないですが、当然主権も全く否定していません。そしてこれらの事は、ほとんどすべての憲法の初歩的教科書の、恐らく最初の30頁の間に書いてあると思います。
つまりこの方は、憲法の授業に出席している法学部の1年生ならほぼ全員知っているような事実を平然と無視し、この方独自の悪意に満ちた解釈をして現憲法をやたらと貶め、ひいては現憲法下の日本全体をひどく侮辱しているのですが、一体この方のどこが愛国なのでしょう。
改正の必要があるにせよないにせよ、今ある憲法、今ある日本を認めず、そこに誇りを持てない方々が、過去への郷愁と愛国を掲げて繰り広げる改正論に、私は鼻白むものを感じます。
名著「環境原論」の紹介
March 3, 2023
先日、環境保護の社会的課題について、知人と話す機会があり、その中で、下記の書を自分の意見を付けて紹介した。この小さな本は、20年前の発行時には¥1430(税込み)であったが、今ではその中古本がずいぶん高く、送料込みで¥2500くらいにもなっている。(著者は燃焼工学で国内外に知られた偉大な研究者。9年前に逝去しているので本書の改訂版はない)
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「環境原論」平野敏右 著(2002年丸善発行)
環境保護と省エネルギの社会的機運の高揚とともに,最近は特に環境保護,省エネルギさらにリサイクルに関する書籍が多数発行されている。その社会的風潮自体は大変に良いことであると思う。
数多くある環境問題関連の書籍の中で,本書は大きさもページ数(約110ページ)も,おそらく「最小の部類」に属する小さな本である。そのため,環境問題に関心はあるが大部な書物は苦手,とする普通の人々にとっては,最適なテキストと言えるかもしれない。
しかし,各章の末尾に提示されている「検討課題」は,その一つ一つがどれも,私たちの日常生活に直接関係のある,かなり歯ごたえのあるものばかりである。
環境保護,リサイクル,省エネルギなどを学ぶ学生のみならず,教師や研究者にとっても十分に参考になるテキストと私は思う。私自身,自分の専門分野との関連で,日頃,環境保護,省エネルギ,リサイクルなどに関して考えていること,疑問に感じていることを,本書は見事に再現し,忌憚なく解明している。
現在,よく言われている多くの「リサイクル」の実状は,本当に「リサイクル」や,省エネルギと呼べる技術なのだろうか。空き缶,古紙,食用油などについての昨今の論議は,本当に合理的なのだろうか。「オール電化生活」の普及は,本当に「安全で快適な生活」の社会的普及なのだろうか。
風力発電や太陽光発電は,本当に合理的な省エネルギ技術なのだろうか。「水素で動く自動車」や「ハイブリッド車」の普及は,安全で快適な市民生活のための環境保護技術と言えるのだろうか。原子力発電は,環境保護と省エネルギの視点から見た時に社会的効率はどうなのだろうか。
いわゆる廃棄物処理工学と言われるものは,環境保護と省エネルギの観点からも,本当に合理的なのだろうか。この地上の自然の中で,人間が何かをしようとすれば,他の全ての動植物の環境にもその影響が及ぶことを、当然,常に私たちは考慮しなければならない。
こうした観点に立って少し詳しく検討してみると,環境保護,リサイクル,省エネルギと言われる話には,実は,かなりの不安な点が浮上して来ることがある。見過ごせない無駄,社会的な非効率,看過できない危険性、などが見えてくる場合もある。
理工学を学び,物質保存の法則、エネルギ保存の法則、熱力学第二法則という自然界の3大法則を熟知している者であれば,安手の「環境保護論議」に騙されないだけの知識と分析力を持つ必要がある。この本は、著者からのその警鐘を伝え、読む者に深い感銘を与える。
共産党の党員除名処分は不当だ
February 8, 2023
党首の公選を訴えた党員を共産党は除名した。しかし、その理由は公選を訴えたことではなく、「党の決定に反する意見を勝手に公表した ”重大な規律違反” のため」としている。党首公選の是非には党としては何も答えない。昔から少しも変わっていない紋切り型の ”理由” である。共産党の発展を望む立場からの勇気ある建設的発言をした幹部党員をこうして除名処分にした。
今日の時代に、日本国民の中で、そんな処分理由に一体だれが賛同しようか。主観的には善意を持ちながら、共産党は日本の中で極めて ”損をしている政党” といえる。
「これまで共産党の政策や活動に理解や共感を示してきた、党員以外の有権者や知識人の心が離れるなら、党勢は細るばかりだと共産党は思い知るべきだ」(2023年2月8日朝日社説)これが、ごく普通の日本国民の声であろう。
アンモニア燃焼への疑問
January 24, 2023
最近、日本燃焼学会から、今年に台湾で開催されるASPC(アジア太平洋地域の燃焼研究発表会)の案内が来た。それを見ると、今だに、「アンモニア燃焼」を持ち上げ、大きな研究課題にしており、複雑な気持ちになった。(もはや、それは終了したらどうか、と私は思う) 日本燃焼学会のHPの中では、ある大学で「アンモニア燃焼に関する実験および数値的研究」のための博士研究員を募集している。私にはその研究の価値と将来性が理解できない。
「アンモニアの燃焼ではCO2を出さないから地球温暖化の防止に役立つ」としても、一方、そのアンモニア燃料を大量に製造するためには別のプロセスとエネルギが必要であり(ゆえに、省エネにもならず、非効率!)、さらに、アンモニア燃焼の化学反応の過程において大量のNOX(窒素酸化物)が発生することもある。よって、アンモニア燃焼を賞賛するだけでなく、それによる大気汚染(光化学スモッグなど)の防止対策にも、燃焼の研究者は目を向けるべきではないか。
私が大学院生であった1970年代には、日本の燃焼シンポジウムで、環境保護と大気汚染防止の見地から、燃焼器から出る排気ガス中のNOXの低減技術の研究発表が毎年のように出されていた。
環境問題の専門家である旧知の友人は「水素やアンモニアの燃焼は、環境保護でもなく省エネでもない」と述べている。また、彼は「水素やアンモニアの燃焼を奨励する政府は思考停止状態だ」と警告している。そして、彼は以下を述べている。
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水素やアンモニアの燃焼は、発電手段としては、全く効率が悪い。そもそも、発電にアンモニア燃焼を用いるという話の発端は、「海外から大量の水素を運ぶのが危険であり、高コストであるために、水素よりも使いやすいアンモニアを使う」という単純な発想だが、しかし、エネルギ効率がとんでもなく低い、という不都合な事実を無視している。
「再エネ電力→水素→アンモニア→火力発電」という電力ルートを日本が採用することは、余りにも非効率で愚かであり、それは、普通に考えれば誰にも分かることだ。
今後の新しい電力源は、再エネ電力を直接使うのが最適であり、電力の出力調整は、水素・アンモニア以外の方法を取るべきなのだ。
「再エネ→水素」により海外で製造された水素を大量に日本に輸送して日本の電力供給に使おう、としているために、「アンモニア燃焼」という馬鹿げた発想が出てくる。結局、「電力を何とか輸入しよう」とする政策の間違いがアンモニア燃焼の発想を生み出しているのだ。
大学、大学院の理工学教育
January 15, 2023
新しい課題に取り組んだときに,誰もが(特に若い研究者であれば),痛感するのは,先達による多くの優れた研究成果の中から,"未解決の課題を見つけ出す難しさ" であろう。
それは,先達が残した多くの優れた研究成果を,まずは自分で理解する努力(勉強)、理解できる能力、さらに,その中にある ”未解決の課題” を見つけだす努力が必要とされるためである。 以前、私は下記の言葉に接して深く納得し、以来、座右の銘としている。
Many great scientists owe their greatness not to their skill in solving problems but to their wisdom in choosing them (E.W. Wilson, Jr.).
日本や欧米で「理工学教育の中心は大学院修士課程」といわれて、すでに40年以上が経つ。特にAI技術やIT技術が日進月歩である今日では、「問題解決型よりも問題発見型の技術者の育成」を目指す技術者教育が一層求められていると私は思う。理工学の大学教育において、「即戦力になれる実践教育を重視する」という考え(と大学)もあるが、その中で「問題発見型の技術者」が育成されるだろうか。私には、とてもそうは思えない。
内閣の解散と政権交代を望む
January 2, 2023
本来は祝賀したい新年だが、前川喜平氏と同じく(2023年1月1日東京新聞)、私にも「おめでたいこと」が何も浮かんでこない。
この10年間、日本国民は ”不適格な首相” に見舞われ翻弄されてきた。しかし、その "暗黒の10年” をもたらした不適格者を議員に選んだ日本国民に最大の責任がある。不祥事による閣僚の辞任が相次いだ岸田内閣の解散と、それによる早期の政権交代を私は強く望む。
学術論文の査読
December 24, 2022
「論文やらせ査読 乏しかった倫理観」(2022年12月24日朝日)の記事には、論文の査読制度についての研究者としての自覚不足による不正行為が良く描出されている。
以下は、一介の研究者の端くれであった私が20年以上前に公開した意見である。今日では、学術誌への投稿論文は、通常は、メールの添付ファイルやオンラインでのアップロードにより編集長に送付されるが、その後の査読のプロセスは、投稿原稿を郵送で編集長へ送っていた20年以上前と同じである。
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ある特定の課題にしばらく取り組み、論文を出していると、研究者には、通常、年齢や経験とともに、否応なしに、時々、学術誌の編集長から投稿論文についての査読の依頼が来る。 それは、実は、「研究者としての現役性」の定期点検でもあり、編集長による慇懃かつ突然の業務点検でもある。「一週間以内に査読ができないのであれば,直ちに原稿を返送していただきたい」と編集長から言われることもある。
3,40ページ前後もの論文を限られた期間内に査読する作業は、実際、かなり疲れる。しかし、よほどやむを得ない場合でなければ、それを断ってはならず、査読は研究者相互の無償の名誉ある奉仕義務なのである。そして実は、同業者の論文を査読することにより,査読者自身の新たな研究意欲もかきたてられるものである。
国際学術雑誌では、通常、一つの投稿論文について、編集長により,2,3名の査読者が選定され(もちろん、その氏名は投稿者には知らされない)、世界中の査読者へその原稿が送付される(そのため、投稿時には編集長が保持する分を含めて、通常、計3,4通のコピー原稿をまとめて編集長に郵送する)。
各査読者からの意見の内容や評価が大きく分かれる時は、編集長から各査読者あてに、名前を伏せた他の査読者による評価内容が伝えられ、「これらを貴殿はどう思うか」と問われる。それをもとに、各査読者は、再度の査読を行ない、編集長に報告する (もちろん、自分の署名を添える)。編集長は、各査読者からの報告の内容により、その論文の受理、要改訂、不受理、を決断し、投稿者にそれを通知する。
(首尾よく受理され公刊が決まったときには、Dear ****: I am pleased to inform you that your paper **** has been accepted for publication in Journal of ****. という連絡が編集長からくる。論文を投稿した研究者にとっては、何回受け取っても、嬉しい知らせである)
研究論文の評価の決め手は、独創性を含む内容と、その展開であろう。論文の内容が首尾良く、読み手を納得させるべく完結されていることが大切なのである。私自身、論文を作成する時にも、査読をする時にも、これらに特段に留意している(それでも、査読者からあれこれの、時には本格的な修正意見が出るのが通例である)。
査読の意見は、責任を伴う署名入りの鑑定書であるために、その内容が誤り、又は不十分、と編集長に判断されると、今度は、査読者自身が自分の信用を失う。 即ち、査読という鑑定の内容により査読者は能力査定を受けており、研究者は、自著論文のみならず、自分の査読意見を通しても、常に評価にさらされているのである。(なお、査読意見の内容には査読者自身の経歴や思想、さらに人柄も出るように私は思う。いわゆる、批評は人なり、である)
今日、普通の学術雑誌であれば、その信用と質を高め、維持するために、複数の査読者による査読の制度は当然のことであり、”査読を忌避する投稿者” の不平には全く根拠が無い(自信がないのであろう)。さらに重要なことに、査読の意見によって自分が鍛えられ、育てられることに、査読を忌避する投稿者は気付いていない。
査読制度のない学内研究紀要や同人雑誌などに ”論文” を何編出そうとも、一般には、それらが研究業績としては、全く考慮されないのは当然である。研究者一個人による仕事には限界があるために、公正な精神に基づいた投稿論文の査読制度が、いつの時代でも絶対に必要なのである。
Etiquette Guide to Japan に感心する
December 16, 2022
「Etiquette Guide to Japan: Know the Rules that Make the Difference 」by Bye De Mente (YENBOOKS 1990年発行)を読んだ。紹介文によると、この著者は、アジアの国々について30冊以上もの著書があり、特に、中国、韓国、日本の国民、生活、文化、習慣について詳しい有名な専門的ジャーナリストのようだ。著者はアメリカ陸軍の保安将校として1949年に来日して以来、日本についての多くの著書や講演がある。
この著者による日本紹介の4冊目であるこの本は実に面白い。「日本人のしきたり、礼儀作法、生活習慣、風習、文化を、よくぞここまで見通し解明したものだ」と、ただただ感心してしまう。諸外国と外国人には知られたくないような、日本人の ”恥ずべき真実”、”非礼な習慣”、”奇妙な仕草”、”曖昧な言動” についても、忌憚なく克明に記述している。
この本は、以下の33項目について見事に看破し記述しており、鋭い外国人ジャーナリストに、日本人がここまで見抜かれていることに、読みながら恥ずかしさも覚える。
日本人のエチケットの根源、身分に上下がある社会、調和と協調のルール、エチケットの体現法、名前の使われ方、肩書の使われ方、人間関係の構築法、名刺交換の意味、”おじぎ”の意味、日本での握手の意味、座席の順番、日本の食事作法、日本人の飲酒の方法、代金の支払い方、公共でのエチケット、公共交通でのエチケット、入浴の方法と習慣、贈り物の仕方、他人への訪問のエチケット、褒めること、批判すること、お茶会の仕方、謝ること、お礼の仕方、デートの仕方、結婚のしかた、葬式の仕方、通夜への出席、葬式への出席、神社とお寺の違い、”明言を避ける”風土、旅館での過ごし方、”別れ”の挨拶法。
ある英国人は、以下の書評を公開している。
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日本を訪れる前に、この本を読んでおいて本当によかったと思います。この本は、どちらかというとビジネスで来日する人向けですが、観光で来日した私にとっては、日本文化を見事に理解し、恥をかくこともなくなりました。
靴を脱ぐタイミングの見極め方を学びました。神社に参拝する前のお清めの仕方。お辞儀のタイミングと方法。食事のエチケット。風呂やトイレの作法。そして何より、謝罪の仕方(「すみません」だけでなく、「失礼します」「ありがとう」を意味する日本で最も便利な言葉)、感謝の気持ち(「おいしい」)の伝え方です。
最も参考になったのは、この本が日本の礼儀作法の起源を説明していることです。日本社会の第一の焦点が調和であることを理解すると、すべてが理解できました。電車で携帯電話を使わない理由(隣の人の和を乱さないため)、道で大声を出したり呼びかけたりしない理由、国全体が控えめで奇妙に騒がしくない理由を説明しています。全ては彼らの和を守るためなのだ。この本は、この国についての素晴らしい見識を与えてくれ、また、知らず知らずのうちにやってしまう失敗を避けるのに役立つ、小さな本です。
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また、ある米国人は、以下の書評を公開している。
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日本訪問の際、日本人の妻が教えてくれなかった礼儀作法を知りたくて、この本を手に入れました。私はこの本の中で、知らなかった新しい豆知識をいくつか見つけました(私は日本を10数回訪問していることを念頭に置いてください)。
そして、すでに知っていることの多くは、ほとんどの場合、よく説明されていた。例えば、贈り物の仕方、休日、友人や家族への訪問、いくつかのビジネスプロトコル(名刺の見方など)について詳しく書かれています。例えば、床枕(さぶとん)を足で動かしてはいけない、仏教の神社で泉から水を飲む方法、お辞儀をしてくれる店員さんには全てお辞儀をする必要はない、などの些細な間違いは見落とされているようです。とはいえ、このガイドブックには学ぶべきことがたくさんあります。
この本は、日本での長期滞在を計画している人や、ビジネスで日本に行く必要がある人に最も役立つと思います。ただ観光するだけなら、この本はちょっと無理があるかもしれません。また、生活やアパート探しなどについては詳しく書かれていないので、引っ越しをする人は2冊目としていいかもしれません。
(契約のために日本に行った義兄に、この本をプレゼントしてあげればよかった。日本の会社の社長と夜遊びした翌朝、多数の社員が別れを惜しんでいる前で、お辞儀や握手をせずに、その社長を抱きしめたのだ。そのため、100万ドルの取引は失敗に終わり、以後、彼にはもはやその社長からの連絡が来なくなった。)
自動翻訳ソフトの現状
December 4, 2022
自動翻訳のソフトは日々進歩しているが、まだまだ改善が必要であるという一例。下記の英語の記事の自動翻訳ソフトによる訳文には、以下の部分について大きな違いがあり、初歩的な間違いもある。
「Capt.」、「 CO」、「zigzagging would not have prevented him from making his successful torpedo attack.」、「Survivors of the Indianapolis maintained that his conviction was unjust.」、「McVay was posthumously exonerated in 2001.」
DeepLは、普段は正確な訳を出すために、時々私も利用しているが、今回は一つ大きな間違いがある。即ち、「zigzagging would not have prevented him from making his successful torpedo attack.」における him は Mochitsura Hashimoto氏 のことであるから、「ジグザグに動いたとしても、インディアナポリスは潜水艦(日本の)I-58による魚雷攻撃からは逃げられなかったであろう」となる。
(なお、Facebookの訳は相変わらずデタラメであり、翻訳の体裁を全然なしていない。「マクベイはまだ怠慢で有罪と判明した」だの「マクヴェイは2001年に死亡した」には呆れてしまう。facebookは、翻訳エンジンを早急に撤収し、交換するべきだ。)
翻訳文における誤訳の発見は実に簡単である。私の知る限り、読んでいて "論理的におかしい”、”文脈が変だ” と感じたら、その部分はすべて誤訳であり、文法の初歩的な見落としや語彙の意味の取り違いによる。
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U.S. Naval Institute (December 4, 2022)
In 1945, the trial began for Capt. Charles McVay over the loss of USS Indianapolis. Of all the CO's who lost ships during WWII, McVay was the only one court-martialed. McVay was charged with hazarding his ship by not using the technique of zigzagging to avoid sub attacks.
Mochitsura Hashimoto, who sank the Indianapolis as CO of the sub I-58, was called to be a witness for the prosecution but testified that zigzagging would not have prevented him from making his successful torpedo attack. However, McVay was still found guilty of negligence.
The entire ordeal weighed heavily on McVay who committed suicide in 1968. Survivors of the Indianapolis maintained that his conviction was unjust. They campaigned for decades to clear his name. McVay was posthumously exonerated in 2001.
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DeepL 訳
1945年、USSインディアナポリスの遭難をめぐり、チャールズ・マクベイ少佐の裁判が始まった。第二次世界大戦中に艦を失ったすべての指揮官の中で、マクベイは唯一軍法会議にかけられた人物である。マクベイは、潜水艦の攻撃を避けるためのジグザグの技術を使わず、船を危険にさらした罪に問われた。
潜水艦I-58のCOとしてインディアナポリスを沈めた橋本持倉は、検察側の証人として呼ばれたが、ジグザグにすれば魚雷攻撃を成功させることを防げなかったと証言している。しかし、それでもマクベイは過失で有罪になった。
この試練はマクベイに重くのしかかり、彼は1968年に自殺してしまった。インディアナポリス号の生存者たちは、彼の有罪は不当であると主張した。そして、何十年にもわたって、マクベイの無実を訴える運動を続けてきた。2001年、マクベイの無実が証明された。
Google 訳
1945 年、USS インディアナポリスの喪失をめぐってチャールズ マクベイ大尉の裁判が始まりました。 第二次世界大戦中に船を失った CO の中で、軍法会議にかけられたのは McVay だけでした。 マクベイは、サブ攻撃を避けるためにジグザグのテクニックを使用しないことで、彼の船を危険にさらしたとして起訴されました。
潜水艦 I-58 の CO としてインディアナポリスを撃沈した橋本持貫は、起訴の証人として召喚されたが、ジグザグに動いても魚雷攻撃を成功させることはできなかったと証言した。 しかし、マクベイは依然として過失で有罪判決を受けました。
この試練全体が、1968 年に自殺した McVay に重くのしかかっていました。インディアナポリスの生存者は、彼の信念は不当であると主張しました。 彼らは彼の汚名を晴らすために何十年にもわたってキャンペーンを行ってきました。 マクベイは死後、2001 年に無罪となった。
Facebook 訳
1945年、キャプテンのための裁判が始まった。 チャールズ・マクベイ、USSインディアナポリスの損失について。 第二次世界大戦中に船を失ったすべてのCOのうち、マクベイは軍裁判所で唯一の人だった。 マクヴェイは、サブ攻撃を避けるためにジグザグのテクニックを使わなかったことで、彼の船を危険にさらした罪で起訴された。
潜水艦I-58のCOとしてインディアナポリスを撃沈した橋本望良氏は、検察の証人として呼び出されたが、ジグザグでは魚雷攻撃を成功させないことを証言した。 しかし、マクベイはまだ怠慢で有罪と判明した。
1968年に自殺したマクヴェイの試練全体が大きく重かった。 インディアナポリスの生存者は、彼の信念は不当であると維持した。 彼らは彼の名前を晴らすために何十年もキャンペーンをした。 マクヴェイは2001年に死亡した。
英和辞典の最新版、改訂版の点検
November 25, 2022
「全面改訂版」と銘打って、毎年春の新学期の季節に宣伝され、売り出される多くの英和辞典は、その宣伝の割には、英語の変化に追随していない。10種類以上の「改訂版英和辞典」を私は調べてみたが、極く少数を除いて、一体どこが「全面改訂」なのかと、首をかしげてしまった。
英語が専門のある大学教授によると、「英和辞典とは、所詮、定義辞典ではなく訳語辞典である」とのこと。元になった英語の辞典に古い意味内容や間違いが含まれていると、それを元にした英和辞典にも同じ内容が受け継がれることになる。英語学の高名な名誉教授の名前を「主幹」、「校閲」、「監修」として前面に出し、「全面改訂版」と銘打ち、カタカナ文字の名前を付けた、2色刷りの見栄えの良い、有名な辞書出版社の発行による英和辞典であっても、簡単にはとても信用できない。こうした実状ゆえに、英和辞典の使用に当たっては注意が必要である。私自身は、日常、手元に常に数種類の英和と英英の辞書を置き、参照している。
例えば、outreachという言葉は「広げる、広がる、手を伸ばす、越える」といった意味の動詞としての用法は、もはや、ほとんど消滅しており、今日では「福祉(奉仕)活動、出前授業、学外活動、等」を意味する名詞である。手元の英英辞書を見ると「Oxford Advanced Learner's Dictionary 7th ed.」、「Longman Dictionary of Contemporary English 4th ed.」、「Cobuild Advanced Learner's Dictionary 8th ed.」では、どれもoutreachの意味を「福祉(奉仕)活動、出前授業、学外活動、等」のみとしている。
そのため、英和辞典の ”最新版、改訂版” が出るたびに、私はその ”Update具合” を調べるために、このoutreachの説明を見る。私が調べた範囲では、信頼できるのは「スーパーアンカー英和辞典第5版」、「ジーニアス英和辞典第5版」、「グランドセンチュリー英和辞典第4版」、「フェイバリット英和辞典第3版」、「コンパスローズ英和辞典」、「ウィズダム英和辞典第4版」であった。これら以外の「改訂版英和辞典」は、outreachの第一義を今だに「広げる、広がる、手を伸ばす、越える」とし、説明の末尾に付け足しのように「福祉(奉仕)活動」をあげており、信用できない ”改訂版” といえる。 どうやら、英和辞典の”最新版、改訂版”を点検するにはoutreachの説明を見るのが近道のようだ。
内容が不可解な記事
October 29, 2022
今日の読売新聞の以下の記事(2022/10/29 17:34)
これを読んで、読者はすぐに内容を理解できるだろうか。論理関係が私には全く理解できない。これを書いた記者の「日本語能力の不足」または「報道記事の書式の訓練不足」が明らかであろう。整理部の担当者は、この原稿をまともに査読したのだろうか。
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東京都日野市のごみ処理施設を巡る住民訴訟で、大坪冬彦市長に工事費用約2億5100万円を賠償させるよう市に命じた判決が確定したことを受け、市議会は28日、大坪市長に対する請求権をすべて放棄する議案を全会一致で可決した。
(住民からの賠償請求を認めた判決と、市議会が市長への賠償請求を放棄したことは、一体何の関係があるのか?)
地方自治法では、自治体による違法支出などの損害が住民訴訟で認められた場合、判決が確定した日から60日以内に支払いを請求する必要があると規定。
(誰が誰に支払いを請求するのか、主語がない。住民は自治体に対して60日以内に支払い請求をする必要がある、ということか?)
日野市は今月19日に大坪市長に対して請求を出したが、今回の議案が可決されたことにより、大坪市長に対する市の請求権は放棄されることになる。
(市議会が請求を放棄したので、住民への賠償命令の確定判決も無効になるのか?)
また、28日の市議会には、違法状態を生じさせた責任などとして、11月から市長任期の2025年4月までに大坪市長の給料などを計約1600万円(市長給料1年分に相当)減額することや、11月から荻原弘次副市長を減給3割(6か月)とする条例案も提出され、賛成多数で可決した。議案の可決後、大坪市長は「債権放棄されることになったが、都市計画法違反や私自身の責任が否定されるものではなく、改めてその事実、責任を非常に重く受け止めている」とコメント。
(市長と副市長の給与を減額すると、住民から出された賠償請求の確定判決が帳消しになるのか?)
住民訴訟の原告団共同代表、中谷好幸さん(73)は「ここからがスタートラインだ。市長と議会、市民が協力して問題解決に向けて取り組んでいきたい」と話した。
「私はカーリ、64歳で生まれた」
September 17, 2022
昨年の9月に出版された「私はカーリ、64歳で生まれた」((株)海象社発行)を読んだ。ヒットラーの「純血主義方針」により、ノルウェー人女性とドイツ軍兵士との間に生まれ、その後、3歳でスウェーデン人夫妻の養子となり、数奇な運命を辿った女性(1944年9月生まれ。今はアイルランドに住む)の回顧録である。2015年にアイルランドで出版され、その後、スペイン語、スロバキア語に翻訳され、メディアにも大きく取り上げられた。
彼女の一人息子がストックホルムの日本大使館に勤めており、その彼を知る日本人(東京のスウェーデン大使館に勤め、スウェーデン語が堪能)による、彼の母の回顧録の日本語訳がこの本である。アマゾンには以下の書評が出ており、私も同感である。
「ナチスのホロコースト、ユダヤ人虐殺のことは世に広く知られています。だが、虐殺の反対ともいうべき、ドイツ民族の純血性を求めた人種増殖の施設があったことは、この本で初めて知りました。
ごく一握りの人間が考え出したことであっても、権力を一手に握る独裁国家であれば如何ようにもなったということ(独裁国家の恐ろしさ)。だが、ナチスは敗北し、その計画はとん挫し、そこから身元不明のまま多くの乳幼児が解放されます。当たり前ですが、乳幼児に自分で道を切り開く力はありません。
この本は、その一人であった著者カーリの実話です。歴史的興味があって読んでみました。赤ん坊のころの写真が1枚もなく、自分の出生の秘密に怯えながらも、普通に生きていたカーリが、ある日を境に過去を知る旅に飛び込み、カーリの母の人生も含め、暗く辛い過去が明かされていきます。ここは苦しく悲しいところです。
しかし、読み進めていくと、なぜだか元気がもらえてきます。国、当局(この関係が曖昧ですが)、個人による隠ぺいか謝罪か、あるいは、苦しみを名乗りあって新しい人間関係を築いていくのか、カーリがそれらの波を潜り抜けて進んでいくところに、人間の生き方の希望を見出せるからでしょうか。カーリは「幸運だった」というが、幸運は空からは降ってこない。歴史というより、過去から現代に繋がる本でした。」
「ヒットラーがナチス・ドイツの人間を増やすために行ったレーベンスボルン(命の泉)。私は、初めてこの事実を知って、衝撃を受けた。ぜひ、多くの人に知ってほしい。」
水素やアンモニアの燃料は不可
August 27, 2022
燃料として水素やアンモニアを推進することは間違いであり、「思考の停止」であると、旧知の友人が述べている。私も同感である。省エネでもなく、まして環境浄化では全くない。
NHKは「公平、公正、不偏不党」の放送法を遵守せよ
August 4, 2022
民放に比べて、NHKのニュースでは、安倍の国葬の是非や、統一教会の悪行に関する報道が極端に消滅している。今日では、それについてインタネットで多くの批判が出ている。
私は,30年以上前に,NHKとの受信契約を破棄し、受信料の支払いをやめた。その後,NHKからは,なんの音沙汰もなかった。しかし,この2,3年は,年に一度くらい,受信料回収の委託会社やNHKの職員が自宅に来て,私に支払いの請求をするようになった。その際は,いつものように,私は以下の理由を丁寧に説明し、それに抗弁できない職員にお帰りいただいている。彼は「御意見を局に伝えます」と言って、おとなしく帰る。
(1)私は受信契約と受信料支払いの制度そのものには反対しない(その製作には相当に時間も費用も要したであろうと思える優れた番組がNHKに多くあることを認めるためである)。実際,30年以上前までは受信料を払っていた。しかし,当時のNHKの何らかの不祥事を機会に,私は,受信契約を破棄し受信料の支払いをやめた。
(2)「公平、公正,不偏不党」の放送法遵守の精神にNHKが立ち戻ること。そのため、NHKの地元支局長による「公平、公正、不偏不党の報道を守る」という内容の誓約書を私に出していただきたい。それを受領したら、私は受信料を支払う。
(3)NHKの予算決定と運営を,政権党ではなく第三者機関に委ねるための法改正が必要。もちろん,NHKの会長や経営委員の人事を公選制にしなければならない。そうでないと,いつまでたっても,「NHKは政権の意向を忖度した国営放送」という惨状が続く。
そのために,民法533条「同時履行の抗弁権」を根拠としてNHK受信契約の締結を拒否する者に対して,NHKは抗弁できない。(現状は,放送法遵守の義務違反であるから,同時履行の抗弁権,即ち,双務契約履行の義務により,NHKが約束を守らないのであれば,視聴者は受信契約を締結する義務はない。)
(4)テレビを持つ国民全体に受信契約の締結と受信料の支払いを義務付けたいのであれば,全ての反社会的団体の事務所や人間にも,それを要求して全員に受信料を払わせているか。高齢者,学生,若い夫婦など,”取りやすい相手” にだけ強い態度で受信料の支払いを要求する現状は受信料制度の平等性に反する。
辞書を読む楽しさ
July 23, 2022
昔から、私は「辞書の読み比べ」が好きで、書棚を見ると、いろいろな外国語の辞書と日本語の辞書(国語、漢和、カタカナ)が並んでいる。
特に、英語の辞書の読み比べはとても面白く、英英辞典(Oxford, Longman, Cobuild) や、中国語版のOALD(十数年前に上海で購入)と、日本の英和辞典を比較してみると、日本人として勉強になることがたくさんあるので、それらの辞書を開くことが、ますます楽しくなる。
「科学英語論文の書き方」(小野義正 著、2016年丸善出版)の中で「辞書には受信型と発信型がある」、「辞書は生鮮食品。定期的な買い替えが必要」、「総合的な語学力は辞書を引いた回数に比例する」との主張に出会い、私は深く納得した。つい先日、アマゾンから最新版の英和辞典7冊が届いたが、多大な楽しみを与えてくれることを考えると、安いものだ。
私は、ただ、「辞書読みが面白い」だけだ。下手の横好きで、あれこれの外国語の辞書をめくっているうちに思わぬことを発見することがある。日本の自家用車の名前には、スペイン語(ごく稀に、イタリア語)が極めて多いが、その意味を知らなくても、ラテン系の言葉の響きが良いので、日本人には好まれるのであろう。日産の軽自動車の ”Moco" は、スペイン語の意味では ”鼻くそ”や”鼻水”だ。なんでこんな名前をつけたのか、日産に訊いてみたい。
安倍の国葬は不要だ
July 15, 2022
ウソ答弁を続けて日本の国会を侮辱し、また、数々の不正疑惑に口をつぐんで逃げていた安倍晋三の罪業を日本国民は忘れてはなるまい。嘘を言いつづけて国民を騙し、自らの悪行を隠蔽していた人物が死去したからとて、多大な税金を使う国葬を行なうとは、岸田の ”常識” がその程度なのであろう。
安倍のような者が死んだからとて、それを国葬扱いにすることに賛同する人が、日本国民の中で、一体どのくらいいるだろうか。岸田は国民の声を聞かずして、国税を無駄遣いしてはならない。日本国民は、多大な国税を浪費する国葬に大反対するべきであろう。安倍の葬儀をしたいなら、自民党と統一教会の共催で行うが良い。
安倍晋三が日本の政界から消滅したことを私は歓迎する。安倍の死去は日本社会に以下の動きをもたらした。(1)安倍により破壊された日本政治の正常化の機運が国民の中に生まれた。(2)永年にわたる統一教会と自民党との癒着が暴露され、”インチキ宗教”集団である統一教会の悪行が国民の前に改めて暴露された。
安倍晋三を振り返る
July 10, 2022
原子力工学の専門家である小出裕章氏は「アベさんに対する銃撃について思うこと」として以下を述べている。(2022年7月9日) 私は(部分的には疑問があるが)概ね同感である。
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アベさんは弱い立場の国・人達に対しては居丈高になり、強い国・人達に対してはとことん卑屈になる最低の人だった。.... 彼のしたこと、しようとしてきたことは、ただただカネ儲け、戦争ができる国への道づくりだった。アベさんが銃撃を受けて死んだ。悲しくはない。アベさんは私が最も嫌う、少なくとも片手で数えられる5人に入る人だった。
アベさんがやったことは特定秘密保護法制定、集団的自衛権を認めた戦争法制定、共謀罪創設、フクシマ事故を忘れさせるための東京オリンピック誘致、そしてさらに憲法改悪まで進めようとしていた。朝鮮を徹底的にバッシングし、トランプさんにはこびへつらって、彼の言いなりに膨大な武器を購入した。
彼は息をするかのように嘘をついた。森友学園、加計学園、桜を観る会、アベノマスク…彼とその取り巻きの利権集団で、国民のカネを、あたかも自分のカネでもあるかのように使い放題にした。それがばれそうになると、丸ごと抱え込んだ官僚組織を使って証拠の隠ぺい、改ざん、廃棄をして自分の罪を逃れた。その中で、自死を強いられる人まで出たが、彼は何の責任も取らないまま逃げおおせた。
私は彼の悪行を一つひとつ明らかにし、処罰したいと思ってきた。私は一人ひとりの人間は、他にかけがえのないその人であり、殺していい命も、殺されていい命も、一つとして存在していないと公言してきた。 アベさんにはこれ以上の悪行を積む前に死んでほしいとは思ったが、殺していいとは思っていなかった。悪行についての責任を取らせることができないまま彼が殺されてしまったことをむしろ残念に思う。
多くの人が「民主主義社会では許されない蛮行」と言うが、私はその意見に与しない。すべての行為、出来事は歴史の大河の中で生まれる。歴史と切り離して、個々の行為を評価することはもともと誤っている。そもそも日本というこの国が民主主義的であると本気で思っている人がいるとすれば、それこそ不思議である。
国民、特に若い人たちを貧困に落とし、政治に関して考える力すら奪った。民主主義の根幹は選挙だなどと言いながら、自分に都合のいい小選挙区制を敷き、どんなに低投票率であっても、選挙に勝てば後は好き放題。国民の血税をあたかも自分のカネでもあるかのように、自分と身内にばらまいた。
原子力など、どれほどの血税をつぎ込んで無駄にしたか考えるだけでもばかばかしい。日本で作られた57基の原発は全て自由民主党が政権をとっている時に安全だと言って認可された。もちろん福島第一原発だって、安全だとして認可された。その福島原発が事故を起こし、膨大な被害と被害者が出、事故後11年経った今も「原子力緊急事態宣言」が解除できないまま被害者たちが苦難にあえいでいる。
それでも、アベさんを含め自民党の誰一人として、そして自民党を支えて原発を推進してきた官僚たちも誰一人として責任を取らない。もちろん裁判所すら原発を許してきた国の組織であり、その裁判所は国の責任を認めないし、東京電力の会長・社長以下の責任も認めない。どんな悲惨な事故を起こしても誰も責任を取らずに済むということをフクシマ事故から学んだ彼らはこれからもまた原子力を推進すると言っている。さらに、これからは軍事費を倍増させ、日本を戦争ができる国にしようとする。
愚かな国民には愚かな政府。それが民主主義であるというのであれば、そうかもしれない。しかし、それなら、虐げられた人々、抑圧された人々の悲しみはいつの日か爆発する。
今回、アベさんを銃撃した人の思いは分からない。でも、何度も言うが、はじめから「許しがたい蛮行」として非難する意見には私は与しない。
心配なことは、投票日を目前にした参議院選挙に、アベさんが可哀想とかいう意見が反映されてしまわないかということだ。さらに、今回の出来事を理由に、治安維持法、共謀罪などが今まで以上に強化され、この国がますます非民主主義的で息苦しい国にされてしまうのではないかと私は危惧する。
安倍の死去と統一教会
July 10, 2022
7月8日、安倍元首相が撃たれて死去した。安倍を撃った犯人によると、母親が「世界キリスト教神霊統一教会」に騙されて全財産を失い破産し、自分は大学を中退したとのこと。そのために、”統一教会” の強固な協賛者とみなされる安倍を恨んでいたとのこと。実際に、安倍と統一教会との結びつきは、とても強かったようだ。
私の記憶では、60年以上も前から、世界キリスト教神霊統一教会(原理研究会)と名乗るインチキ宗教が、多くの若者を引き込んで、社会問題になっていた(私の高校同級生にも、その被害者がいた)。入信した若者が、ガラクタの壺を親に数百万円で売りつけようとし、「買わなければ親子の縁を切る」と親に宣言して社会問題になった。被害者の親の会が”統一教会”を相手取って裁判に訴えたことはよく知られている。
また、統一教会による ”国際合同結婚式” や 印鑑などを高額で売りつける ”霊感商法” が社会問題となり、裁判が提起されていることはよく知られている。日本人歌手の櫻田淳子もその信者だ。
以前、統一教会に引き込まれた学生がいた。彼は私に論争を挑んできたが、いつも負けるので、「先生には、そのうち、タタリがある」と言って怒り、部屋から出ていった。彼は精神的にもおかしくなり、彼の親が大変に困っていた。
「世界キリスト教神霊統一教会」なるものの創始者は韓国の文鮮明だ。しかし、本来のキリスト教とは何の関係もない(無視されている)文鮮明は、韓国で刑事処分され、2012年に死去している。
自民党の議員の中にもその「世界キリスト教神霊統一教会」の協賛者として名義を貸している者がいるが、彼らの全てが、そのインチキ宗教を信奉しているとは思えない。彼らは選挙で組織票が欲しいだけであろう。
今回の事件は、被疑者が、自分の家庭を破滅させた統一教会と密接な関係がある安倍に恨みがあるから殺害した、という単純な殺人事件にすぎない。政治テロだの、民主主義への挑戦だの、という報道は、被害者がたまたま元首相であったために騒いでいるだけである。「政治におけるテロを許すまい」、「言論には言論で」などのキャンペーンは全くの的外れだ。
浅見定雄氏(東北学院大学名誉教授)は、長年にわたり、デタラメな ”宗教もどき” の実像を暴露し、それがもたらす社会的な害毒を鋭く告発し、警告しておられる。御著書の「なぜ カルト宗教は生まれるのか」、「統一教会=原理運動」、「にせユダヤ人と日本人」、「新宗教と日本人」は名著といえる。
「悪文」とその原因
June 26, 2022
「岩手大学は、名古屋大学、英国リバプール大学との共同研究で、ネコのマタタビ反応に特徴的なしぐさとして見られる葉を舐めたり噛んだりする行動には、マタタビに対するネコの反応性を増大させる効果があり、マタタビの持つ蚊の忌避活性も強めることを解明した。」
こうした ”不可解な日本語文章” が公式なサイトに載り、それを読む人に ”なんとなく分かった” ような気分にさせることに、日本語教育の不十分さを感じるのは、私だけだろうか。
上の文章の主語はどれだろうか。”岩手大学” か。ならば述語は ”解明した” か。同時に、”ネコの....行動” も主語か。ならば述語は ”効果があり” と ”強める” か。「マタタビの持つ蚊の忌避活性も強める」とは「ネコに舐められたり噛まれたりするとマタタビ自体の防虫成分が強まる」という意味か。まともに考えているとアホらしくもなる。(学生の報告書の中にこのような文章があれば、私はその場で返却し、書き直しを命ずる)
上の文章は、「主語と述語を近づけよ」、「一つの文章には、主語と述語の組み合わせは一つ」という ”文章の基本原則” から逸脱しているが、その原因は、話し言葉と文章言葉の混同であり(両者は別物!)、主語と述語の離れすぎである。英語に訳すとすれば、これは初めから書き直しが必要な ”悪文” である。例えば、以下のように書いたらどうだろうか。
「岩手大学は、名古屋大学、英国リバプール大学との共同研究により、ネコのマタタビ反応を解明した。ネコがマタタビの葉を舐めたり噛んだりする行動は、マタタビに対するネコの反応性を増大させ、蚊を寄せ付けない防除成分をネコの体につかせるとのこと。」
この記事の末尾には、論文情報:【iScience】Domestic cat damage to plant leaves containing iridoids enhances chemical repellency to pests と記されている。
「イリドイドを含む植物の葉に対する家猫による被害は害虫に対する化学的忌避効果を高める」 ”ネコによる被害が化学的忌避効果を高める”?? この題目は意味不明、全く理解不可能。
蚊の忌避効果?、蚊の忌避活性?、蚊の忌避成分?、蚊を忌避する有効成分?、蚊の忌避剤開発? 記事の中のこれらの文言は、すべて欠陥翻訳! 蚊が何を忌避するのか。それとも、何が蚊を忌避するのか。”忌避” は他動詞であるから、その用法は「AはBを忌避する」、「BはAに忌避される」でなければならない。これらをまともな日本語に近づけるには、実はなんのことはない、文中の ”忌避” を ”防除” に置き換えればよいだけだ。
結局、この記事の不可解な日本語文の原因は、原文の英語の欠陥と、その日本語訳の欠陥の相乗効果による。
内申書の考え方
June 21, 2022
「高校入試の内申書を簡素化しよう」(2022年6月21日朝日)この意見に私も同感である。私も在職中は入試における内申書の所見欄を何度も見てきた。
「なんとか、この生徒を合格させたい」として、普段は目立たないその生徒の長所を詳細に記述し、力を振り絞って訴える担任教師の気持ちが痛いほど伝わってきたことが多かった。生徒にとって不都合な記述には出会ったことはない(所見欄のスペースは大きくはないが、その中に小さな文字がびっしりと並んでいた)。 一方、同時に、クラス内の数十人の生徒の一人ひとりについて、ここまで詳細に記述させられる担任教師の苦労には同情せざるを得なかった。
入試の合否判定では、内申書の所見や行動の記録では優劣の判断ができないので、結局は、筆記試験の得点が最大の判定要因になるのが普通であろう。よって、内申書の書式は、在学中の部活動を含む学習記録、出欠記録、学業成績などに限ることにし、入試の合否は受験校の判断に任せるのがよい、と私は何度も思った。
なお、大学院の入学や、就職における内申書(または推薦書)については、日本とアメリカでは、考え方が全く異なる。アメリカでの内申書(Confidential Reference)とは、それを受けとる側に対する執筆者の誠意(即ち、真実の記述)が求められ、執筆者の信用と責任を伴う鑑定書である。
在職中の私は、東南アジアからの優秀な留学生には、アメリカの大学院で学ぶことを強く勧め、推薦書が必要なら私も書く、と伝えてきた。私が知る限り、アメリカの理工学系大学院のWebsiteでは、外国人の入学志願者のために内申書の書式(Form) が提示されており、通常は3名程度の執筆者がその書式をダウンロードし、入学志願者についての所定の記入を行ない、その大学院へ送る。
大学院生は、授業料と僅かな生活費に該当する奨学金を受け取る一方、義務として学部の学生のための授業、実験、リポートの採点、研究などで指導教員に協力する。そのため、書式の中では、当人の英語能力、性格や周囲との協調性、学部学生を教える力量の有無などの記述が求められ、最後に「この内申書を当人が見たいと言ってきたときには、見せてもよいか、Yes またはNoに印をつけよ」との欄がある。
ある時、留学生のA君が「大学を卒業した後には、アメリカのある大学院へ行きたいので内申書を書いてください」と私に依頼してきた。私は彼についての内申書を作成し、その大学院へ送ったが、数日後、別の大学院へも志願するということで、彼は、再び内申書の作成を依頼してきた。さらにそれが続き、結局、彼について私は12校の大学院へ内申書を送った。数校から入学許可の通知書を受け取った彼は、アメリカ北東部の大学院を選び、入学した。
査読する側から見た研究論文
June 11, 2022
「福井大の60代の女性教授らが国際学術誌に投稿した学術論文で、この教授が、論文の審査(査読)を担う千葉大の60代の男性教授と協力し、自ら査読に関与した疑いがあることが関係者の話でわかった。学術誌の出版社が研究不正と認定し、福井大教授側に論文の撤回を勧告したことも判明。福井大と千葉大はそれぞれ調査委員会を設置して内部調査している。」
この記事を見ると呆れてしまうが、論文の投稿者と査読者(審査員)が結託したとは、その国際学術誌に対する非礼を通り越して侮辱といえる。
世界の研究者に、この学術誌の審査の公正さへの重大な疑問を抱かせ、信用を失わせたことにより、おそらく、この投稿者と査読者は、研究者としての ”モラルと公正さの欠如” を永久に指弾され、所属学会と学術誌から放逐(投稿論文の非受付)され、研究者生命を遮断されたといえる。
以下は、査読する側から見た研究論文について、17年前に公開された私の意見である。
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ある特定の課題にしばらく取り組み、論文を出していると、研究者には、通常、経験とともに、否応なしに、時々、投稿論文の査読の依頼が来る。それは、研究者としての活性の定期点検でもあり、編集者による慇懃かつ突然の能力点検でもある。「一週間以内に査読ができないのであれば,直ちに原稿を返送していただきたい」と編集者から言われることもある。
3,40ページ前後もの論文を限られた期間内に査読する作業は、実際、かなり疲れる。しかし、よほどやむを得ない場合でなければ、それを断ってはならず、投稿された論文の査読は研究者相互の無償の名誉ある奉仕義務なのである。そして実は、同業者の論文を査読することにより,査読者自身の新たな研究意欲もかきたてられるものである。
国際学術雑誌では、通常、一つの投稿論文について、編集者により,2,3名の査読者が選定され(もちろん,投稿者には知らされない)、世界中の査読者へその原稿が送付される (そのため、投稿時には編集者が保持する分を含めて、通常、計3,4通のコピー原稿をまとめて編集者に郵送する)。
各査読者からの査読結果や評価が大きく分かれる時は、編集者から各査読者あてに、名前を伏せた他の査読者による評価内容が伝えられ、「これらを貴殿はどう思うか」と問われる。それをもとに、各査読者は、再度、査読を行い、編集者に報告する (もちろん、自分の署名を添える)。編集者は、各査読者からの報告の内容により、その論文について、掲載許可、要改訂、掲載不可などを決断し、投稿者にそれを告げる。
研究論文の評価の決め手は、独創性を含む内容と、その展開であろう。論文の起承転結が首尾良く、読み手を納得させるべく完結(enclose)していることが大切なのである。私自身、論文を作成する時にも、査読をする時にも、これらに特段に留意している(それでも、査読者からあれこれの、時には本格的な修正意見が出るのが通例である)。
査読結果の内容は、責任を伴う署名入りの鑑定書であるために、その内容が誤り、又は、不十分と編集者に判断されると、今度は査読者自身が自分の信用を失う。 即ち、査読結果の内容により査読者も能力査定を受けているのである。自著論文のみならず、査読結果の内容を通しても、常に評価にさらされる研究者の世界は楽しくもあり、また、厳しいものである。なお、査読結果の内容には査読者自身の経歴と思想、そして人柄が出るように思う。いわゆる、批評は人なり、である。
一方、研究者の世界のこの普通のシステムの中で、査読の制度を嫌がる者が見受けられる。研究者としてのまともな修行の経歴がない者ほど、その声が強い。今日、複数の査読者による査読の制度は、普通の学術雑誌であれば、発行雑誌の質を高め、維持するために当然のことであり、彼等の不平には全く根拠が無い。さらに重要なことに、査読の結果により自分が鍛えられ育てられることに、彼等は気付いていない。そのせいか、彼等の中には、論文作成の基礎的な手法と書式に欠け、また、日本語や英語の文章作成能力(研究者の必携の商売道具)に疑問を抱かせる者が見受けられる。要するに、研究者としての修行が出来上がっていない。
計測機器と計算機の最近の著しい進歩は、研究分野により程度の差こそあれ、真の独創性のためには、10年前に比べて数十倍の努力が必要、という現実をもたらしている。それは、研究者達に否応なしに共同作戦を促している。一個人による仕事には限界がある。こうした趨勢は、異分野の研究者間の協力、そして、公正な精神に基づいた査読システムの定着を促しているといえよう。
リケンの水素エンジン分野への参入
June 1, 2022
新潟日報の今日(2022年6月1日)の記事:
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「リケン、水素エンジン分野参入へ 新潟・柏崎工場に開発拠点」
自動車部品製造リケン(東京)の前川泰則社長は31日、東京都内で新潟日報社の単独取材に応じ、水素を燃料とする水素エンジン分野に参入する方針を明らかにした。柏崎工場(新潟県柏崎市)に開発拠点を置き、ガソリンエンジンの改造や専用部品の開発、製造を想定している。前川社長は、世界的な環境意識の高まりで、自動車産業が転換点にあるとの認識を示し、「水素エンジンなら脱炭素に対応できる」と展望を語った。
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今までに、いろいろなところで、何回かこうした記事を見かけているが、そのたびに、私は、以下の意見を伝えている。
テレビや新聞で ”水素で走る車”が華々しく報道されている。しかし,”水素タンクを積んだ燃料電池自動車”の普及は,水素の爆発事故に対する安全対策技術が現在よりも格段に進歩しない限り,絶対に不可能である。そのため,国や自治体としては,決して,"水素タンクを積んだ燃料電池車" を推奨してはならない。
そもそも,水素はガソリンに比べて危険性の度合いが格段に上である。そのことが,まだ日本の一般社会には知られていない。将来,ガソリンスタンドと同じように,街中のあちこちに ”水素スタンド”が建設されたらどうなるか。市民生活の安全性確保が極めて危うくなる。また,交通事故での車の破損による水素爆発の防止対策も現在は全くの未熟である。
その上,致命的なことは,”水素タンクを積んだ燃料電池自動車”は,CO2の削減対策にも逆行することであり,車の燃料(水素)の製造費用が,ガソリンよりも高価なことである。これらは全て,水素というものがガソリンとは違って,地中から出てくるのではなく,人口的にかなりの費用をかけて製造しなければならないためである。もちろん,その際には大量のCO2が排出される。
要するに,”水素で走る車”は,決して環境浄化対策や省エネルギ対策にはなれない。現段階では,それを製造する自動車メーカーによる美辞麗句の宣伝に騙されてはならない。”水素を積んで走る車”は,”危険で無駄なオモチャ”に過ぎない。
通常の自動車エンジンで、ガソリンの代わりに水素を燃料として車を動かすという考えがある。しかし、水素についての、貯蔵、輸送、燃焼(動力機関)における、十分な安全対策が確立された社会でなければ、「水素エンジン自動車が社会的に普及することはない」ことは、既に40年以上も前に周知されていることである。
どんな ”革新技術” についても言えることであるが、「こういう技術で新しい製品が造れる」ことと、「その製品が社会的に普及する」ことは、全く別な話である。
沖縄問題と日本の国防政策
May 15, 2022
50年前(1972年)の今日(5月15日)、沖縄が正式に日本に復帰した。
1973年(本土復帰の翌年)の3月に、私は初めて沖縄に行ったが,そこで受けた強い印象は「これはもうたまらない」であった。昼,夜を問わず,頻繁なものすごい軍用機の爆音。そのため,時にはどの学校でも授業が中断され,まともに教育が出来ない。
さらに,無性に腹立たしかったことは,「一旦,外国軍の軍政下に置かれたら,その地の住民はこれほどまで,馬鹿にされ,蹂躙されるのか」という印象であった。
米軍の兵士は,まさに,やりたい放題であった。泥棒,ひき逃げ,強姦,殺人など,何をしようとも,素早く,基地内へ逃げ込めば,日本の警察は,手出しができない。米軍としては,その犯人を早急に本国へ転勤させてしまえば,一件落着である。
沖縄の人々は,ただただ,屈辱と悔し涙にくれるだけであった。しかし,土地を強制収用されて以来今日まで土地の借用代金を受給して生活している人々は,もはや,農業には戻れない。また,米軍を相手に商売を営んでいる人々は,怒りと屈辱に堪えながらも,それで生きるしかない。日本は,対米従属の屈辱的な「密約」に縛られたままである(吉田敏浩 著「密約」2010年毎日新聞社発行)。
ここで、改めて、沖縄問題と、独立した主権国家としての日本の安全保障を考えてみよう。
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「秘密のファイル,CIAの対日工作」(上,下) ,春名幹男(共同通信の論説副委員長)著,(共同通信社 2000年6月発行)には,驚くべき事実が満載されている。
私は,まさに目から鱗が落ちる思いで読んだ。この本の下巻のP.287-288には,1947年に,昭和天皇が自ら,アメリカに「沖縄における米軍の長期占領」を申し出たことが暴露されている。
終戦当時は,アメリカ国務省は,「沖縄は日本の支配下におき,非軍事化すべき」と考えていたが,アメリカ軍部の考えは,「軍事戦略の上から沖縄を自由に使いたい」であり,国務省とアメリカ軍部の考えは対立していた(p.287)。
「中国やソ連に日本への手出しをさせないために,アメリカに半永久的な沖縄軍事基地使用を認める。天皇の意図はそんなところにあったのだろう。本土のために,沖縄の意志も聞かずに犠牲を負わせる,という意味では,戦後の「琉球処分」とも言える」(P.288)。
しかし,その後,国務省は「対日政策に関する勧告」をまとめ,沖縄における米軍基地を長期間維持することに政策変更した。米軍は,核兵器の配備も含めて沖縄の基地が自由に使用できることに安住し続けた。ベトナム戦争の拡大で,後方基地としての沖縄の役割が増した。だが,日本政府も,1960年代中期に至るまで沖縄返還には積極的には取り組まなかった(p.290)。
普天間基地の移設問題を考えると,突き当たるのは,1960年1月19日に新日米安保条約に基づいて日米両国間で締結された不当極まりない日米地位協定や,その新安保条約の取り扱いである。締結以来,60年以上も経た今も一度も改定されていない。
つまり,「アメリカは日本の安全を保障する」,「日本はアメリカ軍基地の維持費用を負担する」という,安保条約の二大原則と「沖縄の米軍基地の国外移設」をどう両立させるか,の高度な政治決着に最大の困難がある。日米安保条約は10年ごとの更新時に,一方からの通告のみにより解消できる。これも,日本とアメリカの双方にとって極めて重要な条項である。 日米地位協定の不当な現状を見れば,「米軍は沖縄から出て行け」という沖縄の人々の声,そして,「米軍は来るな」という徳之島の人々の声は、市民感情として当然のことである。
戦争放棄や恒久平和を目指す日本憲法の精神は,もちろん,誰もが賛成であろう。一方,真の独立した主権国家とは,国外からの侵略を自力で(外交努力と国際協力のもとに)防止できる国であろう。すなわち,真の独立国家とは、外交努力と国際協力のもとで「自国民の生活と安全を自力で守り保障できる国家」である。そのため、今日の日本に必要なのは「独立国家の要件とは」という国民的な議論の開始であろう。
憲法学者の多数意見によれば、日本の憲法第9条は自衛権を否定していない。そうであれば、今の憲法第9条の文言を、もっと踏み込んで、例えば以下のように改訂したらどうだろうか。「我が国は主権国家として、自衛の交戦権を有する。ただし,そのための武力行使は,自国の領土,領海、領空が侵略され,自国民の生活と安全が脅かされた場合に限る。」
これであれば,国際的にも普遍的な理解が得られ,国防軍としての自衛隊の存在にも明確な整合性がうまれ,なんら法的な齟齬もない。これが,独立した主権国家としての真の平和憲法というものであろう。(この考えは、昨今の、敵基地攻撃能力の完備だの、集団的自衛権だの、憲法に自衛隊容認の文言を入れよ、だのという”浅薄で安直な国防論議”とは全く異なる)
「米軍基地は,日本から出て行け」と主張するのはやさしい。しかし,その主張の背後に,日本の国防政策についての ”思考停止の影” をいつも感じるのは私だけであろうか。
1960年代末から70年代に,当時の社会党は,日本の将来像として「非武装中立」を公言していたが,その不見識と無責任さには,今思い出しても呆れるばかりだ。「危機には座して死を待て」と国民に要求する ”能天気な政党” に,どうして国政など任せられよう。
独立した主権国家としての日本の自衛権を認める一方で,自衛隊は違憲であるから段階的解消を目指す、とする共産党の主張は、自己矛盾の論理破綻であり、国民への説得力が全くない。「憲法9条は自衛権を認めている」とするならば、では有事の際の国防は何に頼るのか。自衛隊しかなかろう。即ち、自衛隊の合憲性は事実としてすでに明白であろう。
4月に、志位委員長は「急迫不正の主権侵害が起こった場合には、自衛隊を活用する」、「憲法9条は無抵抗主義ではないから個別的自衛権は存在し、必要に迫られた場合には、その権利を行使することは当然だ」と述べ、それが話題になった。
その話題の中では、「(自衛隊を)合憲だとは認めないが、自衛隊なしに日本は守れないから活用するという理屈はおかしい」、「現実を踏まえて ”違憲の自衛隊” の存在を容認するのか、という疑問がわく」、「自衛隊は必要ではあるが、それを合憲だとする政府の憲法解釈に無理がある、というなら、まずは共産党自身が9条の改定を表明して自衛隊の合憲性を明言するべきだ」という意見が出ていた。これらは当然の意見であろう。
米軍基地が日本から完全になくなったら,中国や北朝鮮からの威嚇,沖縄,南西諸島,南方諸島などの安全と防衛,尖閣諸島の守備防衛,千島列島の帰属問題などについて,日本は自衛隊と海上保安庁だけで対応できるのかについて,どの政党も自信ある政策を示せない。それどころか、今日,どの政党も,日本の「国防の完備」の議論から逃避しているように私には見える。
「革新」を自認する野党も,日本から米軍基地が完全になくなった後に厳しく求められる「独立した主権国家としての日本の国防完備」の政策が出せない。それどころか,従来から,「米軍基地反対」の声は,しばしば「自衛隊反対」の声と合体している。それは自国の国防の完備についての思考停止であり無責任といえよう。
日本の国防政策と現憲法との関連が充分に国内で議論されておらず、日本の与野党もそれを避けていることは,当然,「日本の弱み」として,アメリカ政府は以前から看破しており,それが,日本を「密約」で縛って平然としていられるアメリカの自信を補強しているのである。
不当極まりない日米地位協定の中でも,第17条、第5項の(C)「日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員又は軍属たる被疑者の拘禁は、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行なうものとする。」は,日本の政治と政府が、アメリカ政府に足元を見られて馬鹿にされている証拠の最たるものといえよう。
沖縄の米軍の普天間基地は,結局は,国外への移設しか根本的な解決策がないと私は思う。だが,その決断のためには,必ず,日米安保条約や日米地位協定の正否の論議が必須である。これらの議論をもはや先送りすることは出来ない。
日米の友好協力関係が大切であることは,日米双方の国民の総意であり,言うまでもない。そのため,沖縄の米軍基地の国外移設問題は,必ず,日米安保条約の正否と日本の国防政策を合わせた3点セットで再検討しなければならない。そうでなければ合理的な解決策は決して出ない。その3点セットの検討のためにかなりの時間が必要とされるのはやむを得ないことである。
今日の日本は,「改憲か護憲」か,などという空疎で粗雑な二者択一論議をしている場合ではない。沖縄の米軍基地を国外に移設するからには,独立した主権国家としての日本の国防政策の議論がまず必要であり,次に,その議論を踏まえた国民投票が必要なのである。日本政府はその投票結果に基づき,日米安保条約や日米地位協定の改定や解消を視野に入れた上で,沖縄を含む在日米軍基地全体の処遇について高度な政治判断をするしかない。
Facebookのデタラメな”翻訳機能”
May 5, 2022
いつものことながら、Facebookによるデタラメな翻訳機能には呆れる。FBは、会社としてこのような欠陥品を提供し続けることが会社の不名誉であることに、今も気がつかないようだ。FBは、”デタラメ翻訳機能” を撤去したらどうか。それとも「無料で翻訳機能を提供しているのだから、嫌なら使うな」として、このままにしておくのか。
以下は、今日のABC Newsの記事である(DeepL翻訳の性能の良さが改めて分かる)。
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The mother of a New York City police officer was killed Wednesday afternoon when she answered a knock at her door and was shot in the head allegedly by a 41-year-old man, who drove to a police station and turned himself in, authorities said.
(ABC News: May 5, 2022)
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Facebook:
ニューヨーク市の警察官の母親は、水曜日の午後、彼女がドアをノックして答えた41歳の男性に頭を撃たれたと、警察署に運転して自首したと当局は語った。
Google Translation;
当局によると、ニューヨーク市警の母親は水曜日の午後、ドアをノックしたときに殺害され、警察署に車で身を寄せた41歳の男性に頭を撃たれたという。
DeepL Translation:
ニューヨーク市警の警察官の母親が水曜日の午後、自宅のドアのノックに応じ、41歳の男に頭を撃たれて死亡し、男は車で警察署に向かい、自首したと当局は発表した。
”お受験”の子供と親
May 2, 2022
地方の街から大都会への親の転勤に伴い転校した子供の親から、地方と都会との学校の様子と教育環境の大きな違いを聞く機会があった。
聞いている中で思い出した。団塊世代の私達は,学生時代に生活費を稼ぐために塾や予備校の教師,家庭教師などのアルバイトをしていた者が多かった(私もその一人)。大学の事務部の掲示板にはそれらの募集の掲示がたくさん出ており、その中から,指導する科目,対象の生徒の学年,往復の通勤時間,報酬や時給などを考慮して選び,事務の担当者に申し込む。それらの掲示の中で,時々,驚くやら,呆れるやら,おかしいやら,の注文条件があり、そのような注文をつけてくる親の存在を私達は笑ったが、一方、子供の学力向上を真摯に願う親の気持ちが私達には深く伝わってきた。
当時から50年近く過ぎた今日でも,東京や大阪などの大都会では,有名大学への合格率の高い私立の一貫校に子供を入れるために,さらにPTAでの親の間での風聞にも煽られて,若い親の間では「お受験」への関心と焦りが今も健在であり、子供を有名校に入れるために,親が相当に熱心なようだ(毎月の教育費も相当なようだ)。
その親達は,大半が50歳以下であろう。つまり,私達の学生時代における当時の小学生以下であり、40年くらい前に自分も「お受験」を体験してきた人もいよう。地方に住んでいると,大都会における若い親達のそうした焦りと風潮は伝わってこないが,その心情には同情する。(実際は、普通に公立の中学と高校で学び、”まともに受験勉強”をすれば、普通に大学に入学でき、当人にとっての新しい世界が開けるのだが)
だが,ここで考えてみると,若い親たちを煽り、焦らせる風潮の根源は,実は、少子化の日本の中で生き残りを図る学習塾や予備校,そして私立学校の経営戦略にすぎないのではないか。
人間の一生を長い目で見てみると(こう言える心境になれるのは自分が年を取ったせいかもしれない)、一個の人間として生きて行くときのしたたかさ,一般常識の体得,不屈の生活力,友人との付き合いによる成長,落ち込んだ時からの立ち直り,などは20歳頃から本格的に陶冶される。その時期の中では,小学生時代に塾へ通った者も通わなかった者も、誰もがみな現在の仕事と格闘し、人間関係の中で生き抜く術の体得に気を使っている自分に気づくだろう。「お受験」に煽られ振り回されていた自分が思い出され,「 あの頃,あんな時があったな」と思える人もいよう。
不要な公的機関の廃止の流れ
April 23, 2022
「不要となった公的機関の処分の流れ」を一つの例を上げて見てみよう。職場の組織変更や廃止の時には,職員(社員)の異動が伴うために,慎重な方策が求められるが,同時に,それを実施する側にも強固な意志が必要になる。民間企業ならば,経営者は短期間で断固としてそれを実施するであろう(そうでなければ,経営に支障が出る)。しかし,公的機関では,責任体制が不明瞭であるために,あれこれの引き伸ばし策が出され(ウソとゴマカシのあれこれの延命策が提案されて),その実施には長期間を要する。
結局,その引き伸ばし策を遮断し,処分を断行する最大の力は,国民の声であり,それを背景にした強固な政策転換しかないという実例である。
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1978年の職業訓練法の改正により、当時の雇用促進事業団が運営する総合高等職業訓練校(略称、総訓)の一部が職業訓練短期大学校と名称を変えることになり、そのため、1980年代にはいくつかの”職業訓練短期大学校”なるものが開設された。雇用促進事業団が運営する総合高等職業訓練校の実状について,会計検査院は,1981年度の決算検査報告の中で正確に分析している。
しかし、当時の総合高等職業訓練校の技能指導員には大学卒業者がほとんどおらず、もちろん、工科系短大の教員資格のある者はいない。そのため、技能指導員にとっては職場の”短大化”は転職に等しく、配置転換や人員整理を警戒する労働組合がそれに反対し、抵抗したのは当然であった。
職業訓練校の”短大化”は、雇用促進事業団の「自発的な改革策」ではなく、会計検査院からの業務改善勧告により、業務効率の悪い職業訓練校の看板を変えさせられただけの,粗雑でデタラメな ”短大”であった。 技能指導員を”技能職”として配置転換し、教員資格を持つ大卒、院卒者を大量に採用し「内部の人員を刷新する」という当然の施策を、雇用促進事業団は行なわなかった。結局、短大建設のために着任した大卒、院卒の教員は、単に組合対策の人柱として騙されて採用されたにすぎなかったために、それに気づいた教員の中から短期間で辞職者が出たのは当然であった。
そのような”職業訓練短期大学校”に、内情を知らずに入学した学生の中からは、当然、苦情や退学者が出た。「看板と中身が違う」、「教員が能力不足だ」として校長宛に意見書を提出した学生もいた。当時の訓練校の事務職員の中からは「恐れていたことがついに起きた」との声が出た。
”職業訓練短期大学校”なるものの失敗の最大原因は,雇用促進事業団と労働組合との馴れ合いと癒着であり、”短大”の看板を信じて入学した学生に対する社会的責任を雇用促進事業団が果さなかったことにある。
その後の流れを見ると,雇用促進事業団が職業訓練校の看板を次々に塗り替えて,全国に粗製乱造した”職業訓練短期大学校”なるものは,頻繁に組織の再編や統合や名称変更などが繰り返された。さらに、雇用促進事業団それ自体があれこれの批判を浴びて廃止され,高齢・障害・求職者雇用支援機構と改名され,その業務内容が大きく削減され、整理された。神奈川県相模原市にあった職業訓練大学校それ自体も廃止され,後に,入学者定員をごく少人数にした職業能力開発総合大学校と改名された。
今日では,職業訓練短期大学校なるものは,再編や統合を経て,すべて”職業能力開発短期大学校”と改名され、一学科の教員はわずか5名程度であるが、大学卒業者を揃えているようだ。なお、卒業者は短大卒の資格を取得できないので、通常の大学の3年に編入学することはできない。 責任体制が明確でない「不要な公的機関」が、内部人員の刷新により看板通りの機関に近づくには30年くらい要するという実例である。
Research Gate
April 23, 2022
数年前に、Research Gateというサイトに登録した。すると、「あなたの論文はどんな論文に引用されているか」、「あなたの論文を引用している最近の論文のお知らせ」などの報告が定期的に来る。国内外の思わぬところの未知の研究者が、論文のIntroductionの中で自分の論文を紹介しているのを見ると、嬉しくなる。
「Full paper の請求」がたまに来るが、「公刊した論文の著作権は出版社 にあるので出版社に代金を払って入手してください」と返信し、私はいつも断っている。Research gate と著作権との関係はどうなんだろうか。
高専の打開は行政の責任
April 20, 2022
創立以来から制度の欠陥と矛盾が指摘され、時には酷評されている工業高専は,文部科学省の失敗行政に全責任がある。工業高専の姑息な延命策は、文部科学省職員の雇用保障の延命策にすぎない。「仕事は減っても,役人の数は減らない」のである。
学生の海外研修制度,ロボコン大会,教員顕彰制度,教員交流制度,外国の学校との交流協定,高専敎育フォーラム,高専テクノフォーラム,国際工学教育研究集会.....,現在,独立行政法人の国立高専機構は,あれこれの活動を社会的に表明している。それら自体はもちろん良いことだ。
しかし,高専制度の本来の大矛盾は、創立以来、今日でも何一つ解決されていない。工業高専は,大胆な統廃合により現在の半数以下とし(それでも社会には何の支障もない),設立趣旨を完遂できるべく,理工学のまともな教育機関に変貌させるべく、法律を改正をする以外に生き残る道はない。それが,日本国民に対する「責任ある行政」というものであろう。
将来の技術者を目指す15歳の中学生にとって、高専に入学することは極めて”危険な賭け”である。本来は十分な能力があり,大きな期待を持って高専に入学してはみたが,高専に失望し,自分に自信を失い,中退していった若い犠牲者達があまりにも多い。精神的におかしくなる者もいる。入学者の2,3割が5年後の卒業時には消えている場合もある。高専での生活に疑問を感じた学生には,「進路変更は決して敗北に非ず」として,積極的に退学と進路変更を勧めるのがよい。
高専の一般教育(1-3年)は高校設置基準を満たしていない。加えて,高専における必修科目の”必修”とは,"履修の義務" であり、 "単位取得の義務" のではない。 即ち、高専では,数学,物理,英語,実験など全てが不合格(単位未習得)でも,教育課程が学年制(単位制ではなく)であるために,学生は進級ができ(進級すれば,単位未修得の科目でも ”修得” と見なされる!),卒業もできる。この事実を知らされると、新任の高専教員の誰もが一様に驚く。(今日では、JABEE認証を得るために、どの高専も追試験を駆使して必修科目の”単位取得”を学生に強制しているが、それは姑息な対策に過ぎず、文科行政には無関係なことである)
純真な少年達をこれほど馬鹿にした失礼な ”安上がりの教育課程” が、創立以来今も続いている。数学,理科,英語など,どれをとっても,工業高専とはいえ卒業者(20歳)の中に,大学進学を目指す進学校の高卒者(18歳)の学力に達している者はほとんどいない。
高専の4,5年生(19,20歳)の中で,大学入試共通試験の問題を解ける学力に達している者はほとんどいない。高専卒業者の英語の学力はせいぜい中卒程度。こうした実情は、普通の高専教員であれば誰にも周知の事実であるが、社会の一般の人々が知れば、みな驚く。
60年前の日本の高度経済成長期の時代要請に応えて,「即戦力の実践技術者の育成を目指す」と標榜した日本の工業高専は,創立当初から,文部行政の "失政の産物" といえる。
工業高専設立の趣旨そのものは誰もが容認できよう。だが,この創立時の文部行政の大きな失敗は,高専教員の職務規定と人選を誤ったことにある。「高専は中卒者を対象にした5年制の職業訓練学校」という趣旨により、創立当時から、文部省による高専教員の採用審査が杜撰であった。そのため、教員の採用時にまともな資格審査がなされず,学問研究者としての修行を積んだ上で採用された教員が誰もいない。それが,創立以来30年以上にもわたり高専の敎育と教員人事の沈滞をもたらしてきた。
時代が変わり、今日の高専には専攻科があるために,専門学科の教員の任用資格として通常は博士号が必須であり,また教員の研究活動が奨励され,研究費獲得の自己努力が求められている。しかし,研究者の世界で高専の教員が伍していくのは容易ではない。そのため,意欲ある高専教員は大学院がない職場環境の中で悪戦苦闘しつつ研究を続けている。
ところが,教員の職務から研究の義務を除外した職務規定は,創立時から今も変わっていない。「大学設置基準を満たさない場で,研究の義務がない教員が大学教育を行なう」とする高専専攻科の重大な法的矛盾を指摘されても、文科省の高専行政担当者は、ほうかむりを続けている。
日本では既に40年も前から,理工学敎育の中心が大学院修士課程に移行している。そのため,高専だけの敎育歴では中心的な技術者にはなれないことは、実は誰もが認める事実である。 加えて,今日の日本では,15歳人口が一段と減少しつつあり,高専の入学希望者も減少し続けている。募集定員を満たすためには,かなり低学力の者でも入学させる。そのため,入学後,理数系の授業に全くついて行けない者もいる。
"高専の存続" のために美辞麗句を並べ空手形を発行して中学生を騙し続けることは,もはや許されまい。 文部行政は,早急に高専制度の終焉と破綻を認め,高専の大胆な統廃合と設立趣旨の法改正に着手するのが国民に対する責務といえる。
刑事事件の裁判と冤罪
April 16, 2022
端的に言えば、民事訴訟でも刑事訴訟でも、裁判とは裁判官が請求者(原告)の「主張を認めるか否かの判断を示す場」である。刑事事件であれば、その請求者の主張とは検察官の起訴と求刑の内容であり、裁判官の役割はそれらの内容を検討し、法律に照らして「人(被告)を裁くのではなく、犯した罪を裁く」ことである。人間には ”人間を裁く” 資格はあろうはずがないために、それは当然のことである。
「冤罪が確定したら、有罪判決を下した裁判官の責任を問え」とする意見(2015年12月17日朝日)は当然といえよう。
「犯罪の証明なき有罪判決-23件の暗黒裁判」(2022年九州大学出版会)についての書評(2022年4月16日朝日)は私にはとても参考になる。以下はアマゾンでの紹介文である。
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刑事訴訟法は明文で、「犯罪の証明があった」ときにのみ、有罪判決において「刑の言渡し」ができ (刑訴法333条)、「犯罪の証明がないときは、判決で無罪の言渡しをしなければならない」(刑訴法336条) と規定する。
しかし日本の刑事裁判実務では、裁判官の「自由心証主義」が過度に重視され、現行法上の有罪判決の前提である「犯罪の証明」が軽視されてきた。その結果、「裁判官の自由な判断」により誤った有罪判決を生み出す「暗黒裁判」が後を絶たない。
本書では、70数年に及ぶ現行憲法・刑事訴訟法の下で、絶えることなく続発する誤判事件の実態について、最初期から現代にいたる膨大な誤判例の中から23件の裁判を分析することで、誤判の決定的な原因を探った。
そこには、別件逮捕を用いた自白獲得や共謀共同正犯の承認、情況証拠のみに基づく事実認定、捜査段階の調書への全面依拠、客観性を欠く供述証拠の「真偽」の判断等、憲法が保障する被疑者・被告人の人権を無視した実務の実態があった。
本書はとくに論理的可能性と実在的可能性の違いに着目し、主観的・情緒的な「心証形成」を制約する、客観的・理性的な「証明」の論理を示すことによって、裁判官が誤判を犯す原因を明らかにし、冤罪を防止するための方策を提言する。
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冤罪事件や裁判に関連する資料を読み返してみると、改めて痛感させられ,腹立たしさも覚えるのは,"権力を持つ側の人間" による "弱者"(容疑者や被告)に対する密室の中での驚くばかりの人権侵害であり,それにより多くの犠牲者が出ていたことである。
さらに同時に,最初から裁判官が予断を持ち, "有罪にしたいとする側の立場" に立ち,その姿勢を前提とした恣意的な判決により,一般市民の中に多数の冤罪犠牲者が発生していたことである。特に終戦直後から1960年代の中期に至るまではそれが多かったようだ。
そのような馬鹿げた "判決文" を作成して良心の呵責を感じない恥ずべき裁判官が当時に存在していたことに驚いてしまうが,一方,そうした裁判官を生み出す原因となっている,日本の "裁判官の人事評価と昇進のシステム" にも考えさせられてしまう。
「有罪にしたいとする側」の立場に初めからおもねり,人間としての自己の良心をかなぐり捨てたデタラメな有罪判決を下した裁判官が栄転し昇進していった例(松川事件)さえある。
しかし,一方,自己の良心に照らして虚心坦懐に事件記録(起訴状,証拠資料, 供述調書,専門家による鑑定書など)を精査し,客観的に人を納得させうる判決を下す立派な(正常な)裁判官も存在することを知ると、私は安心もする。
過去の判例に異議を唱える判決や,検察側が示した起訴理由を却下して無罪判決を下すに至るまでの裁判官の勇気と心理には,かなりの重圧と葛藤があるに違いないことは想像に難くない。
”軍事研究”の判断
April 5, 2022
「軍事利用可能な先端技術開発に財政支援をする政策の中で、研究の自由が保障できるのか」(2022年4月5日朝日)これは昔から言われている、古くて、そして、今日でも続いている重い課題である。
大学や研究機関にいる研究者の「科学者としての使命と責務」は,真理の探求であり,自然現象の解明であり,新しい知見の発見であり,それによる人間社会への貢献であろう。そこには思想や信条の違いによる、内外からの研究の差別、阻害,隠匿などがあってはならないことはもちろんである。
どのようなものが軍事研究であり,どのようなものが軍事研究ではないといえるのか,を詳細に明示せず(実は,それはきわめて困難だが,その議論を避けることはできない),また,今日の世界の数えきれないほど多くの優れた科学技術の開発動機(軍事用,民生用を問わず)と,その開発過程の詳細な検証を抜きにして,10年一日のごとく,金科玉条に「軍事研究反対」と連呼する動向は1970年代の日本社会にもあった。
当時、学生であった私には、その主張に違和感を覚え,なじめず、それは”思考の停止”にすら思えた。 金科玉条に”軍事研究反対”と主張することは、結局は、基礎科学、基礎工学の研究をすべて否定することに等しいのではないか。 その主張の論者(主観的には,みな善意なのだが)への支持が,広範な科学者と学識経験者の中になかなか広がらないのはそのためであろう。
最初は不可能かと思われた高度な技術の開発目標が,国内外の多くの科学技術者による果敢な粘り強い挑戦により達成され,その偉大な成果が民生用にも軍事用にも応用され,今日では,それらなしには現代社会が成り立たない例が無数にあることは周知のとおりだ。
例えば,レーダーシステム,オペレーションズ・リサーチ,コンピュータ,超音波技術,赤外線通信技術,人工衛星,GPS, インタネット,などを考えれば一目瞭然であろう。これらがなければ、飛行機も船も運行不能であり、今日の生活における電子機器も通信技術も存在しない。そして、これらの全部がその研究の発端は軍事目的である。
「電波・光波の反射低減と制御」の研究は,例えば,放射線治療において,正常細胞をステルス化し,その裏の奥に隠れているガン細胞を検出できる技術に発展するかもしれない。それにより、表面には何の異常も見られない物体の内部損傷を,物体表面をステルス化して検出できる技術が生まれるかもしれない。
「レーザ光源の高性能化」の研究は,材質を選ばない超精密な機械加工の技術に発展するかもしれない。「無人車両の運用制御」の研究は,人間が立ち入れない火山噴火口や未知の洞窟などの内部探索や,谷や穴に落ちた遭難者の救出などに有用な技術に発展するであろう。
「昆虫サイズの小型飛行体」の研究は,航空機の墜落,遭難や,地震などにおける瓦礫の中の遺体や生存者を発見する重要な技術に発展するであろう。
私は,軍事研究も良いとしているのではない。科学者の職業倫理として,また,社会通念として「全ての基礎科学,全ての基礎工学は軍事技術に利用される可能性がある」ことを認識しなければならない。それを前提とした上で,「非人道的な殺傷兵器の開発」への転用を厳しく監視する社会システムとコンセンサスを確立し,その転用を厳禁する社会的規約を構築することが必要なのである。原子爆弾の製造は厳禁されなければならないが,しかし,それは原子物理学の研究を禁止することではないことと同じである。
国語教育の大切さ
March 30, 2022
斎藤美奈子氏は「論理国語と文学国語」と題する意見の中で、「論理性と文学性は両立する」と述べている(2022年3月30日東京新聞)。(斎藤氏は私の出身高校の後輩でもある)
2014年1月の大学入試センター試験の国語について、当時の朝日新聞の投書欄に「センター試験の国語は適切か」と題して,ある大学教員が以下の意見を述べていた。
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「今年の入試センター試験で,国語は古文で出題された「源氏物語」が難しく,話題になった。いつも疑問に感じるのは,古文や漢文が出題の半分を占めるていることだ。古典に関する学習は,その後の大学教育や社会人生活にどれだけ重要で役に立つのだろうか。
そもそも,大学入試は,大学の授業を理解できる基礎学力があるかを問うのが基本理念であってほしい。高校教育が大学入試の科目に翻弄されていることは疑う余地もない。それだけ,入試問題の学校教育に与える影響は大きい。
国語力は読解力以外にも,文章作成や会話術,表現方法など総合学力の根幹だ。多くの大学教員がゼミや論文指導で,学生の国語力の改善に多くの時間を割いている。英語の出題内容は昔に比べて実用面を重視するようになったが,国語の出題内容もそろそろ改善の是非を問うべきではないだろうか。」
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私は,高校時代に国語は好きな科目であったが,しかし, "国語の試験" には悩まされた。「この筆者が言いたかったことは,以下のどれか」などという設問にはほとほと疲れさせられ、ほとんど毎回 ”正解” に合致せず,点がもらえなかった。
しかし,高校時代の国語問題の定番メニューとして出てきた文章の作者であった作家や随筆家や評論家(私の記憶では,その代表格が小林秀雄であった)などの文章の中に,実は論理の不完全な,また,文脈と論旨が不明快な "悪文の典型" があることを, 高校卒業後の大学生活の中で知り,腹立たしく思ったものである。
2013年の入試センター試験の国語では,私の記憶の中での "悪文の常習者" である小林秀雄の文章が出題され,やはり,受験生の平均点が低かった。一体,出題者は受験生に何を要求したかったのだろうか。出題者自身は高校時代に "小林の悪文”に苦労させられたことがなかったのだろうか。
出題の原典の著者自身も正解を出せないような国語問題に,高校生は(そして出題者も)騙され,困惑させられていたのだ。そのせいか,1987年に清水義範氏による「国語入試問題必勝法」なる小説が話題になったことがある。
私は,文章を書く仕事が多く,また,在職中は,学生の論文やリポート、職場の中の連絡文書について,特に、文脈と論理の乱れを厳しく添削して来た(私は"日本語文章にうるさい" と言われた)。そうした仕事の中では,もちろん、自分の書いた文章も同僚から添削してもらい、あれこれの改善提案をいただいたことが数多くある。
青少年時代に受ける国語教育の重要さを改めて私は思う。数学者の藤原正彦氏は,著書の中で国語教育の重要さを詳述している(2003年「祖国とは国語」講談社)。 教育現場における国語の教育を ”文学分野と論理分野に分ける” のは愚の骨頂であり、斎藤美奈子氏の意見にもこの投書の意見にも私は同感である。
高校教育課程の中の「現代文」という授業科目を「論理国語と文学国語に分けて高校生にどちらかを選択させる」というのは,単純すぎ,また,見当違いだ。その立脚点は「文学的情緒を鑑賞する学習と,論理正しく理路整然と文章を作成する学習は別物だ」という視点である。
しかし,私にはそうは思えない。しっかりした文脈で理路整然とした文章を作成する訓練が現状の国語の授業で不足しているだけのことではないか。その訓練が日本の学校教育の現場で不足していることは,私も痛感してきた。(職場の中の連絡文書や学生のリポートの中のおかしな文章は,全て,話し言葉と文章言葉が峻別されていないこと、また、事実と意見の峻別が出来ていないことによる。在職中の私は,それを忌憚なく指摘して訂正を要求してきた)
話し言葉と文章言葉を峻別し,事実と意見を峻別し,しっかりした文脈で理路整然とした文章を作成する訓練は,心の琴線に触れる文学作品や評論を味わうことと何ら相反しない。「現代文」という授業科目を「論理国語」と「文学国語」に分けることに,天声人語(2020年1月21日朝日)は懸念を述べている。私も同感である。
「高校の国語を単純に文学と論理に分けるな。思考力や表現力は、国語だけで養われるものではない。高校教育全体の中でその力を養う方策を検討せよ」(2020年7月31日朝日社説)これが普通の意見であろう。
英語への姿勢とその教育
March 29, 2022
30年前に、アメリカの大学内の書店で買った2冊の本。ともに岩波新書くらいの大きさで、わずか90ページ程度の小さな本だが、永年、私は仕事の道具として英語を使う中で、この2冊は座右の書として常に手元にあり、何回も読み、そのたびに勉強になった。
The Elements of Style は英語圏の人に向けた英語作文法の本だが、日本の大学でも文系理系を問わず、英語学習の必読文献に値すると私は思う。(私には、加えて岩波新書「日本人の英語」、「実践 日本人の英語」(マーク・ピーターセン著)も、論文を書く上での必携の指南書である)
The Goof-Proofer は、”アメリカ人がアメリカ人の英語の間違いを指摘して正しい用法を示す”という面白い本だ。この本は、どこを開いて読んでも良い。読むたびに興味深く思うのは、アメリカ人でも、こうした ”英語の初歩的なミス” をおかすことの意外さである。
この本は、「日本人の日本語の間違いを日本人が指摘して正しい用法を示す本」と同じ類といえるが、もし、日本語を学ぶ外国人がこの類の本を見たら何と思うだろうかと、ふと考える。 「なあんだ、日本人でもこうした初歩的なミスをおかすのか。じゃあ、間違いを恐れずに日本語の勉強を続けよう」と彼らが思ってくれるなら、それはそれで、日本にとって良いことであろう。
高校時代の英語授業における「読解,文法,作文」という特訓のありがたさを、私は今も痛感する。普通の日本人にとっては,英語の教育は高校卒業で終わるために,高校時代の英語授業は決して受験英語として忌避されるべきものではない。(Native Speakerから見れば,英語を専攻しなかった普通の日本人が書いたり話したりする英語は、彼等の母国の中学生程度であろう)
私が接してきた東南アジアからの留学生達のTOEICの成績は、日本人の学生に比べて格段に良かった。しかし、少しまとまった内容の英語文章を彼等に書かせてみると,文章に口語調が目立ち,また,文法の間違いがとても多かった。ある時,「学校では英語の文法をどのように習ってきたか」と彼等に訊いてみると,「英語の授業は会話の訓練だけであり,英文法の授業はなかった」とのこと。英語力の指標としてのTOEICの信頼性には、私は大きな疑問を持っている(一方、TOEFLの成績にはかなり信頼性があるようだ)。
英語の発音について,日本人が英語圏の人と違うのは当たり前であり,それに臆する必要は全くない。私の体験では,英語会話の要諦は,聞く力,単語力,アクセント,イントネーション(抑揚)の4点のみであり、”聞ければ話せる” のである(聞けなければ話せない)。 実際、インド,中近東,スペイン語圏の人々は,彼ら独特の ”強い訛りのある英語” で、臆することもなく支障なく仕事をしている。日本人も自分の発音を気にせず,上記の4点に留意して臆することなく英語を話すべきなのだ。
今日,私達は,インタネットにより世界中の英語ニュースや英語新聞の記事が読める。また,仕事上で必要な英文資料を世界中で検索し,それを読むことが出来る。仕事によっては,自分自身が英文を作成しなければならない。そのような時に必要なことは,やはり,正確な読解力と作文力(そのための正確な文法の知識)である。経済学者の野口悠紀雄氏は,その著書の中で「今日のインタネットの時代では,英語を話す能力よりも、英語を正しく書ける能力が大切だ」と強調しており、また、英語を聞く力や話す力をつけるためには、インタネットの英語ニュースや英語会話のCDを活用すれば十分であり、英会話学校へ通う必要は全くない、と断言している。
今日では,AIによる自動翻訳機能や,ワードプロセッサの中での英文の校正機能が以前に比べて著しく進歩しており,仕事で英語を使う人にとっては、それらは大変に便利であり助かっている。一方、AIによる翻訳文やワードプロセッサのソフトが例示する英文を点検し校正することは,常に人間の役割であり,それは,いかにAIやソフトが進歩しても,今後も続く人間の作業であろう。即ち,仕事で英語を使う中で,人間によるその役割を果たすためには,いつの時代でも、高校の英語授業における「読解,文法,作文」の特訓が大切なのである。
成果主義と研究力
March 23, 2022
「研究者が研究に没頭するのは、真理を探求したいためであり、”指標を達成” するためではない。しかも、研究の新規性や独創性を正しく評価できる指標は、今のところ存在しない」、「成果主義の最大の弊害は、研究者のやる気を失わせることだ」(2022年3月23日朝日)
大学院時代を含めて約50年を研究者の端くれとして生きてきた私は、こうした意見に大筋で賛同できる。一方、成果主義を以て大学の研究者を鼓舞する風潮と気運が日本に生まれてきた背景とその歴史を考えてみると、文科行政における ”国立大学の護送船団方式” の弊害や、筒井康隆の名著「文学部唯野教授」で揶揄されている ”愚者の楽園” への反省があるためであろう。
新しい教員研修のあり方
March 1, 2022
教員免許の更新制度が今年の7月1日付で廃止される。更新のための講習の内容や、自分の休みを潰してまで講習に参加しなければならないことへの現場教員の疑問が大きかったので、”教員の働き方を改革するため”とされる。
何人もの個性豊かで優れた教師に出会ってきた自分の記憶から、近年、教職の志願者が減少していることを、私はとても残念に思う。
代わって導入される「新たな教員研修の制度」では、「新しい制度が今までの更新制以上の重荷になることは避けなければならない」、「教員の労働環境の改善という本来の目標を忘れてはなるまい」、「真に教員や子供の役に立つ研修でなければ実施の価値がない」、「教職を目指す者を増やすためにも、頓挫した免許更新制の教訓を生かさなければならない」とする意見(2022年3月1日朝日社説)に、私も同感である。
今後の機械翻訳の改善点
February 19, 2022
機械翻訳において、一つの単語が異なる意味を持つ場合の文中での正確な意味の判別、動詞の自動詞と他動詞の判別、過去形と過去分詞の判別、分詞構文の意味の判別、などに失敗した場合には、人間による訳では決して発生しない ”迷訳” が出来上がる。これが今日の機械翻訳ソフトの現状であり、今後への大きな改善点といえよう。
以下は、mine の意味や、rippingによる分詞構文の意味を正確に把握しなかったために出来たFacebookやGoogleによる機械翻訳と、かなり正確な判別と把握ができたDeepL訳との比較である。
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In 1991, USS Tripoli struck an Iraqi mine in the Persian Gulf, ripping a 20-by-30-foot hole in the starboard side. Damage control quickly stabilized the ship. After 30 days of repairs, the CO removed a symbolic band-aid from the hull and the Tripoli returned to the Gulf. (U.S. Naval Institute, Feb.18, 2022)
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Facebook訳:
1991年、USSトリポリはペルシャ湾でイラク鉱山を襲い、右 bo側に20フィートの穴を引き裂いた。 ダメージコントロールがすぐに船を安定させた。 30日間の修理の後、COは船体からシンボリックバンドエイドを取り除き、トリポリは湾岸に戻った。
Google訳:
1991年、USSトリポリはペルシャ湾のイラク鉱山を攻撃し、右舷側に20 x30フィートの穴を開けました。 ダメージコントロールは船を素早く安定させました。 30日間の修理の後、COは船体から象徴的な絆創膏を取り除き、トリポリは湾岸に戻りました。
DeepL訳:
1991年、USSトリポリはペルシャ湾でイラクの機雷に衝突し、右舷に20×30フィートの穴が開いた。ダメージコントロールはすぐに船を安定させた。30日間の修理の後、COは船体から象徴的なバンドエイドを取り除き、Tripoliは湾岸に戻りました。
菓子製造工場での火災
February 16, 2022
新潟県村上市の三幸製菓の工場で、2月11日深夜に発生した火災の報道を見て、私には「ああ、また起きたか」と思えた。
20年以上前のこと、大手の製菓会社の工場長が私に相談に来た。「せんべいの製造工程での火災事故を防止したい」という内容であった。その製造工程の様子を色々と聞いたが、最後の仕上がりの段階に短時間だが強加熱することにより食感がよくなり、品質が向上するとのこと。
今回の火災の出火原因はまだ不明であるが、油で揚げた後のせんべいの粉や天ぷらのコロモが屑入れの中に大量に蓄積され放置されると、空気中の酸素により ”自然な酸化反応” が長期間続き、それによる蓄熱が大きくなり、ついには発火(火災)に至るという事例は、昔からよく知られている。
会社の防火対策の不備に加えて、夜中や停電時でも、事故のときに従業員が素早く退避できる訓練が、工場内で出来ていなかったようだ。「アルバイト従業員を含めた避難訓練を定常的には行なっていなかった」ことで、会社の経営者は業務上過失致死の疑いで送検されるであろう。
この事故を教訓として、今は、どの製菓会社でも、「うちの工場の防火対策と避難訓練は大丈夫か」と、急遽、点検していることであろう。
「横並び思考」をなくすには
February 12, 2022
就職、採用、働き方において、「もはや、日本的な横並び思考をやめよう」とするこの意見(2022年2月11日朝日)は、私の記憶では、20年以上も前から識者により指摘されていることである。
「制度や仕組みをゼロから見直すことが必要」との意見には賛成であるが、それが実施できるための最大の要点は、「人間は一人ひとりが違う」ことの教育と、その認識の国民的な浸透であろう。その浸透が進めば、そもそも学校や就職における ”同期” という概念が消滅する。
それにより、小中学校で ”年齢のみで生徒の学年を決める” 現制度の廃止が可能になり(日本語が不自由な外国籍の子供や長い外国生活の帰国子女の登校拒否がなくなる)、大学生の入学、卒業、就職の時期の自由化が可能となる。こうした点については、アメリカの教育と就職のシステムを日本は見習うべきであろう。
石原慎太郎の評価
February 8, 2022
「公人として残した事実を指摘すること」と「死者にムチ打つことはしない」には何も矛盾はない。沖縄タイムスの記事「大弦小弦」(2022年2月7日)は、冷静な筆致ながら石原慎太郎の姿勢と言動を厳しく批判している。
本多勝一氏(もと朝日新聞記者)は著書で、石原慎太郎を「ウソつきで卑怯な小心者」と評している。「石原慎太郎の人生(貧困なる精神N)」P.86(2000年朝日新聞社刊) 、「石原慎太郎の”狂った果実”(貧困なる精神25)」P.50(2013年金曜社刊) 。
私は、沖縄タイムスの記事や本多勝一氏の意見に全く同感だ。石原のような人物を都知事に選んだ都民にも反省の要があろう。
高専からの東大編入者が普通高校を勧める理由
February 2, 2022
"Quora"というWebsiteがある。その中に主に高校生や大学生が将来の進路や勉強について”質問”する部門があり、それに対して、大学を卒業した社会人や、現職または退職した大学教員が自分の体験に基づいて、質問者に親切に回答や助言をしている。
私の印象では、その”質問”の半数くらいは、まともに回答する気にもなれない、単純、的外れ、勝手な偏見などが多いが、しかし、半数くらいは、まともで真摯な、青年らしい本格的な質問であり、私が傍にいれば、直接話し合いたいと思えるような内容である。先日は、以下の質問が出ており、それに対して、体験者からとても説得力ある回答が寄せられていた。
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高専から東大最年少の准教授となった大澤昇平氏は「東大で進学校から来た学生は自分より優秀な高専出身者に対して、「ずるい」という言葉を使うという。」と紹介し「高専進学」を薦めていますがどう思いますか?
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私は高専を出て、東京大学に編入学した経歴の持ち主です。
その上で回答しますが、基本的に私は積極的に高専に進学することはおすすめしません。
結果的には私は高専に進学したあと、良い方向にキャリアを歩むことができましたが、これは運が良かっただけです。もし今、自分が中学校3年生時点に戻ることができたとしたら、普通高校に進学してそちらから東大を目指すことになると思います。
高専を勧めない理由はいくつかあります。
1. 早期に進路を理系に決めてしまうのはリスクが大きい。
いくら中学校で理数系科目が得意だからといって、そのまま将来も理系に進むと決めてしまうのは早計です。実際、高専入学後に理系の授業についていけなくて脱落する人は少なくありませんし、3年終了の段階で高専を去る人もたくさんいました。高専進学後に文転することは不可能ではないですが、多大な労力を要します。 自分は理系に進むのだと決めるのは、別に普通高校を卒業してからでもまったく遅くありません。
2.「高専卒は優秀」と言われる際の高専卒の学生は、実際には高専の上位層である。
私自身、「高専卒は優秀」だという言説を大学在学中に何度か耳にしたことがありますが、あれは基本的に高専から大学に編入した「上澄み」の人たちだけを見てそう言っているのであって、高専生一般について優秀だと言っているわけではありません。ここを勘違いして、普通高校ではなく高専を目指そうなどと考えてしまうと痛い目にあいます。
標準的な高専生の学力は、残念ながら決して高いとは言えません。高専生は高校生と違って受験勉強をする必要がないので、勉強についてはどうしても詰めが甘くなってしまいます。
定期テスト前以外はまったく勉強しないという高専生は大勢いますし、売りであるはずの理数科目も進学校の学生よりできない学生はたくさんいます。今でも覚えていますが、5年生の時にクラスメイトが演習で sin(a+b) = sin a + sin b と黒板に書きだしたときには、先生が頭を抱えていました。
高専生は、英語も苦手な人が多いです。私の卒業した高専は卒業要件にTOEIC400点というもはやハードルでもなんでもない要件を課していましたが、多くの学生がこの点数すら取ることができずに苦労していました。これもやはり、一番の原因は受験勉強がないことでしょう。
もちろん、優秀な人も一部にはいますが、高専に入れば誰でも優秀になれるわけではありません。基本的に、高専卒で優秀だと言われる人は、セルフマネジメントに長けた人です。そして、そういう人が優秀なのは高専に入ったからではなく、もともとそういう性格で根が優秀だっただけなのです。
3. 専門科目を若いうちから学ぶ優位性はほとんどない。
大澤氏の本には「進学校の生徒が受験勉強をしている時に、高専生はプログラミングの勉強をしている」ことがまるで素晴らしいことのように書かれているそうですが、これには言うほど優位性はありません。
まず第一に、受験勉強で学ぶ基礎的な知識に比べて、プログラミングなどの知識はすぐに陳腐化します。そういう観点から見ると、早いうちから学ぶのは逆に損だと言えます。また、これらの専門科目は結局のところ基礎的な数学や物理の知識が土台となっているので、受験勉強などでしっかりと理数系の基礎をつけておけば、大学に入った後でも学ぶのは難しくありません。実際、ほとんどの人はそれでみんな立派なエンジニアになっているはずです。音楽などと違って、若いうちからやっていなければどうにもならないという類のものではないのです。
私自身は東大に編入した後に、進学校出身の学生から「ずるい」と言われたことは一度もありません。仮にあったとしてもそれは実際にはお世辞でしょう。彼らは別に「ずるい」と思うほど高専卒の学生を羨ましくは思っていないはずです。また、そもそも、若いうちから専門科目を学ぶというのは構造上の無理があります。高専の教科書を見ると、高度な内容は証明や論証などをすっ飛ばし結果だけが記されていることもよくあります。これは結局、土台の知識なしで応用知識を正確に学ぶのは不可能だということを示しています。
高専の教育は良くも悪くも、促成栽培です。本当に理数系が好きなのであれば、逆に高専進学することでフラストレーションがたまることだって考えられます(私自身もそうでした。本当に専門科目が理解できたと思ったのは、結局は大学で講義を受けたあとでした)。
ちなみに、東大は二年次編入なので教養学部に一年通うことができたのですが、私にはこれがとても楽しかったです。そこで教養教育の重要性を痛感しました。一年しか通うことができないことをもどかしく思ったほどです。
高専に進学してしまうと、日本史も世界史も中学校レベルで止まります。古文も漢文も学べません。私はそれが嫌で卒業後に受験参考書などでこれらの科目を勉強しなおしましたが、これはとても大変でした。これらの知識を若い段階でインストールできるという点で、受験勉強はとてもいいものだなと思います。専門知識なんて大学に入ってからいくらでも学べます。焦る必要はありません。
以上の理由から、私は少しでも迷いがあるなら、高専ではなく普通高校に進学することをおすすめします。
海軍魂だの帝国軍人だの.....お粗末さとバカらしさ
January 29, 2022
FBに出ていた以下の一件は何回読んでも痛快であり、改めて美輪明宏氏を見直す。
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佐高信さん
「二度インタビューしたが、美輪明宏の肝っ玉のすわり方がハンパでない。中曽根康弘への名指し批判も凄かった。
中曽根に会って、いきなり『キミらみたいなのは海軍魂を知らんだろうな』と言われた美輪は、『年齢が年齢ですから、海軍魂は知りませんけど、原爆にやられました。竹槍の練習もさせられたし、銃後の守りでいろいろやらされました』と返し、さらに『でも、おかしいですね。そんなに海軍魂とやらが大層なものだったら、何で負けたんですか。向こうが原爆作ってる時に何で私たちは竹槍を作らされてたんですか』
中曽根の無礼に対する美輪の怒りは、これでとどまらない。『自分の同僚を見殺しにして、おめおめと帰って来て、腹も切らないでのうのうとしている。そういう面汚しの厚かましいのが海軍魂なら、私は知らなくて結構です』
トドメを刺されて中曽根は撫然として席を立って行ったという。その後、新幹線に乗ったら、中曽根が先に座っていた。美輪の席はその真後ろである。それでも仕方がないから知らん顔をして座っていると、秘書が次の車輌に行き、老夫婦を連れて来て交替した。逃げたわけである。
この逸話を紹介した後の美輪のタンカがまた気持ちがいい。『男の風上にも置けない。てめぇ、キンタマついてんのかですよ。たかが芸能人風情に対してね』」(佐高信の政経外科から)
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この投稿については以下のコメントが出ている。昔の日本では、軍人がいかに理不尽に威張っていたか。事実とはいえ、情けなくなりバカバカしくもなる。
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終戦直後の電車内に、軍服姿の若い男が、奥さんを連れて乗り込んできて、乗客に「席を譲れ」と言ったそうです。後から来て、威張った態度でいるのに腹が立ったその乗客が「疲れているから嫌だ」と断ると、「帝国軍人に対して、なんだ貴様!」と、その軍人さん(もと軍人)は怒鳴ったそうです。
すると、はす向かいに座っていたおばあさんが、「その帝国軍人が、何をしでかしてくれた!」と、怒鳴り返したといいます。他の乗客も「そうだ、そうだ」と同調して、列車内は騒然としました。結局軍人さんは、奥さんを連れて次の駅で降りたとの事。軍人さんが立派ならば、ああいうみっともない戦にはならなかったはずです。
水素を積んだ燃料電池自動車は不可だ
January 29, 2022
以下は、新潟日報(電子版)の記事(2022年1月24日)である。
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CO2、騒音減、水素活用PRへ 新潟県開発の燃料電池バスお披露目
新潟県が開発を進めてきた、水素で発電してモーターで走る小型燃料電池(FC)バス1台が完成し、24日に県庁前で公開された。
走行時に二酸化炭素(CO2)を出さず、騒音も小さいため住宅街などさまざまな場所を走れ、脱炭素をPRできる。春には新潟交通(新潟市)の路線で営業運行を始める。
県や事業委託先の東京R&D(東京)によると、東京などで中型のFCバスの導入例はあるが、小型は全国初となる。新潟交通が提供した既存車両を使い、複数の県内事業者がエンジン部分の改造や一部部品の製造に関わった。
バスは全長約7メートル、幅約2・1メートル。定員は運転手を含め26人。約5分間の水素充填(じゅうてん)で約110キロメートル走行できる。車内には発電や供給の状況などを確認できる乗客向けのモニターが設けられた。
25日から新潟市内を試験走行し、営業運転中も燃費や耐久性などの検証を続ける。県はイベントなどでもPRし、民間のFC車導入を促したい考えだ。
現在、FC車に水素を供給する水素ステーションは県内に1カ所だけだが、県は今回、新潟交通の営業所内に太陽光発電を使って水素を製造する専用供給施設も整備する。県は2019年に小型FCバスの「導入検討会議」を設置。県内企業も関わり20年から事業費約3億3千万円をかけ開発してきた。
この日行われた式典で県の佐野哲郎産業労働部長は「本県が(水素の)エネルギー拠点として、関連産業が発展するよう取り組んでいきたい」とあいさつ。新潟交通の斎藤敏之常務取締役は「ぜひ乗ってもらい、環境問題の意識を高めていただきたい」と期待した。
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この記事について、私は以下の意見を新潟日報に伝えた。
「水素を積んで走る燃料電池バス1台が完成し、県庁前で公開された」との記事に、燃焼現象を学んできた私は大きな危険を危惧する。
水素はガソリンに比べて爆発の危険性が格段に上である。ガソリンスタンドと同じように,街中のあちこちに水素スタンドが建設されたらどうなるか。市民生活の安全性確保が極めて危うくなる。また,交通事故での車の破損による水素爆発の危険防止対策も現在は全くの未熟である。
水素はガソリンとは違って地中から採れる化石燃料ではなく,人工的にかなりの費用をかけて製造され、その際には大量のCO2が排出される。水素を積んだ燃料電池自動車は,CO2の削減対策にも逆行し、環境浄化対策や省エネルギ対策にはならない。燃料電池自動車が開発以来10年以上過ぎた今も普及しないのはそのためであろう。
水素を積んだ燃料電池自動車の普及は,水素の爆発事故に対する安全対策技術が現在よりも格段に進歩しない限り,国や自治体は決して推奨するべきではない。水素で車が動くことと、その車を社会に普及させることは,全く別の話である。
北朝鮮のミサイル発射と日本
January 14, 2022
北朝鮮が超音速のミサイルを開発するだけなら、強力なエンジンを搭載すれば良い(その強力な大型エンジンは北朝鮮の自力開発ではなく,実はウクライナを経由したロシア製品の移入に過ぎないとする報道がある)。
しかし,軍事的に有効にするための,それ以上に技術的に困難な大きな壁は、大気圏再突入時のミサイルの安定化技術と,目標への命中精度である。
ミサイルの大気圏への再突入技術が北朝鮮では未熟であること(空力加熱によりミサイル本体が分解する)は既に多くの報道のとおりだが,その上、遠距離にある目標への正確な命中のためには,他国が打ち上げてくれた衛星によるGPSに頼らざるを得ないのが現状であろう。
そのため,北朝鮮としてはまずは自力でGPS衛星を打ち上げる能力が必須だが、それに成功したという報道がない。GPS衛星の打ち上げ技術が北朝鮮に確立されるためには、まだ相当な年数が必要ではないだろうか。
なお、そもそも,日本やアメリカが打ち上げている監視偵察衛星は,危険なイスラム国,中国,ロシア,北朝鮮などを上空から常時監視するのが目的であり,現在では,画像解析技術の急速な進歩により,その取得画像の解像度(分解能)が飛躍的に向上しているようだ。そのため、北朝鮮における核実験準備,ミサイルの移動,発射準備,発射方向などは、アメリカ政府も日本政府も,とうに常に正確に把握しているはずである。
しかし,情報戦というものは「相手の情報は全部つかみ,かつ,自陣の情報は完全に秘匿する」のが鉄則であるから,相手の動きを事前に察知していても,それを公開しない(知らないことにする)のが当然である。
日本やアメリカの監視偵察能力のレベルを北朝鮮に知らせないために、日本政府が北朝鮮のミサイル発射を探知や予知をしても、明らかな差し迫った危険(日本への明らかな着弾の可能性)が確認できるのでなければ、わずかに時間が過ぎてから国内に公表するのが当然(情報戦の常識)であろう。日本政府が急な動きをするほど,日本の情報収集能力を北朝鮮に明かすことになる。
日本が取るべき手段としては,北朝鮮に日本へのミサイル発射を思いとどまらせるための,国際協力による外交努力しかない。それは日本政府の外交行政手腕を世界に示す試金石であろう。
”冬の新潟” の天気予報
January 7, 2022
冬になると毎年思うが、テレビやラジオの天気予報による「新潟の天気」は大雑把すぎる。新潟県の地形は南北に長く、また海岸線と山脈が並行しているために、冬の天候、特に積雪量は、海岸部と山間部では全く違う。
「天気予報による新潟の天気」とは、もちろん、新潟気象台での観測をもとにしていると思われるが、例えば、海に近い新潟市と山間部の魚沼地方とでは冬の天候が大きく違う。
新潟市では魚沼地方に比べて積雪量が格段に少なく、一方、日本海からの風が強い。「新潟は大雪」という天気予報の日でも、新潟市は晴天ということが珍しくない。この実情が新潟県外に住む人には知られていない。気象の観測と予報は、「観測地点と予報の都市を明示」しなければ精確な情報にはならないといえる。
ミサイル攻撃から国を守るには
January 5, 2022
「北朝鮮が日本に向けて弾道ミサイルを発射した」という臨時ニュースが今日も含めて時々出る。それによる日本の被害を阻止するべく、”敵基地攻撃能力”を日本の防衛戦略に入れたい、とする政府の意見も出ている。
北朝鮮から約1000km離れている日本海側の都市の新潟市を考えてみよう。発射されたミサイルの速度を約500m/sec(音速の約1.47倍)とすると、発射されてから約30分程度( 速度が音速の2,3倍ならば20分以下)で新潟市に着弾する。
相手国をミサイルや空爆で攻撃する場合の目標は、通常は、軍事基地、発電所、石油基地、放送局などと考えられるが、命中の精度や着弾位置の不安定性を考慮すると、街中、住宅地、学校、病院も決して安全ではない。
そのミサイル発射を日本の防衛システムが確認するまでには若干の時間遅れもあるから、発射を確認し、着弾の位置を予想し、ラジオやテレビで住民に緊急避難を呼びかけ、それに従って住民が急に避難を始めたとしても、市町村のいたるところに頑丈な防空壕があるのでなければ、30分程度では、着弾による被害から住民が逃れることは絶対に不可能である。
つまり、北朝鮮から発射されたミサイルが日本の本土に着弾することが実際にあれば、もはや、着弾地域の住民には逃げる時間的余裕も近所に防空壕もなく、甚大な被害を被ることは避けられない。
そのため、日本海側(秋田県や島根県)に防空基地を建設する計画や ”敵基地攻撃能力” の検討などは、そもそも、全くの無効であり無駄である。日本政府に求められるのは、”ミサイル発射をさせない外交努力” であろう。一国がその友好国をミサイル攻撃したという事例は世界史にはない。
断捨離から宝
December 31, 2021
断捨離(と終活)のつもりで、年末にあれこれの書籍を整理していると、小学校、中学校、高校の文集が出てきた。しかし、ふと、これらを読み始めると、あまりにも懐かしくなり、時間を忘れて止まらなくなった。
約60年も前の小中学校の文集には、同期生の一人ひとりが、将来の希望や、在学中の思い出などを書き綴っている。父が亡くなった、母が亡くなった、などの話には「おや、あの人はそうだったのか」と、初めて知った。
それらを読みながら、一人ひとりの名前を卒業アルバムの中にある当時の顔写真と照合していると、何人もの同期生の懐かしい思い出が次々と湧いてきた。
「今は、みなどんな高齢者になっているのかな」などと思いながら、結局、断捨離どころか、これらは貴重な宝物として手放す気がなくなった。
この話を伝えたある人からの一句: 断捨離を する度増える 宝かな
恵庭OL殺害事件の冤罪を解明しよう
December 23, 2021
2000年3月17日の早朝,北海道恵庭市北島の雪に覆われた砂地の農道で,若い女性の黒焦げの焼死体が発見された。これが、恵庭OL殺害事件である。
事件性があることは明らかであったが,事件直後から被害者の女性と会社の同僚である一人の若い女性が警察にマークされ,後日,殺人と死体損壊の疑いで逮捕された。
しかし,直接の証拠が全くなく,被疑者の女性には殺害の動機もなく,もちろん,彼女も一貫して犯行を否定し(警察での強引な取り調べにより心身不調となり,一時的に精神科に入院した),さらに,被疑者の女性がガソリンスタンドで給油している姿のビデオ画像と,その時刻により,彼女にはアリバイ(現場不在証明)があった。
ところが,裁判における起訴状の内容は,大柄な体格の被害者に比べて身長が15cmも低いかなり小柄で体力的にも劣る被告が「三角関係のもつれにより,被害者を車の中で絞殺し,車から農道に引きずり下ろし,灯油10リットルをかけて火を付け,焼損させた」とするものである。
被告の若い女性には最高裁で懲役16年が確定した。弁護団により再審請求がなされが,2014年4月21日に札幌地裁はそれを棄却した。直ちに弁護団が抗告したが,2015年7月17日,札幌高裁はその抗告を棄却した。そのため、弁護団は最高裁へ特別抗告したが棄却された。しかし、弁護団は、まだまだ決して諦めてはいない。
この事件記録と裁判記録を見ると,直接の証拠がないことも無視し,殺害の動機がないことも無視し,アリバイの存在も否定し,雪に覆われた砂地の農道で灯油10リットルをかけて焼かれたとする遺体が,本当に内部にもわたって黒焦げに焼損するのか否かの詳細な検討もなく,初めから起訴状に沿って作文した,あ然とするばかりの無責任な判決であり,明らかに冤罪であることが普通の人には直感できる,と私には思われる。
再審請求を棄却した判決にてその根拠とされた一つに,検察側が提出した、当時のある大学教授Aの意見書がある。 その意見書なるものは,A自身が全く実験をやっておらず,空疎な推論を構築しただけものであり,そのため,内容には初歩的な間違いがある。こんな意見書を証拠採用して,裁判官はよくぞ判決文を書けたものだと,私は呆れると同時に,裁判官の勉強不足には腹立たしさを覚えた。
私は,弁護団に協力することにし,そのAのデタラメな意見書について仮借ない批判を展開した意見書を作成し,弁護団に提出した。研究者の一人として,私はAという人物の姿勢を許せなかった。
当時のAのHPを見ると,肩書に「警視庁顧問」とある。顧問とはいえ,こんなデタラメな推論で意見書を作成するとは,一体,このAには学問研究者としての良心のカケラもないのか,と驚いてしまう。火災,爆発関係の事件の裁判において,このAはいつも検察側の意見参考人として登場することで有名なようだ。
弁護士の今村核氏は,その著書「冤罪弁護士」(旬報社)の第5章のP.122 で,また,「冤罪と裁判」(講談社現代新書)のP.173で,冷静な筆致ながら、Aの姿勢を厳しく批判している。
この「恵庭OL殺害事件」は冤罪の疑いが極めて濃厚な有名な事件であり,今日では,インタネットにて広く公開されている。もと裁判官であった方々や監察医などからも,多くの疑問が出されている。本件の主任弁護士の伊東秀子氏による下記の書は,この事件を克明に記述しており,強い説得力を持つ。「恵庭OL殺害事件-こうして「犯人」は作られた」(2012年 日本評論社刊)
”お抱え学者”の責任追及が必要だ
December 23, 2021
狭い空間(車庫、診察室、ビルの一室など)で、ガソリンを撒いて火をつけると、それを実行した当人も有毒ガス中毒や大火傷に見舞われるのが当然であろう(京都のアニメスタジオ放火事件や、大阪の心療内科放火事件)。
再審で無罪が確定した「大阪の東住吉事件」では、しかし、真夏に、”シャッターで閉じられた車庫の中でガソリンをまいて火をつけた” とされる男性には何の負傷もなかった。
ところが、検察側の意向を補強するべく「車庫の中でガソリンがまかれ、それに放火された可能性が高い」とする、デタラメな意見書を提出したのが、火災に関する刑事事件でいつも検察側の応援者として登場することで知られる、元大学教授のAである。
本件の弁護団に協力していた私は、Aの意見書の ”デタラメぶり” を弁護士に伝えた。
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2016年5月2日,大阪地裁における大阪東住吉事件の再審公判にて検察側が「有罪の主張、立証はしない。裁判所にしかるべき判断を求める」と述べたために,無期懲役として20年も服役させられていた2名には今年の8月10日に無罪判決が出ることが確定的となった。
その大阪東住吉事件の裁判においても,検察側の意見参考人となり,後に,弁護側と検察側の双方の鑑定実験でも、その内容が否定された ”鑑定書” を作成した人物が,そのAである。
2016年8月10日、大阪地裁における大阪東住吉事件の再審で予想通りに無罪判決が出た。検察は上訴しないことを表明しているので,二人の被告の無罪が確定した。
この件は,公開記事の中でも報告されているが,被告にされた青木恵子さんは,上申書の中で,Aのデタラメな意見書について,怒りを込めてこう述べている。
「Aの証人尋問について」
2014年4月15日に、Aの証人尋問が行われた結果について、弁護士さんから、報告を受けました。Aが作成された「意見書」の中で、重要な部分であるにも拘わらず、重大な計算ミスを犯していたこと。単純な計算ミスは、あるでしょうが、桁を3桁も間違えるでしょうか?
更に、Aは、ご自身の実験を正当化するために、結果の辻褄を合わせるために、入力する数値を都合良く変更したことは、言語道断です!! これが、科学者、専門家の行う態度、行動ですか?
弁護団の反対尋問に対しても、真摯に受け止めることなく、苦しい立場に立つと保身に走り、「筆が滑った」、「感覚です」と逃げ腰になる姿勢からは、真実のかけらも感じられません!! Aには、真実を明らかにする気などなく、検察官の望む結論、「意見書」を作成しているだけです。到底、A及び、Aが作成された「意見書」に対して、不信感しかなく、信用できるものではありません!!」
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新聞やテレビでは,違法な取り調べによる無理な自白強要や,自白偏重による過去の誤った判決が、時々報じられる。
一方、それに加えて,毎回の裁判で常に検察側につき,デタラメな意見書を提出する学問研究者としての真摯な姿勢が全く欠落した,Aのような ”お抱え学者” の責任をも追及するべきなのだ。このような デタラメな意見書も,冤罪発生の重大な要因になるためである。
弁護士の今村核氏は,その著書「冤罪弁護士」(旬報社)の第5章のP.122 で,また,「冤罪と裁判」(講談社現代新書)のP.173で,冷静な筆致ながら、Aの姿勢について怒りを込めて厳しく批判している。ジャーナリストの相澤冬樹氏は、青木さんの冤罪の苦しみを述べている。
AIによる機械翻訳の大進歩
December 13, 2021
CNN、NBC、ABC、BBC などによるニュース記事をCopy and Pasteして、Google翻訳とDeepL翻訳による日本語訳を比較してみると、DeepL翻訳が格段に優れている(正確である)ことがわかる。
両者とも”AIを使った機械翻訳”であるために、訳文の中に、時々、多少のぎこちなさが含まれるのは当然だが、DeepL翻訳では記事全体の趣旨が正確に訳出されており、私は感心してしまう。なお、英語以外の大抵の外国語の翻訳にも、もちろん、対応している。(Facebook翻訳は、相変わらず全然使い物にならず、Junkにすぎない)
DeepL翻訳は無料で公開されており、それをdownloadしてPCにinstallしておくと日常的にとても便利である。CNN、NBC、ABC、BBC などに長文の記事が出ているときは、私は通常、DeepL翻訳による日本語訳を読む。
仕事で英文の作成をしている人が、”まず日本語で原稿を作成し、それを英語訳する”という作業をしているならば、是非とも、DeepL翻訳の使用を私はお勧めしたい。それは、Google翻訳よりも、はるかに高性能で正確であるためである。(DeepL翻訳が使っているAIのアルゴリズムが優れているのであろう)
私自身は、英語の原稿を作成するときは、頭の中から日本語を追い出して、はじめから英語文を作成しているが、その英語原稿が出来上がると、DeepL翻訳によるその日本語訳が私の意の通りになっているかを確かめる。それが私の意の通りであれば、その英文原稿を良しとし、そうでなければ、その英文を見直して改訂し、再度、DeepL翻訳による日本語訳を確認する。
DeepL翻訳の評価はますます高まっているが、それは、AIを駆使する「ニューラル学習」の進歩によるらしい。普通の利用者であれば、DeepL翻訳の無料版で十分であろう。最近のAIによる機械翻訳の”性能の大進歩”を、私はつくづく思う。
政権の公約を点検しよう
December 4, 2021
時の政権による ”公約” の実施状況とその結果を、国民は点検し評価しなければならない。そのために、新聞は果敢に力を発揮しなければならない。
「自分の公約の事後点検と評価を放棄して逃げる政権はダメだ」とする意見(2021年12月4日朝日)は、当然であり重要なことだ。岸田内閣は、この指摘を重く受け止めるべきだ。
免許返納後の移動手段を保証せよ
December 3, 2021
「事故を起こす危険性が高いから」と、高齢者に車の運転免許の返納を促す。では一方、「全人口の2割が公共交通の空白域に住む」という日本で、高齢者が自家用車の代わりに手軽に利用できる交通手段をどう保証するのか。「外へ出かけたいという欲求は人間の本能だろう」。(2021年12月3日天声人語)
この意見は、私自身にとっても切実なことであり、同感である。地方に住む高齢者に、運転免許を返納して車を持たない生活を促すことは、不都合で不自由な生活になる覚悟を迫ることである。高齢による免許返納者のための軽便な移動手段の構築は、急速に進む高齢化社会の日本の喫緊の課題と言える。
「やさしい力学教室」が面白い
December 2, 2021
約40年前に買って読んだ「やさしい力学教室」(吉福康郎、Blue Backs、講談社)を、最近読み返した。内容は、スポーツの力学、映画とSFの世界、流体力学の眼、大砲とジェット機とロケット、からなる。どれも実に面白い。(今は、中古本としてアマゾンで入手できる)
一方、この本の内容は、読者に、高校物理の力学分野の完全な理解を前提としており、その前提がなければ、読者は決して内容を楽しめず、「やさしい力学」とはならないであろう。
固定資産税の評価と根拠を知りたい
November 30, 2021
固定資産税の評価はどのようにして決まるのか。一般の住民には、それは闇の中であり、全く不可解だ。その根拠を住民は見ることができるのか。私は以前からいつも疑問に思っていた。「租税には予測可能性により、恣意的な課税を禁止する”課税要件明確主義”が必要だ。固定資産税にはこの原則が欠落している」とする意見(2021年11月30日朝日)に、私は同感である。
準皆既月食の貴重な画像
November 19, 2021
今日(2021年11月19日)の夕方は満月だが、準皆既月食なので、三脚に取り付けたカメラを東の空に向けて撮影のチャンスを待った。
しかし、新潟市の空は、残念ながら雲が出ており、満月の全てを地球が隠す18:03から一時間後の19:03に、ようやく、この一枚の写真を撮れたのみ。その後は雨が降ったので、この一枚は、私にとって幸運で貴重な一枚となった。次回の皆既月食は来年の11月8日とのこと。
”水俣病” で思い出す
October 9, 2021
映画「MINAMATA」を見たある知人は、「ユージン スミスの写真を再現した場面を観るためだけでも、この作品に出会えて良かった。圧倒的な映画の力を感じた。とても勉強になる映画であった」と高く評価している。私は彼に以下の意見を送った。
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こういう映画が公開されることは、とても良いことだと思います。同時に、私は、水俣病や新潟水俣病の原因を果敢に追究していた真摯な研究者を思い出します。
1960年代の中期から重大な社会問題として浮上してきた日本の公害問題。当時、それは日本の高度経済成長に付随してきた厄介な問題として、様々な議論がなされていました。 公害の実態調査、原因究明、防止対策、被害者の救済、等が社会的な重要課題として上げられ、また、原因と責任の明確化と被害の補償を求める住民訴訟による多くの裁判が提起されました。
1960年代の後半から70年代にわたる当時の大学人はどのような視点で当時の公害問題を見ており、また関わっていたでしょうか。被害者の苦しみに心を痛め、もはやこれ以上被害者を増やしてはならないという視点から、また、「真の原因究明が真の防止対策に繋がる」として,真摯な学究としての立場から,熱心にその研究を続けている研究者が少なからず大学人の中にもおりました。
当時,学生であった私達は心強い印象を受け、そうした先生方の姿に真っ当な学問研究者としての良心を見た思いがしたものです。 真摯な学問研究者のあるべき姿として、私達は感銘を受け,大いに啓発され鼓舞されたものです。
しかし、一方、当時の日本では、評論家にも大学人にも,そうでない方々が少なからずいたことも事実でした。公害による住民訴訟を「社会のシステム全体のことを考えない住民エゴ」として見る。「公害訴訟は、多数の者が徒党を組んで騒ぎ立て、企業から補償金をムシリ取る運動」との視点に立つ。当然の結果として,公害問題に真剣に取り組んでいる人々を冷笑し続ける「評論家」や「大学教授」も少なくありませんでした。彼等の大半は当時の政府や企業の ”御用評論家” や ”御用学者” であり、真実を究明しようとする真摯な姿勢が全く見られませんでした。
1960年代から公害問題に永年取り組んでいた被害者、研究者、支援者の運動は、次第に大きな社会的気運となり、今日の環境保全の国民的合意の確立と、そのための法的整備の強固な基盤となりました。
それらは、大気汚染の防止、水質汚染の防止、廃棄物の処分方法、海洋汚染の防止、騒音の防止、等についての多くの法律として結実し,今日に至っています。
水俣病の原因は、西村肇(東大名誉教授)を代表とする真摯な学究集団による30年以上にわたる地道な研究により,遂に解明されました(西村肇、岡本達明 共著「水俣病の科学」日本評論社,2001年発行)。
約50年前、公害問題に取り組んでいた人々を声高にそして執拗に冷笑し続けていた卑劣な "評論家教授" や "非学究教授" たちは,もはや研究者の世界では跡形もなく駆逐,淘汰され,その姿を消しました。
自然環境や生活環境を重視する気運は、世界的にも加速され、環境の保護、保全、浄化の研究と教育を目的とする学科や学部が、今日の多くの大学に増えつつあるのは周知の通りです。
”事変” や ”大移動” は不正確だ
September 19, 2021
9月18日は ”満州事変” の90周年。考えてみると、”事変” とは、何かの自然現象で発生した異変のような印象を与える。この語句は不明瞭かつ不正確であり、故意に命名された事実隠蔽の表現、と私は思う。
事実は「中国侵略戦争の開始」であるから、そのように表現するべきだ。2021年9月18日を ”中国侵略90周年” と表現するべきだ。「9月18日の意味を、日本国民は忘れずに心にとどめておきたい」とする意見(2021年9月18日朝日社説)に、私は賛同する。
(世界史の教科書に出てくる ”ゲルマン民族大移動” も意味不明瞭な文言だ。”大移動” では民族が大挙してあちこちへ ”移住” したかのように響く。しかし、バルト海沿岸部にいたゲルマン民族が、4世紀の末頃から、ケルト人を含む他の民族に ”服従か死か” を迫って侵攻しつつ南下し、領土を広げていき、次第にローマ帝国を征服していった歴史を見れば、”ゲルマン民族大侵攻” との表現が正確であろう。”ヨーロッパの古代から中世に至る民族大移動” の英語表記は Great Barbarian Invasionであり、 ”侵攻” とされている)
政府は自衛隊の米軍協力を検証せよ
September 10, 2021
「イラク戦争とアフガン戦争に、アメリカの求めに応じて(従来の憲法解釈を無理に変えて)自衛隊を派遣してきた日本政府は、その参戦の経緯と結果を検証し、総括せよ」とする意見(2021年9月10日朝日社説)は当然のことだ。
私は「独立した主権国家として、日本が専守防衛のための強力な国防軍を保有することは当然」とする立場である。日本の憲法第9条は日本の自衛権を否定していない。そのため、独立した主権国家としての日本が ”自衛のための国防軍” を持つことには全く矛盾はない。(私が学生であった頃の日本には、”非武装中立” を主張していた ”革新政党” があったが、それは自国民の生活と安全を保障する ”独立した主権国家の政党” ではない、一体何をノーテンキなことをぬかすのか、と私は全く信用できなかった)
「イギリスでは、政府が設けた独立調査委員会がイラク戦争に参戦したことの間違いを厳しく指摘している」、「アメリカと中国の対立の間に位置する日本は、自らの分析と判断基準のもとで行動し、地域の安定を目指すべきだ。そのためには、今までの無原則な米軍協力の過程を検証するのが日本政府の責任だ」、「日本政府は、独立委員会や国会で、情報を開示し、イラク戦争とアフガン戦争における米軍への協力を検証しなければ、今後の日本の戦略は描けない」 これらは、独立した主権国家の日本政府がとるべき当然のことであろう。
仲間との議論が発展をもたらす
August 21, 2021
夏休みが終わりに近づいた今、算数や数学の宿題に取り組む青少年への呼びかけ「数学の難問。その先に新しい世界が」(2021年8月21日朝日社説)は、爽快な意見だ。
「新しい発見や理論で真理に迫るのが学者の本分であり喜びだ。その知識は人類共通の財産になる」、「仲間との議論が発展には必要だ。優れた学者たちが日常的に意見を交わせる環境は、一朝一夕には出来ない得難いものだ」、「皆で話し合うことが斬新な発想を生む」には、深く納得できる。
ふと私は思い出す。大学院生であったはるか昔、研究が壁にぶつかり沈んでいたある時、ある優秀な先輩の研究者との雑談の中で、「.....ならば、水平面ではなく、傾斜面を考えたらどうか」と言われた。それは私にとってまさに ”青天の霹靂” であった。その助言は、その後、私の研究のハイライトとして結実した。
宮良ルリ先生の御冥福を祈る
August 17, 2021
2021年8月12日、宮良ルリ先生が御逝去(琉球新報)。
私と学生たちは、1998年6月、研修旅行で沖縄へ行った。その時、”ひめゆり学徒隊” の生き残りである宮良ルリ先生をホテルの一室に招いて、学生たちを前に、沖縄での戦場の様子を語っていただいた。
学生たちは、始めは普通のおばさんの戦争体験談くらいの表情で聞いていたが、生々しい体験談を聞いているうちに次第に静まりかえった。旅行から帰ってきて、学生全員に感想文を書いてもらい、それを宮良先生に送り届けた。すると、宮良先生は著書の「私のひめゆり戦記」に自筆の署名を添えてお贈りくださった。 宮良ルリ先生の御冥福を祈る。
研究論文の共著者とは
August 14, 2021
論文の査読について、私にはある思い出がある。10年以上前のこと、ある国際学術誌に投稿された論文について,その学術誌の編集長から私宛に査読の依頼が来た。(その論文の導入部分と末尾の参考文献の中に,数編の私の論文が引用されていたためと思われる。)
その論文原稿を詳細に読むと,修正や改善すべき点が多数あるので,私は "掲載不可" という判定にはしなかったものの,率直に,やや厳しい意見をつけて編集長に返信した。私の意見と他の査読者からの意見(おそらく,やはり厳しい内容と思われる)が、編集長から著者に伝えられたはずである。
しばらくして、その論文の著者(外国人)から私宛にメールが来た。それによると、査読者の意見をもとに論文を大改訂したが(改訂論文を添付)、その国際学術誌への投稿を諦めて,別の国際学術誌へ投稿することにしたので、私に、その改訂論文の共著者になってもらえませんか、とのこと。
どんな学術誌でも,査読者の氏名は,論文投稿者には知らされない。しかし,所属学会の中で,それぞれの研究者の特化された分野は誰にも明らかなので,自分の投稿論文を査読した人の氏名は,大体予想できるものである。そのため,この著者は,私が論文の初稿の査読者であったことを確信したのであろう。
その改訂論文の内容自体は,可もなく不可もなく、私にはインパクトの弱い論文に思えた。私は,査読意見の中で「論文の題目が内容に合致していない。例えば,.....としたらどうか」と提案したが,その改訂論文は,私が提案した通りの題目に変わっていた。「はて,どうしたものか」と私は考えてしまった。
もし,この改訂論文が私が共著者となって当初とは別の学術誌に公刊されたら,当初に投稿された学術誌の編集長は、この論文と、共著者になっている私の名前を見つけてどう思うであろうか。
論文の内容に大きな不備がない以上は,共著者として自分の名前が出されること自体は,損ではない。自分の論文リストにそれも加わる。しかし、この著者は面識のない外国人研究者であり,また,著者の研究とその論文作成の過程で,私は著者とは何も議論をしていない。
一方、著者が論文を改訂する中で,私の査読意見がいたるところに取り入れられているために,私は「著者との議論」をしたことになるのかもしれない。それならば,私には「共著者としての資格」があるのかもしれない。
しかし、虚心坦懐に考えると、そもそも,論文の初稿を査読した氏名秘匿の査読者が,改訂されて当初とは別の学術誌に投稿された論文の共著者になるということは,研究者のモラルに反していないか。結局、私は「共著者の要請」を断り、しかし「謝辞に私の名前を出すことは了解する」と著者に伝えた。 後に、その論文は、私を共著者に入れずに別の国際学術誌に公刊されていた。
駆け抜けてきた3,40代を懐かしく思い出す
August 12, 2021
最近、必要に迫られて入手したこの参考書は、火災と燃焼の分野における大学生、大学院生、現場技術者の中で広範に使用されているInternational Textbookであり、以下の評価が出ている。
「After 25 years as a bestseller, Dougal Drysdale's classic introduction has been brought up-to-date and expanded to incorporate the latest research and experimental data.
Essential reading for all involved in the field from undergraduate and postgraduate students to practising fire safety engineers and fire prevention officers, An Introduction to Fire Dynamics is unique in that it addresses the fundamentals of fire science and fire dynamics, thus providing the scientific background necessary for the development of fire safety engineering as a professional discipline.」
中を見ると、なんと、長岡に来た直後からの約10年間に私が一生懸命にやってきた仕事が紹介されていることを発見し(P.281)、嬉しくなった。
オーストラリアの若手研究者から、以下のメッセージが来た。
I have the "an introduction to fire dynamics" book 3rd edition.
Wow it is so nice to see that your valuable effort and research outcomes have become part of a well known reference book in the field of Fire Safety.
Well done Professor.
I think two of your references cited in this book, years 1986 and 1992. I have cited these publications in my thesis and in some of my publications too.
大学院を出て以来、いろいろな事情で研究者の道から離れていた私は、1985年の春に36歳で長岡高専に来た。今までの遅れを取り戻すこと、さらに、高専という環境に埋没して研究者の世界から淘汰される事態を厳しく避ける決意を、私は固めた。「研究者の最盛期は、若い時期の15年くらいだ」、「論文は常に英語で作成して世界に出せ」、「研究は、それを論文にして一件落着」という、先輩や恩師の言葉を私はいつも肝に銘じていた。
自分の研究室を持ち、毎年、優秀な学生達の協力が得られることを幸運な条件として、3,40代を必死に仕事をして駆け抜けたことを、この本を見て懐かしく思い出した。(自分の約50編の論文のリストを見ると、よくやってきたな、と思う)
現象をよく観察することの重要さ
August 9, 2021
やや専門的な内容になるが,以下をふと思い出す。30年以上前のこと,アメリカで開催された国際学会にて,私は,液体の混合燃料の引火温度について,着火熱源による可燃性混合気への擾乱をできる限り抑制した研究結果を報告した。
ところが,発表後の質疑応答の中で,燃焼工学の有名な権威であり、私も学生時代から尊敬している日本人のA先生(故人)が猛然と私に噛みついてきた。彼の主張の要点は「その研究結果は,濃度勾配がある混合気中での火炎伝播であり,引火温度(外部の熱源により着火する最低の液体温度)と違うのは当然だ」ということであった。
その時,私が受けた印象は、「自分で実際に測定をやったことがないために,彼はその現象の詳細を知らないのではないか」という,大きな不信感であった。(引火温度は固有の物性値ではなく,測定方法により値が異なる)
燃焼現象を学んだ者にとって,可燃性混合気の燃焼下限界の濃度が火炎の上方伝播(下方ではなく)の限界濃度として定義される(浮力の影響があるために)ことは常識である。
液体の引火温度の測定においては,液面上の近傍空間(密閉式の測定では液面上の直径5,6センチ,高さ1.5-2センチ程度の天井の低い狭い空間)の中の混合気濃度を極力均一にするべく,ASTM(アメリカ機械学会の公認試験方法)やJIS(日本工業規格)では,容器内の液体燃料の温度上昇を極めてゆっくり行ない,さらに,容器内の液体をゆっくり撹拌する測定方式もある。
その後に,着火源(直径2-3ミリの小さな球状の火炎)を液面に接近させ,火炎が明らかに液面を覆うことが確認出来た時の最低の液体温度を引火温度としている。引火の瞬間は,着火源による小さな火炎が,液面上の可燃性混合気内に引き込まれ、青白い火炎が(魚をとる投網のように)液面に広がるように見える。(私の研究では、可燃性混合気の擾乱を抑制するべく、液面に接近させた小さな電極による放電火花を着火源とした)
液体の引火温度は「液体の平衡蒸気圧の上昇により,液面近傍の空気と液体蒸気が混合して燃焼下限界濃度の可燃混合気を生成する液体温度」として説明や定義をしている参考書や論文もあり,実測値は、ほとんどそれと一致する。
そのため、引火温度についてのその説明や定義は、間違いとまではいえない。液面近傍の空間で広がる火炎が上方伝播とは現象が異なることを強調して、従来の引火温度の説明を否定することは本質的な異論とはいえない(その説明を不可とするのであれば,着火方法の違いによる引火温度の違いをどう解釈するべきか,の議論が新たに必要となる)。
しかし、燃焼工学に関するA先生の有名な著書(今日でも,多くの研究者に参照されている)の中で,「液面を伝播する火炎は上方伝播とは現象が異なるから,燃焼下限界濃度の可燃混合気を生成する液体温度を引火温度とするのは間違いであり,実測値と異なるのは当然だ」と断言している (P.124)。
また,同じページに,燃焼点(液体燃料が引火した後に,火炎がそのまま自立できる最低の液体温度)の説明があり,「通常の液体燃料では,燃焼点は引火点よりも数十℃ 高い」と明記されている。しかし、測定してみると,燃焼点と引火点との差は10℃前後かそれ以下であり,多くの文献にもそのように記されている。著書の中にあるこれらの記述は,燃焼工学の有名な権威とはいえ,彼が自分で直接その現象を見ていないことに起因するのではないかと私には思える。
独創は、精緻な観察と模倣から始まる
August 6, 2021
「観察、模倣が、”個”を高める」とする意見(2021年8月5日朝日)に、私はよく納得できる。「独創は、精緻な観察と模倣から始まる」ことは、多くの偉大な科学者、研究者も述べていることである。先達による偉大な研究成果とはいえ、人間が一人で行なった仕事には、必ず、未開拓、未解明の部分が残っているであろう。
「先達の足跡をたどり、その功績を学び、その上で、まずは模倣して手を付けてみる」ことは、例えば、若い研究者(大学院生)であれば、誰もが体験し、思い出に残っているはずだ(私自身の体験から、それがいえる)。職人の世界も同じであろう。
新しい課題の研究を始めたときには,特に駆け出しの若い研究者であれば,誰もが痛感するのは,先達が残した多くの優れた研究成果の中から,「未解決の課題を見つけ出す難しさ」であろう。それは,先達による研究成果をまずは理解する努力(勉強)に加えて,「理解できる能力」が求められること,さらに,その中に「未解決の課題を見つける」ための自分の才覚と努力が必要とされるためである。以前に下記の言葉を聞いたことがある。
Many great scientists owe their greatness not to their skill in solving problems but to their wisdom in choosing them (E.W. Wilson, Jr. ).
日本の学校に滞在するALT
July 22, 2021
「日本の小学校の先生は、授業以外のあれこれの仕事で忙しすぎる」、「この職場環境のままで、先生方に英語の授業まで担当させるのは不適当だ」、「小学校の英語授業のために、英語の専任教師を採用するべきだ」という、もとALTのアメリカ人女性の意見(2021年7月22日朝日)に、私も同感である。
ALTは,同年代の日本人教師に比べて遥かに高給の待遇で2,3年間を過ごす。しかし,その中で「日本の生活や文化を知り、日本人の友人が出来る」とは,必ずしもいえないようだ。
全てのALTに、来日の前に、ある程度の日本語会話の講習を義務づけ,また、日本の学校現場の教員たちが気軽にALTに声をかけてあげれば(ごく簡単な英語会話で十分)、ALTは、日本滞在中に、十分に日本の生活を楽しみ,日本人との交流も出来るのではないだろうか。
以前に,私がある中学校を訪問した時,教職員室の片隅の机で,女性のALTが一人でポツンと暇そうにしていた。周りの教職員の誰もが彼女に話しかける様子もないので,私が英語で少し話しかけると,愛想良く応じて、あれこれと話し始めた。
別のある中学校の運動会を見ていた時、本部テントの中で、若い女性のALTが一人でポツンとしており,他の教職員の誰とも話をしていない様子なので、英語で少し話かけてみると,カナダから来たという気さくな人だった。
ある年の夏,市の教育委員会に行くと,一人の外国人青年がポツンと机に座り,暇そうにしていた。周囲の職員の誰もが彼に話しかける様子もないので,少し英語で話しかけてみると,彼は中学校と高校のALTであり,現在は夏休み中で生徒がいないので教育委員会の指示でここにいるとのこと。彼はアメリカ東部のある大学の卒業者であり,その大学を私も知っているので,あれこれと話が弾んだ。
なお、地方の市町村では、外国人が少ないせいか、中学や高校に来ているALTの日常の様子を興味深く観察する人がいるが、同時に、ALTも、日常生活の中で、日本と日本人の様子をよく観察していることに注意しよう。
30年近く前、私がいたアメリカの地方都市の地元の新聞に,地元の若い女性による興味深い ”日本体験記” が出ていた。(彼女は日米の教師交換プログラムにより、鹿児島県阿久根市の中学校に、英語教師として一年間滞在していた。ニューヨーク州のロチェスター市出身の彼女は、現在は、その地方都市(祖父母や親戚がいる)の法律事務所で働いている)
「人口28000人の漁業の町の阿久根では、どこでも、欧米ほどではないが、夕方7時までには仕事が終わり、それ以後に働いている人は、仕事仲間とビールを飲んでいる」
「学校内では,教師はほとんど私に話しかけてこなかった。英語教師も英語の会話には自信が無さそうだった」、「英語は重要な授業科目とされているが、憶えることだけが重視されており、生徒には英語の本来の面白さや楽しさが伝えられていない。九州にいる他のNative English Speakerも、同じことを言っていた」
「その小さな町では私が唯一の西洋人だったので,私は多くの人々に知られ,どこへ行っても,何をしていても,常に物珍しく観察されていた」,
「町の人々は,私が誰であるかをよく知っており、スーパーで何を買っていたか,どんな人が私を訪ねたか,毎日の夕方に私がどの道をランニングしているか,どんなレンタルビデオを借りたかなど、私はよく観察されていた」,「特に子供たちは,自分たちと同じことを私もしていることを見て,結局は私が ”特別な外国人” ではないと分かってきたようだった」,「アメリカで中学校教師をしている妹から,アメリカの中学校生活のビデオを送ってもらい,それを日本の生徒に見せた時の反応がとても興味深く,生徒の心情は同じだと分かった」,「生徒を教えることは,結局は,教師も教わることだと知るようになった」などなど,面白い記事だった。結局は,彼女は日本の町と中学校の生徒たちに好印象を持ちつつアメリカに帰国したようだ。
アメリカの大学での「伝言メモ用紙」
July 17, 2021
30年近く前に、Univ. of Kentucky のオフィスで使われていた、学内専用の「伝言メモ用紙」。この書式を見ると「よく出来ている」と、今も思う(e-メールとともに、学内ではこうした伝言メモも併用されていた)。出身国、人種、宗教、文化、言語が異なる人々が一つの国にトラブル無しで共存するための、アメリカという多民族国家なればこその「伝言メモ用紙」といえよう。
表題にメモの日付や「**から**へ」があるのは当然だが、用紙の左の欄に、伝言作成者の具体的な要望が列挙されており、そこにチェックマークを入れることで、自分の要望を受領者に明確に伝えることができるようになっている。
私なりに訳すと「伝言作成者の要望」にはこうある。「返事をください」、「直接会って話したい」、「返事は不要」、「貴殿のために要件を送っておいた」、「詳しいデータが欲しい」、「このように行なってほしい」、「以下を検討してみてください」、「調べて、その結果を教えて欲しい」、「早急に、貴殿の判断を知りたい」、「この件の相談が出来るなら、何時がいいでしょうか」
さらに、この用紙の最下段の末尾には、こう明記されている。「ともかく、書き残そう。文章として残すことは、時間の節約になり、間違いの低減になり、仕事が円滑になる」
現在の日本の職場でも、こうした書式のメモ用紙は、十分に活用できるのではないだろうか。「これを伝えたはずだ」、「いや、そうは言われていない」、「あれを出してくれ、と言ったはずだ」、「いや、その指示はなかった」などの水掛け論がなくなるだろう。
職場の中にこうした「伝言メモ用紙の制度」が定着していれば、受領者はそれを保管しているから、公式文書を残しておきながら急遽それを廃棄させた後で「そうした文書はない」とウソ答弁をした財務省の佐川局長は逃げ隠れ出来ないであろう。
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facebookの翻訳機能はデタラメ
July 3, 2021
インタネットではいろいろな翻訳エンジンが無料で提供されている。外国語の記事を読むときには、とても助かる。それらのいくつかを比較してみると(英語文に関する限り)、現在では、DeepL翻訳が一番正確なようだ。
facebookが提供する”翻訳”のデタラメさは毎度のことであり、もはや慣れてしまったが、このような欠陥翻訳エンジンを、公式な自社製品として世にさらして放置しているfacebookという会社(日本支社か)は、恥ずかしくないのだろうか。
普通の会社であれば、自社の不良品が明らかになれば、早急にそれを撤去し、正常な製品に交換するはずである。(それとも「無料で翻訳を提供しているのだ。嫌なら使うな」ということか)
一方、見方を変えると、facebookの”翻訳機能”は、”Untalented 翻訳” ではなく、趣向を凝らして意図的に ”奇訳や珍訳” をUserに提示している標準装備、と見ても良さそうだ。つまり、facebookには ”Silly 翻訳” の機能も備わっているといえる。以下は、最近の実例である。
.........................
「Archaeology Magazine」(July 3, 2021)の記事:
A fourteenth-century leather fragment of a baby boot unearthed in Switzerland shows that medieval parents, much like parents today, spared no expense on stylish clothing for their children.
facebook 訳;
「スイスで発掘されたベビーブーツの世紀の皮革の断片は, 中世の両親が今日, 子供のためのスタイリッシュな服装に費やしていないことを示しています。」
Google 訳;
「スイスで発掘されたベビーブーツの14世紀の革の破片は、中世の両親が、今日の両親と同じように、子供たちのスタイリッシュな服に費用をかけなかったことを示しています。」
DeepL 訳;
スイスで発掘された14世紀のベビーブーツの革片によると、中世の親たちは、現代の親たちと同じように、子供のためのおしゃれな服にはお金を惜しまなかったことがわかります。」
....................
NBC News (June 30, 2021) の記事:
******, already charged in the deaths of her two children, has been indicted in connection with the 2019 killing of her ex-husband, Arizona prosecutors say.
facebook 訳:
「既に2019人の子供の死亡で起訴されている******は, 元夫アリゾナ検察官の2019人の殺害に関連して起訴されている。」
Google 訳:
「アリゾナ州の検察官によると、******は、彼女の2人の子供の死ですでに起訴されており、2019年に彼女の元夫が殺害されたことに関連して起訴されました。」
DeepL 訳:
「すでに2人の子供の死で起訴されている******が、2019年に起きた元夫の殺害事件に関連して起訴されたとアリゾナ州の検察当局が発表した。」
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ABC News(July 2, 2021)の記事:
In light of sky-rocketing cases of the COVID-19 Delta variant around the globe, last week the WHO called for all vaccinated people to continue to wear masks. The CDC, however, has not followed suit.
facebook 訳:
「世界中のCOVID-19デルタ変異の空中ロケット事件に照らし合わせて, 先週, WHOはすべての予防接種を受けた人々に引き続きマスクを着用するよう呼びかけた。 しかしCDCはスーツをフォローしていない。」
Google 訳:
「世界中で急増しているCOVID-19デルタ亜種の症例に照らして、WHOは先週、すべてのワクチン接種を受けた人々にマスクの着用を継続するよう求めました。しかし、CDCはそれに追随していません。」
DeepL 訳:
「世界中でCOVID-19デルタ型の感染者が急増していることを受けて、先週、WHOはワクチンを接種したすべての人に引き続きマスクを着用するよう呼びかけました。しかし、CDCはそれに従っていません。」
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ABC News(July 2, 2021)の記事:
A reward has climbed to more than $30,000 for the suspect who shot and killed a Houston mom while she was in Maryland to drop off her son at the U.S. Naval Academy.
facebook訳:
「ヒューストンの母親を撃ち殺した容疑者が米海軍士官学校に息子を降ろした場合, 報酬は30,000ドル以上に上った。」
Google訳:
「メリーランド州にいる間にヒューストンの母親を撃ち殺した容疑者が米国海軍兵学校で息子を降ろしたことに対する報酬は3万ドル以上に上りました。」
DeepL訳:
「米国海軍兵学校に息子を送るためにメリーランド州に滞在していたヒューストンの母親を射殺した容疑者に対する報奨金は3万ドル以上に上りました。」
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アメリカ南西部の熱波
June 18, 2021
まだ6月だが、アメリカの南西部の”熱波”は特にNevada, Arizona, New Mexicoですごいらしい。°Fによる温度表示は、考えようによっては、人間に実感しやすいようだ。つまり「これ以下の低温では、寒すぎて生きるのが苦しい温度」が 0°F(-18℃)、「これ以上の高温では、暑すぎて生きるのが苦しい温度」が 100°F(38℃)と考えればよい。すると、人間にとっての快適な気温は 65-75 °F (18-24℃) と考えて良さそうだ。
アメリカ南西部での気温が115°F(46℃)にも昇ることは、普通の人間の(おそらく、大半の動植物にとっても)生存環境の限界外であり、住宅、会社、学校、病院で、もし、エアコンが不調になると、それは熱中症が多発する非常事態といえる。
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日本語文章の主語
June 5, 2021
日本語文を英語文に訳す時に、以前からいつも痛感させられてきたのは ”言語感覚の違い” である。毎回、日本語文の見直しが必要であった。
(経済学者の野口悠紀雄氏は、著書「書くことについて」(角川新書)の中で、日本国憲法を”悪文の代表”としている(私も同感!)が、その原因として「原文が実は英語であり、それを急いで訳したためではないか」と述べている (P.183) )
日本語文では「主語につく助詞は、”は” または ”が”」と小(中?)学校で習ったが、では、例えば「日本は山が多い」や「海は紫外線が強い」という文章の主語はどれなのか。あれこれ考えると、面倒くさくなる。
「この場合、”日本” や ”海” は、題目主語であり、本文の主語は ”山” や ”紫外線” である」と聞いたことがある。しかし、そもそも、”題目主語” などという解釈(概念?)が本当に正しいのか、と私には疑問に思えた。そのため、急ごしらえの、 こじつけのような”解説” を全然信用できなかった。
一方、「日本語の文は、他者からの問いへの応答である」、「日本語では、語る主体の前に問う他者がいる」とするこの意見(2021年6月5日朝日)は、示唆に富む意見だと私は思う。
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沖縄の苦しみと日本政府
May 16, 2021
この記事を読めば、「同じ日本人である沖縄の人をこのままにしてはおけない」と思うのが普通の日本人であり、普通の日本の政治家であろう。
「秘密のファイル,CIAの対日工作」(上,下) ,春名幹男(共同通信の論説副委員長)著,(共同通信社 2000年6月発行)には,驚くべき事実が満載されている。私は,まさに目から鱗が落ちる思いで読んだ。この本の下巻のP.287-288には,1947年に,昭和天皇自らが,アメリカに「沖縄における米軍の長期占領」を申し出たことが暴露されている。
終戦当時は,アメリカ国務省は,「沖縄は日本の支配下におき,非軍事化すべき」と考えていたが,アメリカ軍部の考えは,「軍事戦略の上から沖縄を自由に使いたい」であり,国務省とアメリカ軍部の考えは対立していた(p.287)。
「中ソに日本への手出しをさせないために,アメリカに半永久的な沖縄軍事基地使用を認める。天皇の意図はそんなところにあったのだろう。本土のために,沖縄の意志も聞かずに犠牲を負わせる,という意味では,戦後の「琉球処分」とも言える」(P.288)。
しかし,その後,国務省は「対日政策に関する勧告」をまとめ,沖縄における米軍基地を長期間維持することに政策変更した。米軍は,核兵器の配備も含めて沖縄の基地が自由に使用できることに安住し続けた。ベトナム戦争の拡大で,後方基地としての沖縄の役割が増した。だが,日本政府も,1960年代中期に至るまで沖縄返還には積極的には取り組まなかった(p.290)。
普天間基地の移設問題を考えると,どうしても突き当たるのは,1960年1月19日に、新日米安保条約に 基づいて日米両国間で締結された不当極まりない日米地位協定や,その新安保条約の取り扱いである。締結以来60年以上経た今日まで1度も改定されていない。
「アメリカは日本の安全を保障する」,「日本はアメリカ軍基地の維持費用を負担する」という,安保条約の二大原則と「沖縄の米軍基地の国外移設」をどう両立させるか,の高度な政治決着に最大の困難があるといえる。(毎年、法的な根拠のない巨額な”思いやり予算”が日本政府から米軍に支払われている)
日米安保条約は10年ごとの更新時に,一方からの通告のみにより解消できるが、これは日本とアメリカの双方にとって極めて重要な条項である。
不当極まりない日米地位協定の中でも,第17条、第5項の(C)「日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員又は軍属たる被疑者の拘禁は、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行なうものとする。」は,アメリカ政府に日本の政治と政府が足元を見られて馬鹿にされている証拠の最たるものといえよう。
私は,1973年(本土復帰の翌年)に初めて沖縄に行ったが,そこで得たものは,「これはもうたまらない」という強い印象であった。 昼,夜を問わず,頻繁なものすごい軍用機の爆音。そのため,時にはどの学校でも授業が中断され,まともに教育が出来ない。
さらに,無性に腹立たしかったことは,「一旦,外国軍の軍政下に置かれたら,その地の住民はこれほどまで,馬鹿にされ,蹂躙されるのか」という印象であった。米軍の兵士は,まさに,やりたい放題であった。泥棒,ひき逃げ,強姦,殺人など,何をしようとも,素早く,基地内へ逃げ込めば,日本の警察は,手出しができない。米軍としては,その犯人を早急に本国へ転勤させてしまえば,一件落着である。
沖縄の人々は,ただただ,屈辱と涙にくれるだけであった。しかし,土地を強制収用されて以来今日まで土地の借用代金を受給して生活している人々は,もはや,農業には戻れない。また,米軍を相手に商売を営んでいる人々は,怒りと屈辱に堪えながらも,それで生きるしかない。「米軍は沖縄から出て行け」という沖縄の人々の声,そして,「米軍は来るな」という徳之島の人々の声は,通常の市民感情として当然である。日本は,対米従属の屈辱的な「密約」に縛られたままである(吉田敏浩著「密約」2010年毎日新聞社発行)。
沖縄普天間の米軍基地の処遇について,結局は,国外移設しか根本的な解決策がないと私は思う。だが,その国民的合意のためには,必ず,日米安保条約や日米地位協定の正否の論議が必須である。
日米の友好協力関係が大切であることは,日米双方の国民の総意であり,言うまでもない。そのため,沖縄の米軍基地を国外へ移設させる案件は,必ず,日米安保条約の正否と日本の国防政策を合わせた3点セットで再検討しなければならない。そうでなければ合理的な解決策は決して出ない。その際には、自衛隊を国防軍として認知し(憲法第9条は自衛権を否定していないために)、その国防軍が沖縄に常駐することの国民的合意も必要であろう。
今日の日本は「改憲か、それとも護憲か」などという粗雑な二者択一論議をしている場合ではない。独立した主権国家の日本国憲法として「第9条は自衛権を否定していない」ことの国民的合意の確立がまず必要であり,それを踏まえて、米軍の沖縄普天間基地の国外移設の賛否を問う国民投票が必要であろう。
日本政府はその投票結果に基づき,日米安保条約や日米地位協定の改定や解消を視野に入れた上で,沖縄の米軍基地の処遇について高度な政治判断をするしかない。
ところが、安倍も菅も、こうした国民的課題から逃げ、沖縄県民の意志を無視し、沖縄県知事とのまともな会談さえも忌避し、今も辺野古の埋立工事を強行している。主権国家の政権担当者としての資格はない。
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愚行の極み、東京オリンピック
May 7, 2021
コロナが蔓延しており、ワクチンの接種も行き渡らないこの日本で、東京オリンピックを強行しても、海外からも国内からも無観客の試合。不参加国も増え(今は、カナダと北朝鮮)、バカバカしい”白けた”オリンピックとなり、歴史に残る笑いものとなるだけだ。
そもそも、前首相の安倍が「福島の事故はUnder Controlにある」と世界にウソを言って強引に招致したのが”東京五輪”であるから、「その開催の是非は日本政府ではなくIOCが決めることだ」などという菅の逃げ答弁は全く根拠がない。今日の日本全国の「五輪中止の声」に菅は逃げずに向き合うべきだ。「開催ありきは、すでに破綻している」(2021年5月12日朝日社説)は、当然のことだ。
無謀で愚劣なインパール作戦を強行した”バカ将軍”として名を残している牟田口廉也になぞらえて、東京オリンピックの愚行を述べるこの記事はよく分かる。
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重い”赤木ファイル”
May 6, 2021
国民をなめて嘘を言い続けた安倍晋三。その安倍に”忖度”して嘘を言い続けた財務省幹部。”赤木ファイル”を、財務省は、その存否についてすら口をつぐみ続けた。
しかし、高額の賠償金を請求された民事訴訟になり、裁判官から証拠の提示を求められると、財務省の幹部はついにその存在を認めた。
以下の記事を見ると、国民をなめた思い上がった財務省幹部の姿勢がよく分かる。”公僕”である公務員のすることではない。日本国民は、こうした非道な者たちを許しておくべきではないと、私は思う。数々の妄言と失言で、国民(と財務省の官僚)から信頼を失っている麻生太郎なる財務大臣の責任も追求されなければなるまい。
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若手官僚の退職の増加
April 5, 2021
国家公務員の総合職で採用された若手官僚の中に、20代での辞職者が増えている。その最大理由は、残業の多い長時間労働ではなく、実は、「自分が成長できる職場ではないと思えたのではないか」とのこと(2021年4月5日朝日社説)。
その様子は、私にもよく分かる。在職中、こんな事があった。
職場内の事務部から来る連絡文書で、題目が「......について」となっているにもかかわらず、本文を「このことについて、」と書き始める奇妙な(馬鹿げた)慣習がしばしば見られた。そのために、文脈が破綻しており,見苦しく、かつ滑稽な「文章」になっていた。(今日でも、県立高校の連絡文書には、こうしたお粗末な文書が蔓延している)
その連絡文書の作成者も、実は、それに気付いているはずである。そのため、私は事務部の職員に向けて「連絡文書が日本語文として不正であるから、書き直すべきだ」と、しばしば、以下のように注意した。
(1) 文書の題目を「・・・・について」とするなら、本文の冒頭にある「このことについて、」は不要であり、削除せよ。
(2) 本文の冒頭を「・・・・について、」と始めるのであれば、文書の題目「・・・・について」の「について」は不要であり、削除せよ。
それに対して、ある若手の事務職員から以下の返事が来た。
「昭和27年4月4日付けの内閣官房長官からの依命通知により、そうした文言で作成することになっているとして、上司により文章を直されるのです」
若手の職員が、正確な文章の作成を禁じられ、自分でも「おかしな文だ」と思いながらも,上司から「昔の通知の中で示されている文例に倣って文書を作成せよ」,「正確で明解な日本語文章を自分で考えて作文する必要はない」と強制され続けたら(自分の頭で考えて仕事をすることを禁じられたら)、仕事が馬鹿らしくなり、職を捨てたくなるのは当然であろう。(その上司も、そうした悪習の中で耐え忍んで、馴らされてきたのであろう)
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冤罪の防止-「大崎事件と私」に思う
March 31, 2021
発売早々にベストセラーになりつつある、700ページもの大部の本「大崎事件と私」(著者は鴨志田裕美弁護士)を読了した。第4次再審請求に向けて立ち上がるまでの著者の苦闘と、それを支える弁護団や新聞とその記者の協力がよく伝わってくる。
専門家による鑑定意見書は、被告とされた人の人生を左右する重要なものであるから、自分が確実に知っており、客観的な事実を例証できる自信がなければ、勝手な憶測や飛躍した仮定は絶対に避けなければならない。(裁判関係で意見を求められたり、意見書を作成するときには、私は常にこれを肝に銘じている)
日本では,刑事事件の裁判で,有罪判決の出る率が99.9%にもなり、欧米諸国に比べて,異常に高い有罪率だ。一方,それにより,今までに多くの冤罪事件が発生しており,被告とされた人の人権が蹂躙され,人生が狂わされてきた。そのうえ,上級審で無罪が確定しても,被告とされた人への国家賠償も十分とはいえない。また、有罪判決を出した裁判官への意見聴取の制度がない。
刑事司法では「無罪推定」が原則であるにもかかわらず,逮捕即有罪や,起訴即有罪とみなすようなマスコミの報道にも問題がある。
無罪推定の原則では、「検察官が被告人の有罪を証明しない限り、被告人に無罪判決が下される(被告人は自らの無実を証明する責任を負担しない)」、「有罪判決が確定するまでは、何人も犯罪者として取り扱われない(権利を有する)」
日本における冤罪事件の多さや,裁判における逆転無罪判決の事例を見ると,「逮捕されたからには当人は罪を犯したのだろう」、「火のないところに煙は立たず」、「やってもいないことを、やったと言うわけがないだろう」などは、極めて危険な憶測であり,とんでもない間違い(人権侵害)であることがある。
「人が人を法律で罰する」ためには,被疑者自身が「犯行を自供した」だけでは不十分だ(その”自白”は強要や誘導によるのかもしれない)。
動かしがたい十分な証拠,動機,客観的事実が「すべて完全に揃って」いなければならず、一点の疑念もあってはならないのだ。いかに微小とはいえ,「推定に基づく起訴要因」があれば,それが,完全に解明され立証されなければ,被告は無罪でなければならない。「人が人を裁判で裁く」とはそういうことだ。
検察官としては,人を逮捕し勾留するからには,それなりの十分な証拠と理由を堅持しているはずであり、普通に自分の仕事をこなしているはずである。そのため、被告を起訴した裁判において、無罪判決が下されたとしても,それは,裁判官が自分の仕事として慎重な審査のもとで出した判決であり,それを検察の負けや黒星とみなすマスコミの評価と姿勢は正しくない。
「起訴されたが無罪の判決であった」ならば,それはそれで,裁判官の判断であり、「検察の黒星」とする評価は正しくない。(ただし,被告には有利な証拠や、起訴要因には不利となりそうな証拠を,検察側が故意に隠匿する場合があるが,それは,全くの論外であり,社会的に厳しく糾弾されなければならない。その典型が有名な1949年8月の松川事件である)
裁判では、検察側は証拠をあげて被告を起訴し、有罪を主張する。弁護側はその起訴要因を否定して無罪の主張や減刑を求める。裁判官は,検察側と弁護側の意見陳述を,平等にかつ慎重に審査し,合議の上で判決を下す。端的に言えば,裁判とはそのプロセスだ。
検察官とて裁判官とて人間であり,間違いもありうる。そのため,「無罪判決を検察の黒星とはしない」という社会認識の確立がこの日本に求められる。それが冤罪をなくすための最大の方策であろう。
それがないために、弁護団が長年苦労して再審請求をした結果として裁判所から「再審開始の決定」が出ても、「有罪は白星、無罪は黒星」として面目を重んじる検察により、再審裁判を不要と主張する「即時抗告」が繰り返され、裁判が長引き、被告であった人の無実の証明が遅れ(または、取り消され)、人生が狂わされ、たくさんの冤罪被害者が生み出されてきたといえる。袴田事件や大崎事件は、まさに、その典型であろう。
裁判所による「再審開始の決定」に対する「検察の即時抗告」を法的に禁止するべきなのだ(ドイツのように)。検察側が再審開始の決定に不服であれば、あらためて再審の裁判で争えばよいのだ。
なお、上級審で無罪が確定した被告に対して有罪の判決を出した下級審の裁判官に対する、被告と弁護側からの意見聴取を求める権利と制度の確立がこの日本に必要であると私は思う。
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アメリカの一面についての感想
March 22, 2021
つい先日、アラスカのアンカレッジで行われた、アメリカと中国の首脳会談で、アメリカが中国に対して、ウイグル自治区での人権侵害を非難したところ、中国側は「それは内政干渉だ!」として、断固として拒否した。中国側としては「アメリカには有色人種への差別が厳然としてある以上、我が国に対してそれを言う資格はない!」ということであろう。それは誰にも納得できる当然の主張であり、独立した主権国家としての堂々たる姿勢といえる。
イランや北朝鮮の核開発を非難するアメリカの姿勢にも、同じことが言える。イランや北朝鮮としては、「アメリカが核兵器を所有している以上、我が国の核兵器所有を非難する資格はない!」ということであり、それも当然の主張である。アメリカは、小国をなめてはいけないのだ。
私が見聞してきた体験で言えば、中国とアメリカは「不可分の兄弟」であり、あれこれの論争は「兄弟のケンカ」に過ぎない。
アメリカの大学の理工学部や医学部の教員には、中国人やインド人の優秀な教員がたくさんおり、そのため、アメリカ人の若者 の理工学教育や医学教育では、分野によっては中国人やインド人の教師が担当している、と言っても過言ではない。(ある州立大学の工学部で、ふと教室内を見ると、中国人の女性教師が1年生の数学の授業をしていた)
一方、アメリカは、中国人やインド人の若者に、大学や大学院教育(と博士号取得)の場、就職や起業(アメリカン・ドリーム)の機会を提供している。アメリカには数百万人もの中国人やインド人が生活しており、中国、インドとアメリカは、お互いにGive and Take の関係にあり、決して別れることができない。実際、Google, Microsoft, Apple, Yahoo, Facebook,
Amazonには、多数の中国人やインド人が大活躍している。
アメリカと中国の間では、どんなに激しい論争があろうとも、それは、テーブルの上での「建前の論争」であり、テーブルの下では固い握手で結びついているのである。この実情を前提にして、アメリカの対中国政策を見ていくべきだと私は思う。
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アメリカが安全安心社会になるには
March 21, 2021
ノーベル賞受賞者を何十人も輩出し, GAFA のように、コンピュータ社会での優れたアイデアと技術で起業して億万長者となる者が続出する一方で,KKK団のような極端な人種差別主義集団が存在し続けるのも, アメリカ社会の現実だ。
世界最高の医療技術と設備を持つ国で,無保険であるために十分な医療が受けられない人々が大勢いること,銃による惨事とそれによる死傷者がいかに多くても,銃の所持を厳しく規制する法案が最終的にはいつも廃案となること,これらの事実はアメリカという多くの人種が共存する「モザイク国家」の運営の難しさをつくづく思わせる。
国民皆保険の制度にも銃規制の制度にも、強固な反対者が大勢いるのがアメリカだ。「自分の身は自分で守るべし。個人に対する国家からの規制は出来る限り排除するべし」とする「独立精神に満ちたアメリカの開拓者魂」を尊ぶ国民性は今も健在だ。トランプは「オバマ・ケア」を取り消した。
当然の結果として,日本の車検制度や自賠責保険の制度などは,アメリカ社会には到底受容されず、将来もそれはアメリカには実現しないだろう。
日本では、60歳以上の退職者は自治体による健康診断のサービスを受ける身となる。本人が忘れていても、その健診を勧める通知が自治体から毎年届く。しかも、それらが全て無料!
自分自身がこうした健診を受ける身になると,改めて,日本の手厚い医療保険制度の素晴らしさがわかる。誰もが健康保険証を持参すれば,わずかな自己負担(通常は3割、70歳以上は2割、75歳以上は1割)で,全国どこの病院に行っても進んだ医療を受けられる。
乳幼児や小学生の健診と医療が無料の自治体も多い。考えてみれば,それは北欧と並んで日本も築き上げてきた、世界に誇れる「近代国家の偉大な社会保障制度」といえる。
(アメリカに住む1歳半の孫が転んで、下唇と顎の間の皮膚が少し切れた。すぐに親が緊急外来へ連れていき、診断の結果、その傷口をノリ付けして治療完了。2週間後に来た医療費の請求書を見ると、なんと$2134(約¥228000)。保険により$1312(約¥140000)の支払いが出来たので、実際に支払ったのは$822(約¥88000)であった)
国民皆保険の医療制度と銃の不法所持禁止法の両方を達成した日本社会は,その点だけを言えば,アメリカに対して,いや世界に対して大きく胸を張れる「安全安心社会」だ。
アメリカが本当に良い国になるためには、日本なみの国民皆保険制度の確立と厳重な銃規制の法律の制定が必要だ。その意味では、アメリカは日本やイギリスを見習うべきだろう。
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PCトラブル:9日間の苦闘で学ぶ
March 15, 2021
いやはや、最近、PCの突然のトラブルの解決のために、9日間の苦闘を強いられ、その中で、大きな勉強をした。得られた結論は以下である。
(1)まずは、PCやデバイスのメーカーの無料サポートセンターに相談する。
(2)インタネットの「オンラインの質疑応答サイト」は、契約事項に要注意。一度でも登録すると、定期的に料金が引き落とされる仕組みになっている。
(3)あれこれとPCの修復を試みてもダメなら、OS(Windows)を初期化し、手間はかかるが、主要なソフトをインストールし直す。
私は、日常使用しているPC(10年前に購入。Windows 7の 32bit。これにメモリーを増設して12GBとし、今は、Windows 10 Pro 64bitに更新)にプリンターをUSBで接続し、快調に使用していた。
しかし、2週間前、Windows updateをしてから、突然にPCがプリンターを認識しなくなり、あれこれ(時間を費やして)調べると、windows/system32/spoolsv.exe のファイルが消えていた。そのため、他のPC(Windows10, Pro 64bit)からそのファイルをコピーして、このPCに入れ、PCを再起動した。
そして、このプリンターを「通常使うプリンター」に設定し、windowsで「テストイメージ」や「プリンターステイタス」の印刷をすると、正常に印刷可能となり、また、Windows に付属するメモ帳やワードパッドの印刷も可能になった。
ところが、Word の印刷メニューでは「プリンターが準備完了」と表示されるが、印刷ボタンを押すと「プリンターがインストールされていない」と表示され、印刷不能。Excelの印刷メニューでは「プリンターに接続できません」と表示される。PDF の印刷メニューでは、「プリンターをインストールせよ」との警告が出て印刷不可能。
あれこれ調べても原因不明なので、修復方法を知るべくインタネットを検索すると、「オンライン質疑応答サイト」である「J社」があった。そこは、まずは会員になることが前提であったので、7日間の「トライアル期間の会員」になり、¥500の支払いを承諾し、クレジットカードの番号を入力した。
しかし、契約事項をよく見ると、「初回のみ、トライアル期間(7日間)の会費は¥500 だが、その後は、解約の申し出がなければ毎月¥4500の会費を支払うことになる」とのこと。
私は危険を察知し、「トライアル期間の会員」を申し込んだ30分後に解約を通告した。すると、J社から「会員の解約手続きが完了した」とのメールが届いた。(もちろん、私はそのメールを保存した)
ところが、その後も頻繁に「専門家から質問への返信が届いています」、「私(専門家)の対応 を評価してください」などのメールが届き、また、そのメールの中で「今後の通知の受信を停止するには、このリンクをクリックしてください」という箇所をクリックしても繋がらない。
早速、クレジットカード会社に連絡したところ、既にJ社から私のカードに¥500の請求が上がってきているとのこと。そのため、「私は会員登録を解約済みであるから、その¥500以外は、今後はJ社からいかなる請求があろうとも、私のカードによる支払いを拒否する」と伝えた。そして、今後、再び何らかの請求があれば、カード会社の担当者が調査をし、料金請求が不当であることを相手に伝えることになった(J社からの「会員の解約手続きが完了した」とのメールを保存していたのは大正解であった)。
そのクレジットカード会社のHPの中の「お問い合わせ」のページの「トラブル・お困りの場合」の中で、「ご質問一覧」の中の「利用した覚えのないお店からの請求がありました」の項目の中で、「お問い合わせの多いご利用店名・連絡先」を見ると、J社が表示されており、被害者が多いことが察せられた。そのため、私はJ社に以下の内容のメールを送った。
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「トライアル期間」の会員登録をしたが、同日に「会員の解約」を申し込み、同日に貴社から「会員の解約手続きが完了した」とのメールを受け取った。
よって、貴社への支払いは「トライアル期間」の会費¥500のみで終了とし、今後は、貴社からいかなる請求(月額¥4500等)があろうとも、その支払いを拒否する。また、この旨をカード会社へも通知済みである。
また、既に、会員登録の解約が完了しているので、貴社からの全てのメール配信を不要とし、「専門家から質問への返信」なるメールも全て不要である。
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あれこれと、PCの修復に加えて、余計な悩みを抱え込んでしまったが、カード会社との相談により今後の対策が決まり、一段落したので、再度、PCの不具合の修復に取り組んだ。しかし、何をやってもダメ。プリンターのサポートセンターの担当者もお手上げ。PCのメーカーによるオンラインのPC診断の結果も、異常なしとの報告のみ。
もはや修復を諦めて、同じ型の整備済みの中古PCを購入することも考えたが、思い直して、意を決してWindows 10
の「回復」のボタンを押し、「Windowsを初期化する」ことにした。これには長時間かかるので、夜にその初期化を開始し、翌朝までPCの電源を入れて放置した。そして、翌朝、早速、あれこれソフトをインストールし直して、ファイルの印刷を試みると、完全に回復しており、ようやく苦闘が終了した。
やはり、OS(Windows 10)のUpdateにおける何らかの不具合が原因らしい。トラブルの解決に、結局、9日間も費やし、大きな勉強をした。
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答弁に見る内閣広報官
February 26, 2021
新聞の報道によれば、山田は「(会食の接待で首相の長男と同席したことは)私にとって大きな事実ではない」と述べたとのこと。
”大きな事実”? この内閣広報官は日本語が不可。 ”事実” には「大きい、小さい」の区別はない。報道によれば「禅問答のような答弁が続いた」とのこと。
つまり、この山田の本心は「(首相の長男から会食の接待を受けたことは)ちっぽけなことであり、別に悪いことでも何でもない。何かおかしいですか?」と開き直っているわけだ。逃げとはぐらかしの当人の下心が国民には丸見えであり、山田は辞任するべきだ。
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航空機事故における機長の対応
Februay 22, 2021
今日(2月22日)、コロラドのデンバーからホノルルへ向かうボーイング777の片方のジェットエンジンから火が出ているというニュース。
死傷者が無くて、本当に良かった。あのジェットエンジンの機構の詳細を私は知らないが、飛行機は片方のエンジンが停止しても飛行には支障がないことと、あの飛行速度(時速、数百キロ)では、エンジンから出た火炎が燃料タンクである翼を加熱することはないので、なんとか、緊急着陸ができたようだ。テレビのニュースを見ながら、私にはベテラン機長の素晴らしい熟練度が伝わってきた。
2009年1月15日,真冬のニューヨーク近郊のハドソン川に旅客機が緊急着水した。その時の機長の判断が世界中から絶賛を浴びたが,その機長は「普段から訓練している緊急事態の対応を当たり前に実行しただけです」と語っていた。「これぞ、まさしくプロだなあ」と私は感服したものだ。
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自民党が求める”国旗損壊罪”は不要
February 10, 2021
私は日本の国旗としての日の丸の旗が大好きである。外国に出ているときに、何らかの場(港、空港、スタジアム、オリンピックの表彰式など)で日の丸の旗を見ると嬉しさと親しみが湧いてくる。
どの国民であれ、生まれ育ったときから見ている自国の国旗に親しみを持たない人はいないであろう。そのため、どの国民でも、もし、外国の地で自国の国旗が損壊されたり火をつけられたりしている現場を見たら、不快になり腹立たしく思うのは当然であろう。しかし、私のその思いは、「国旗損壊罪」の容認には決して繋がらない。
「自民党保守派が求める”国旗損壊罪”は不要かつ有害だ。具体的な必要性や利益は皆無だ。”岩盤支持層”へのアピールで将来に禍根を残してはならない」として、前新潟県知事の米山隆一氏が意見を述べている。私も、全く同感である。
米山氏が述べているように、自民党保守派が求めるのは、薄っぺらい安直で幼稚な ”国粋主義” であり、法律的にも欠陥だらけで、到底、万人の常識に合致するものではない。
なお、”敬う気持ち” というのは、決して強制されて出来上がるものではないので、私は ”君が代の斉唱” の強制にも賛成できず、小中学校時代以外は、斉唱したことは一度もない。
5年前の記事を以下に再掲する。
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”君が代斉唱" の強制
March 24, 2016
昨年(2015年)以来、文科省と文科大臣から、国立大学に対して、卒業式で「君が代」を斉唱するべく、あれこれの無言の圧力がかかっている。当然のこととして、多くの教員からはかなりの反発(と無視)が出ているが、斉唱しないことによる、文科省からの予算配分での冷遇を危惧することにより、国立大学の卒業式での斉唱が、少しづつ広がっているようだ(2016年3月24日、朝日新聞)。
1999年に「君が代」が小渕内閣により突然に制定され,全国の公立の小中学校,高校で斉唱するべく強制されるようになった。 広島の県立高校の校長が卒業式における君が代斉唱問題に悩んで自殺したことをきっかけに,満を持していた政府与党内右派と文部科学省による法制化が性急に強行された。 国民の間に多くの批判意見があったにも拘わらず,国会での充分な審議が全くなかったことは周知の通りである。
文部科学省は,「君が代の斉唱」を「強制ではない」と強弁しつつも,実質は,各県の教育委員会を通して公立学校における「君が代斉唱」の強制を要求し,斉唱の実施状況の点検とその報告を要求している。
毎年、入学式や卒業式の季節になると,各県の教育委員会から「君が代斉唱」の職務命令が出され,その斉唱の実施状況の報告が学校長に求められている。毎年の春,教育現場における管理職と教職員との軋轢がこうして繰り返され,教育委員会も学校長も,ジレンマの渦中に陥る。
私自身は,”日の丸” の日本国旗は大好きであるが,小中学校の時に (歌詞の意味を知らないまま) 式典のたびに歌わされた ”君が代” はどうしても好きになれなかった。
高校時代に,”君が代”は,日本国民全体の平和と繁栄を希求する歌では全くなく,単に,”天皇制の維持” と ”忠君愛国” を日本国民に鼓舞する歌でしかないことを知り,以來,今日に至るまで、どのような場合でも(私も国立学校の教員であったが),”君が代斉唱” なんぞに協力したことは一度もない。
馬鹿らしくて,情けなくて,さらに,戦争中(昭和天皇がその開戦を決断した)に日本軍からの暴虐を受けたアジアの人々、そして、その子孫である周囲の留学生たちに申し訳なくて,こんな失礼な(その上,陰鬱で暗い)歌を斉唱などする気には到底なれないのである。
「君が代」が,日本の国民全体を主体とし,その繁栄を希求して謳う歌では決してなく,実質的には,明治以来の天皇の長寿を願い,皇国思想を賛美するだけの歌でしかないことは,多くの識者がしばしば指摘していることである。下記の本は大変に参考になる。
「日の丸,君が代の戦後史」(田中伸尚 著,2000年 岩波新書)
だが、それだけではない。 君が代の斉唱を強制させる政治動向には,今までの幾度かの戦争において日本の軍国主義がアジアの諸国民に与えた甚大な被害に対する無言の頬かむりと無反省の影が色濃く付きまとう。 日本の軍国主義により,すさまじい暴虐と陵辱の被害を受けたアジア周辺の諸国から強い批判が出るのは当然である。
一方,私のようには思わない人々も当然いよう。それで良い。色々な考えがあって良い。要するに個々の人間(国民)の思想や信条を,時の政府の意向で拘束してはならないのである。
普通の日本国民であれば誰もが,素直に気持よく斉唱できる歌を”国歌”にしたらどうだろうか。そのような歌を広く日本国民から募集したらどうだろうか。 例えば,私は,”うさぎ追いしかの山,小ブナ釣りしかの川......”で始まる歌 ”ふるさと” が大好きである。もし,これが国歌として式典にて斉唱されるのであれば,私は素直に気持ちよくその斉唱に参加したい。
毎年問題になる,閣僚による靖国神社参拝も同様である。戦没者を弔い,永久の不戦を誓う気持ちは,誰もが同じであろう。そうであれば,その場が戦争責任者(A級戦争犯罪人)も多くの普通の兵士も,一緒に祀られている靖国神社である必然性は全くない。
むしろ,日本国民に求められていることは,宗教色を排除し,戦没者の合同慰霊碑を建立することであろう。そこに,日本国民が,戦没者を弔い,永久の不戦を誓う気持ちで慰霊することは,至極当然のことであり,世界中の誰にも納得でき,また,アジア諸国から何の反発もないはずである。
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国民は権力者のウソを許さず
February 3, 2021
「権力を持つ者の発言の権利」と「万人に保証される表現の自由」。これらの兼ね合いについての意見(2021年2月3日朝日)には、概ね賛成できる。
しかし、本来、これらの両者は別物ではなく、権力者であろうとなかろうと、当人の主張(発言)の中に「客観的に明らかな虚偽が含まれる場合は、表現の自由は無制限ではない」のは当然である。誣告、名誉毀損、公序良俗に反する流言飛語、虚偽答弁(証言、申告)が社会的に許されず、法の処罰を受けるのはそのためである。
日本では、前首相の安倍の虚偽答弁と無責任な逃避についての追及が続いている。「桜を見る会」について複数の団体から告発や、検察審議会への「不起訴決定は不当だから審査せよ」とする申し立てが出ている。広島の河井議員夫妻の不正選挙(買収行為)に使われた1億5千万円の出処も不明(税金が原資の政党交付金による支出であれば、法律違反 !)。
今日、日本国民は「権力者の虚偽」への追及の手を、いささかも緩めてはならない、と私は思う。
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原発は地域経済に貢献しない!
January 24, 2021
原発交付金が地域社会を潤している? 原発が雇用を生み出すから地域経済が活性化する?
とんでもない。それらは全部,間違いだ。地元紙の敏腕記者は,実態を鋭く見抜いている。
以前,新潟県の泉田知事が,県の財政に大赤字をもたらした責任を新潟日報に厳しく追及され,ついに県政から放逐されたことは記憶に新しい(自分にはその責任はないと、泉田は今も強弁しているが)。 そもそも,プロのジャーナリストの目は厳しく,甘くはない。
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人材は広範に公募するべきだ
January 14, 2021
「現社長による指名を排除して、社外取締役会が次期社長を選任せよ」(2021年1月13日朝日)とする意見は、私にはよく納得できる。そして同時に、以下を思い出す。
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群馬大学医学部附属病院で,技量の未熟な執刀医による下手な肝臓手術により、18人もの患者が死亡した。担当の執刀医は懲戒免職。そのデタラメな手術を黙認していた指導教授は諭旨免職。これを伝える多くの新聞記事は,教員の2/3が群馬大学の卒業者であるという群馬大学医学部の ”閉鎖性” を報じている。
だが,群馬大学に限らず,自校の教員を自校出身者で固めるという「村社会の悪習慣」は,日本の大規模な大学には,現在も,その事例がたくさんある。
ある大学のある学科では,HPを見ると、21名の教員の中で17名が自校出身者。自校の卒業者が,いい加減な "審査" で教員に採用され,ろくに研究業績もないまま,仲間内の合議により、若くして教授に昇任,などということもあるようだ。人事にはそれを決める側の見識と力量が露呈する。
必然的に、それにより出来上がるのは教員の大多数を自校卒業者で固めた同族の "生活互助会"。どんなに優秀な教授でも,自校出身者でなければ,その大学では,所詮,"外様" 扱い。
この根本原因,即ち,”未知の人材”の中から有能な人材を本気で探索することをせずに,安直に,自校出身者の中から採用する理由は,ひとえに,”教授の自信の無さ”であろう。
(私が在職中,新規に教員を採用することが数回あった。その時に「在学中に成績が優秀で,気心の知れている卒業者がいい」と言い放った教員を,私は厳しく批判したことがある。「公募により未知の人が採用されると,その人がうちの学科に馴染んでくれるかどうか不明だ」というのは,自分の仕事に自信のない者の典型例である)
アメリカの大学の教員採用における審査では、応募者の学問業績に加えて推薦書の内容の入念な検討がなされ、さらに、その応募者について所属学会への問い合わせがなされる。そのため、通常は審査に半年以上かかる。そうした「Open であるがために厳しい」という正々堂々とした選考規定が,日本の大学には根付いていない。
なお、日本では、推薦書は当人の良いことばかりを記述する御祝儀の文書であるが、アメリカでは、その作成者に責任が伴う、当人についての正確な鑑定書である。
かなり前だが,NHKのテレビ番組「エリートはこうして育てられる」で,ハーバード大学の紹介があり,その中で「ハーバード大学の教員の第一条件は、ハーバード出身ではないこと」というのがあった。日本の大学は,この番組を清聴するべきであろう。
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駅伝を見ると思い出す
January 4, 2021
正月恒例の箱根大学駅伝のテレビ中継にくぎ付けになった。特に今年は、駒沢大学が最終区での大逆転による優勝を果たし、面白かった。
懸命に走ってきた選手が中継所に入り、次の走者にタスキを渡すとフラフラになって倒れ込む様子を見ると、その時の、死にそうなくらいの苦しさが、自分の体験から痛いほど分かるので、昔の自分を思い出してしまう。
自分の区間で順位を落としたくない、何としても次の仲間にタスキを渡さなくてはいけないという、選手の気持ちが私には手にとるように伝わって来る。
駅伝を見るたびに私は思い出す。高校2年の秋、毎年恒例のクラス対抗の校区一周駅伝(約80km位を10人で走る)があり、私はクラスのメンバーとして最長区間(9.5km)を走った。
我がクラス(2年7組)はその前の区間までは一位であり、バスケ部のA君から私はタスキを受け取ったが、しかし、一人に抜かれて、次の区間の走者に2位でタスキを渡した。
仲間に申し訳ない気持ちと、「よく頑張ったな」という仲間の言葉に思わず目頭が熱くなった。17歳の秋であった。それは55年も過ぎた今も忘れられない思い出になっている。
高校時代から,ときどき長距離を走っていた私は(もともと運動神経が鈍いので,走ることと,ボートを漕ぐことぐらいしか出来なかった),2,30歳代には,15~20km程度の幾つかのマラソン大会に出た。
富士登山マラソンでは、7,8合目以上は”岩の上を歩くだけ”であり、もはやマラソンではなくなった。周囲の光景は白い雲海のみであったが、強い紫外線により、両肩が火膨れのようになった。河口湖・西湖マラソンでは、自衛隊体育学校の若者や、在日アメリカ軍兵士の若い男女と一緒に走った。狭山湖マラソンでは、複数の若い女性ランナーが次々に私を抜いていった。どれも懐かしい思い出である。
大学院生の時、毎年の秋に行われる学内のマラソン大会に参加し、早朝に伊豆の研修寮を出発して,みかん畑の起伏の中を20km以上走った。
ようやくゴールした後には,甘いお汁粉が飲み放題。疲労困憊した体にそれがしみわたり、「世の中に、こんなうまいものがあるのか」と感激した。しかし、その後の数日間は股関節や足が痛くて歩くのもキツくなり、階段を上がるにも時間がかかるという日々であった。
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日本語教育の重要さ
December 20, 2020
経済学者の野口悠紀雄氏による近著「書くことについて」(角川新書)を読んだ。
私は、今までに多数の文書を社会に公開し、また職業柄、日常的に、学生のリポートの文章を添削してきたが、自分の経験から、野口氏のこの本の内容は、私には参考になることがとても多かった。(職場の中の連絡文書を頻繁に添削、返却して、一部の職員から敬遠されたこともある)
本書の第6章「分かりやすく正確に力強く伝える」には、日頃から私も強く感じていることが明快に述べられている。第6章「3. 悪文の代表選手に学ぶ」の中では、日本国憲法の前文の末尾に近い以下の文章が挙げられている。(日本国憲法に多数の悪文が鎮座していることは、私も常々思っている。多用されている「**は、これを認めない。」という文言には、気分が悪くなる。「**を認めない。」と、なぜ書けないのだろう)
「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」
たしかに、これはひどい悪文の典型例といえよう。主語と述語の対応関係がメチャクチャであり(主語が4つもある!)、私はこれを作文した人の頭の中を覗いてみたい。(学生のリポートにこのような文章があれば、私は本人を呼び出し、書き直しを命ずるであろう)
なお、野口氏は、この部分を分かりやすく書き直した文を提示し、さらに、この部分の ”論旨の不備” を指摘している。そして、「日本国憲法の内容は高邁な理想を謳う素晴らしいものだが、文章は最低であり、その原因は、おそらく英語の原文を急いで翻訳したためであろう」と述べている(P.183)。
もし本当にそうであれば、日本の現憲法は、英語圏の人(おそらくアメリカ人)が英語で作成し、それを日本人が翻訳しただけなのか、という大きな疑問が湧いてくる。(「現憲法は、アメリカから押し付けられた憲法だ」とする改憲論者が喜ぶであろう)
以下はこの部分の英語版である。
We believe that no nation is responsible to itself alone, but that laws of political morality are universal; and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.
この英語文は以下のように訳せるだろう。
「われらは以下のように信ずる。すなわち、いかなる国家も自国のみに責任を負うことは許されず、政治的道徳の法則はすべての国家に普遍的なものであり,その法則を遵守することは自国の主権を維持し他国との主権関係を正常に維持しようとするすべての国家に課せられた義務である。」
もう一つ、戦争放棄を謳う日本国憲法第9条を見てみよう。
「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
以下はこの部分の英語版である。
Aspiring sincerely to an international peace based on justice and order, the Japanese people forever renounce war as a sovereign right of the nation and the threat or use of force as means of settling international disputes.
In order to accomplish the aim of the preceding paragraph, land, sea, and air forces, as well as other war potential, will never be maintained. The right of belligerency of the state will not be recognized.
この英語文は以下のように訳せるだろう(この第9条も、原本は英語であり、それを日本語に訳したものなのだろうか)。なお、これを見る限り、主権国家としての日本の自衛の権利を否定していないだろう。
「正義と秩序に基づく国際平和を真摯に願うべく,日本国民は、戦争が主権国家の権利であるとしても、国際紛争の解決手段としての武力の威嚇又は行使を永久に放棄する。
前項の目的を達成するために、陸海空軍をはじめとする戦力を保持しない。国家の交戦権を認めない。」
日本国憲法の成立の経過に関する疑問をここで論ずるのは適当ではないが、日本国憲法の悪文に比べて、その英語版は極めて明快である。それは、日本語文章の正確な書き方の訓練が、日本の学校教育で十分になされておらず、そのため、公文書や役所の連絡文書における不明解な文章が、日本の中に放置されていることが大きな要因であろう。
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天皇制とタブー
December 11, 2020
「報道機関が,皇族の呼称だけに,いつも特別な敬称である ”さま” をつけるのは,国民に対して暗黙のうちに天皇制への批判を禁じ,読者や市民に敬意を強制していることになる」とする意見(2020年12月11日朝日)は,以前から私も思っていることであり,私は同感である。「天皇という表現自体が尊称であるから,”天皇陛下” は過剰な表現である」ことも重要な指摘であろう。
「真実を報道する」ことを使命とする報道機関であれば,「タブーを破って踏み込む姿勢」が求められる。それは,読者と市民に好感を持って迎えられ,賞賛されるであろう。
なお,昭和天皇は,記者会見で太平洋戦争の戦争責任について問われると,いつも「そういう文学的な質問には,お答えできません」と言ってはぐらかしていたことを,今も私は思い出す。それは当時の政府や宮内庁からの指示であったのかもしれないが,昭和天皇の決断により開戦が決定され,そして終戦が決定されたのは事実である。
数百万の日本国民が死んだ太平洋戦争の戦争責任について,口を閉ざしたまま世を去った昭和天皇の事実を,私達は永久に記憶に留めるべきであろう。
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水素を積んだ燃料電池車は不可
December 9, 2020
地球を取り巻く温室効果ガスを削減するために,大気中に排出されるCO2を減らすべく,内燃機関を使う車を廃止して電気自動車の社会を目指そうとする意見(2020年12月9日朝日社説)に,私は概ね賛同する。日本の自動車メーカーが永年に渡り蓄積してきた技術水準に照らせば,電気自動車の改良と改善は十分に可能であろう。
一方,そのためには,太陽光,風力,水力,波力などによる発電を,今以上に促進することが必要であり,同時に原発(大量の石油資源を費やす)を早急に廃止する社会的な合意が重要である。
なお,水素を搭載する燃料電池車について,「排気ガスが水だけであるから環境に優しい」として,たまに報道されることがあるが,私はそれには重大な懸念を持つ。
水素タンクを搭載した燃料電池車が,開発されて以来10年以上経っても未だに普及しない理由を,5年前の以下の投稿記事で私は述べた。「水素で車が動く」ことと「その車を社会に普及させる」ことは,全く別の話である。
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最近,テレビや新聞で ”水素で走る車”が華々しく報道されている。しかし,”水素タンクを積んだ燃料電池自動車”の普及は,水素の爆発事故に対する安全対策技術が現在よりも格段に進歩しない限り,絶対に不可能である。そのため,国や自治体としては,決して,"水素タンクを積んだ燃料電池車" を推奨してはならない。
そもそも,水素はガソリンに比べて爆発の危険性が格段に上である。そのことが,まだ日本の一般社会には知られていない。(空気中での燃焼限界濃度は,ガソリンは1.4~7.5 %,一方,水素は4.0~75 %)
将来,ガソリンスタンドと同じように,街中のあちこちに ”水素スタンド”が建設されたらどうなるか。市民生活の安全性確保が極めて危うくなる。また,交通事故での車の破損による水素爆発の危険防止対策も現在は全くの未熟である。
その上,致命的なことは,”水素タンクを積んだ燃料電池自動車”は,CO2の削減対策にも逆行することであり,車の燃料(水素)の製造費用が,ガソリンに比べてかなり高価なことである。これらは全て,水素というものがガソリンとは違って,地中から出てくるのではなく,人口的にかなりの費用をかけて製造しなければならないためである。もちろん,その際には大量のCO2が排出される。
要するに,”水素で走る車”は,決して環境浄化対策や省エネルギ対策にはなれない。現段階では,それを製造する自動車メーカーによる美辞麗句の宣伝に騙されてはならない。”水素を積んで走る車”は,”危険で無駄なオモチャ”に過ぎない。
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問われる「自由」の真価
December 8, 2020
私と菅首相は団塊世代のまさに同年。彼は決して「叩き上げの苦労人」ではない。その上,青春時代に「まともに学んだ」ことがないようだ。
私や菅が学生であった昭和40年代は,大学問題,ベトナム反戦運動、安保,沖縄返還問題などで,日本社会が大きくゆれていた。しかし,当時の彼にはそれらは全く無縁であったらしく,今もそれらには全くの無知のようだ。
もちろん,学問の自由や人権問題などは,彼にとっては別世界の話。日本学術会議の設立意義や社会的役割など,彼には到底,理解不可能なのは当然と言えよう。
戦争と学問の関わりについて,「自由の真価が問われる」とする意見(2020年12月8日朝日社説)は,誰にも納得できよう。しかし,菅には,その理解は全く不可能。
20代の頃の彼は,一体何をしていたのだろう。不見識なこのような者でも日本では首相になれることを,私は情けなく思う。
菅は,官房長官のとき,面会に来た沖縄県知事に「戦後生まれなので沖縄の問題はよく知らない」と言い放ったことはよく知られている。
記者会見での菅の応答のお粗末さを見ると,菅という男の能力不足がよくわかる。自分の意見の根拠が説明できず,そのために,質問者に正面からの返答ができず,はぐらかして逃げることしか出来ない。「何も,矛盾はありません」,「御指摘の点については,当たりません」,「法律に基づいて適切に対応しました」,「その質問に答える必要はありません」,「お答えを差し控えます」
首相となった今も,「逃げの答弁ばかりが続く」,「側近が用意した原稿を読むだけ」,「答えを控えます内閣」と,多くの新聞で菅は酷評されている。安倍の悪政を "引き継ぐ" としている菅の内閣は,どうせ短命であり,国民からバカにされて早々に退陣する,と私には思える。国民をなめている非礼で無能な首相を,日本国民は放置しておくべきではない。
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NHKの受信料の強制徴収
November 24, 2020
先日から,NHKの受信料を支払わない世帯に対して,割増金を上乗せして支払わせることが出来るべく,総務省にNHKが要求しているとの報道がある。「不当な支払い逃れに割増金を課す制度を法制化する」との報道もある。
私は,30年くらい前に,何らかのきっかけで,NHK受信料の支払いを停止した。その後,NHKからは,なんの音沙汰もなかった。しかし,この2,3年は,年に一度くらい,受信料回収の委託会社や,NHKの職員が,自宅に来て,私に支払いの請求をするようになった。
その際は,いつものように,私は以下の理由を述べ,それに抗弁できない職員にお帰りいただいている。彼は「御意見を局に伝えます」と言って帰る。
(1)私は受信契約と受信料支払いの制度そのものには反対しない(その製作には相当に時間も費用も要したであろうと思える優れた番組がNHKに多くあることを認めるためである)。実際,30年くらい前までは受信料を払っていた。しかし,当時のNHKの何らかの不祥事を機会に,私は,受信契約を破棄し受信料の支払いをやめた。
(2)「公共,中立,不偏不党」の放送法遵守の精神にNHKが立ち返ること。NHKの新潟支局長による「公共,中立,不偏不党の報道を守る」という内容の誓約書を私に出していただきたい。それを受領したら私は受信料を支払う。
(3)NHKの予算決定と運営を,政権党ではなく第三者機関に委ねるための法改正が必要。もちろん,NHKの会長や経営委員の人事を公選制にしなければならない。そうでないと,いつまでたっても,「NHKは政権の意向を忖度した国営放送」という惨状が続く。
そのために,私のように,民法533条「同時履行の抗弁権」を根拠としてNHK受信契約の締結を拒否する者に対して,NHKは抗弁できない。(現状は,放送法遵守義務違反であるから,同時履行の抗弁権,即ち,双務契約履行の義務により,NHKが約束を守らないのであれば,視聴者は受信契約を締結する義務はない。)
(4)テレビを持つ国民全体に受信契約の締結と受信料の支払いを義務付けたいのであれば,全ての反社会的団体の事務所や人間にも,それを要求して全員に受信料を払わせているか。高齢者,学生,若い夫婦など,”取りやすい相手” にだけ強い態度で受信料の支払いを要求する現状は受信料制度の平等性に反する。
民事裁判になれば,私は上記の不払い理由を強調するであろう。NHKの受信料については,いくつかの解説がある。
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日米安保条約第5条の検討
November 13, 2020
菅首相が次期アメリカ大統領とされるバイデン氏との電話会談により,尖閣諸島の件(中国による不法侵略への対処)について,日本に対するアメリカの応援を約束したとされる報道がある。しかし,本当に,そして,安直にそう受け取って良いのだろうか。日米安保条約の中核をなすとされる下記の第5条を見てみよう。
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「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」
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この条文は以下のように読み取れる。
「日本とアメリカは,日本国の施政の下にある領域における、日本またはアメリカに対する武力攻撃が、日本またはアメリカの平和及び安全を危うくするものであることを認め、日本またはアメリカの憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」
つまり,「日本の領域における他国からの武力攻撃は,アメリカにとっても危険であることを認めるが,アメリカはアメリカの憲法に従って共通の危険に対処し行動する」ということである。
すなわち,他国から日本の領域への侵略が認められる場合の日本の武力防衛について,アメリカ議会におけるアメリカの憲法上の規定と手続が承認されなければ,アメリカ軍には日本の防衛を支援する義務はない。「あれは,日本と**国との争いであり,アメリカ軍が出動するほどの”アメリカへの危険”はない」とアメリカ議会で結論されれば,アメリカ軍は出動の義務を負わない。この点が,日米安保条約とNATO(北大西洋条約機構)との大きな違いといえよう。
(尖閣諸島に中国軍が侵攻しても,それで在日アメリカ軍が出動するとは限らない。竹島に韓国軍が侵攻したとしても,北方領土にロシア軍が駐留しても,それらは日本と韓国との間,日本とロシアとの間で解決するべき案件であり,アメリカ軍は出動しない。)
日本の報道機関は,菅とバイデンとの電話会談による”支援約束”について,安保条約第5条との関連を正確に検討し,日本国民に報道しなければならない。外交関係の法律の専門家の意見を聞きたい,と私は思う。
なお,外務省の解説では,以下のようになっている。
「第5条は、米国の対日防衛義務を定めており、安保条約の中核的な規定である。
この条文は、日米両国が、「日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃」に対し、「共通の危険に対処するよう行動する」としており、我が国の施政の下にある領域内にある米軍に対する攻撃を含め、我が国の施政の下にある領域に対する武力攻撃が発生した場合には、両国が共同して日本防衛に当たる旨規定している。
第5条後段の国連安全保障理事会との関係を定めた規定は、国連憲章上、加盟国による自衛権の行使は、同理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの暫定的な性格のものであり、自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置は、直ちに同理事会に報告しなけ
ればならないこと(憲章第51条)を念頭に置いたものである。」
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菅政権の閣僚の危険性
November 9, 2020
どのような職業や地位にあろうとも個人の思想信条が自由であるのは当然だが,国の政治に責任を持つ政権の中枢にいる閣僚の多くが,このような胡散臭い宗教団体(霊感商法などで社会的な批判を浴びている統一教会を含む)に属しているのは,異常であり危険に思える。こうした”閣僚”に,政治家としての自由と民主主義,思想信条の自由などの精神的基盤を期待できるだろうか。
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菅には首相の職は不相応
November 7, 2020
内閣発足の早々に,予想通りに,やはり菅の無知,無能ぶりがマスコミに叩かれている。
今後も,こうした報道が続々と出てくるであろう。菅は早々に退陣するべきなのだ。
菅には政治家としての資格と能力はなく,安倍のコピーでしかない。それが菅の限界であろう。
団塊世代の私と同年の菅は,青春時代に「まともに学んだ」ことがないようだ。昭和40年代の前半は,大学問題,ベトナム反戦運動、安保,沖縄返還問題などで,日本社会が大きくゆれていた。しかし,当時の菅にはそれらは全く無縁であったために,今もそれらには全くの無知のようだ。
もちろん,学問の自由や人権問題などは,菅にとっては別世界の話。日本学術会議の設立意義や社会的役割など,菅には到底,理解不可能なのは当然と言えよう。
官房長官のとき,面会に来た沖縄県知事に,菅が「戦後生まれなので沖縄の問題はよく知らない」と発言したのは有名である。
菅は,結局は公約通り,前任者の安倍と同じことをするしか選択肢がない。こんなお粗末で危険な首相には,早急の退陣(退散)を私は強く望む。
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現在の原子力発電の実状
November 3, 2020
「原子力発電は,地球温暖化のガスを出さない」は,全くの間違いである。原発の稼働には莫大な量の石油燃料を使うことを,忘れてはならない。
経済学者の伊東光晴氏は,著書(「君たちの生きる社会」P.38-56,ちくま少年図書館39,筑摩書房 1978年)の中で以下を述べている。この本は,原発の非効率な実状を易しく解説し,将来のエネルギ問題の解決法を示唆する,とても良い本である。
(1)原発の燃料(ウラン)を採掘するには,石油燃料を使う動力機械が必要である(つまり,石油なしには原発は不可能)P.38,39.
(2)原発が理想状態の稼働率で発電したとしても,その発電量の1/3 近くが,原発の稼働期間終了後の再建や原発自体の維持費に必要とされる。エネルギを作り出す装置の中で原発ほどたくさんのエネルギを必要とする設備はない。原発が発電するエネルギよりも,その発
電のために必要なエネルギの方が多い。P.40
(3)原発は,大量の石油燃料を消費するが,加えて,核燃料廃棄物の処理にも多額の費用と手間と時間がかかる。経済効率が極めて低い。P.41
(4)原子力発電は無駄が多く,その上,とても高くつく。稼働させると,止めることが出来ないので,夜間の発生電力を有効利用するべく水力発電所を併設しなければならない。そのため,原発による電力料金はとても高価になる。P.52,53
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以下は,私の以前の投稿記事(2016年4月21日)である。
なお,後に,送電線の容量には,実は十分な余裕があることが,報道されており(2018年3月8日朝日新聞),”送電線がパンク状態” という流布は間違いであることが判明している。
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日本の電力供給事情を良く見てみると、実は、現在の日本では原発がなくても大丈夫なのである。福島の事故以来の5年間の日本の電力供給状況を見ると、それが証明されているのである。電気製品の省エネルギ技術は日々進歩しており,また,自然エネルギー、とくに太陽光、風力エネルギーの利用が急速に進んいる。今日ではこれらのエネルギーが増えており,送電線がパンク状態と流布されている。
では、電力会社や経済界が、それでもなお原発の再開を要求するのはなぜか。何の事はない。電力会社の経営者が「原発は利益率が高い」と誤解しているのである。さらに,経済界による近視眼的な安手の商売根性に過ぎない。
2016年3月に,大津地裁は関西電力高浜原発3、4号機の運転差し止めを命じた。それに対して,関西経済連合会の角和夫副会長(阪急電鉄会長)は会見で「なぜ一地裁の裁判官によって国のエネルギー政策に支障をきたすことが起こるのか」、「憤りを超えて怒りを覚える」と語ったという。
報道によれば,再稼働による電気料金の値下げで、阪急電鉄だけで年間5億円の鉄道事業のコスト減を見込んでいたようだ。関西にはパナソニックやシャープ、中小企業の集積地がある。「関西全体ではかなり大きな影響になる」と見込んでいたようだ。
しかし,2年前、関電大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じた福井地裁の判決は,「多数の人の生存に関する権利と、電気代の高い低いの問題などを並べて論じること自体、法的には許されないことである」と述べているとのこと。
現在の原発の技術水準では、原発導入による、実際の収支は良くない(導入のメリットがない)ことがわかっている。つまり、莫大な建設費用、燃料廃棄物の処理費用(その処理方法さえも今だに未解決問題)、安全対策費用、事故後の莫大な補償費用と大規模な放射能汚染,などを考慮すると、現在の技術水準のままでは、原発は採算的にも全然割に合わないのである。 ドイツをはじめヨーロッパでは脱原発をめざしている。
幸いに今日の日本では,建設後40年以上過ぎた原発を原則的に廃炉とする動きが広がっている(その「原発40年規制」を骨抜きにしようとする安倍政権への危惧を指摘する声もある。2016年4月21日,朝日新聞 社説)。
日本原子力発電は,廃炉事業を専門とするアメリカの会社(エナージー・ソリューションズ)から廃炉技術の導入を決定した。
こうした中で,熊本大分大地震の余震が続いている現在でも,”川内原発は大丈夫”と強弁する丸川大臣の姿は,まさに電力業界の操り人形に見える。これでは,マスコミから袋叩きにあっているのは当然である。
なお、現状の原発を否定することは、「原子力エネルギの利用」そのものを否定することではないことは、勿論である。 今後,放射能に危険がないような、あるいは抜本的に少ないような、新しい原発、例えばトリウム改良型、核融合などの研究開発を推進すべきであると,物理学者は主張している。
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全員が任命拒否をすればよい
October 6, 2020
「説明を嫌い,結論は正当だと,ただ繰り返す菅の姿勢は,首相になっても変わらない」(2020年10月6日 朝日社説)
だが,今回の暴挙には私は驚かない。一方,官房長官時代からまともに質問に答えられない能力不足と,若いときから,まともに勉強して来なかったことによる,無知な男の今後も続くであろう暴走の蓄積(安倍と同じ)を私は危惧する。
物理学者の大槻義彦氏(早大名誉教授)は以下を述べている。これが普通の考えであろう。政府が任命拒否者を出したならば,任命された者の全員が任命拒否をすればよいのだ。
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「6名の学者を排除したのだ。菅総理ののおもい上がり、無知の結果である。つまり菅は日本学術会議を『御用学者会議』にしようとした。政府の御用学者集団なら学術会議などいらない。政府各省の諮問機関でいいのだ。
今回めでたく任命された会員よ、御用学者の汚名に甘んじるのか!? この際、全員任命拒否を表明して、抗議の意思を示すべきだ。」
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信条の原点
October 3, 2020
「政権の意向に反対する官僚は異動させる」と公言した首相の菅。その結果,官僚の勤務の中に定着する面従腹背の姿勢。これが行政官庁の職員の”生きる道”なのであろう。
自分の勤務する省庁に現れたトップの意向を”忖度”し,”言われた通りのことをする” のが宮仕えの職員の宿命らしいが,こうした事例は,他にもたくさんある。文科省による,全国の公立学校への「君が代斉唱の強制」も,その典型例であろう。
官僚による ”忖度姿勢” を防ぐ方策は本当にないのだろうか。人間の信条の原点は何か,についての15年前の私の意見を再掲する。
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学術会議会員の任命拒否
October 2, 2020
「日本学術会議が推薦した会員候補6人を菅義偉首相が任命を拒否した」??
菅という男は,自分の行為が自分の墓穴掘りを加速していることに気がついていない。
私と同年の菅は,決して「叩き上げの苦労人」ではない。報道によれば,実家は裕福なイチゴ農家であり,彼の姉は大学を出て教師となり、弟も大学卒。しかし、菅は,勉強ができなくで大学へ行けず,そのため,高卒で東京へ出て働き,仕方なく大学の夜間部へ通った。
卒業後は,ごく短期間、会社に勤めた後に、政治家の秘書となり,その後,横浜の市会議員となった。その後は,大物政治家にすり寄ったらしい。
記者会見での菅の応答のお粗末さを見ると,菅という男の能力不足がよくわかる。自分の意見の根拠が説明できず,そのために,質問者に正面からの返答ができず,はぐらかして逃げることしか出来ない。
「何も,矛盾はありません」,「御指摘の点については,当たりません」,「法律に基づいて適切に対応しました」,「その質問に答える必要はありません」...........
なお,安倍の悪政を "引き継ぐ" としている菅の内閣は,どうせ短命であり,国民からバカにされて,早々に退陣するであろう。
菅が率いる内閣には何も全く期待できないのは当然であるが,私は,それよりも,安倍と同様に菅が国政を踏みにじり,私物化し,暴走を重ねることを危惧する。よって,余りにも道を外した姿勢(菅には自覚不能だが)が出れば,日本国民は,直ちに「菅内閣の打倒」に立ち上がるべきだ。
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福島原発の損害賠償裁判で国と東電側が敗訴
October 1, 2020
物理学者の大槻義彦氏(早大名誉教授)は,ブログ(2020年10月1日)の中で,「福島原発事故、国と東電側敗訴、住民への損害賠償命じる判決、当然、なぜ今頃?」と題して,以下を述べている。私も全く同感である。なお,福島民報もこの判決を大きく報道している。
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(朝日新聞からの引用)
東京電力福島第1原発事故時に住んでいた福島県、隣接する宮城、茨城、栃木3県で被災した約3650人が国と東電に損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決で、仙台高裁(上田哲裁判長)は30日、国と東電に対し、原告3550人に計約10億1千万円を賠償するよう命じた。
(引用終わり)
国と東電への損害賠償(請求訴訟の裁判で)は,地裁段階では約半分の地裁は(で)損害賠償請求を(が)却下された。それが高裁段階で逆転、住民側勝訴となったのだから大きな前進である。しかしこの大きなニュースを大きく詳しく報じたのは、私の知る限り朝日新聞ただ一紙だけだった。(カッコ内は石田の補足)
原発は日本学術会議の反対決議を無視してアメリカから軽水炉を輸入し、無理やり設置したのは国の強大な政治判断だった。悲惨な事故に国の責任がない、などという地裁判断は日本の原発設置の実態を知らない幼稚な判断だったのだ。
福島事故の原因はごく単純なミスの重なりから起きている。
1.国が手のつけられない危険なメルトダウンの危険がある軽水炉を輸入したこと
2.福島原発の立地の丘は15mもの高さがあったのにそれをわざわざ半分に削って低くして設置したこと。これでは10m以上の津波に耐えられない。
3.電源喪失で冷却装置が止まったとき、予備のバッテリーは津波のくる地下に設置していたこと。
4.電源喪失のときすぐ東北電力の高圧送電線が近くを通っていたがそれからすぐ引き込む取り決めも準備もなかったこと。
5.電源喪失で冷却できなかったとき外部から冷却する放水車の準備もしていなかったこと。
6.そして極めつけの大きなミスは電源が喪失したとき、蒸気で冷却ポンプを動かす装置があったがこれの運転訓練が皆無で運転員100名の誰も手動運転ができなかったこと。
これだけ聞けば裁判官(とくに地裁の)も国と東電の無責任ぶりにあきれるはずだ。裁判の証人に私を呼びなさい。
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熱中症の体験
September 15, 2020
15年前の6月末,長岡市で信濃川の堤防を走る市民マラソン大会(壮年の部,10km)に出た。高温高湿の中を走り続けて9kmの地点まで通過したのは憶えているが,その後の記憶がない。気がつくと,そこは病院の救急治療室。「熱中症で倒れて救急車で搬送された」と言われたが,全く記憶がない。
救急治療室では,複数の看護師が私を取り囲み,うちわで扇ぎ,水を飲ませてくれた。それが彼らの仕事とはいえ,私は本当に感謝したものだ。担当の医師からは,今日の日付と曜日,住所,生年月日などを矢継ぎ早に質問され,私の応答が少し遅れると「はい,入院!」と宣告された。
その後,医師から「ここは医師の卵の現場実習の病院になっているのですが,あなたの症状を彼らに見せてもいいですか?」と訊かれたので,了承すると,数人の若い女性(医学部の学生)が入ってきた。するとその医師が「はい,これが熱中症です」と私を紹介し,続いて,その女性たちが,パンツ一枚の姿で横たわっている私の手足を触り,昆虫観察をするかように私を”観察”していた。私は,まさに「マナ板の鯉」であった。
その後,尿検査と血液検査を受けて,私は一週間入院したが,急な入院を宣告された時に,すぐ脳裏に浮かんだのは,職場への連絡と,明日からの仕事をどうしようか,であった。(病院に駆けつけた家内にあれこれと指示して,なんとか切り抜けた)「これが,一家を支える男の当然の心理だろうな」と深く納得した。
退院後は,「他人と競争するようなランニングは,もうやめよう」と決め,あれ以来,マラソンの大会には出なくなった。小学生の時に,真夏にセミ取りをしているときに,気分が悪くなり(めまいと吐き気),木陰で座り込んで,しばらく休んだことがあったが,あれも軽度の熱中症であろう。こうした体験があるために,熱中症で人が倒れる事故を見聞すると,他人事とは思えなくなった。
高齢者になると,若年層よりも相当に多くの水分補給が必要らしい。そのため,夏には,日常的に水分をたくさん摂る必要があるようだ(自分もその年代に入った)。
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「大学ランキング」なる記事のデタラメさ
September 10, 2020
「大学ランキング」なる記事のデタラメさは,すでに識者には周知のことであり,全く信用できないのは当然であるが,最近,またしてもイカサマ記事が出ているので,物理学者の大槻義彦先生(早大名誉教授)がブログ(2020年9月8日)で以下を述べている。こうした ”クズ記事” が一般庶民に流布されることの危険性を,私も思う。
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「世界『大学ランキング』発表、いつものことながらインチキ」
イギリスの出版社『高等教育=Times Higher Education』が今年も世界の大学のランクづけを発表、例によって韓国朝鮮中央日報chousunnonlineが大きく報道した。日本の新聞も日経などが報道したが,他の報道機関は無視するところが多かった。
その大学ランキングは次のとうり。
1位には前年に続き、英国のオックスフォード大学2位はスタンフォード大学、3位はハーバード大学、4位はカリフォルニア工科大学、5位英国と米国の大学。
韓国の大学のランキングを見ると、ソウル大学(60位)、 KAIST(96位)、成均館大学(101位)、浦項工科大学(151位)、高麗大学(167位)、蔚山科学技術大学(176位)、延世大学(187位)の順で、200位以内に7校がランクインした。
一方、日本の大学で200位以内に入ったのは東京大学(36位)、京都大学(54位)2校だけ。
大学のランクは(こんなものに意味があるとすれば)その研究成果で行われるべきだ。その成果とは世界の超一流論文誌に発表された論文数とその引用割合である。物理学の分野でこれをみれば世界一位は多分東大になるはずだ。トップ10に入ったオックスフォード、ケンブリッジ大学など問題にもならない。
東大には理学部物理学科のほか工学部物理工学科、教養学部相関基礎科学がある。その他にノーベル賞クラスの研究者27名の研究員のいるカブリ数物連携宇宙研究機構、原子核研究所、物性研究所、乗鞍宇宙線研究所、神岡宇宙線研究所、山梨宇宙線研究所、カミオカンデなどの研究所が君臨している。
この研究体制をみればオックスフォードなど足元にも及ばない。200位にも入らなかった大阪大学、名古屋大学、東北大学などもオックスフォードよりは上位のはずなのだ。
それなら一体なぜこんなおかしなランキングになるのか。それは評価基準に『国際化』と『産業力』など、おかしな項目が入っているからだ。国際化化?つまり海外からの留学生の割合。海外からの研究者の受け入れ数。
アメリカ、イギリスの大学には場合によっては半分以上の海外からの留学生がいる。(ちなみに東大では3年前たった一人の留学生がいた。) 海外留学生が多ければ研究室に居残る海外研究者の数も多くなる。
笑えるのは朝鮮中央日報だけあって『200位までに韓国の大学7校、日本は東大と京大2校だけ』という記事。泣けてくるなあ! 大阪大学、東北大学が高麗大学、延世大学にも及ばないとは。これだけ見てもこの「THE大学ランキング」がいかにインチキかが分かる。
こわいのは文科省などの高級官僚がこのランキングを鵜呑みにして大学にろくでもない『国際化』を押し付けてくることだ。すでに大学補助金の配分に留学生の数、教員スタッフの比率を勘案してきているという噂。
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情けなくなる
August 10, 2020
「月極駐車募集中」The moon ultra parking is being recruited.
いやはや,こういう馬鹿げた ”英語もどき” の表示。滑稽を通り越して,情けなくなる。オリンピックで日本に来た外国人にはどう映るだろうか。
路線バスでよく見かける表示の ”Non Step Bus” や "ノンステップバス " は,最初にそれを見た時には私は意味がつかめず,乗降口に階段がないバスなのかな,とも思った。どうやら,身障者や足の不自由な乗客に対応した,車内の床に段差がないバスのことらしい。しかし,これは外国人にはどう映るだろうか。
Non-stop Bus や,"ノンストップバス" ならば目的地まで無停車の直行便であることが想像できるが........もっとも,カタカナで表示されていれば,外国人には,単なる”日本文字の模様”として映るだけかもしれない。普通に考えれば,例えば,Stepless Floor Bus, Full Flat Bus, Barrier Free Bus, Flat Floor Bus など, いろいろ思いつく。
新国立競技場やバス会社は,英語表示の適否をNative Speaker に確認していないようだ。
これが日本の巷にあふれる ”英語もどき” の表示の実態である。滑稽を通り越して,情けなくなる。
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これがかつては都知事とは!
July 30, 2020
あの石原慎太郎が,またまた,ひどい差別発言をして社会の顰蹙を買っている(毎度のことであり,驚かないが)。
毎日新聞は「石原慎太郎氏の差別発言はなぜ繰り返されるのか。「業病」ツイートの根底に優生思想」と題する記事を出している。
以前,東京都民はこの人物を知事に選んだ。私にはその理由が到底理解不能だ。以下は,アマゾンでの書評だが,私も同感である。しかし,バカにつける薬はないのだ。
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『貧困なる精神 M集』のメインたる『石原慎太郎の人生』は『週刊金曜日』1999年7月7日号の特集『石原慎太郎なる幻影』に寄せて書かれた論考である。
反石原の立場で、石原の政治家の『年代別』の行動と批判、佐高信と石原慎太郎の対談と共にこの特集のメイン的な位置付けで書かれている。
本多勝一は石原慎太郎を『ウソつきと卑劣な小心者とをこねて団子にしたような男』と評している。全く同感だ。
自分の言辞に反対を表明する人間に対しては罵詈雑言を浴びせるか、怒鳴るかの石原。『ああいう人達に人格はあるのか?』『一部の馬鹿な左翼』『共産党はハイエナ』などは、まず公人で一自治体の首長である人間が発言していい内容ではないが、同時にこれらの発言は彼の臆病さと小心さがにじみ出ているではないか。
彼の感情的な言辞には、論理的な裏づけも何も無い、彼の主観と偏見だけが先走る政治家として致命的な欠陥がある。自分と違う思想、違う人種・民族に容赦無く暴力的な侮辱を投げつける石原は所詮弱虫でしかないのだ。
この本の『石原慎太郎の人生』には、本多勝一一流の批判精神が冴えている。堀江謙一の『冒険』と石原慎太郎の『冒険』を対比して石原の臆病さを抉り出す。臆病者ゆえ、自分に反対する人間を過剰なまでに叩き、しかも根本的で論理的な反論は出来ない。
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自動翻訳の利点と現状
July 20, 2020
インタネットで提供される"自動翻訳”の機能は,時々,意味不明な,また,思わず笑ってしまうような珍訳や ”トンデモ日本語訳” を表示する。(Facebook による”自動翻訳”を見ると,日本語の体裁をなしていない意味不明なデタラメが多い。「元のテキストを表示」させてみると,その原因は,初歩的な文法の間違いと単語の意味の取り違えによることがすぐに分かる)
しかしそれでも,自分の全く知らない外国語の文章について,”自動翻訳” が ”日本語もどき” に訳してくれるのは,その文章の意味が全く不明であるよりは,格段に助かることである。道具としての”自動翻訳” の利点を私はそのように容認したい。
自動翻訳の機能は,いろいろなサイトで提供されているが,その中で,Google 翻訳は,他の翻訳機能と比較してみると,多少の間違いやぎこちなさがあるにしても,かなり正確な訳文を出すようだ。なお,AI機能の一層の進歩と支援により,自動翻訳は今後も相当に進歩していくと思える。
以下は最近のFacebookにおける”自動翻訳”の実例である。Facebook本社は,早急に機械翻訳のエンジンを別のものに変更するべきだ。
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(1) This girl is feeding the world's longest alligator.
この女の子は世界最長のワニを食べています.
(2) Words escape me at the beauty of this picture! Ooh for some clears skies!
この写真の美しさに言葉が私を逃れる! おお, 晴れた空に!
(3) It's not every day you see people restocking their lake with fish!
魚で湖を補給している人を見るのは毎日ではありません!
(4) The early bird catches the worm. The hoopoe bird can be found across the Europe, Asia, Africa and Madagascar. Their bill is very muscular and can be opened while stuck in the ground when the bird is looking for food.
早起きは三文を捕まえた。ヨーロッパ, アジア, アジア, アフリカ, マダガスカルの全土で見つかるホープバード. 彼らの請求書は非常に筋肉があり, 鳥が食べ物を探しているときに地面に閉じ込められている間に開けることができる。
(5) On July 19, 1776, the Declaration of Independence was "fairly engrossed on parchment to be signed by every member of Congress." For today’s sixth stop on the Virtual Journey of the Declaration of Independence, let’s listen to Timothy Matlack explain how he penned the official version of the Declaration that you see on permanent display at the National Archives in Washington, DC.
1776年7月19日, 独立宣言は."議会議員全員が署名するためのパーチメントにかなり書き込まれた"でした。今日の独立宣言のバーチャルジャーニーの第6回目の停留所について, ティモシーマトラックがワシントンDCの国立公文書館で見ている正式な宣言をどのようにペンしたのかを聞いてみましょう。
(6) Japanese rocket carrying UAE Mars probe blasts off.
アラブ首長国連邦の火星探査機を搭載した日本のロケットが爆発。
(7) These enchanting acrylic pour paintings will take your breath away !
魅惑的なアクリル注ぐ絵画は息を引き取る!
(8) Soak in the summer at Lake Hattie. Did you know there are Kokanee salmon stocked in Hattie?
レイクハティで夏に浸かる。 HattieにKokaneeサーモンが入荷していることをご存知ですか?
(9) These wild encounters are a real reminder that we all need our own space... including the animals!
これらのワイルドな出会いは, 私たち全員が自分のスペースを必要とすることを本当のリマインダーです... 動物も
(10) The Hope spacecraft has begun its 500-million-km journey, in the United Arab Emirates's historic first mission to Mars.
希望の宇宙船は, アラブ首長国連邦の歴史的な火星への最初のミッションで500万kmの旅を開始しました。
(11) The official portraits of former Presidents Bill Clinton and George W. Bush were removed from the Grand Foyer of the White House within the last week, aides said, and replaced by those of two Republican presidents who served more than a century ago.
ビルクリントン元大統領とジョージWの公式肖像画 ブッシュは先週, ホワイトハウスのグランドフォイヤーから削除され, 補佐官は, 世紀以上前に働いていた共和党の人の共和党大統領に置き換えられた。
(12) Just 15 days after losing their mother, the father of two young brothers also died due to complications from the virus.
母親を亡くしたばかりの15日後, 15人の弟の父親もウィルスによる複雑な影響で死亡。
(13) The late Rep. John Lewis is brought into the US Capitol Rotunda, where he will lie in state. The ceremonial tribute honors the lives of American statesmen and military leaders.
亡き代表. ジョンルイスは米国首都ロトンダに連れ戻され, 彼は州に嘘をつくだろう. 儀式の賛辞は, アメリカの政治家と軍事指導者の命を称える。
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最近,友人から,”Google 翻訳” よりも優れているとして,無料の自動翻訳機能である "DeepL Translator" を紹介された。早速,いくつかの例文で試用してみたが,なるほど,これは優れていると私も実感した。 インタネットにおける評価も高く,「グーグルを超える話題のDeepL翻訳の実力はいかに?」との記事が出ている。
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外交努力と同時に国防力の整備を
June 22, 2020
北朝鮮からのミサイル打ち込みを防ぐには,日本はどうしたら良いのか。「敵がミサイルを発射する前に,敵のミサイル基地を叩く」ことを検討したい(安倍晋三)というのは,専守防衛を謳う日本国憲法の基本をわきまえない無知な人間の幼稚な愚論であり,このような者が首相であることを,私は情けなく思う。安倍は政治家としての能力と資質に欠ける。
外国との関係で大切なことは ”相手を攻撃しない信頼関係” の構築であろう。それには高い壁があり,長い年月が必要だが,外交努力というものはそういうものであろう。
日本としては,その努力に加えて,専守防衛の力量をいっそう高めることが必要だと私は思う。(50年くらい前の日本で,一部の政党が主張していた ”非武装中立論” は,独立国家としての自覚が欠落した無責任論の典型である)
「真の独立国家とは自国民の生命と安全を自力で守れる国」と考えるならば,日本が「専守防衛の力量を高める」ことは当然であり,それはアメリカの武器を要求されるままに大量導入することではなく,日本の国防意識と安全保障のあり方を国民の中に再構築することであろう。「独立国家の防衛能力」の大切さ(強固な国防軍の重要性)を,国民の中に子供の時代から理解させることであろう。こうした考えは,私だけではないと思う(2020年6月22日朝日投書)。
なお,憲法学者の間では,「憲法第9条は自衛権を禁じてはいない」とするのが定説であり,そうであれば,独立国家としての国防力の整備のためとして憲法第9条を改変する必要は全くない。もちろん,”集団的自衛権” などは撤廃しなければならない。安倍晋三の ”解釈改憲” の策動を日本国民は決して許してはならない。
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陸上イージスも辺野古移設も廃案に
June 17, 2020
陸上配備型のミサイル迎撃システム「イージス・アショア」の計画を停止するという決定。「ようやく今頃,まともな決断が出たか」というのが大方の国民の印象であろう。
「この決定は”導入ありき”の破綻だ」,「陸上イージスが合理的でないならば,軟弱地盤の存在が明らかになった辺野古への移設も合理的ではないから廃案とせよ」とする意見(2020年6月17日朝日社説)は,当然といえよう。
日本に向けてミサイルを打ち込む国があるとすれば,それは北朝鮮しかない。しかし,実際にその暴挙に出れば国際世論からの激しい批判,自国の孤立,金王朝の崩壊,という ”自国の大損害” につながることを計算できないほど,北朝鮮政府は無能ではないはずである。
日本に向けて北朝鮮から発射されたミサイルは,数十分で着弾する。その発射を確認し,続いて日本から発射した迎撃ミサイルを飛行中のミサイルに命中させて破壊する技術は,極めて難しい技術である(通常は不可能!)。
日本中のいたるところで身近に頑丈な防空壕が建設され,その中へ逃げ込む緊急避難の訓練が日常的に実施されていなければ,どんな都市でも(特に真冬の日本海側の市町村では),”Jアラート” などは全く無効,無駄であり,”子供のかくれんぼ” に過ぎない。日本人はミサイル着弾による物的,人的な大被害から逃れることはできない。(2017年9月1日の記事を参照)
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日本の宇宙開発に民間の協力を
June 16, 2020
「日本の宇宙開発を,民間も協力して進めよう」とするこの意見(2020年6月16日朝日社説)に私は同感である。
こうした動きには,通常は「軍事研究への利用」を懸念する意見が必ず伴うが,今の時代は,そうした意見を一蹴する勢いで,宇宙への挑戦と技術開発の国家的なプロジェクトが進んでいる。「宇宙活動法」により民間企業もロケットの打ち上げができるようになった。AI(人工知能)による技術革新も宇宙ビジネスに大きく貢献しつつある。
先日,民間企業によるロケットが北海道で打ち上げられ,大気圏外への到達を目指したが,途中で機体の故障により海に落下した。液体燃料のロケットエンジンとロケット本体の安定な作動は,技術的に極めて高度な要求である(そのために,第二次大戦中のドイツは,国家プロジェクトとしてV2号の開発に莫大な費用をかけ,膨大な実験を重ねた)。
この失敗にめげずに,このような民間企業の奮起を私は期待する。
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人間の節操とは
May 19, 2020
もと新潟県知事の泉田裕彦氏が先の衆議院補欠選挙に出る時の,「国政の立場から県政を見ていきたい」という発言は,当時の米山知事を激しく怒らせた。
「国会議員を県知事の上に置く意識は,傲岸不遜,極まりない。それならば,自分が知事のときの県政で何が不足であったか,何が未完遂だったのか,どういう障害があったのか,などを明らかにするべきだ」と,米山氏は怒っていた。
県知事在任中の泉田氏の失策により,巨額の赤字の原因が発生し,今では県の財政が逼迫しているので,県職員の給与を削減せざるを得ないという状況だ。それは前代未聞のことであり,私は県職員を気の毒に思う。
しかし,「県財政の悪化の原因は自分にはない」と,今も泉田氏は強弁している。私は泉田裕彦という人物を信用できない。
泉田氏のような人物を,新潟県から国会に決して送り出すべきではない,と私は思う。彼をよく知る古賀茂明氏は「泉田は“究極の演技派”にすぎない」として,こう述べている。
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誤判の究明には意見書の検証も
April 16, 2020
誤った裁判があれば,「その原因の究明を,国の制度として確立しなければならない」とするこの意見(2020年4月16日朝日)に私は全く同感である(なお,この意見の中で述べられている「再審無罪となった大阪の女児保険金目的殺害事件」とは,東住吉事件である)。
加えて,裁判の中で,専門家としての意見陳述や意見書提出を依頼された者の「研究者としてのモラルの確立」の重要性を私は強調したい。
依頼された者が,大した専門知識がないまま,依頼者の意向に沿うべくあれこれの推測を込めて意見書を作成することは,専門知識のない裁判関係者(裁判官,検察官,弁護人)を誤った推論に導き,はては誤判に至らせて,無実の被告人の人生を破壊することになる。
(かつて,弁護士から依頼されて作成した私の意見書に対抗して,検察側が依頼した”専門家”が出してきた意見書には,初歩的な間違いがあり,明らかに”専門家の意見書”とはいえないものであった。このようなデタラメな”意見書”が,人が人を裁く裁判にて使われたことに,私は戦慄を覚えた)
誤判についての独立調査には,専門家集団による「意見書の検証」も含まれなければならない。
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入試問題と著作権
April 9, 2020
以前から私も感じていたが,自分の文章が入試問題に使われることなどあり得ないので,やや他人事のようにも思っていた。しかし,「入試問題と著作権」と題するこの意見(2020年4月10日朝日)は,当事者にとって,そして,著作権の立法の趣旨からも大切だと私は思う。
また,「自分の文章に興味を持ってもらえたことは有り難いが,(入試問題に使われて)それが合否を左右したかと思うと複雑な気分だ」というのは,著者としては当然であろう。
ここで私は,「センター試験の国語は適切か」と題する,ある大学教員による以下の意見(2014年2月7日朝日投書)を思い出す。
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「今年の入試センター試験で,国語は古文で出題された「源氏物語」が難しく,話題になった。いつも疑問に感じるのは,古文や漢文が出題の半分を占めるていることだ。古典に関する学習は,その後の大学教育や社会人生活にどれだけ重要で役に立つのだろうか。
そもそも,大学入試は,大学の授業を理解できる基礎学力があるかを問うのが基本理念であってほしい。高校教育が大学入試の科目に翻弄されていることは疑う余地もない。それだけ,入試問題の学校教育に与える影響は大きい。
国語力は読解力以外にも,文章作成や会話術,表現方法など総合学力の根幹だ。多くの大学教員がゼミや論文指導で,学生の国語力の改善に多くの時間を割いている。
英語の出題内容は昔に比べて実用面を重視するようになったが,国語の出題内容もそろそろ改善の是非を問うべきではないだろうか。」
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私はこの意見に全く同感である。私は高校時代に,国語は好きな科目であったが, "国語の試験" には悩まされた。「筆者が言いたかったことは,以下のどれか」などという設問にはほとほと疲れさせられ,苦しめられた。ほとんど毎回 ”正解” に合致せず,点がもらえなかった。
しかし,国語の試験問題の定番メニューとして出てきた文章の原典の著者であった作家や評論家(私の記憶では,その代表格が小林秀雄であった)や随筆家などの文章の中に,実は論理の不完全な,また,文脈と論旨が不明快な "悪文の典型" があることを, 高校卒業後の大学生活の中で知り,腹立たしく思ったものである。
昨年の入試センター試験の国語では,私の記憶の中での "悪文の常習者" である小林秀雄の文章が出題され,やはり,受験生の平均点が低かった。一体,この出題者は受験生に何を要求したかったのだろうか。 この出題者自身は高校時代に,"小林の悪文” に苦労させられたことがなかったのだろうか。出題の原典の著者自身も正解を出せないような国語問題に,私を含む高校生は(さらに出題者も)騙され,困惑させられていたのだ。
そのせいか,1987年に清水義範氏による「国語入試問題必勝法」なる小説が話題になったことがある。この投書にある意見は,極めて重要であり,多くの人々に見て頂く必要があると思う。
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またまた思い出した
April 1, 2020
この記事(2020年4月1日朝日)を見て,またまた思い出してしまった。
はるか昔,凡庸な高校生であった私は,ずいぶん非効率な方法で勉強をしていたと思う。特に,大学入試が近い3年生の後期であるにもかかわらず,面白くて仕方がなかった「数学のワナ」にハマってしまい,他の受験科目にまでは手が回らなかった。「大学への数学」の ”学力コンテスト” や,”Z会の難問”などに熱中し,また,数学の問題集の「全問制覇に挑戦」などという,およそ "受験勉強" とは無縁どころか極めて有害なことに時間を費やして,他の科目の勉強(受験準備)ができなくなってしまった。
(関西の有名な超一流の私立高校のA君は,「大学への数学」の”学力コンテスト”で,いつも満点に近い得点で一位であり,当時の私には彼が雲の上の大秀才に思えた。後年に,彼は東大理学部の数学の教授となり,定年後はある私立大学の数学の教授になった)
「入試は受験科目の総合点で合否が決まる」という,当然のことへの心構えと自覚が,私には全くできていなかった(受験生として失格!)といえる。それがその後の自分にどれほどの不利益と”回り道”をもたらしたかは,今も思い出したくない。
一方,研究者の世界に入ってみると,本来の「勉強のあり方」について,別の側面も見えてくる。本当の勉強とはなにか,研究者としての開拓者魂はいかにして生まれ,かつ継続されるのか,独創性をいかにして生み出すか,と日常的に自問せざるを得ない生活の中にいると,高校時代の自分のぶざまな試行錯誤の日々が,ほろ苦くも懐かしく思い出されることがあった。
研究者であれば誰もが経験していると思うが,未知の課題に挑戦する時,「どのように探索し,攻略するか」という研究戦略の策定には時間がかかる。その後に開始した研究の中でも,「そもそも,正しい解が本当に存在するのだろうか ?」,「本当にこの手法で新しい知見を生み出せるだろうか ? 」という不安に駆られることがある。私自身も,それに何度襲われたことだろう。
しかし,それでも課題に立ち向かっていこうとする挑戦の心理と行動の根底には,やはり,今までに蓄積してきた知識,興味や関心,先人が遺した偉大な業績についての勉強,現在に至るまでの自分の多くの経験,などが大きく働いているのである。その意味で,人間にとって勉強は楽しく,また,それを継続する価値は大きいといえよう。
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日本人の姓の由来
March 10, 2020
日本人の姓を多い順に並べると,佐藤,鈴木,高橋,田中,渡辺,伊藤,山本,となるらしい。私の印象では,さらに,斎藤,小林,山田,なども多いだろう。
はるか昔,高校の入学式で,先生方の紹介の時に「本校には,渡辺という先生が5人いるので,名前か担当科目を言わないと分かりませんよ」と言われたことを思い出す。今日の天声人語(2020年3月10日)は面白い。
日本人の二文字の姓の種類を考えてみると,ある規則性があるように思える。私の印象では,主に,人が居住する地域を表す漢字(山,川,沢,村,谷,原,田,野,林,など)に,東西南北,大中小,上中下,が組み合わさり,その組み合わせ方により多数の種類の姓が生まれることになる。
”大山,中山,小山”,”上村,中村,下村”,”東山,西山,南山,北山”,”大野,中野,小野”,”上田,中田,下田”,”大川,中川,小川”,”大林,中林,小林”,”大沢,中沢,小沢”,などなど,いくらでもある。
もちろん,山,川,沢,村,谷,原,田,野,林,などの間での組み合わせによる姓もたくさんある(谷山,谷川,谷村,野村,川村,山村,野沢,谷沢,山沢,原山,田原,川原,など)。明治の初期に一般庶民に姓が許可された時に,人々は居住する地域,地形,方角などにより,このような組み合わせで姓を創出したのかもしれない。
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年功序列と能力主義の共存
February 20, 2020
企業や大学で,年功序列の環境で仕事をしている多くの社員や教員の中に,能力主義で採用された人材がどう扱われるかは難しい話である。
「終身雇用制と成果比例の処遇制度がセットであることが望ましい」,しかし「トップやその周辺の独断や嗜好に基づく人事評価の”成果主義”は,結局は内向き志向と忖度が横行し,組織が崩壊する」,そのために「組織や個人の成果を公正に評価する仕組みが不可欠だ」と
するこの意見(2020年2月20日朝日)に私は同感である。
しかし,日本社会でこの考えと制度が普及し定着するためには,そもそも,企業や大学が人の採用を ”公開募集による欠員補充方式” に統一する必要がある。縁故紹介による人事採用が横行する企業や,教員を自校卒業者で固める大学には,未来はない。
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史実を認める妥協策
February 16, 2020
何十年も日本で声高に繰り返されている北方領土問題。
しかし,歴史を振り返れば,1951年のサンフランシスコ条約で日本が千島列島を放棄したことは,事実として認めなければなるまい。
「国後,択捉は千島列島に含まれない」と日本政府が繰り返し強弁するだけでは,ロシア側の姿勢をますます固くし,「日本の領土だから返せ」と金科玉条のごとく要求しても,ロシア側は決して妥協しないであろう。「日本は,条約で千島を放棄したのであるから,北方領土問題は解決済み!」との姿勢を崩さないであろう。
隠されてきた史実を公開して国民の冷静な議論が必要だ,とするこの意見(2020年2月16日朝日)に,私は同感である。
現在では,これらの島にロシアの人々が住みついているが,急病人が出たときには北海道の病院に搬送することもある。よって,現実的には,千島列島を日本とロシアの共同管理とするしかないであろう。それにより,日本にいる旧住民の現地訪問や墓参も自由とするべくロシアと交渉するしか解決への道はあるまい。
なお,厳しい気候条件と地理的条件により,千島から引き上げてきた旧住民の中には,「北方領土が日本に返却されたとしても,もはや島へは戻らない」とする人々が多いようだ。
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幼なじみが急逝
February 14, 2020
昨日の午後,電話で知らせを聞いて本当に驚いてしまった。同年で幼なじみのA君が急逝した(私には,”Aちゃん”のほうが呼びやすい)。
幼稚園に入る前から,一緒に遊んでいた。小学校時代も一緒に遊んでいた。木登り,パッチ(東京ではメンコというらしい),コマ回し,小川での魚とり,キャッチボール,相撲,鬼ごっこ,たまにはケンカ.......思い出が次々と溢れ出てくる。
私の転校により,彼とは,中学,高校,大学が違ったが,就職後は,私の実家のごく近所にいる彼と,たまに話をすることがあった。お互いに,父親となり,また,れっきとしたオジサンになった。
私の自宅は彼の家とは離れており,普段はめったに会うことがなかったので,彼の近況は知らない。知らせによれば,ガンの専門病院で,一度,彼を見かけたことがあったとのこと。彼はガンを患っていたのかもしれない。
両親が共に70歳前に亡くなっている彼は,自分も71歳で旅立ってしまった。後には,奥さんと二人の息子が残された。
昨夜は床についても,はるか遠い昔の彼との思い出が次々と浮かんできて,寝付けなかった。暖冬を過ぎた早春のせいか,庭の片隅に群生して顔を出してきたフキノトウを摘みながら,今朝も,彼と遊んだ子供の頃の思い出が,次々と湧いてきた。
団塊世代の中心である私の年齢になると,健康寿命まで,あと15年くらいはあるらしい。
彼の冥福を祈るとともに,その15年間を,私は彼の分まで健康に生きようと思う。
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遺伝子操作が提起している課題
February 12, 2020
今日は,人間が ”遺伝子の操作” をできる時代になった。一方で,その技術により社会に突きつけられている重い課題を,この意見は「”坂道”を滑り落ちぬために」と題して述べている(2020年2月12日朝日社説)。 確かに,とても重い課題ではあるが,今の社会に生きる私達はこの課題を避けて通ることは出来ないであろう。
こうした意見を見聞するたびに,私は,40年くらい前に「治癒不可能な悪性の遺伝病をもつ子どもを作るような試みは慎んだ方が人間の尊厳にふさわしいものだと思う。」と述べて,社会から厳しい批判を浴びた,日頃から右翼的な言動で知られていた,当時の上智大学教授の渡部昇一を思い出す。
私は,以前からその渡部昇一には例えようもない違和感を持っていたが,渡部の意見に接して,改めて無性に怒りが湧いてきたことを今も思い出す。
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入試の小論文と環境問題
February 4, 2020
環境問題を小論文の課題にするのは,受験者に型どおりの見解を強制し,自由闊達な批判精神を摘み取り,自由な発想と思考を制限するものだ,とするこの意見(2020年2月4日朝日)に,私は同感である。
小論文の目的が,受験生に「答えのない課題を主体的に学び,考え,表現することを求める」のであれば,入学願書と合わせてその小論文を提出させるべきなのだ。
そもそも,入試当日の会場で突然の課題を与えて,短時間の間に”小論文”を作成させてその目的が果たせるのか,それは入学試験として妥当なのか,また,その評価の基準が受験生に開示されているのか,などに私は大きな疑問を持つ。
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オノマトペ商品名の普及
February 1, 2020
日常生活の中にあふれる,プリプリ**,とろーり**,やわらか**,などの商品名について,「今の消費社会では,中身の空虚な商品名があふれ,消費者はそれに踊らされているのではないか」,「私達は,増殖する見せかけの新しさに囲まれながら,空虚な記号と戯れるだけなのか?」とするこの意見(2020年1月31日朝日)に,私も同感である。
しかし,商品名に ”オノマトペ名称” が今後も広がるのは,もはや時代の趨勢なのかもしれない。そうであれば,ツルツルうどん,シコシコそば,ヒリヒリカレー,パリパリせんべい,ぷよぷよ大福,こってりラーメン,すべすべクリーム,ピカピカ歯磨き,スヤスヤまくら,ふんわか布団,などなど,”オノマトペ商品名” が今後も無限に生まれてこよう。
これも,日本語の ”豊かさと楽しさ” なのかもしれない。現代は,製品開発の中ではその製品の名称の研究も重要な時代になっているようだ。
こういう本もある。「オノマトペがあるから日本語は楽しい」(平凡社新書)
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国語という授業科目
January 21, 2020
国語の試験問題における長文読解では,普段の読書とは段違いの集中力で問題文を読むことになる。それでも,高校時代の私は,「この段落で,作者が言いたいことは,次のうちどれか」などという設問には悩まされ,なかなか点が採れず,そのため,私にとって,国語は次第に不得意科目になっていった。(特に,小林秀雄の”悪文”には苦しめられた)
私は,しかし,国語という科目が嫌いになったことはない。中学や高校の国語の授業中に,教科書の該当箇所を無視して他のページに出ている文学作品や論説を読んでいるうちに没入してしまい,自分の頭がその時の授業とは離れた世界に行ってしまったことが何回かある。
国語という授業科目に臨んだ,私の当時の姿勢は学習途上にある者として良くなかったかもしれないが,国語が嫌いになったことはない。また,自分に文章作成能力が身につかなかったとも思えない。
後年に,職業柄,自分で文章を作成し,また,他人が作成した文章を読解することが日常の仕事となってみると,今後の高校教育課程の中で,「現代文」という授業科目を「論理国語」と文学国語」に分け,高校生にどちらかを選択させるというのは,単純すぎ,また,見当違いのような気がする。それは,要するに,「文学的情緒を鑑賞する学習と,論理正しく理路整然と文章を作成する学習は別物だ」という視点である。
しかし,私にはそうは思えない。しっかりした文脈で理路整然とした文章を作成する訓練が現状の国語の授業で不足しているだけのことではないか。その訓練が日本の学校教育の現場で不足していることは,私も痛感してきた。(職場の中の連絡文書や学生のリポートにおけるおかしな文章は,全て,話し言葉と文章言葉が区別されていないためであり,在職中の私は,それを忌憚なく指摘して訂正を迫り,職員や学生から私はうるさがられた)
話し言葉と文章言葉を峻別し,しっかりした文脈で理路整然とした文章を作成する訓練は,心の琴線に触れる文学作品や評論を味わうことと何ら相反しないであろう。「現代文」という授業科目を「論理国語」と「文学国語」に分けることに,今日の天声人語(2020年1月21日朝日)は懸念を述べている。私は同感である。
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嘘つき総理とバカ副総理が鎮座する政権
January 19, 2020
「麻生太郎副総理兼財務相は14日の閣議後記者会見で、「日本は2000年にわたって同じ民族、一つの王朝が続いている」などとする自らの発言について「誤解が生じているなら、おわびの上、訂正する」と述べた。」
??「誤解が生じているなら、」だと?
麻生太郎は,自分の発言が自分の無知,無教養をさらけ出していることに全く気付いていない(そのために,失言を繰り返す)。漢字が読めず,日本の歴史も知らないこのような馬鹿者が副総理である。日本国民の一人として,私は情けなく思う。
安倍晋三が,憲法学者から背任罪で刑事告発された。
漢字が読めず,国会でのまともな議論から逃げ,夫人とともに公私混同を続け,巨額の国費を使って外遊を繰り返しては,訪問先の大統領,首相,国王から,体よく鼻先であしらわれて帰国する安倍晋三。
風聞では,オリンピック終了後の9月7日に首相を辞任するらしい。しかし,国民の目は甘くない。森友,加計問題も全く未解決だ。安倍晋三を逃してはならない,と私は思う。日本の戦後政治史に特筆される嘘つき総理とバカ副総理が鎮座する”安倍政権”。オリンピック後ではなく,早急にこんな内閣を退陣させたい,と私は思う。
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受験料そして,日本の大学財政の貧しさ
January 18, 2020
国公立大学や一部の私立大学の受験に必要なセンター試験の受験料は1万8000円(受験が2科目以下ならば1万2000円)。二次試験の受験料は1万7000円。そのため,国公立大学の2校に出願すると,受験料は合計5万2000円。私立大学の受験料はおおむね3万5000円なので,4校受験すると,その受験料は総額14万円。
以前から私も思っていたが,「大学入試制度改革の前に問うべきは受験料のからくりだ」とするこの記事には,改めて納得する。
そもそも,大学がその運営費として受験生から徴収する受験料や入学金を当てにしているとは,情けない話だ。日本の大学は,例えばアメリカの大学に大学の運営方法を学んだらどうか。同時に,大学教育に当てる日本の国家予算の貧しさを私は思う。
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現象をよく見ることの重要性
December 30, 2019
やや専門的な内容になるが,ふと思い出すことを,ここで述べてみよう。30年以上前のこと,アメリカで開催された火災安全科学の国際シンポジウムにて,私は,液体の混合燃料の引火温度について,着火熱源による可燃性混合気への擾乱をできる限り抑制した実験による研究結果を報告した。
ところが,発表の後の質疑応答の中で,燃焼工学の有名な権威であるA先生(故人)が猛然と私に噛みついてきた。しかし,質疑応答の時間は限られているので,司会者の裁量で議論は終了とされた。
A先生の主張の要点は「その研究の結果は,濃度勾配がある混合気中での火炎伝播であり,引火温度(外部の熱源により着火する最低の液体温度)と違うのは当然だ」ということであった。しかし,その時,私の中に生まれたのは,「A先生は,液体の引火温度の測定を,自分で実際にはやったことがないために,その現象の詳細を知らないようだ」という,A先生への大きな不信感であった。(引火温度は固有の物性値ではなく,測定方法により値が異なる)
燃焼現象の科学と工学を学んでいる(来た)者にとって,可燃性混合気の燃焼下限界の濃度が,火炎の上方伝播(下方ではなく)の限界濃度として定義される(浮力の影響があるために)ことは常識であるが,液体の引火温度の測定においては,液面上の近傍空間(密閉式の測定では液面上の直径5,6センチ,高さ1.5-2センチ程度の天井の低い狭い空間)の中の混合気濃度を極力均一にするべく,ASTM(アメリカ機械学会の公認試験方法)やJIS(日本工業規格)では,容器内の液体燃料の温度上昇を極めてゆっくり行ない,さらに,容器内の液体をゆっくり撹拌する測定方式もある。
その後に,着火源(直径2-3ミリの小さな球状の火炎)を液面に極めて接近させ,液面を伝播する明らかな火炎が確認出来た時の液体温度を引火温度としている。(引火の様子は,着火源の小さな火炎が,液面上に生成された可燃性混合気内に引き込まれていくように見える)
そのため,液体の引火温度とは「液体の平衡蒸気圧の上昇により,液面近傍の空気と液体蒸気が混合して燃焼下限界濃度の可燃混合気を生成する液体温度」として説明や定義をしている参考書や論文がたくさんあり,それは実測値と大体一致しているために,その説明は間違いとはいえない(その説明を不可とするのであれば,”着火方法の違い”による”引火温度の違い”をどう解釈するべきか,の議論が新たに必要となろう)。
私の研究発表では,着火熱源による混合気の擾乱を極力抑制するべく,液面近傍に微小な電極を設置し,その電気スパークを熱源として測定を行ない,クラジウス・クラペイロン法則による蒸気圧と,ラウール法則による混合液体の平衡混合気の生成を考慮して,混合液体の引火温度を調べたものであった。
その結果,二成分系の混合液体では,引火温度の低い(高揮発性で可燃性が高い)成分の分圧により引火温度が予測できること,しかし,多成分系の混合液体ではそれがいえず,蒸気圧と引火温度の測定には改善が必要という結論が示された。
二成分系の混合液体については,その引火温度が多くの参考文献に出ている上記の説明(定義)による液体温度と,大体一致することを示したために,私に対するA先生の主張は現象解釈における本質的な異論ではないと,私には思えた(会場では,それをA先生には言わなか
った)。
ところが,燃焼工学に関するA先生の有名な著書(今日でも,多くの研究者に参照されている)の中で,「液面を伝播する火炎は上方伝播とは現象が異なるから,燃焼下限界濃度の可燃混合気を生成する液体温度を引火温度とするのは間違いであり,実測値と異なるのは当然だ」とA先生は断言している。しかし,密閉容器内の引火温度の測定では,容器内の液面上の直径5,6センチ,高さ1.5-2センチ程度の天井の低い狭い空間の中で,液面近傍にて着火させ,しかも,着火後の液面上を伝播する火炎の厚みは空間の高さに近いために,燃焼下限界濃度の可燃混合気を生成する液体温度と引火温度の実測値との差は小さい。そのため,液面に沿って伝播する火炎が上方伝播とは現象が異なることを強調することには重要な意味がなく,A先生の意見は,引火温度の解釈における本質的な異論とはいえない。
また,同じページに,燃焼点(液体燃料が引火した後に,火炎がそのまま存続できるような最低の液体温度)の説明があり,「通常の液体燃料では,燃焼点は引火点よりも数十℃ 高い」と記されている。しかし,これは正しくない。私の実測では,燃焼点と引火点との差は
10℃前後かそれ以下であり,多くの文献にもそのように記されている。よって,著書の中にあるこれらの記述は,燃焼工学の有名な権威とはいえ,A先生が自分で直接その現象を見ていないことに起因すると私には思える。
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生徒の目とその背景
December 27, 2019
先日のニュースに,高校教師の処分の記事があった。
「給食で廃棄処分されるパンと牛乳、約31万円分を4年間にわたって持ち帰ったとして、62歳の男性教師が減給処分を受けました。堺市教育委員会によりますと、市立堺高校に勤めていた男性教師は、2015年6月ごろからことし6月まで、4年間にわたり、廃棄される給食
のパン約1000個、紙パックの牛乳約4200本を自宅に持ち帰って、家族で飲食していたということです。
男性教師は「もったいない」と思う気持ちから廃棄処分を担当する業者に依頼し、1回あたりパン5,6個、牛乳10本程度を用意した箱やかばんに入れて持ち帰っていました。堺市教育委員会は「学校教育の信用を著しく失墜させた」として、男性教師を減給処分にしました。男
性教師はすでに持ち帰った給食の代金約31万円を市に返還していて、25日付で依願退職しました。」
私は,その教師の行為が本当に悪いのか,疑問に思う。「学校教育の信用を著しく失墜させた」ことになるのだろうか。
昭和30年代に貧しかった小中学校時代を過ごした私には,残ったパンや牛乳を捨てることなど,とても出来ない。私がその教師の立場であったならば,残ったパンや牛乳を学校の冷蔵庫に入れて,翌日の給食の時に「もっと食べたい」という生徒にあげるだろう。(それでも残ったら捨てるしかないが)
この記事を読んだ私の印象として,この件の発端は,そもそも,この教師が生徒の中で余り評判が良くなかったためではないだろうか。そのため,普通であれば「余ったパンや牛乳を捨てるよりは,持ち帰る」ことくらいは(ごく少量であれば),大したことではないと私は
思うが(もちろん,それには異論もあろう),しかし,それを見ていた生徒が,その教師の行為を「それは,泥棒だ!」として,学校に通報したのではないだろうか。生徒の中で日頃の評判の良い教師なら,このような通報をされることはなかったと思う。
しかし,法律的には,やはりダメなようだ。では,どうすればよかったのか。こういう建設的な意見がある。ここに述べられている下記の意見には,私も納得できる。
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現場の食品ロスを題材に生徒が学ぶ機会にできたかもしれない。教育的には、学校給食という現場で発生していた「食品ロス」を、一人占めするのではなく、校長先生や他の教員、生徒たちに提示して、学ぶ機会にもできたのでは・・・と考える。
確かに、捨てる食料が減ることで、廃棄コストは減ったわけだし、牛の血液(命)から頂いた牛乳や、農家さんが一所懸命育てた小麦から作ったパンを、無駄に捨てないでちゃんと食べ切ったことは、よかったと思う。
だが、教員が「もったいない」と思って、一人で自宅への持ち帰りを判断し、自分と家族だけでメリットを享受していたことは、教育者としては、適切ではなかったかもしれない。
所属先である市立高校の校長先生や、同僚の先生に相談することもできたかもしれないし、生徒たちに呼びかけることもできたかもしれない。
大阪府堺市の市立高校で余っていた給食のパンや牛乳は、教員が「食べられるものが余って捨てている」と問題提起して解決しようとすれば、教育現場で生徒たちが食品ロスについて学ぶための格好の材料ではあった。
今回対象となった「給食」は、1日3食のうちの1食ではなく、夕方から学ぶ定時制の生徒のための補食だった。「公費負担の補食」が毎日のように余り、処分していたのであれば、そもそも、その必要性や食事内容の妥当性を学校全体で議論すべきだったのではないだろうか。
今回の教員の処分が妥当か妥当でないかを問うアンケートなども、Twitter上でいくつか実施されているようだ。
「食品ロス」は、様々な切り口から議論できる社会的課題である。一次産業、環境負荷や異常気象、経済的損失、法律や倫理など。論点がどこかによって、今回の問題も、処分が妥当かそうでないかは変わってくる。一つの側面から見ただけで白か黒か、正しいか正しくないかを問えないようにも思う。様々な側面から俯瞰して考えるべきではないか。
2008年ごろから食品ロス問題に関わってきた筆者としては、著名人や一般の人が「捨てられる食品」について議論している姿が印象的でもあった。日本社会に存在する、より大量に連日発生している食品ロスや、より悪質な犯罪行為についても目を向け、社会全体で議論し、スルーしたり諦めたりせず、自分ごととして解決に向けていきたい。
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人様の役にたつことを,そして英語の思い出
December 4, 2019
退職してから,多少は人様の役に立てることを(この世から消える前に)しようと,数年前に新潟市のシルバー人材センターに登録した。もともと好きだった英語を使う職種をリストアップして登録したところ,いくつかの仕事をいただいた。
その一つで,私が訳したPaul Spooner の本がイギリスで紹介されていた。(なお,若手教員からの英語論文の英文校閲の依頼は,もちろん,無料で引き受けている。)
この本の私の日本語の訳文については,プロの編集者が文章を見直し,すべて ”です,ます”調に直し,読者に語りかけるような文体に直してくれた。「さすが,プロだなあ」と感心した。(翻訳の中で,キリスト教の聖書の中にある話に関連する原文の理解には苦労した。それは,クリスチャンではない素人の私にはチンプンカンプンであり,わずか数行の文章の日本語訳のために,あれこれと,辞書やインタネットで調べて半日もかかったことがあった)
高校時代における私の英語修行は,ライギョ,ラリゴ,松浪,ドキ,タカマン,という英語の名物諸先生方による特訓の賜物と自覚しているが,その割には英語の試験の成績はいつも平凡なものであった。もし,当時の諸先生方の中で私を憶えている方が御存命であれば,「あの石田が......」と笑っていることであろう。
英語については,振り返ってみると,私は大学院生の時に指導教官の恩師から鍛えられたと思う。「論文は,英語で書かないと研究者は損をするのだ」というのが先生の持論であった。私が苦心惨憺して英語の原稿を(タイプライターで)作成して先生に差し出しても,必ず,1,2回は突き返された。”添削” のレベルを通り越して,原稿がその原形をとどめなくなったこともある。大学院生の私達の間では,これを”全焼の体験”と呼んでいた。
当時はワープロがなく,原稿の一部分を直されただけで,修正原稿を始めからタイプライターで打ち直した。それは気の重い作業であったが,しかし,何回かのそうした体験を通して,私達は鍛えられたと私は思う。
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記述式問題の採点の困難さ
November 17, 2019
入試における国語の”記述式問題”は,採点する側にとっても,かなり厄介なことである。
国語に限らず,入試おける採点作業においては,通常,一人の受験生の答案を複数の採点者が見る。採点の間違いや得点集計の間違いをなくすために,一人ひとりの採点者がかなり気を使う。採点者には,採点の基準としての模範解答や部分点の基準が示されるが,記述式問題の解答の評価には,採点者の主観や印象がどうしても入ることは避けられない(採点者も人間であるために)。そのため,採点者の間で評価点が分かれることがあり,結局,”客観的な評価による採点” は不可能となる。
推薦入試で,調査書と面接に加えて,受験生に小論文を課した事例がある。ある年,いくつかの答案の中に,文頭を「なので」で始める文章が多用されている小論文があった。
「文頭ならば”それなので”とするべきだ」,「いや,今の時代は,会話の中で”なので”が始めに出るのは,もはや普通だから仕方がない」,「しかし,文章の接頭辞として”なので”を使うのは,おかしくないか」,「いや,これも時代の流れだ。テレビやラジオのアナウンサーの言葉にも”なので”が最初に出ることが多く,受験生は日頃それを見ているのだ」,などなど,採点者の間で意見がまとまらなかった。
また,小論文の中の文脈と論理について,「これで良い」,「いや,これはおかしい。論理がつながらない」として,採点者の意見が分かれたこともあった。
結局,”客観的な評価による採点” は不可能であるとして,2,3年後に小論文は廃止された。「記述式問題も再検討が必要」とするこの意見(2019年11月15日朝日社説)に私は同感である。
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大学入試の”改革”以前に
November 7, 2019
大学入試方法の小手先の”改革”よりも,そもそも,高校の教育課程の充実が先決だろう。
「教育課程の習得の割合は,七五三」と,以前に言われたことがあった。今日の学校教育の現場では,教育課程の習得ができたのは,小学校では児童の7割,中学校では生徒の5割,高校では生徒の3割,という意見である。(つまり,小学校では児童の3割が習得不完全のまま中学校へ進学し,中学校生徒の5割が習得不完全のまま高校へ進学し,高校生の7割が習得不完全のまま大学へ進学する。)もし,その状態が今日でも続いているとすれば,小手先の大学入試改革は,全く無意味と言えよう。
大学入試センター試験(以前は,共通一次試験と呼ばれ,その実施目的は,個別の大学の入試における不適当な問題を防ぐため,とされた)の内容を見ると,教科により違いはあるが,ごく基礎的な内容の出題で構成されていると私には思える。
そのため,現実的には,その現状を引き継ぎ,各大学の入試では二次試験を実施し,その結果を今以上に重視して合否判定の基準に反映させることが必要と思える(その基準は,各大学,学部,学科などが自主的に決めてよい)。
一方,少子化が一段と進んでいるために,日本の私立大学の4割が定員割れという今日では,入試改革よりも,AO入試,推薦入試,一芸入試,スポーツ推薦,センター試験のみ,などにより,ともかく”入学者の定員確保” が先決とされる事情も理解できる(そのせいか,”大学生の学力低下”が憂慮されており,大学入学後に補習教育が必要といわれている)。
こうした日本の現状を見ると,そもそも,大学入試の”改革”よりも,高校の教育課程の充実化が先決である,と私には思える。”高校生の7割が習得不完全のまま大学へ進学する”ような現状が放置されて良いはずがない。(個々の高校生にとって,そして,人間であれば誰にも,得意,不得意の教科があるのは当然であるが,不得意と未習得は,意味が全く違う。私は,高校時代に国語という教科は好きであったものの,”国語の試験”には悩まされ,不得意であった。しかし,国語が未習得であったとは思わない。)
「英語民間試験導入のデメリット以前に,大学入試改革のメリット自体がない」として,米山隆一氏は以下を述べており,私も同感である。
「英語を”書く,話す”技能、そして全教科における”思考力,判断力,表現力”は、そもそも評価・判定することが極めて難しいうえ、50万人に対して一律になされた評価・判定は、個別の大学、学部、学科の入学者の選抜には,ほぼ役に立たない」
「政府の掲げる大学入試改革(延期された英語民間試験の導入と、国語と数学の筆記式の導入)は、大学入学者のより良い選抜方法として大学の教育を充実させるようなものではまったくない」
「大学入学後の4年間の時間をかけて大学教育の中で培うべき技能・能力を入学時の選抜に使うこと自体、本末転倒以外の何物でもない」
「現在、多くの大学の2次試験において、思考力,判断力,表現力,を評価・判定するための本格的な筆記式の試験がすでに導入されており、その2次試験を "本番" として、高校教育における受験準備がなされている。つまり国語や数学の "筆記式" への対応はとうの昔になされているのであり、いまさら共通テストにおいて、50万人の受験生に対して一律に国語・数学の短い筆記式の試験を追加しようがしまいが、ほとんど影響はない」
「現実の教育の相手は、誰かの思い付きの中にいるのではなく、現実の世界に生きている児童・学生,教師・教員,と言う生身の人間である。”理想の到達目標” は到達目標として、それを実現する方法は、現場における地道な努力と、試行錯誤による学習方法、教育方法の改善の積み重ねしかない」
「外面をいじるだけの、根拠も証拠もない小手先の大学入試改革で振り回されたら、教育現場に携わる教師・教員、保護者、そしてなにより、影響を直接受ける生徒・学生が多大な迷惑を被り、疲弊して、日本の教育水準の低下すら生じてしまいかねない」
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エネルギ問題について再掲
November 1, 2019
実質的に国営化されている東京電力(福島の事故により会社の自力再建が不可能になったため)が,日本原電への資金援助を行うとのこと。
しかし,「国民負担で生かされながら他社を助けようというのに,具体的な内容も,支援の妥当性の根拠も説明しない。これでは,国民の理解を得られるはずがない」,「政府も,原発の再稼働や日本原電のあり方について,説明責任を果たせ」という意見(2019年10月31日朝日社説)は,当然である。東京電力には国民の多額の血税が使われているのだ。安倍政権も東京電力も日本国民を甘く見てはいけない。
ここで,エネルギ問題について,以前に公開した私の意見を,以下に再掲させていただく。
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「化石燃料(石油や石炭)はあと40年で枯渇する」,「いずれ,化石燃料が高騰する」.これらは,50年以上前から,たびたび流布されている有名なウソです。しかし,騙されてはいけません。
そもそも,化石燃料の「採取可能年数」とは,「現時点で推定されている埋蔵量」を「現在の技術で採取」した場合に推定される採取年数の意味です。
そのため,新たな油田,海底油田,さらに,シェールオイル(北米など),メタンハイドレード,などが開発されるたびに,さらにまた,資源の探査や採取の技術が進歩するたびに,「化石燃料の推定埋蔵量」が増えることになり,採取可能年数も伸びることになります。
こうした科学的な事実を,全国民に周知させる必要があります。それにより,「あと数十年で石油が無くなるから,原発は必要なのだ。」などというデタラメな俗説を私たちは排除し,科学的で効率的なエネルギ利用政策と技術(省エネルギ技術)を考える視点が構築される,と私は思っています。
そこで,原子力発電というものを,よく考えてみましょう。CO2を出さない,エネルギ効率が高い,地球温暖化を抑制できる........これらは全部,大間違いです。
経済学者の伊東光晴先生の解説を参考にしつつ述べましょう。原発の燃料(ウラン)の採掘に必要な機械の運転には莫大な石油燃料が必要であり,もちろん,その時にはCO2が大量に出る。比較的高品質のウラン鉱(0.2 %)から原発の燃料をつくると,原発による発生エネルギの10 %分の石油が必要であり,低品質のウラン鉱であれば,原発燃料をつくるためには原発による発生エネルギの30 %分の石油が必要といわれています。つまり,そもそも,石油なしには原発の稼働は不可能なのです。
科学者の中には,「原発は,石油を使って電気エネルギを作り出す増幅器」との意見もある。さらに,原発を建設すると,最高の稼働効率で運転したとしても,発生した電力の1/3近くのエネルギを,自分の燃料製造と設備維持に使うことになる。つまり,原発は,建設にも維持にも莫大なエネルギが消費される。
さらに,蓄積される危険な放射性燃料廃棄物の処理方法も,今だに未定であり,加えて,原発事故における莫大な災害補償費用も電気使用料金に上乗せしなければならない。
結局,原子力発電は危険であることに加えてエネルギの無駄が多く,建設費も高く,決して今後の社会における省エネルギ対策やCO2抑制対策にはなりません。
では,今後,私達の社会はエネルギをどのように調達したら良いか。私は,水力や火力による発電はまだまだ有効であり,効率向上の余地があると思っています。さらに,風力,太陽光,波力,地熱,都市のゴミ焼却熱,など,エネルギ有効利用による発電技術の開拓分野がたくさんあります。そのため,現代社会はエネルギ不足には決してならない,と私は思っています。現在の技術水準では,原発は人間社会に不適当なのです。
現状の原発が人間の生活にとって有害,不要であることは誰の目にも明白ですが,一方,風力発電,波力発電,太陽光発電,などにもその建設や利用には留意すべき点や,使用上の欠点も,もちろんあります。要は,適材適所に,地域の気候や地理を充分に考慮して,発電施設を選択しなければならないのです。
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英語新入試の大欠陥
October 30, 2019
「読み,書き,文法」が中心という今までの英語教育に加えて,英語を”聴けて話せる”日本人を造りたいとする観点からの「英語新入試」の案は,このままでは,絶対に不適当であり,定着できないであろう。
その最大理由は,言うまでもなく,複数の民間試験を使うことによる,受験生とその親の経済負担の大きさ,地方と都会の受験生の機会の不公平さ,民間の試験内容の標準性(公正,公平性)への疑問である。
「初年度の受験生は,なぜ声を上げなかったのか,と今の高1や中2,3に言われたくない」という高校2年生の声(2019年10月30日天声人語)は当然であり,今の国民が「戦争が始まる前に,政府の暴走を阻止するべく戦争阻止の国民的大運動をなぜ起こさなかったのか,と後世から言われたくない」ことと同じである。
受験生に「日本の格差社会を認容し,身の丈に合った人生をおくれ」と迫る,萩生田文科大臣のこの馬鹿げた無責任な姿勢は,たちまち国民の総反発を食らったが,こうした”英語の新入試方式”は文科省だけに任せるのではなく,その危険性を政府全体で共有し対策を講じるべきだとの意見(2019年10月30日朝日社説)は,当然であろう。
そもそも,萩生田の経歴から見て,文科省の行政を見る(指揮,監督をする)資質や能力があるのだろうか。萩生田は,加計問題での関与について逃げ切れると思っているのだろうか。安倍晋三がいかに黙殺しようとも,国民は,決して忘れてはいない。
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血税浪費で暴走する安倍晋三
October 24, 2019
まさに,またまた血税の果てしない無責任な浪費の典型例と言えよう。この意見(2019年10月24日朝日投書)に(同様な意見にも)私は同感であるとともに,怒りも覚える。普通の国民は怒っているのだ。
一千兆円の借金を抱える日本。その上,貧困対策や災害復旧に巨額の予算が必要なこの日本で,国民からの非難を無視して国民の血税をこのように浪費して恥じない安倍晋三の暴走を,国民は許しておくべきではない。安倍が ”戦後政治史に特筆されるバカ首相” と愚弄される所以である。”安倍内閣打倒” の気持ちが,改めて私には湧いてくる。
私は,赤い羽根募金,緑の羽根募金,歳末助け合い募金,”愛の**募金” などと称するいろいろな募金を,昔から全て無視している。そのような募金で国民から集まる総額など,浪費した血税の額に比べればごく僅かであり,それらは全て,血税の無駄な浪費を阻止すれば,もともと不要な募金活動であるためである。
災害復旧,児童福祉,障害者福祉へ振り向けられるべき予算,格差社会の日本で児童の6人に一人が貧困層にいるという現実に対処するべき予算,年収200万円以下の貧困母子家庭や高齢者家庭,などを真摯に考えれば血税の浪費など決して出来ないはずである。
日本の科学技術の将来を考えれば,博士課程の大学院生や博士号取得者が生活難であり,そのため,大学院博士課程に進む若者が激減しているという現実を無視できず,それを打開する相応の予算措置が必要であることは誰にも分かる。それを考えれば血税の浪費など出来ないはずである。
しかし,安倍にはこれらの認識が全く欠落しており,一国の首相たる資格と能力はない。
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経済学の教育と教師
October 22, 2019
この記事の意見(2019年10月22日朝日)を読むと,私の学生時代に,当時,経済学を学んでいた友人が「経済学理論は,経済学者の数だけある」と言っていたことを思い出す。(この記事の筆者は,おそらく大学の経済学部の教師ではないだろうか。)
日本の大学の経済学者の様子は,今も当時とあまり変わっていないようだが,”経済学は科学だ”との認識の高まりから,経済学部の入試科目に数学を必須とする大学が少しずつ出てきた。
それはとても良いことであり当然だと私は思うが,同時に,以前は(今もか?)大多数の私大の経済学部の入試が,国語,社会,英語の3科目だけであったことを思い出すと,日本の大学における今までの経済学の教育は,国際情勢の中での客観的評価に堪えうるものだったのだろうか,と私は疑問に思う。
少子化という現在の日本では,多くの大学が生き残り(入学者の獲得)のために,入試の方式が以前に比べて,推薦入試,AO入試,一芸入試,センター試験のみ,その他,随分簡素になっている(それでも,私大の4割が定員割れである)。そのせいか,”大学生の学力低下”が
話題になって久しい。
この記事の意見「自然現象と離れた自然科学がないように,現実社会の課題と離れた経済理論などないはずだ」は,全く正論であるが,それに立ち返って,大学の経済学部の教育内容を刷新するには,まずは,入試を変えて(数学の必須化も含めて)入学者の学力を高めること(あるいは,入学者に対する補習を充実させること),さらに,経済学の教師の姿勢の変化が求められよう。
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NHKは”刷新”するしかない
October 20, 2019
NHKの幹部には,公共放送としての自覚が相変わらず不足。
「介入の疑惑が晴れない」とするこの意見(2019年10月18日朝日社説)は当然であろう。自分の職場にだらしのない弱腰の幹部を頂いているNHKの職員が,私には気の毒に思える。
先日,またまた,NHKの職員が自宅に来て「受信契約を締結して受信料を支払ってくれ」と言ってきた。しかし,いつものように,私は以下の理由を述べ,それに抗弁できないその職員にお帰りいただいた。彼は「御意見を局に伝えます」と言って帰った。(私はNHKの中で ”対応困難者” としてリストアップされているようだ。)
(1)私は受信契約と受信料支払いの制度そのものには反対しない。実際,30年くらい前までは受信料を払っていた。しかし,当時のNHKの何らかの不祥事を機会に,私は,受信契約を破棄し受信料の支払いをやめた。
(2)「公共,中立,不偏不党」の放送法遵守の精神にNHKが立ち返ること。そのために,NHKの予算決定と運営を,政権党ではなく第三者機関に委ねるための法改正が必要。もちろん,NHKの会長や経営委員の人事を公選制にしなければならない。そうでないと,いつまでたっても,「NHKは政権の意向を忖度した国営放送」という惨状が続く。それにより,私のように,民法533条「同時履行の抗弁権」を根拠としてNHK受信契約の締結を拒否する者に対して,NHKは抗弁できない。(現状は,放送法遵守義務違反であるから,同時履行の抗弁権,即ち,双務契約履行の義務により,NHKが約束を守らないのであれば,視聴者は受信契約を締結する義務はない。)
(3)テレビを持つ国民全体に受信契約の締結と受信料の支払いを義務付けたいのであれば,全ての反社会的団体の事務所や人間にも,それを要求して全員に受信料を払わせているか。高齢者,学生,若い夫婦など,”取りやすい相手” にだけ強い態度で受信料の支払いを要求する現状は受信料制度の平等性に反する。
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神戸の4人の馬鹿げた小学校教師
October 20, 2019
4人が謝罪文を出した。しかし,これらの文章から察すると,この4人は,もともと教師(人間)として力量不足のようだ。特に40代の女性教師の文章は稚拙で小学生以下。よくぞこれで,今まで小学校の教師が勤まったものだ。
これでは,バカにされて,赤ペンだらけになるのは当然だ。赤ペン先生が「ひどすぎて、書いてるうちにさじを投げたくなってきた」のはごもっともだ。
ところで,このような教員が,今まで,校長でも手出し出来ずに放置されていた原因の根底には,これらの教員が関係する何らかの根深い大きな背景があるのだろうか。
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関西電力の”文章能力”
October 20, 2019
関西電力の呆れるような回答書。国会議員の蓮舫氏は以下のように述べている。
「驚きました。複数の予算委員会委員が参考人招致を求めた関西電力からの返事です。
最初は院事務方に電話があり,口頭でお断りと聞いたので、質問者にお渡しするため書面で理由を求めたところ,なんと,関電のどの部局のどういう担当の方が作成したかも書いてありません。国会要請への返事がこれです。」
そもそも,前半も後半も,”文章”の主語と述語がはっきりしない。そのため,”従いまして” の論理接続が不可。(もし,学生がこのような”文章”を私に提出してきたら,私はその場で投げ返して書き直しを命じる。)
大人になっても,こうしたお粗末な ”文章” を作成し,自分でもそれをおかしいと思わない人は,以下の正常な文章作成の訓練(学習)を受けてこなかった,あるいは,職場で上司から指導されてこなかった(その上司にも文章作成の能力が不足していた)のだろう。文脈と論
理には,作文者の思考能力が出る。これが大会社からの正式な回答文とは情けない。関西電力とは,この程度の会社なのだろうか。
(1) 話し言葉と文章言葉は全くの別物だ。”話し言葉” のままでは正常な文章にならない。
(2) 文章は短くせよ。
(3) 主語と述語を近づけよ。
(4) 先ず結論を言い,次に理由を述べよ。
(5) ”も”や”等”を使って逃げずに,”は”や”が”を使って言い切れ。
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不正論文の温床と根源
October 7, 2019
今年も,ノーベル賞の受賞発表の時期が来た。
医学,生理学系の分野では,試験体が小動物,微生物,そして人体の一部であるために,世界の同じ分野の研究者が ”実験条件を完全に同一にした再実験” を行なうことが難しい。
そのため,その分野の研究論文には,どうしても研究者の恣意,主観,データ改ざんなどが含まれやすいようだ。同一分野の研究者が再実験により確認が出来ないような ”研究結果” が,研究論文としてまかり通る世界が,医学生理学の分野に多いらしい。
私の印象では,この日本でも,30年以上も前から,研究者の研究業績がポスト獲得(就職)や,大学教員の昇任資格や,外部資金の獲得競争に関係しているので,日本も”不正論文”の大国になりつつあるようだ。
”研究の不正” の背景については,多くの意見があるが,この記事は,正鵠を射ていると私は思う。
35,6年前のことだが,私の投稿論文の査読者の一人からのコメントの中に「末尾の参考論文リストの中に,***の論文が表示されていないのはおかしい。この著者はそれを参照し,本文の中で引用するべきだ」との意見があった。
その論文は有名な論文であり,若き日の私は,もちろん,すでにそれを読み,大いに勉強させてもらった論文であったので,返信の中で私は自分のミスを認め,改訂原稿の中でその論文を引用し,また参考論文リストの中に加えた(私のその論文は幸いに受理され公刊された)。
原稿を改訂する中で,査読者のコメントの内容と,明らかにNativeらしい英語から見て,「この査読者は,この論文の著者に違いない。」と,私は判断した。
アメリカ人研究者は,大学院生のときから,”引用回数の多寡がその論文の優先権と価値の評価基準となる” と叩き込まれているので,「一流研究者に大成しても,自分の論文が引用されているか否かは,大事な関心なのだな」と,私は思い知らされた。
それは,研究者であれば,誰にも当然の気持ちであるが,そもそも,研究の世界が学問上の競争の世界である以上、研究論文の公刊あるいは受理の日付により、ライバルの論文に優先権や独創性があれば、自分の論文の中で率直にそれを述べ、また、参考論文リストの中にそれを明示するのは当然であり,それが研究者としてのフェアプレイ精神である。アメリカ人研究者は、その点を特に重視している。unfair(不公正)という烙印が、研究者には致命傷(所属学会からの追放)を意味することを彼等は厳しく教え込まれているのだ。
後年に,私のような者にも,ジャーナルから投稿論文の査読の依頼が来たときには,私は,必ず,末尾の参考論文リストをよく見るようになり,重要な関連論文が欠落している場合は,著者にそれを指摘し,改訂を求めるようになった。
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第27回 阿賀野川レガッタ
September 2, 2019
昨日,9月1日は,新潟県阿賀町(津川)における恒例の阿賀野川レガッタ(第27回)。4人のクルー(ナックルフォア)で500mを競漕するレース。
我がクルー「アンチエイジングG」は,熟年男子の部の11クルーの中で,決勝で2着。スタミナ負けのようだ。また,成年女子の部では,我が仲間の「アンチエイジングL」は,予選で3位となり,決勝には行けなかったが,全体の順位決定戦に出場し,そこで7位となった。
私の高校時代(50年以上も前の青春時代)の,ボート部のレース(ナックルフォア)は1000mであり,どのクルーも,それを約4分で力漕していた。しかし,自分がこの年齢になると,500mを約2分で力漕することもキツく感じる(それは,体力の経年劣化であり,仕方のないことだが)。
閉会式では,我が仲間たちは,たくさんの賞品をもらい,賞品を分け合い,その後,いつものように,みんなで近くの清川高原の津川温泉へ行き,汗を流し,来年のレースでの健闘を誓った。
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立花氏の主張の馬鹿らしさ
August 18, 2019
今回の参議院選挙で,"NHKから国民を守る党” が躍進したが,その代表である立花孝志氏の姿勢と主張に,私は疑問を持つ。
「受信契約はするが,受信料は払わない」という主張は,そもそも,法的な整合性がなく,「放送法には ”受信契約を結ぶ義務がある” とあるだけで ”受信料を支払え” とは明記されていないから支払わない」という馬鹿げた主張は,国民への説得力が全くない。
それは,たとえば,「賠償責任がある,という決定であっても,賠償金を支払えとは言っていないから支払わない」,「肉を切り取って良い,とは言ったが,その時に血を流して良いとは言っていない」(ベニスの商人)などと同じである。立花代表の主張はまともに論評する価値もなく,裁判になれば,担当した裁判官は,空しさとアホらしさで呆れるであろう。
今回の選挙結果は,NHK受信料に対する国民の不満をたまたま集約しただけであり,"NHKから国民を守る党” には,この日本の社会と政治をどうするかの具体的な政策が一つもない(それを策定する能力に欠ける)。そのため,いずれは,政権党に近づいて歩調を合わせることでしか政党として生き残る道はあるまい。
私がNHK受信契約の締結を拒否している最大の理由は,受信契約の締結を謳う放送法の是非ではなく,民法533条「同時履行の抗弁権」を根拠とする。すなわち,「公共中立,不偏不党であること」という放送法の遵守義務にNHKが違反しており,それを改める姿勢もなく,双
務契約履行の義務をNHKが果たさないためである。(今日では,その違反の姿勢が,一層,際立っている。)
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受験勉強の基本
August 2, 2019
自分がもと教師の端くれであったせいか,最近,受験生とその親から受験勉強の方法の相談を受けることがあった。秀才とは程遠い学生時代を送っていた私には,それに答える資格がないとも思うが,生活のために,塾や予備校の講師,そして家庭教師をしていた体験から,以下を伝えた。
そもそも,入試に限らず,どんな試験も,”能力の勝負”では決してなく,試験は「問題のパターンの記憶と,解法の記憶の勝負」といえよう。そのため,”受験勉強の基本” は以下であり,私は担当した大学受験生にこれを確実に伝えることにより,彼らを合格させてきた。(家庭教師の時は,その謝礼が貧乏学生の私には多額であり,とても嬉しかった)
(1)見たことのない問題をなくすこと。(そのために,問題演習をたくさん行ない,問題のパターンを憶えること)
(2)問題集は薄いものを使う。分厚いものは達成感が得られないので不可。
(3)問題演習の時は,まずは10分間真剣に取り組む。それでも解けなかったら,スパッと止めて解答を見て,その解法を記憶する。
(4)解けない問題が多くても気にしない。解答を見て片っ端から解法を記憶すれば良い(そのために,解答が詳しい問題集を選ぶ)。
(5)理科や社会科では,教科書の末尾にある ”索引” を頻繁に活用する。その中で,理解が不十分な言葉があれば,直ちに教科書をめくって調べて記憶を確実にする。
(6) 試験では,まずは設問の全体を見回し,解けそうな問題から着 手する。
(7)高得点を取る必要はなく,募集定員以内に入れば良い,と心得ること。
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NHKの居直りと恫喝を許してはならない
July 31, 2019
報道によれば,最近,NHKは「受信料は払わなくても良い,と発言する人には厳しく対処する」との警告文を公式サイトに掲載したとのこと。
これは,責任転嫁も甚だしい居直りの恫喝であり,国民に対する挑戦と言えよう。日本国民をなめたNHKの姿勢を許すべきではない。
私は以下の理由により,現在では,NHK受信料を支払う意志がない。これらについて、私が納得できる回答がNHKから来たら,私は受信料を支払う用意がある。特に,”公共かつ中立(不偏不党)の放送精神”をNHKが自ら放棄している現状では,NHKの約束違反を日本国民は厳しく追及しなければならない,と私は思う。NHKによる恫喝と挑戦を日本国民は決して許してはならない。
(1)「公共かつ中立(不偏不党)の放送」であることをNHK自身が事実を以て国民に証明すること。現状は,放送法遵守義務違反であるから,同時履行の抗弁権(民法533条),即ち,双務契約履行の義務により,NHKが約束を守らないのであれば,視聴者は受信契約を締結す
る義務はない。
(2)視聴者の全体から法的根拠で受信料を徴収するのであれば、会長や経営委員を公選制とし,その人選の経過を視聴者に公開し、かつ、視聴者による審査と罷免の制度を設けること。
(3)視聴者の全体に受信料の支払いを求めるのであれば、テレビを有する暴力団事務所にも受信料の支払い契約を求め,その契約成立の結果を私に示すこと。
(4)テレビ本体を持たず、パソコン、スマホ、カーナビでテレビを見ている視聴者は、放送法64条によれば(テレビ受信を目的にした機器ではないために),法的にも受信契約の義務がない。それは、NHKが主張する「受信料の平等負担の原則」に反するが,裁判所により判断が分かれている。
(5)衛星放送が受信できない地域の視聴者でも、衛星放送を見ない視聴者でも「テレビに衛星放送の受信機能がついていれば、地上デジタル放送契約と同時に衛星放送受信契約も必要」とのNHKの主張には法的根拠がなく,勝手な解釈にすぎない。(イラネッチケーを取り付けている視聴者にも受信料を請求する不合理と同じ。)
なお,「公共かつ中立(不偏不党)の義務をNHKが放棄してしまった現状」については,以下の書が厳しく告発している。これらの内容に,責任ある回答を示すことが出来なければ,NHKには日本国民に対する受信料の支払い請求権はない。
(1)松田浩 著「NHK-問われる公共放送-」(2005年 岩波新書)
(2)松田浩 著「NHK-危機に立つ公共放送-」(2014年 岩波新書)
(3)池田恵理子,戸崎賢二,永田浩三 著
「NHK が危ない」(2014年 あけび書房)
(4)川本祐司 著「変容するNHK」(2019年 花伝社)
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民間の英語試験と”英語の使用”
July 30, 2019
「大学入学共通テスト」としての英語に,民間試験の成績を含める。その発想自体は悪くはない。しかし,この社説(2019年7月30日朝日)が強く警告するように,文科省の姿勢の杜撰さが目立つ。
永年,英語を ”仕事の道具” として使ってきた私は,高校時代の「読み,書き,文法」という ”猛特訓” のありがたさを今も痛感する(その割には,いつも平凡な成績であったが)。
普通の日本人にとって,英語教育は高校卒業とともに終わる。そのため,「読み,書き,文法」の特訓は,決して ”受験英語” などとして忌避されるべきものではないと私は思う。
(私が接してきた東南アジアからの留学生達は,一般に,TOEICの点数が日本人の学生に比べて格段に高かった。しかし,その一方,英語の文章を書かせてみると文法の間違いがとても多かった。そのため,英語力の指標としてのTOEICの信頼性には,今も私は疑問を持つ。)
なお,英語の発音について,日本人が英語圏の人と違うのは当たり前であり,決してそれを恥じ入るべきでははない。
今までの私の体験で言えば,英語会話の要諦は,聞く力,単語力,アクセント,イントネーション(抑揚)という4点のみである。"聞ければ話せる" のである(聞けなければ話せない)。欧米では,中国,インド,中近東,スペイン語圏の人々が,彼ら独特の強い訛りのある ”英語” で支障なく十分に仕事をしている。日本人も,上記の4点に留意し,発音を気にせず,自信を持って英語を使うべきなのである。
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叩き込まれた校歌と応援歌
July 24, 2019
高校卒業同期の友人がブログ(2019年7月24日)の中で,高校時代の校歌や応援歌について,「私は今でもほとんどの歌を憶えていて歌えるが、あんな歌を今でも後輩たちは歌っているのだろうか?」と述べている。
私も同感であるが,また同時に私は思い出す。高校入学の直後から,ほぼ毎日のように,昼休みには数名の上級生が教室に入ってきて,入学してまもない一年生全員を起立させ,校歌や応援歌を全員に大声で歌わせて教え込んだ(そのために,卒業後何十年が過ぎても歌える!)。そして,「この学校では昼休みには弁当を食べる時間がないのだな,ならば,早弁をするしかない!」と暗黙に了解させられた。時は1964年4月。(その後すぐに,新潟国体,そして新潟大地震!)
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”御用学者”に改めて怒りを覚える
JUly 23, 2019
先日の京都アニメでの放火殺人事件を見ていると,私は,再審により無罪が確定した大阪の東住吉事件を思い出す。
今回の京都の事件では,室内でガソリンを撒いて火をつけた犯人は,自分も重篤なやけどを負い,現在,入院中である。
しかし,東住吉事件の裁判の中で,「閉じた車庫の中で,ガソリンを撒いて火をつけた」との判決により無期懲役が確定した男性のAさんは,何のやけどもしていない。再審を求めて闘い続けた弁護団による再現実験でも,それはありえない,と立証され,20年後に再審が開始されて無罪が確定した。
室内で,ガソリンを撒いて火をつければ,その実行者自身も重度のやけどを負うのが当然であり,2003年の名古屋立てこもり放火事件では,室内でのガソリン散布による放火で犯人や警官を含む3名が死亡している。
これらの事件をみると,東住吉事件の一審判決のデタラメさと,裁判官の勉強不足,そして,火災,爆発事件の裁判では,いつも検察べったりの ”御用鑑定書” を提出することで知られる(私の印象では,学問研究者としての真摯な姿勢の片鱗もない!) ”札付きの御用学者
” に,私は,改めて強い怒りを覚える。
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研究者の人材の裾野は広くなければならない
July 21, 2019
「人材の裾野は,広く維持するという発想が大切だ」とするこの記事(2019年7月21日朝日)の意見に,私は同感である。
そもそも,一握りの天才科学者による研究結果が科学の飛躍的な進歩をもたらすというほど,現代の科学は甘くない。研究者の仕事の遂行には ”スクラムを組む” ことが必要なのだ。
そのために,日本が科学立国を目指すならば,若手研究者の数を増やし,彼らの生活を保障する国家的な施策が必要なのだ。現代科学の世界は「少数精鋭では戦えない」のである。
院生時代の私は ”優秀な若手大学院生” には程遠かったが,それでも,落ち込んだときには周囲からの支援で,今日までマイペースで道を歩んできた。一国が科学立国を目指すならば,若者に研究者を目指す道を諦めさせてはならない,と私は思う。”人材の裾野” は広くなければならないのである。
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”ブラック”という言葉には要注意
July 6, 2019
「ブラック」という言葉の使い方に御用心を!というこの記事(2019年7月4日 朝日)に,全く同感である。それについて,私には忘れられない痛い思い出がある。
25年以上前,アメリカの大学に滞在中,日頃,親しく話していたインド人の大学院生との会話の中で,私が何気なく「ああいうのはブラックユーモアだね」と言ったところ,急に彼の表情が変わり,「ブラックユーモアという言い方は,有色人種に失礼な言葉だよ。ロスアンジェルスの暴動のようなことにもなる。使わないほうがいいよ」と,英語の感覚に不慣れと思えた日本人の私に ”忠告” した。
それは,私にとって,まさに晴天の霹靂であった。私は「ブラックユーモア」とは,単に「軽い嫌味,皮肉,揶揄などを含んだユーモア」の意味(解釈)で使ったのだが,あの時以来,私はもはや「ブラックユーモア」なる言葉を決して使えなくなった。
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退職した高齢者の年金減額の発想
June 17, 2019
退職した公務員や会社員が退職後も働き,”厚生年金の被保険者”となっている場合,当人の月額年金と月額賃金の合計額が一定額以上であると,当人の月額の年金が減額(一部支給停止)される。例えば,65歳以上の退職者について,減額される月額の年金を計算してみると,日本の特異な社会政策が見えてくる。
退職者の年金月額をA万円とし,賃金月額(標準報酬月額と期末手当の1/12の合計額)をB万円とする。この時,支給停止(減額)となる年金月額は(A+B-47)×1/2 万円であり,そのため,年金月額が”全額支給停止”となる限界の賃金月額は;(A+B-47)×1/2 =Aにより,B=A+47となる。
この結果は,いろいろなことを示唆している。例えば,A=10ならば B=57,A=20ならば B=67, A=30ならば B=77 。つまり,年金が多い人ほど,その年金が全額支給停止となる限界賃金月額が高い(多い収入で生活して良い)。年金が少ない人ほど,その年金が全額支給停止となる限界賃金月額も低い(少ない収入で生活するべし)。
年金が多い人は,在職中の標準報酬月額が高く,そのため年金の掛け金も多かったので,退職後に働いた場合には,年金が全額支給停止となる限界賃金月額も高いのが当然,というわけだ。そして,その逆も言える。つまり,日本の社会政策は,退職した高齢者の ”収入格差の拡大現象” を容認しているのである。
また,年金月額と賃金月額(標準報酬月額と期末手当の1/12の合計額)の合計が47万円未満であれば,年金の減額はなく全額支給される。そのため,例えば,A=10ならば B<37,A=20ならば B<27, A=30ならば B<17 であれば,年金の減額はない。すなわち,日本の社会政策は,「退職した65歳以上の高齢者は,年金を満額受け取るためには,有職か無職かを問わず,毎月47万円以下で生活せよ」と明示しているのである。(なお,今後の日本経済の動向により,47万円という数値が変動することは,当然,ありうるであろう。)
年金が400万円(月額33.3万円)以上の人は,確定申告の必要があるが,そのような人は滅多にいない。それどころか,今の日本の65歳以上の高齢者には,年金が200万円(月額16.7万円)以下の人がとても多いのが現実だ。そのため,そのような高齢者の一家にとって,「年金を満額受け取るためには,毎月の収入を47万円以下にせよ」という政策は,「再就職後の月額給与を30万円以下に抑えよ」ということであり,該当者(月額給与が30万円以上)がほとんどいない,全く現実味のない雲の上の話である。
日本の65歳以上の高齢者の一家の大半は年金だけでは生活できない。そのため,体が動けるうちは働きに出るか,今までの貯金を取り崩すか,により生活を維持しているのである。これが日本の65歳以上の高齢者の生活の現実なのである。安倍政権は,それを分かっているのかどうか....。
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論文原稿の相互査読制度の必要性
May 15, 2019
人文・社会科学系の論文では,”コピペ” や無断引用が,時々,問題になる。今回は捏造である。2019年5月15日の朝日新聞の記事。
これらの発生原因の根源は,論文が公刊される前の,同一分野の複数の研究者による査読の制度が定着していないことにある。以下は,15年前の私の原稿に少し手を加えた意見である。
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ある特定の課題にしばらく取り組み、論文を出していると、研究者には、通常、年齢や経験とともに、否応なしに、時々、査読の依頼が来る。それは、研究者としての活動度の定期点検でもあり、編集者による慇懃かつ突然の能力点検でもある。
「一週間以内に査読ができないのであれば,直ちに原稿を返送していただきたい」と編集者から言われることもある。30ページ前後もの論文を限られた期間内に査読する作業は、実際、かなり疲れる。
しかし、よほどやむを得ない場合でなければ、それを断ってはならず、査読は研究者相互の無償の名誉ある奉仕義務なのである。そして実は、同業の研究者の論文を査読することにより,査読者自身としても,新たな研究意欲がかきたてられるものである。
国際学術雑誌では、通常、一つの投稿論文について、編集者により,2,3名の査読者が選定され(もちろん,投稿者には知らされない)、世界中の査読者へ,その原稿が送付される(そのため、投稿時には編集者が保持する分を含めて、通常、計3,4通のコピー原稿をまとめて編集者に郵送する)。各査読者からの査読の内容や評価が大きく分かれる時は、編集者から各査読者あてに、名前を伏せた他の査読者による評価内容が伝えられ、「これらを貴殿はどう思うか」と問われる。それをもとに、各査読者は、再度の査読を行い、編集者に報告する (もちろん、自分の署名を添える)。編集者は、各査読者からの評価の内容により、その論文原稿について,公刊許可,公刊には改訂が必要, 公刊は不可,などを決断し,投稿者にそれを伝える。
理工学系の研究者の世界のこうした制度の一方で、文科系の研究者の中に査読の制度を嫌がる者が見受けられる。まともな研究者経歴を持たない者ほど、そうした声が強く,自分の所属する学会にはその制度はないという。しかし、今日、複数の同業研究者による査読の制度は、普通の学術雑誌であれば当然のことであり(発行雑誌の質を高め、維持するために)、彼等の不平には全く根拠が無い。
さらに重要なことに、同業の研究者による査読によって自分が鍛えられ、育てられることに、彼等は気付いていない。そのせいか、査読を嫌がる者の中には、論文作成の基礎的な手法と書式に欠け、また、日本語(英語も)の文章作成能力にも疑問を抱かせる者が見受けられる。要するに、研究者としての修行が出来上がっていない。
査読の無い学内研究紀要や同人雑誌などに ”論文” を何編出そうとも、一般には、それらが研究業績としては、考慮されないのは当然である。理系,文系を問わず,公正な研究者精神に基づく,相互の公平な査読制度の定着が必要であろう。
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黒いスーツで埋まった入学式
April 15, 2019
黒いスーツ姿の学生が出揃った入学式について,ICU(国際基督教大学)の学生部長の加藤恵津子氏が感じた違和感の記事(2019年4月4日朝日)が話題になっている。
昔、学生時代に、4年生が就活の時期になると、そろって急に、大学の入学式以来着たことがない学生服姿になり、会社めぐりや面接に行っていたことを,私は思い出す。
黒一色のリクルートスーツを推奨することは「歴史的必然性がない上,自由であるべき人間の思考停止につながる点で,大学教育と相容れない」,「就職する=個性を捨てる,というメッセージが視覚的に固定化されるのは怖い」,「企業としても,主体性や創造性など学生への昨今の要求と矛盾する上,合理的な説明が出来ない風習として,国際的人材獲得の障壁となりかねない」,「(こうした悪習慣で)利益を受けるのは生産・販売業や,無意味なエチケット言説を作り続ける就活支援業界だ」,「(大学生が入学式や就活で)得体の知れない慣行に無批判に従う心理は,平和のうちに断ち切っておかねばならない」
加藤氏のこれらの意見に,私は全く同感である。
”みんなと一緒であれば、無難だ" という日本の悪習慣と、それに便乗して、リクルートスーツを ”みんなそうしていますよ” と、若者に勧める業者の商魂とが噛み合っているのであろう。それが、実は、日本の青年の思考停止をもたらす、とする加藤氏の意見には同感であるが,一方,黒や濃紺のスーツを持っていれば,それ一つで,入学式,成人式,就活,入社式,葬式,友人の結婚式などに広く着用できるという便利さは,私も理解できる。「学生服という制服があると,親としては楽だ」と,昔,母が言っていたことを思い出す。
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大学無償化の是非と,高等教育の機会均等化
March 14, 2019
以前に,社会学者の吉川徹氏(大阪大学教授)の学歴社会論についての著書を読み,私には納得できることが多かった。
だが,「大学無償化は現役世代の格差を助長する」と題するこの意見(2019年3月13日朝日)には,私は物足りない点も感じる。「高度成長期以来,脈々と続く”大卒学歴至上主義” を,今や問い直す時期だ。拙速な大学無償化には弊害もある」と吉川氏は言う。
しかし,出世や昇進ための高学歴志向ではなく,大学や大学院にて高等教育を受けて本当に勉強したい,社会的な資格も取りたい,という意志を持つが,家庭の経済的事情により,それが難しいという青少年を,どのように支援する(救う)べきか,の観点がやや不足ではないだろうか。
「大卒層と非大卒層は,社会を支える飛行機の両翼であるにもかかわらず,非大卒層向けの政策はほとんどない。税金は,大卒層と非大卒層に対して平等に使うべきだ」との意見には,もちろん,誰もが賛同できよう。
しかし,「大学無償化は,結果的に,大学に進学しない人は支援しない,というメッセージを発することになる」,「大卒でありながらロストジェネレーションである者の賃金格差を是正する方が大学無償化よりも大切だ」,「大学無償化により,現役世代の格差が助長される」との考えには飛躍があるのではないだろうか。
例えば,医師,歯科医師,弁護士,薬剤師,教師などを志望し,そのための大学進学を希望するが家庭の経済的な事情により,それが難しいという青少年にとっては,大学無償化は大きな社会的支援策であり,国の将来を担う次世代の青少年への国家的投資といえよう。よって,大学無償化を単に学歴志向者への ”税金バラマキ” とは決して言えまい。
むしろ,今,日本社会が推進するべきことは,大学無償化の推進に加えて,学習意欲があり高等教育を受けたいとする青少年がいる家庭の経済的負担を大きく軽減する策である。子供の大学の学費を払ってきた(いる)親であれば,誰もがその必要を痛感しているであろう。
即ち,年間所得が一定以下の家庭については,子供の高等教育にかけた学費を,年末調整や確定申告における課税所得からの控除対象にするべきなのだ(アメリカではそうなっている)。家庭の年間所得や,進学先が国立か私立か,文系,理系,医学薬学系かなどにより,その控除額には上限も必要であろうが,課税所得からの学費控除の制度は,青少年の ”高等教育の機会均等化” に大きく貢献することは容易に想像できよう。
その後、新聞の投書欄に出た「大学の無償化と並行して,高卒就職者には4年間の減税措置が必要」とする意見(2019年3月23日朝日投書)は,当然であり,私も全く同感である。
加えて,中卒で就職した人には、22歳までの7年間の減税措置があるべきだ。22歳までの青少年は、学歴に拘らず平等に支援されるべきだ。
「学費よりも,生活費が高い。」これも,日本の大学のお粗末さの典型例である。”学生寮を併設しなくても大学を新設出来る”という,日本の大学設置基準の欠陥は,日本の青少年の高等教育の機会を阻害しているといえよう。
この投書の意見(2019年4月17日朝日投書)に,私は同感である。アメリカの普通の州立大学では,私が知る限り,受験料や入学金はない。また,どの大学にも奨学金制度や学生寮がある。
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はるか昔の恩師の思い出
February 22, 2019
新潟県の,雪にまつわる民話........
アマゾンで「越後の民話」と入力すると,4,5冊の本が表示される。これらの本の編集者である水沢謙一先生は,私が通っていた小学校の校長であった。水沢先生は,新潟県のあちこちの山村に行き,そこに住む高齢者から,記憶している昔話を聞き出して記録し,「昔あったてんがな」という本にまとめて出版し,大変な好評を得た人であった。
その本の挿絵を描いたのが,私が小学校4年生の時の担任であった水野庄三先生である。
「おばばの夜語り―新潟の昔話」 (1978年) (平凡社名作文庫)
昭和3年生まれの,当時,独身で若かった水野庄三先生は,絵や版画を通して,子供が本来に持っている能力や才能を全部引き出そうとする,新進気鋭の、凄まじいまでの熱血先生であった。(放課後には、学校の砂場で子供たちと、汗だくになって相撲をとり、私は、何回ぶつかっていっても砂場に投げ飛ばされた)
水野先生は、どんな子供にでも,その子が描いた作品を,まずは,褒め上げて励ました。私も同級生も,先生に褒められるのが嬉しくて一生懸命に絵を描いたが,先生は,その絵をあちこちの絵画コンクールへ送り,おかげで,私は何回か入選して賞状をもらった。
その実践教育から生まれた本が「子供の絵の教え方」(1986年,三晃書房)や「絵,版画の見方と指導のポイント 1,2,3集」(1990-99年,めぐみ工房)という本である。(後者の ”あとがき” には「われこの道より生きる道なし この道を歩く」と記されている)
水野先生は,2005年3月3日に76歳で逝去された。そのため,これらの本はアマゾンで見ると,もはや中古品しかない(私は,先生からの寄贈により,それらを持っている)。
当時,小学4年生であった私にとって,先生との出会いは,私の一生の思い出となった。
昭和30年代の長岡市での小学校生活。(今日の長岡市は,人口18万人の新潟県第二の都市である)雪国の長岡で、こういう先生に小学校時代に出会い、受け持たれたことを、私は幸運に,また誇りに思う。先生の教え子が集まる同級会に、私を含むたくさんの方々が集まるのは、みな、私と同じ印象を持っているからであろう。
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日米地位協定の屈辱
February 13, 2019
イタリアやドイツなどのヨーロッパにも米軍は駐留している。しかし,”日米地位協定” なるものの内容を見れば,ヨーロッパ諸国と比べて,日本国内では,米軍による日本国内法の無視が容認されており,日本人よりもアメリカ軍人の人権が優先されていることが一目瞭然である。そのひどい実例が,広大な米軍基地を押し付けられている沖縄の現状である。
戦後70年以上も,これほどの屈辱的な不平等協定に,よくぞ日本政府は甘んじているものだ。日本国内では,米軍は自由にやりたい放題である。日本国民を侮辱した,こんな馬鹿げた”不平等協定”を,私は断じて認めることはできない。この社説(2019年2月13日朝日)に,私は同感である。
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親による暴力と児童虐待の背景
January 30, 2019
千葉県野田市で小4女児が,父親からの日常的な虐待の果てに自宅で殺された。
こうした痛ましい児童虐待事件に接するたびに,悲しさと腹立たしさが湧いてくるのが普通の人であろう。一方,その原因を考えてみると,毎回の事件の背景には,加害者(その殆ど全てが父親)に以下の共通点があるようだ。
(1)加害者(親)の教育レベルが低く,加えてまともな職業資格がなく,そのため,安定した職に就けない。(無職や,低収入の生活を強いられていることが多い。)
(2)そのため,加害者の生活は経済的に苦しく,それによる苛立ちのはけ口が,妻や子供への暴力や虐待となる。
(3)加害者自身が,子供の頃に親からのひどい暴力を受けていた。(子を叩く親は,叩かれて育ったという負の連鎖。)
(4)加害者は,自分の妻に対してもしばしば暴行があり,妻は,夫の暴力性向による恐怖を知っているために,子供に対する夫の暴行を阻止できない。
(5)加害者は,自分の親(子供の祖父母),親戚,近所との付き合いがなく,日常の相談相手がいない。
言い換えると,親にまともな教育歴があり,そのため安定した職に就き,生活が経済的に安定し,自分の親(子供の祖父母)や近所との普通の交流がある家庭では,”児童虐待”はありえないであろう。児童虐待は,”犯罪者の根源は貧困” の一例と言えよう。
(誤解を防ぐために補足すると,児童虐待事件の報道記事を見る限り,その親に見られる,私の印象としての共通点を述べているのであり,教育レベルが低い,まともな職につけない,子供の頃に親から暴行を受けた,祖父母や近所に相談相手がいない,という親であれば児童虐待を行なう可能性がある,とは全く言えないことは,もちろんである。「AにはBという共通点がある」(必要条件)と「Bという共通点があればAになる」(十分条件)は,全く別のことである。)
子供は親を選べない。学校や幼稚園の教師,そして近所の住民による ”他人の子供への目配り” が重要なようだ。児童虐待を防止する対策として,警察と児童相談所が情報共有する県もあるようだ。
「愛知県では今年4月、警察と児童相談所が、通報を受けたすべての虐待事案を共有する協定を結んだ。また、茨城県でも、1月から同じような取り組みを始めている。」
「一方、東京都は「通報の2割は実際の虐待ではなく、個人情報の保護が必要。相談しやすい環境をつくるため警察との全件共有は、今のところ考えていない」としている。」(同「プライムニュースデイズ」)一方,以下の報道もある。
「「ひどい親」と批判しても事件は減らない。「評価」に追い詰められる親たち」
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無罪推定と冤罪の防止
January 24, 2019
日本では,刑事事件の裁判で,有罪判決の出る率が99.9%にもなるらしい。欧米諸国に比べて,異常に高い有罪率といえる。しかし,一方,それにより,今までに多くの冤罪事件が発生しており,被告とされた人の人権が蹂躙され,人生が狂わされてきた。そのうえ,上級審で無罪が確定しても,被告とされた人への国家賠償も十分とは言えない。有罪判決を出した裁判官への意見聴取もない。
刑事司法では「無罪推定」が原則であるにもかかわらず,逮捕即有罪,あるいは,起訴即有罪,とみなすようなマスコミの報道は正しくない。
無罪推定の原則によると,以下のようになっている。
「検察官が被告人の有罪を証明しない限り、被告人に無罪判決が下される(=被告人は自らの無実を証明する責任を負担しない)」
「有罪判決が確定するまでは、何人も犯罪者として取り扱われない(権利を有する)」
日本における冤罪事件の多さや,裁判における逆転無罪判決の事例を振り返ると,「逮捕されたからには当人は罪を犯したのだろう」や,「火のないところに煙は立たず」などは極めて危険な推測であり,とんでもない間違いであることもある。
人が人を罰するからには,被疑者自身が ”犯行を自供” しただけでは不十分なのである(その”自白”は強要や誘導によるのかもしれない)。 動かしがたい十分な証拠,動機,客観的事実が ”すべて完全に揃って” いなければならない。一点の疑念もあってはならないのである。それがいかに微小とはいえ,推定に基づく起訴要因があれば,それが,完全に解明され立証されなければ,被告は無罪でなければならない。人が人を裁判で裁くとは,そういうことである。
検察官としては,人を逮捕し勾留するからには,それなりの十分な証拠と理由を堅持しているはずである。即ち,普通に自分の仕事をこなしているのである。そのため,被告を起訴し,裁判になったときに,仮に無罪判決が下されたとしても,それは,裁判官が自分の仕事として慎重な審査のもとで出した判決であり,それを検察の負け,あるいは黒星とみなすマスコミの報道は正しくない。「起訴はされたが無罪の判決であった」ならば,それはそれで,裁判官の判断による一件落着であり,検察の黒星とは言えないであろう。(ただし,被告に有利な証拠や起訴要因には不利な証拠を,検察側が故意に隠匿する場合が有るが,それは,全くの論外であり,社会的に厳しく糾弾されなければならない。その典型が,有名な1949年8月の松川事件である。)
検察側は証拠をあげて被告を起訴する。弁護側はその起訴要因を否定して反論する。裁判官は,検察側と弁護側の意見陳述を,平等にかつ慎重に審査し,合議の上で判決を下す。端的に言えば,ただそれだけのプロセスである。
検察官とて,裁判官とて人間であり,間違いもありうることである。そのため,「無罪判決を検察の黒星とはしない」という社会認識の確立が,この日本に求められていると私は思う。それが,冤罪を無くすための最大の方策だと私は思う。そして,上級審で無罪が確定した被告に対して有罪の判決を出した下級審の裁判官に対しては,被告と弁護側が意見聴取を求める権利と制度が必要と,私は思う。
今回のカルロス・ゴーン会長の逮捕についての記事(2019年1月24日朝日)の中で,私は,上記のことを改めて思う。
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転職を考える君へ
January 19, 2019
「”時々の日誌” が3ヶ月も更新されていないが,どうしたのか」と友人諸兄から,問い合わせや催促をいただいている。
決して更新を忘れていたわけではないが,facebook への投稿記事や,日常のあれこれの用事に関わっているうちに,更新が間延びしていたことをお詫びしたい。
最近,ある青年から,転職を考えることがある,との相談を受けたので,私は以下の返信を送った。
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君は,最近,転職を考えることがあるとのこと。
私自身は2回の転職をした。その体験から,そして,在職中に自分が接してきた多くの学生の転職の相談と,当人の再就職のために他の会社との相談をしてきた経験から,私には分不相応な意見であることを認めつつも,以下を述べよう。
まず,転職というものは,給料の高い低いに目がくらんで決めたら必ず失敗する。転職は,次の仕事の内容が,本当に自分の希望に合うかどうかで決めるべきだ。そうでないと,必ず,その転職は失敗する。給料が高そうだ,今より仕事が面白そうだ,などで転職を考えることを「青い鳥 症候群」という。そして,それは,結局は失敗して元通りになる。
男にとって仕事の選択とは,そもそも,自分の興味と希望と適性を良く考え抜き,自分の希望する人生設計に照らして行なうものだ。決して,給料の高い低いで決めてはならない。
そもそも,会社での仕事というものは,趣味や遊びとは違い,”面白くない”ものだ。入社して4,5年は,そうしたことに耐えなければならないのだ。35歳以下の社員の給料など,どの会社でも(管理職でなければ),大して違わないものだ。なお,待遇については,給与の額だけでなく,社員の福利厚生の手当や設備(これが”隠れた給与”であり,実は大きいのだ)の違いも考えなくてはならない。もし現在の自分が中途入社の身であれば,自分を採用してくれた会社への恩も忘れるべきではないだろう。さらに,転職を考えるからには,妻子を抱えた一人の男として,家族の生活保障の責任も考慮しなければならない。
私は,大学院で燃焼工学を学び,自動車会社の研究所でエンジン開発の仕事をしていた。しかし,その会社の研究所では,自由な研究というものが許されなかった。そのために,当時の私は悩んでいた。ちょうど,その頃,紹介を受けて,新設されるという国立の ”工業系短
大” のエンジン工学の教員として転職した。給料は同年代の人に比べて,とても高かったので,そのままいれば,経済的には余裕のある生活の人生が続いたと思う。
しかし,そこは,会計検査院からの業務改善勧告により雇用促進事業団が単に職業訓練校の看板を ”職業訓練短期大学校” という名称に変えただけの,お粗末でデタラメな ”短大” であった。そもそも,教員資格のある者が誰もいない。”教員” の中に大学卒業者さえほとんどいない。
必然的に,この実情を知らずに騙されて入学した学生の中からは退学者が出た。”看板と中身が違う”,”教員が能力不足である” として校長宛に意見書を提出した学生もいた(その後,退学)。当時のある管理職は「恐れていたことがついに起きた」と述べていた。
雇用促進事業団としても,もちろん,「職業訓練校は短大にはなれない」ことを十分に承知しており,そのため,”短大開設”に当たり,大学卒業者を”教員”として若干名採用したが,それで一件落着としてしまい,短大建設のために ”無資格教員” を配置転換して人員を刷新するという当然の施策には労働組合との軋轢を避けるために手を付けなかった。要するに,”職業訓練短期大学校” の失敗の最大原因は,雇用促進事業団と労働組合との馴れ合いと癒着にある。つまり,雇用促進事業団は”短大転換”の社会的責任を果たすことが全くできなかった。(2016年7月26日の記事を参照)
こうした内情を目の当たりにした私は,着任早々に,すっかり呆れて嫌気がさし,”デタラメ行政の悪行” に加担することの罪悪感を感じていた。結局,3年後「ここに在職することは,自分の人生信条に著しく反し,自分の経歴にも傷がつく」と明記した辞表を叩きつけ,その ”職業訓練短期大学校” なるものを(慰留を拒否して)捨てた。
その当時,35歳の私には,2歳と1歳の子供がいたので,辞職を決意するまでには相当に悩んだが,デタラメ行政の加担者になることはできない,と決心した。両親も妻も,最終的には同意してくれた。その後,縁あって,長岡高専の機械工学科の熱工学担当の教員として,2回目の転職をして長岡市に来た。そこで28年勤務し,定年退職をした。
その後の流れを見ると,雇用促進事業団が苦肉の策として職業訓練校の看板を次々に塗り替えて,全国に粗製乱造した ”職業訓練短期大学校”なるものは,頻繁に組織の再編や統合,さらに名称変更などが繰り返され(私が所属していた学科も,当時の私が予想していた通りに開設後わずか7年で廃止された),加えて,そもそも,雇用促進事業団それ自体があれこれの批判を浴びて廃止され,「高齢・障害・求職者雇用支援機構」と改名され,その業務内容が大きく削減され整理された。さらにまた,予想通りに,職業訓練大学校それ自体も廃止され,後に,入学者定員をごく少人数にした職業能力開発総合大学校と改名された。
今日では,”職業訓練短期大学校”なるものは,再編や統合を経て,すべて職業能力開発短期大学校と改名された。一学科の教員はわずか5名程度だが,大学卒業者を揃えているようだ。これらは,文字通り,37年前に当時の私が予想したシナリオの通りである。
繰り返すが,転職そのものは,決して悪くはない。ただし,自分の本来のやりたい仕事をよく考え,それにより(給料の高低ではなく)会社を決め,その上で(家族の生活保障も考えて),転職を考えるべきだ。自分の本来の希望する仕事ができる会社が,ほぼ確定しているのであれば別だが,そうでなければ,簡単に転職を考えるべきではない,と私は思う。
私の2回の転職の理由は,ただ一つ,大学院を出て博士号をとった自分として,研究者としての道から外れたくなかったためだ。待遇(給与)の良し悪しは,全く考えたことがない。
長岡に来てからは,高専という職場ではあるけれど,研究者としての道を貫くべく,自分として最大限の努力をしてきたつもりだ。研究論文も全て英語で50編くらい書いてきた。
そのため,例えば,Google Scholarにて,Hiroki Ishidaと入力すると,いくつかの自分の論文が出てくる。それを見ると,高専という職場で,よくぞ研究者として頑張ってきた,と自分でも思う。研究論文だけでなく,自分の意見を誰に遠慮することもなく,文書で社会に公開してきた。そして,それらは,今も,たくさんの人から読まれている。例えば,Googleの検索で,”高専問題の打開”と入力すると,必ず,高専問題に関する私の意見が上位に表示される。20年くらい前から思っている私の人生信条は以下だ。
「人生は,一度しかない。」
「人生は,楽しむためにある。」
「今日一日を,悔いなく生きる。」
「終わり良ければ,全て良し。」
「継続は力なり。」
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厄介者達をも包容する民主社会
October 22, 2018
極右言論人たちの嘘とでっち上げが、次々と白日のもとに晒されているようだ。
だが,このような者たちでも,その存在を受容しなくてはいけないのが,民主主義社会というものなのだろう。
一般国民の中の社会常識に照らした正常な言論により,このような者達を白日のもとに断罪するしかない。日本社会は,そのために,事実を事実として忌憚なく公表するジャーナリズムの存在の真価と力量が問われているのだろう。
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第27回全国市町村交流レガッタ大津大会
September 18, 2018
新潟市から,マイクロバスで途中休憩を入れて北陸自動車道を8時間走り,9月14日の夜,滋賀県守山市に着いた。翌日は,隣の大津市にある琵琶湖漕艇場にて,第27回全国市町村交流レガッタ大津大会。
熟年男子の部(全部で6組あり)の予選(9月15日)を,我がクルーは一位で通過した。その日の夕方は大津プリンスホテルにて,歓迎のレセプション。
翌日(16日)は,各組の一位が集まって6チームが出る決勝レース。ところが,私達のクルーに指定された船の具合が悪く,スタート前に修理をしてもらい(コックス(舵取り)の話では,この船は,どういうわけか常に左方向へ曲がってしまう,とのこと),それでレースに臨んだ。しかし,3位以内に入れず6位。
残念だが,負け惜しみを言いたくないので,次回に向けて,また練習に励もうと思う。
ウルマンの「青春の詩」を胸に刻みつつ...........。
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若手研究者への粗悪学術誌の誘惑
September 17, 2018
この記事は,研究者として,恥ずかしい話だが,一方,業績(論文数)を稼ぐために必死な気持ちに追いやられている若手研究者の世界も理解できる(若かりし頃の自分を思い出す)。
私は,投稿料を求められるような ”学術雑誌”に投稿したことはない。そもそも,まともな研究者(私の恩師も含めて)であれば,プライドが高く,そのような雑誌に投稿することは,弟子である院生や准教授に許さないと思う。
どんな”論文”でも,ひとたび出版されると,同業研究者の世界で,称賛や逆に嘲笑の的として,それが永久に残る。投稿論文が出版され,世界に公開されることは,その著者の力量が「査定のまな板」にのせられることである。その怖さを,私は痛いほど学ばされてきた。
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アメリカの子供の弁当について
September 13, 2018
20年以上前,アメリカの地方都市にいた。子供たちは現地の小学校に通っていたが,昼食には,いつも母親の手作りの弁当を持っていった。
学校での昼食時に,子供たちにとって意外だった(驚いた)ことは,同級生のお弁当の余りにも簡素なことだった。ポテトチップとオレンジのみ,ビスケットとジュースのみ,あるいは,ポテトチップとハムのみ,などなど。
アメリカの親は,子供の昼食の弁当については,余り面倒なことは考えないらしい。ある日の昼食時に,子供たちが海苔で包まれたおにぎりを食べていると,同級生の何人かが寄ってきて,「その黒いボールは何?」ときいてきたとのこと。今日の天声人語を見て,当時のことを思い出した。
アメリカでは,そもそも,母親が,大した料理をしなくても,出来合いの品物を買ってきて,オーブンで焼くか,電子レンジでチンすれば,そこそこの美味しいものが出来上がる。そのため,アメリカ人は,子供の時から,料理を覚える必要がないようだ。
感心したのは,アメリカでは,出来合いの品物とはいえ,実によく(とても,美味しく)出来ており,しかもかなり安い。大きなピザが,日本の1/4 くらいの値段であった。
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青田買い,青田刈りの弊害と日本社会
September 5, 2018
”青田買い” や ”青田刈り” には危険が多いことは,普通は誰もが認めるであろう。
50年くらい前の日本の高度経済成長の最盛期であった当時でも,そうした懸念が出ていた。さらに,「産学協同は大学教育を破壊する」という意見も大学内に強かった。
毎年繰り返されるこの議論の背景を考えてみると,そもそも,みんなが一緒に同じ時期に,入学し,卒業し,入社(就職)する,という日本社会の特性があると思える。
春学期から,あるいは秋学期からの入学者がいるアメリカの大学には入学式はない(もちろん,卒業式はある)。また,アメリカの会社には入社式などない。社内の必要な部署で,そこでの仕事ができる人材が求められ,採用される。それは,季節には無関係であり,そのため,社員の採用や転職などは,一年を通して,いつでもあり得る。実際,日本における外資系企業ではそうなっている。
今日は日本でも,入学時期を4月と9月に設定している大学がいくつかある。国際基準に合わせてきていると言えよう。その動きをさらに進めて,就職の時期についても,もはや「みんなが一緒に,同じ時期に」を廃止したらどうだろうか。
まずは,官公庁の人事採用にて,それを実施するのが良い。同期入社,同期採用,同期退職,などの言葉が日本社会の中で過去のもとなれば,”青田買い” や ”青田刈り” の危険性,さらに,その語句自体も消えてゆくかもしれない。
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入試英語の改革の拙速は良くない
August 24, 2018
入試英語の試験方法改革の拙速を警戒する意見(2018年8月24日 朝日社説)。私はこれに同感である。
インタネットの現代社会では世界各国の英語の新聞記事が読める。仕事の中で,外国の相手から意見を求められることや,自分が外国の相手に意見を訊く必要もあるだろう。そのため,仕事の中で英語を使うには,英文を正確に読み取ること,英文で正確に相手に伝えることが大切である。
一方,英語を話す力量についてはどうか。そもそも,非英語国の国民が英語国の国民と ”同等の会話力” を身につける必要は全くないと思う。例えば,インド人の話す英語,フィリッピン人の話す英語,スペイン語圏の人が話す英語,ドイツ語圏の人の話す英語,みなそれぞれ英米人の話す英語とは違うが,しかし,非英語国の人はそれで立派に仕事をしている。
(もし,普通の日本人が見知らぬ外国人に出会った時に,その外国人が,関西弁,津軽弁,山形弁,新潟弁,広島弁,鹿児島弁などを流暢に話していたら,奇妙に,そして不思議に思えるだろう。一方,その外国人が,たどたどしくても,多少発音が変であっても,ゆっくり日本語を話していれば,日本人は誰もそれを変には思わないだろう。)
インタネットの現代社会で,仕事で英語を使うには,話せる力量よりも,正確な読み取りと正確な作文の力量を磨くことが特段に重要と私は思う。(経済学者の野口悠紀雄氏も,同様なことを言っておられる。)
仕事の中の必携の商売道具として英語を使ってきた私の体験で言えば,高校の英語教育における”読解,文法,作文”の訓練は非常に大切なことであり,決して ”受験英語”などとして忌避されるべきではない。普通の日本人には,これらの訓練を受ける機会は高校時代にしかないのである。これらの訓練の重要性を軽視するかのような ”入試英語の改革” には,私は賛成できない。
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恵庭OL殺害事件,闘いはまだまだ続く
August 12, 2018
今日,恵庭OL殺害事件で16年間服役させられた大越美奈子さんが釈放された。
この冤罪を晴らすべく,弁護団の支援活動はまだまだ続く。私も弁護団に協力を続けようと思う。この事件と裁判については,今も,多くの識者から疑問が出ている。
2014年の10月12日と11月8日,2015年の5月1日と8月10日,2016年の5月2日と8月10日にも,私はこの事件を記している。
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「若い研究者よ、泣き言言うな」の意見
July 28, 2018
物理学者の大槻義彦氏(早大名誉教授)は自身のブログ(2018年7月28日)にて「若い研究者よ、泣き言言うな」と題して以下のように述べている。
私には,約40年前の自分(職なし,金無し,研究混迷)の辛い思い出が蘇ってきた。同業の研究者に比べて,だいぶ遠回りの遅刻をしたが,運良く職を得て,定年退職した。国際雑誌の研究論文の末尾にあるReferences の中に,たまに自分の若かりし頃の論文が出ているのを見ると,研究者稼業を諦めなくて良かったと思う。大槻先生の御意見に私は賛同する。
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朝日新聞は博士後期終了後(ポストドク)の若い研究者の問題を大きく取り上げた。とくにこの問題を世に訴えるための雑誌『博士世界』の創刊のことが中心であった。
(以下引用)
大学院の博士課程を修了後、大学などでの常勤職を目指しながら、非常勤講師や任期制のポスドク(博士研究員)として働き続ける人が少なくない。将来に不安を抱えながら研究に励む博士学生の現状を知ってもらおうと、日々の生活や修了後のキャリアパスに焦点を当てた書籍や冊子が登場している。昨年12月、雑誌「博士世界」が創刊された。企画したのは、東京大や東京工業大の大学院生ら4人。
きっかけは、進学 後に理想と現実のギャップや、世間からの無理解に悩む博士学生の姿を度々見かけたことだった。大上真礼(おおうえまあや)編集長(29)は、東大大学院教育学研究科の博士課程に所属し、今春からは和洋女子大で任期制の助手としても働く。。。
(引用終わり)
ポストドク問題は第一番に国の文教政策、文化政策のオソマツさがある。大学院博士後期の定員をドイツ並みに増加させながら終了後の働く場所、手当、研究費補助をやらなかった。やらなかったどころかそれらの環境を悪化させて来た。
大学法人化を推進して人件費を抑えた。そのあおりで安定な若い研究者の職場は年々失われてきた。研究職での終身雇用は無くなり一時雇用が主なものとなっ てしまった。大学職員もパートの採用が拡大、それに合わせたように『パート助教』が増えてしまった。
ドイツの博士養成を見習って文科省は博士後期の学生を増やしたことは上に述べたが、ドイツではその受け皿もしっかり確保されている。つまり至る所設立されている国立研究所マックスプランク研究所である。
文科省はこのポストドクの受け皿を少しも考えなかった。考えなかったどころか、それを縮小して不安定なパート研究者に改悪してしまったのだ。
したがってポストドクの研究者人生はきびしい。それは良く理解できる。しかし戦後、食べるものも研究費も、住む家もなかった1960年代のわれわれ世代が今ノーベル賞を取りまくっているではないか。今の 劣悪なポストドク環境も我々世代から見れば天国ではないか。第一、雑誌を発行できるだけの余裕があるのだから。
古いお説教じみになるがポストドクは『修行の時代』なのだ。何の職業も修行時代は苦しくつらい。それを乗り越えて成果を上げるのが若さなのだ。
私の趣味は何を隠そう落語なのだ。私の知り合いに一躍超有名になった落語家のSがいる。私は彼を前座のころから目をつけてきた。そのころ落語ではとても食べてゆけず新宿界隈で居酒屋の皿洗いをしていた。皿に残った残飯をかき集めて次の日の食料としていた。彼はその皿洗いをやりながらいつも何かつぶやいていた。そう、そのつぶやきこそ落語のしゃべりの練習だったのだ。
彼は私と同じ東北出身だ ったから江戸弁は苦手。私は新宿界隈に行くと必ずその居酒屋に立ち寄り(ちなみに私はお酒が一滴も飲めない)彼の江戸弁修行に付き合ってやった。ときには宮城県のすし屋の支店『野郎寿司』で慰めてやった。
それがあるときラジオでやった一席がとてつもなく評判となった。切れのいい、流暢な江戸弁、しかも3分、いや1分に一度は笑わせる巧妙なギャグ。私はこれで彼の出世はきまった、と喜んだ。まったくそのとうりだった。東京落語界で彼の右に出る者はない。
ポストドクの皆さま。今どき残飯を食べて修行、などとは言わない。しかし研究環境の悪さに負けてはいけない。何の分野にもつらい修行の時期はあるのだ。ノーベル賞をめざしてただただ研究あるのみ。 『一に研究、二に研究、三、四がなくて五に研究!』
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オウム幹部の死刑執行を巡る論議に加えて
July 9, 2018
既に死刑が確定していたオウム幹部13名のうち7名の死刑が,7月6日に執行された。その是非について,識者により,いろいろな論議がなされている。
そもそも,刑事罰というものは,加害者に対する被害者側の ”処罰感情の充足” に加えて,社会的な制裁により,”同様な犯罪の防止” を目指すものであろう。刑事罰の量刑は,”処罰感情の充足” と ”犯罪防止対策の効果” という目的のバランスの上で,できる限り,その ”両者を満たす” べく決められるべきものであろう。
死刑制度は廃止すべきか,それとも,存続はやむを得ないのか,私も確信が持てないが,一方,既に,死刑制度を廃止しているヨーロッパ諸国やアメリカの多くの州では,その決定に至るまでに,上記の ”両者を満たす” ためのどのような論議があったのか,私は知りたいと思う。
”国家による合法的な殺人” である死刑という処罰を日本で廃止し,かつ,できる限り上記の ”両者を満たす” ためには,例えば,保釈のない終身刑の制度を日本にも導入するべきではないだろうか。
鹿児島市の弁護士の鴨志田裕美氏は,以下のように述べている。
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私はかつて,死刑存置論者だった。10代のころは,その考えに何の疑問ももたなかった。
自分の肉親が,友人が,恋人が誰かに殺されたら,私は地の果てまででもその犯人を追いかけて殺したいだろうと思ったからだ。
しかしあるとき,サッコとヴァンゼッティ事件の実話をもとにした映画「死刑台のメロディ」を見て,無実の者が死刑になることもあるという現実を知った。大学に入り,刑事政策のゼミで発表したテーマは,まさに「死刑の存廃」だった。発表に向けたリサーチの中で死刑制度,執行の現実,特に刑務官や死刑執行にかかわる人たちの言葉を絶する負担を知ったが,「段階的廃止」か「制度存置の上で限りなく執行を抑制するか」の究極の選択として選んだ自分の意見は後者だった。その理由は,やはり,被害者感情だった。
大学を出て,紆余曲折の人生を経て42歳で弁護士になり,再審弁護に携わるようになった私は,初めて死刑廃止論者となった。存置から廃止に舵を切らせたのはかつての漠然とした「無実の者を死刑にしたら取り返しがつかない」という素朴な感情ではなかった。
人質司法,過酷な取り調べ,調書裁判,無罪方向の証拠隠し,といった刑事司法の抱える現実を知り,このままではとても冤罪を防げない。そして無実の者を死刑にするリスクを回避できないと痛感したのだ。
でも,いまの私の考えは,そのころの考えとも少し異なる。
数年前,布川事件の冤罪被害者,桜井昌司さんが,ある集会後の打ち上げの席で「俺は死刑廃止論者だ」と言うのを聞いた。彼の経験から,当然,国家が無実の冤罪被害者を殺すことは許されない,という理由を挙げるのだろうと思った。しかし,全然違ったのである。
「国家って,国民を幸せにするために作られた制度だろ。その国家がなんでその国の国民を殺すわけ?おかしいじゃん」
単純だけど,説得力があると思った。私なりに,もう少し敷衍したい。
いまの私は,冤罪であっても,そうでなくても,被害者が赦していても,極刑を望んでいても,被告人本人が死刑を望んでいても,そうでなくても,国家による死刑はダメだと思っている。
国家というのはもともと人が作り出したシステムである。当初は,支配者が自らの力を誇示し,ほしいままに民を統治できるよう,民を縛り,気に食わない民は,ありとあらゆる残虐な方法を用いて抹殺することもできた。そのような暗黒の時代から虐げられた民衆が立ち上がり,民の幸せのために国家に権力を委ね,自分たち自身がその権力を監視するというシステムに変えた。国家が民の平穏,すなわち秩序の維持のために権力を使うことは,民のコントロールが及んでいることを理由に正当化された。
しかし,民が作ったシステムに過ぎないはずの国家が,あたかも専制君主のように民を押さえつける現場を,私たちは歴史の中でしばしば経験するようになった。国家の運営者は,民から委ねられたはずの力を,自由気ままに発揮できてしまっている。
死刑にできる場合は法定されているから権力はコントロールされていると,だれが言えるだろうか。 被害者が極刑を望んでいても,一人しか殺していない者は死刑にならないのはなぜ? 被害者二人の殺人犯だったら? 犯行時に18歳だったら死刑にできるというが,死刑になる場合とならない場合があるのはなぜ? 死刑判決が確定しても,執行された人とされずにいる人がいるのはなぜ?
これらのことは,結局のところ,同じ人間でありながら偶然に権力を持った側の「裁量」という不確実な要素に委ねられている。そんな不確実なさじ加減が組み込まれているシステムの中で,人間が,同じ人間を殺すことを合理化できるはずがない。
更生可能性があるかないかの「境目」,冤罪か冤罪でないかの「境目」,責任能力があるかないかの「境目」。そのような「境目」がはっきりあって,物差しを当てれば自動的に結論が出る,というのは幻想であるということを,私たち人間は謙虚に受け止めなければならない。あやうい人間が,裁量をもって力を行使できる国家というシステムのもとで,死刑を宣告し,執行することは,だからできない。やってはいけない。その対象者が麻原彰晃でも,袴田巌さんでも,少年でも,大人の完全責任能力者でも。
さいごに,私たちは,被害者の方々の悲痛な叫びや極限の怒りに直面しても,その声に耳を塞ぐことなく,背を向けることなく,どうすればその方々が光射す方向に次の一歩を踏み出せるかを,被害を受けたという過去を変えることができない痛みを共有しながら,一緒に考え続けなければならない。そして,それでも国家による死刑はダメだという価値観を共有するために,覚悟をもって対話し,議論し続けなければならない。
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Rowing がもたらした最近の意外な縁
July 5, 2018
私は,はるか昔の高校時代にボート部員として,ナックルフォアの漕手であった。5年前に退職した直後に,地元の新潟Rowing Club に参加し,還暦前後のメンバーとクルーを組み,エイトの漕手として,冬季間を除き,月に2,3回,土曜日の早朝に,信濃川にてRowingの練習をしている。最年長の仲間(高校ボート部で私の4年先輩)が,最近は腰を痛めて欠席がちなので,最近はついに私がメンバーの中で最年長となった。
2年くらい前から,近隣の大会に何回か出てナックルフォアの500mを漕いでいるが,昨年は新潟県の ”阿賀野川レガッタ” にて,運良く優勝できたので,今年は,9月15,16日にて,全国市町村交流レガッタ大津大会に新潟県代表として参加することになった。
15日は予選,そして16日は準決勝と決勝だが,その日は奇しくも私の誕生日。誕生日を決勝出場で飾りたいが,どうなることやら..........。
今年の5月,私達の練習を,川岸(信濃川のやすらぎ堤)にて一組の夫婦が興味深そうに見ていた。練習後に,すこし話かけてみると,なんと,夫のA氏は,ある名門大学のボート部のOBであり。卒業後はコーチをしていたとのこと。昨年の春から,仕事の関係で新潟市にいるとのこと。
私達のメンバーは,十数名在籍しているが,完全なリタイヤ組は2,3名であり,みな仕事があるので,通常は,練習当日に9名揃うのが,難しくなってきた。そのため,そのA氏に「よろしかったら私達と一緒にエイトを漕ぎませんか」と誘ってみた。
A氏は,新潟市に来る前は,神奈川県のある大学教授であったが,私の友人(大学ボート部の同期)も,その同じ大学の教授であったので,A氏の件を伝えると,彼はA氏をよく知っており,「彼も,俺のことをよく知っているはずだ。彼は1年の夏にオックスフォード楯レガッタで優勝した経験がある。今度あったらよろしく伝えてくれ。世間は狭いものだなあ。」とのこと。
早速,A氏にそれを伝えると,今月のRowing練習に参加していただけることになった。私達のクルーのキャプテンにそれを伝えると,往年の選手であったベテランが参加してくれることを喜んでいた。いやはや,Rowing がもたらした最近の意外な縁である。
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勉強と受験の要領
June 13, 2018
学生時代に,私は,アルバイトとして家庭教師と塾や予備校での講師をしていた。毎年の春には,自分が勉強の支援をしてきた生徒から ”合格しました!” という報告を聞くたびに,私自身も嬉しくなり,次年度の仕事(アルバイト)への意欲が湧いたものであった。
当時の若かった私の多くの体験は,その後の私の人生に大きな教訓を残した。そして今,自戒を込めて私が断言できることは「勉強や試験の成否のカギは ”要領と暗記が第一” であり,決して当人の能力ではない」ということである。「人間の能力など,よほどの秀才や天才以外は,誰もが大して変わりはない」ということである。
さらに私自身の今までの仕事の経験から言えば,「仕事の成否のカギは,能力が2,3割であり,努力が6,7割,運が1割程度」と思える。言い換えると,仕事の成否のカギの7,8割は努力と運によると思う。私が好きな言葉として「継続は力なり」を挙げるのはそのためである。なお,「学生時代の勉強や試験の成否のカギは ”要領と暗記が第一” 」は,実は私だけの意見ではなく,精神科医の和田秀樹氏や経済学者の野口悠紀雄氏も,同様なことを述べている。
今日では,高専卒業者の大学編入学の試験問題を公開している大学がたくさんあるが,それを見ると,国公立大学が高専からの編入学を認めるようになった30年くらい前に比べて,明らかに,入試問題が極めて平易になっている。
その理由を考えてみると,編入学の制度ができた初期の頃は,大学教員の中に「高専卒」は「大学の2年修了と同等であろう」という”善意の誤解”をしている方が多かったようだ(高専着任前の私もそうだった)。 あるいは,むしろ逆に,高専自体を全く信用しておらず,高専の卒業者が果たして本学の3年生の授業についていけるのかどうかを試すために,”大学2年修了程度” を確認するべく本格的な試験を課していたようだ。
実際,当時は高専からの編入学を疑問視する国公立大学が多く,そのため,編入学者の募集は学内に欠員がある年度のみ,あるいは,募集定員枠を極めて少数または若干名としている大学が多かった。編入試験の合格者がゼロという大学もあった。しかし,時代の流れにより,今日ではすべての国公立大学の工学部に(大学によっては,工学部以外でも)高専からの編入制度が定着している。
そして同時に,多くの大学の教員が「高専の卒業者は ”パソコンの使い方” や ”もの作り” の訓練は受けているが,しかし,数学,物理,英語等の基礎科目について ”高卒の学力” に達している者が極めて少ない。」という重大で意外な事実に気付いたために,「高専生を対象とした大学編入学の試験問題は,通常の大学入試問題で充分」と分かってきたようだ。例えば,多くの大学の編入試験問題の英語は,せいぜい中学3年か高校1年程度であり,通常の大学入試問題の英語とは比較にもならない。
私が現職中に,4,5年生を対象に,大学編入試験の受験対策として,数学,物理,英語の問題演習を担当し,その中で通常の大学入試の問題演習を行なっていたのは(昔の予備校講師時代を思い出して)そのためである。私が常々思っていたことは「高専の学生の基礎学力の不足は,決して,当人の能力によるのではなく,それは,基礎教育を軽視している高専教育の重大な欠陥による。それを日本中の人々に知っていただきたい。」ということであり,そのために,高専問題とその打開についての意見を,私は忌憚なく社会に公開してきた。
実際,現職中に私が接してきた多くの学生諸君の中から,大学へ編入し卒業後に,あるいは大学院を修了後に,若手起業家として活躍している者,また,大学院で博士号を取り,大学の教員や企業の研究者として立派に活躍している者がたくさん出ていることを私は見聞している。
勉強の方法や受験の対策(コツと言えよう)として,私が常に学生に強く勧めてきたことは,以下のことである。
(1)試験勉強の最も重要なことは,”見たことのない問題をなくす” ことだ。そのためには問題演習をたくさんこなすこと。もちろん,それらの全部を解答できなくても全く心配無用。問題演習の目的は ”問題のパターンとその解法を記憶する” ことにある。「あ!この手の問題は見たことがある」という直感があると心強くなり,安心感と自信が湧いてくるのだ。
(2)勉強は,8割分かったら次へ進んで良い。”前段階をすべて修得してから次の段階へ進むべし” はもっともらしい説だが,実は間違いだ。先に進んでから後を振り返ると,前にはあやふやな理解であったことが,「な~んだ。そうだったのか」と意外に分かってくる。
(3)数学や物理の問題演習では,まずは,10,15分間,真剣に考え,あれこれやってみる。それでもできなかったら,スパッとやめて解答を見る。そして,”解き方と考え方を暗記する” こと。問題演習とはその繰り返しであり,勉強や試験の成否のカギは ”要領と暗記が第一” なのだ。問題が解けなくても落ち込む必要は全く無い。”受験は技術の勝負” なのだ。
(4)試験では,まずは,全体の問題を見回し,解けそうな問題から手を付ける。1問目から着手する必要はない。難しそうな問題でも,白紙とせずに,途中の経過まで書いたほうが良い。採点者は受験者がどこまではできているかを見るのだ。実際,どんな試験でも,その採点要項には「**まで出来ていれば**点」という基準がある。
(5)問題作成者の観点に立つと,問題の作成時には,難しい問題と得点させるための易しい問題とを混在させる。つまり,試験問題は,受験者の得点に差を生じさせることと同時に,受験者の平均点を低過ぎず高過ぎずにすることが求められるのだ。一般に,難しい問題は得点に差がつきにくいので(受験者の多くが完答できないために)後回しとし,一方,易しく思える問題は他の受験者も得点できるから,確実に解答することが必要だ。
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児童虐待の加害者の共通点
June 7, 2018
「東京・目黒区で、5歳の女の子が虐待死し両親が逮捕された事件。
結愛ちゃんは「きょうよりもっとできるようにするからもうおねがいゆるしてください」などとノートに書き残していた。児童相談所が何度も関わっていたにもかかわらず、なぜ結愛ちゃんの命を救えなかったのか。」(2018年6月7日「プライムニュースデイズ」)
こうした痛ましい児童虐待事件に接するたびに,悲しさと腹立たしさが湧いてくる。その原因を考えてみると,毎回の事件には,加害者である親に以下の共通点があるようだ。
(1)加害者(親)の教育レベルが低く,加えて,まともな職業資格がなく,そのため,安定した職に就けない。(無職や,低収入の生活を強いられていることが多い。)
(2)そのため,加害者の生活は経済的に苦しく,それによる苛立ちのはけ口が子供への暴力や虐待となる。
(3)加害者は,自分の親(子供の祖父母)や親戚との付き合いがなく,生活打開の相談相手がいない。
言い換えると,親にまともな教育歴があり,そのため安定した職に就き,生活が経済的に安定し,自分の親(子供の祖父母)との普通の交流がある家庭では ”児童虐待” はありえないということである。児童虐待は,”犯罪者の根源は貧困” の一例と言えよう。
子供は親を選べない。そのため,学校や幼稚園の教師,そして町内の住民による ”他人の子供への目配り” が重要なようだ。児童虐待を防止する対策として,警察と児童相談所が情報共有する県もあるようだ。
「愛知県では今年4月、警察と児童相談所が、通報を受けたすべての虐待事案を共有する協定を結んだ。また、茨城県でも、1月から同じような取り組みを始めている。」
「一方、東京都は「通報の2割は実際の虐待ではなく、個人情報の保護が必要。相談しやすい環境をつくるため警察との全件共有は、今のところ考えていない」としている。」(同「プライムニュースデイズ」)
一方,以下の報道もある。
「「ひどい親」と批判しても事件は減らない 「評価」に追い詰められる親たち」
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私大の体育会と応援団への懐疑
June 2, 2018
昭和40年代の安保沖縄と大学紛争の中で大学生活を送った私は,元来はスポーツ好きであるが,私大の”本部直属の体育会”という運動部を激しく嫌悪した。体育会の多くは右翼団体とつながり,正義感に燃えた当時の学生運動を敵視し,時には暴力を仕掛けて”大学の警備員”となり,しかも,大学当局がそれを黙認していた。(彼らに少なからぬ謝金が支払われていた噂も私は聞いていた。)
今日でも,私の印象では,一般に大規模な私大の本部直属の体育会の部員は,勉強なんぞ不要であり,スポーツ推薦入学による授業料免除の待遇と合宿所生活により「大学の広告塔」として活動しているだけなのではないか,との疑問が拭えない。毎年,国民を楽しませてくれる大学対抗の野球や駅伝を始め,多くの大学対抗スポーツそのものに苦言を呈する気は私には全く無いが,それらを観戦しつつ,いつも私に湧いてくるのはこうした疑問である。
昭和40年代には,加えて,私大の”本部直属の応援団”も,体育会と同じく,右翼団体とつながり,当時の学生運動にしばしば暴力を仕掛け,社会的な悪評判が絶えなかった。そのため,体育会と同じく応援団をも私は激しく嫌悪した。
なお,当然のことながら,国公立大学の運動部や応援団には,こうした卑劣で野蛮な風潮と慣習は全く無かったことは言うまでもない。体育会や応援団の野蛮な暴力体質は,私大特有の際立った特徴であったと言える。
今回の日大アメフト事件における日大の対応を見ると,50年前の激しかった日大闘争を思い出す。あの当時,日大の悪名高い古田会頭の絶大な権力,彼と右翼団体とのつながり,学内の教職員に日大出身者が多いこと,その上,あの大混乱の中でも入試を強行したことなどから「株式会社 日大」とか「ポン大」などと,マスコミに嘲笑されたものである。そのため,日大のごく普通の真面目な学生たち(私の友人もいた)が,私には気の毒に思えてならなかった。
以前,アメリカ人の大学生に「日本の私大の体育会の学生は,勉強は不要であり,大学の広告塔に過ぎない」と私が言ったところ,「それはアメリカも同じだ。でも,大学の警備員の役割をすることはない」と言っていた。
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英語教育における訳読,文法,作文の大切さ
May 26, 2018
「英語教育では文法と訳読を軽視するな」というこの意見(2018年5月26日朝日)に,私は全く同感である。
私が知る限り,一般に,東南アジアからの留学生のTOEIC(国際コミュニケーション英語の検定試験)の得点は,同年代の日本人学生に比べて極めて高い。しかし,その一方,少しまとまった内容の英語文章を彼等に書かせてみると,文章に口語調が目立ち,また,文法の間違いがとても多かった。そのため,ある時,「学校では英語の文法をどのように習ってきたか」と彼等に訊いてみると,その国の学校の英語授業では ”会話の訓練” だけであり,「英文法の授業はなかった」とのこと。
今日,私達は,インタネットにより世界中の英語ニュースや英語新聞の記事が読める。また,仕事上で必要な英文資料を世界中で検索し,それを読むことが出来る。仕事によっては,自分自身が英文を作成しなければならない場合も少なくない。そのような時に必要なことは,やはり,正確な読解力と作文力(当然,文法の正確な知識が必要)である。経済学者の野口悠紀雄氏は,その著書の中で「今日のインタネットの時代では,英語については,話す能力よりも ”正しく書ける能力” が大切だ」と強調している。
永年にわたり,仕事上の道具として英語と付き合ってきた私は,団塊世代の一人であり,高校時代には,まさに「訳読,文法,作文」の特訓に明け暮れた英語教育(いわゆる ”受験英語” )を受けてきた。その試験ではいつも平凡な得点であったが,しかし,自分が組み入れられていたそのような ”英語の特訓” は,やはり正しかった,と確信することが現在でも度々ある(とはいえ,Native Speakerから見れば,英語を専攻したことのない普通の日本人が書いたり話したりする英語は,彼等の母国の中学生程度であろう)。
今日では,AIによる自動翻訳機能や,ワードプロセッサの中での英文の校正機能が,以前に比べて著しく進歩しており,仕事上で英語を使う人にとっては,それらは大変に便利であり助かることである。しかし,今日のこうした趨勢の中でも,AIによる翻訳文や,ワードプロセッサのソフトが提示する英文を検討し校正することは,結局は人間の役割であり,それは,いかにAIやソフトが進歩しても,今後も続く役割であろう。即ち,仕事で英語を使う中で,そうした ”人間の役割” が果たせるためには,高校時代の英語授業における「訳読,文法,作文」の特訓がいつの時代でも必要,と私は思う。
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言葉の変化は時代の流れか
May 24, 2018
「気になる敬語の多用」(2018年5月24日 朝日)。
こうした意見は,以前から多数の人(私も含めて)が指摘していることである。「......で,よろしかったでしょうか?」も,不可解な(私には不快な)文言だ。これを ”コンビニ言葉” というらしい。
以前,あるチェーン店の書店で,私にそうした文言を使った店員に,私は「なぜ,過去形なのですか? ”よろしいですか?” と現在形で言ったらいかがですか?」と告げたことがある。
当人は一瞬キョトンとした顔をして,「はい,すみません。」と言っていた。
そうしたことがその店で何回もあったので,そこの店員の間では,おそらく,私は「うるさいことを言うオジサン」として知られたことであろう。だが,結局は今も変わらず,店員は従来どおりに ”コンビニ言葉” を使っている。私は,もはや注意することをやめた。
以前,東南アジアからの留学生が,毎年のように何人か私の研究室にいた。学生寮に住み,日本人学生に囲まれ,日本のテレビを毎日見て生活している彼等は,短期間で日本語が素晴らしく上達する(相撲部屋の外国人力士と同じ)。しかし,同時にその中で,不適切な言葉や文言もまるごと習得してしまう(それは,当然のことだ)。
ある留学生との会話の中で,彼が「ワタシ的には......」と言ったので,「それは不正な日本語だ。私は....と思う,と言うべきだ」と伝えると,彼は「ふ~~ん」という顔をしていた。それ以来,彼は私の前では ”ワタシ的には.....” を使わなくなった。また,ある留学生は卒業後に,「発言の冒頭に ”一応” や ”とりあえず” を言うと,先生から ”それは,自分の真意を隠す逃げ言葉であり,相手に失礼なのだ” と,いつも怒られましたねえ」と笑っていた。
発言や文章の冒頭に「なので......」を多用する日本人が多いが,「”なので” は本来は接続詞の ”それなので” であり,冒頭に使う文言ではない」と,私は留学生や日本人学生に何度も伝えていた。しかし,今やテレビ番組の中で出演者が(NHKのアナウンサーも),しばしば,冒頭に「なので.....」を(最近では,時々「ですので.....」も)使うので,これも,もはや時代の流れかな(言語の用法は時代と共に変わる),と私は思うようになった。
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大学改革における”教育主体校”の陥穽
May 23, 2018
「少子化が深刻化した日本で大学が生き残るには,もはや,研究主体の校と教育主体の校とに分け,現在の大学の大半は教育主体校にするべきだ。」
この意見(2018年5月23日 朝日)は,以前から少なからぬ識者により提言されていることであり,私も同感できる面がある。だが,一方,”教育主体校”に永年勤務していた自分が見聞してきた体験から,私にはいくつかの疑問も湧いてくる。
そもそも,「教員の仕事として,教育と研究は不可分であり,自分の研究の裏付けがなければ自分の教育が成り立たない」という事実である。さらに,「教員から研究の義務を除外すると,教員は年令とともに廃る」,「同時に,学内の教職員が"生活互助会" に転落する」という事実である。
まともな研究経歴を持たずして(縁故や紹介で)”教育主体校”の教員に採用となり、研究の義務が除外された職場環境に20年も30年も住み着いたらどうなるか。 それは言うまでもあるまい。学生の不成績や不勉強を嘆き,彼等を叱責する一方で,授業のある時間以外は、同僚と囲碁に興ずるか世間話で暇をつぶして一年を過ごす "ベテラン教授" が学内に少なからず誕生するとしても、無理からぬことである。勤続年数は長いが研究業績の無い教員を,年齢,勤続年数,学内校務の経歴などにより "教授" に昇格させるという措置や,「勤続30年以上,研究論文ゼロ」の ”名誉教授” が輩出されるとしても無理からぬことである。
研究を諦め,悟りを開き,学生は毎年入れ替われど毎年同じ授業で一年を過ごせるとしたら,教員にとっては ”教育主体校” はまことに居心地の良い楽園であろう。仕事の中に "競争" というものが全くなく,その上,転勤なし,リストラなし,である。
こうした楽園に安住した教員であれば,学内人事や各種委員会の新設,学生管理などに熱心となり,さらに教職員の "生活互助会" の中に,山の会,釣りの会,ゴルフの会,囲碁の会,などの "仲良しクラブ" を作り,"人生を楽しもう" とする者が続出するのは当然である。 今日の日本の通常の大学では,もはや定着している「学生による授業評価アンケート制度」は,以前は,いつも古参教員の反対により結局は廃案となった。 なお,これらの点は「愚者の楽園」と揶揄されている大学の共通点であるようだ。(筒井康隆 著「文学部 唯野教授」)
私が見聞してきた”教育主体校” のこうした側面を振り返ると,この記事の意見「教育主体の大学であれば,卒業者の評価や進路に対する満足度により,教員の厳正な適格性評価が必要だ。」は,全く当然であり,今後の ”教育主体校” の社会的義務でなければならない。”教育主体校” には教員にとって危険な陥穽が潜んでいるのである。
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AI翻訳と人間の役割
May 13, 2018
ある知人から,以下のメッセージをいただいた。
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和英翻訳や英和翻訳を仕事の中でやっております。現段階では,翻訳に関連する業務の100%をAIに任せられるとは思えません。AIには任せられない部分が確実にあります。
例えば、英訳が困難な日本語を英訳が容易な日本語に修正する『日日翻訳』や『和和翻訳』,また、解読が難しい英文を適切な英文に変換する『英英翻訳』などを,AIにより可能となる日がくれば、AIは,一層、人間に近づくと思います。
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この意見に私も全く同感である。AIは,所詮,AIに過ぎない。
日本語の原稿を英訳するためには,まずは,その日本語原稿の見直し(時には,書き直して換骨奪胎する)が必要である。私は,今までに頼まれて,日本語原稿の英訳や,英語原稿の点検を何度も行なってきたが,日本語と英語は天と地ほどの違いのある別世界の言語であるために,まずは,もとの原稿の作者が何を言いたいのかを推理することに時間がかかった。
AI がどんなに進歩しても,所詮,それは人間が開発し発達させたものであるために,最終原稿の点検は人間がしなければならないと思う。その状況は,現段階では,永遠に続くと私は思う。自動車の自動無人運転が,現段階では完全には信用出来ないことと同じだろう。
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自動翻訳ソフトの驚異的な進歩
May 11, 2018
15年くらい前に,ある原稿の中で私は以下のように書いている。
「今日、翻訳ソフトと呼ばれるものがある。しかし、簡単な日常会話程度の文章には多少有効ではあっても、重文、複文を含む、まともな英語文章や日本語文章の相互翻訳には全く使えないものが大半である。使い物になる翻訳ソフトの開発には、まだ10年程度は必要であろう。また、Word Processorのソフトウエアの開発において最も難しいのは、おそらくLogic Check であろう。」
しかし,今日では,優れたAI技術を駆使した「ニューラルネットワーク翻訳」により,自動翻訳ソフトが以前に比べて格段に進歩している。
私は通常のWeb BrowserとしてGoogle Chromeを使用しているが,その中で「Google 翻訳」の機能は極めて優秀である。 Google Chrome の中で「アプリ」→「Chrome ウェブストア」→「Google翻訳」→「拡張機能」→「Chromeに追加」として,それをインストールすると,ツールバーの中に ”Google翻訳” の青色のアイコンが表示され設定が完了する。
これにより,例えば,CNN, ABC, BBC,更に,NewYork TimesやWashington Postなどの記事を閲覧したいときに,その記事の部分をドラッグして選択し,ツールバーにあるGoogle翻訳の青色のアイコンをクリックすると見事な日本語文が表示される。15年前とは大違いだ。個々の単語の意味を調べるだけのときでも同様に使える。
英語の記事から翻訳された日本語文章には,多少のぎこちなさもあるが,通常の実務には十分堪えうる出来栄えであり,私の印象では80点くらいであろう(英語以外の外国語でも,このように使えるかは,私は検証していない)。
この15年間に,翻訳ソフトがここまで進歩したことに感嘆すると同時に,AI技術への感謝と,こうしたソフトの作成に努力してきたIT技術者に私は深謝し,敬意を表したいと思う。
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セクハラに対する今日の姿勢
May 5, 2018
「沈黙しているあなたへ」(2018年5月1日 朝日)は,心強い励ましだと思う。また,西日本新聞編集委員の井手季彦氏による以下の意見「男が声を上げる時だ」に私は賛同する。
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昨日のこの欄で、自宅に来た取材先の男性に玄関先で「記者なら開けろ」と迫られて怖い目に遭ったと、酒匂純子生活特報部次長が書いていた。20代当時の体験とはいえ、それを今語ることも取材対象との人間関係が絡む記憶を掘り返すことであり、つらい作業ではなかったか。
「日本では『世間の目』という妖怪が立ちはだかり、女性が声を上げて訴えるのを思いとどまらされることはよくあること」(英BBC)「ジェンダーに対する考え方が固定化した日本は、女性の政治参加状況が最も悪い国の一つ。世界的にセクハラに対する意識を高めた『#Me Too』運動も盛り上がっていない」(仏AFP通信)。福田淳一前財務次官のセクハラ問題を報じる海外メディアの多くが、日本の女性の置かれた状況をこう説明していた。
もちろん性暴力の被害に遭った女性が警察に届ける割合が少ないことなど客観的事実も報じていた。ただそれ以上に、財務省が「女性が名乗り出なければ事実解明は難しい」としたこと、麻生太郎財務相の「言われている人の立場も考えないと。福田の人権はなしってわけですか」という発言、さらに下村博文元文部科学相の「(福田氏の会話の録音を)テレビ局の人が週刊誌に売ること自体がはめられてますよ。ある意味犯罪だと思う」という発言。これら全てが日本社会をよく表す例として世界に伝えられたのだ。
そして処分より前に福田氏を辞任させたことは、セクハラ問題を起こした男性の名誉を「日本の男社会」が懸命に守り通したように、世界の人々、あるいは日本の女性の目に映ったのではなかろうか。国際的には「文化に根ざした違和感」を、女性には「おじさんに何を言っても伝わらないという無力感」を決定的に与えてしまったかもしれない。
ここで考えたいのが、政治家などではない普通の男性の気持ちだ。セクハラしたいとは夢にも思わないし、セクハラだと女性に受け止められないよう気をつけたい、と考えているはず。私自身は麻生さんや下村さんの発言が日本男性の本音だと世界の人々や女性たちに思われては困るし、地位のある官僚だからといって守るのが日本文化だと勘違いされるのも迷惑だ。
そこで提案。男性のみなさん、セクハラ被害者をおとしめるような発言、黙らせようとする圧力には、政治の駆け引きなどとは関係なく、批判の声を上げませんか。勇気を持って告発した女性には連帯の気持ちを表すのです。そうでないとセクハラをする人の味方になってしまいます。
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「セクハラ罪という罪はない」として財務次官を擁護した麻生財務大臣の相変わらずの 馬鹿さ(非常識さ)加減について,物理学者の大槻義彦氏(早大名誉教授)は,ブログの中で以下のように厳しく批判している。
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財務大臣と言えば政府の要である。実際麻生財務大臣は副総理である。しかしこの人、しょっちゅうわが耳を疑うようなことを言う。その都度前言取り消しと謝罪を行う。財務次官のセクハラについてまたまたおかしなことを言った。
(朝日新聞からの引用)
調査を打ち切ることについて「いくら(調査結果が)正確であったとしても偏った
調査じゃないかと言われるわけですから。被害者保護の観点から(調査に)時間をかけるのは、かなり問題がある」などと説明。処分の理由については国会審議への影響のほか、「役所に対しての迷惑とか、品位を傷つけたとか、そういった意味で処分をさせて頂いた」とし、財務省としてセクハラを認定したことは挙げなかった。しかし、麻生氏はセクハラの認定については「セクハラ罪っていう罪はない」「殺人とか強(制)わい(せつ)とは違う」などと発言。「(福田氏)本人が否定している以上は裁判になったり、話し合いになったりということになる。ここから先はご本人の話だ」とした。
(引用終わり)
この大臣にしてこの次官あり。次官もセクハラ、大臣もセクハラは罪ではない、と?!
セクハラも刑事罰の対象である。そんなことも知らない政府高官か。
刑法はいう。
第204条(傷害)
人の身体を傷害した者は、15年以下の懲役又は50万円以下の罰金に処する。
第208条(暴行)
暴行を加えた者が人を傷害するに至らなかったときは、2年以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。
そこでセクハラの定義をみよう。
厚生労働省発表
①身体的な攻撃(暴行・傷害)
②精神的な攻撃(脅迫・暴言等)
③人間関係からの切り離し(隔離・仲間外し・無視)
④過大な要求(業務上明らかに不要なことや遂行不可能なことの強制、仕事の妨害)
⑤過小な要求(業務上の合理性なく、能力や経験とかけ離れた程度の低い仕事を命じること
や仕事を与えないこと)
⑥個の侵害(私的なことに過度に立ち入ること)
もはや議論のうちに入らない。精神的な攻撃による罪はセクハラであり、これは身体を障害したことになる。人間の脳や精神も身体の一部だからである。それによって不眠、働く意欲、社会生活、結婚などの家庭生活が破壊されればこれは明らかな傷害罪と暴行罪になる。
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私も全く同感だが,この麻生太郎という人物のお粗末さには,国民がもはや慣れっこになり,呆れているのではないかと思う。そのため,マスコミも ”筋道を立てて麻生の発言を批判する” ことを諦めているように思える。 "忠告しても,あの男にはどうせ分からない" と。
一国の財務大臣たる人物が,これほどまでに国民から馬鹿にされている ”先進国” が他にあるだろうか。
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独立国家としての日本の国防
May 2, 2018
憲法記念日。今日の安倍政権による改憲策は,新聞の世論調査によると,国民の反対にあって頓挫するのは確実なようだ。私もそれで良いと思う。
「憲法第9条の精神」は常に維持するべきだ。ウソを並べ立てる安倍政権には,あれこれの文言の改変を許すべきではない。一方,「独立国家としての日本の国防をどうするか」は,そもそも,避けて通れない国民的課題であるために,日本国内で幅広く議論されることは当然であり,また,それは必要なことであろう。
以前に,私は沖縄米軍基地の移設問題と「独立国家」日本の関係について意見を書いたが,
「独立国としての日本の交戦権を認める。しかし,その行使は自国の領土,領空,領海が侵略され,自国民の平和が脅かされた時に限る」との意見が日本に定着すれば,自衛隊の存在にも法的な齟齬が無くなり,また,時の政権によるあれこれの ”解釈改憲” や ”集団的自衛権” などは,とんでもないとして国民世論から厳しく一蹴されるであろう。
日本は,いつまでもアメリカの手玉に取られて莫大な費用負担を甘受するべきではない。今の日本には,米軍の費用負担よりも,予算を充てがわなければならない案件が山積しているのだ。
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ALTの要件に日本語の能力資格を
May 1, 2018
以前に,所用で,ある中学校を訪問した時に,教職員室の片隅の机で,女性のALTが一人でポツンと暇そうにしている姿を見かけた。他の教員たちの誰もが話しかける様子もないので,そのALTに英語で少し話しかけると,愛想良くあれこれと話してきた。
また,別のある中学校の運動会の時には,テントの中で若い女性のALTが一人でポツンとしており,他の教職員の誰とも話をしていない様子なので話しかけてみると,カナダから来た気さくな人だった。
ある年の夏,所用で,市の教育委員会に行くと,一人の外国人青年がポツンと机に座り,暇そうにしていた。周囲の職員の誰もが彼に話しかける様子もないので,私が英語で話しかけてみると,彼は中学校と高校のALTであり,現在は夏休み中で生徒がいないので教育委員会の指示でここに来ているとのこと。彼はアメリカ東部のある大学の卒業者であり,その大学を私も知っているので,あれこれと話が弾んだ。
ALTは,同年代の日本人教師に比べて遥かに高給の待遇で2,3年間を過ごすが,その中で ”日本の生活や文化を知り日本人の友人が出来る”とは,必ずしも言えないようだ。
20年以上前だが,アメリカの地方都市の地元の新聞に,日米の教師交換プログラムにより九州の小さな漁業の町の中学校に英語教師として一年間滞在していた地元の若い女性の興味深い ”日本体験記” が出ていた(その記事が今も私の手元にある)。
「その小さな町では私が唯一の西洋人だったので,私は多くの人々に知られ,どこへ行っても,何をしていても,常に物珍しく観察されていた」,「学校内では,教師はほとんど私に話しかけてこなかった。英語教師も英語の会話には自信が無さそうだった」とのこと。しかし一方,「町の人々からは,私が誰であるかはもとより,スーパーで何を買っていたか,どんな人が私を訪ねたか,毎日の夕方に私がどの道をランニングしているか,どんなレンタルビデオを借りたか,などがよく観察されていた」,「特に子供たちは,自分たちと同じことを私もしていることを見て,結局は私が ”特別な外国人”ではないと分かってきたようだった」,「アメリカで中学校教師をしている妹から,アメリカの中学校生活のビデオを送ってもらい,それを日本の生徒に見せた時の反応がとても興味深く,生徒の心情は同じと知った」,「生徒を教えることは,結局は,教師も教わることだと知るようになった」などなど,面白い記事だった。
結局は,彼女は日本の町と中学校の生徒たちに好印象を持ちつつアメリカに帰国したようだ。だが,一般には,全てのALTが一定の日本語の能力を身に付けてから来日すれば,日本滞在中に,もっと日本の生活を楽しみ,日本人教師との交流も出来るのではないかと,私は思う。 今日の記事の意見(2018年5月1日 朝日)に私は同感である。
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大学院博士課程進学者の減少は国の大損となる
April 27, 2018
私が大学院生であった40年くらい前の日本では,ポスドク制度がないために ”オーバードクター” の処遇問題が深刻であった。しかし,ポスドク制度がある今日でも,この記事を見ると,これでは,大学院博士課程への進学者が減少し続けるのは当然と思える。
この本質的な原因は,民間企業が博士課程修了者を活用できないこと,さらに大学教員の世界における縁故採用や同族主義(教員の大半が自校卒業者)がまかり通っているためであろう。アメリカのように ”Openであるために厳しい” という制度が日本の大学にはないためであろう。
ポスドクが日本で就職に苦労しているならば,アメリカの大学でのポストを求めるのが良いかもしれない。アメリカは厳しいけれど,日本よりは公平で平等な選考と審査を受けられるだろう。
既に30年以上も前から,日本の科学技術と企業の研究開発力のレベルは「欧米に追いつけ,追い越せ」の段階を卒業していると私は思う。そのため,日本での博士課程進学者が今後も減少し続けることは,国際的な競争の環境の中では,とても損なことだ。手持ちの技術の改良,改善だけの企業は,国際社会を生き残れるだろうか。
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教師の職場における気軽な協議
April 05, 2018
教師が ”追い込まれ孤立化する” ことなく,共助の精神に基づいた実践的な緊急避難の仕組みが必要,との意見(2018年4月5日 朝日)に私は賛同する。
加えて,同じ担当(教科)分野の教師が,指導方法や専門内容について気軽に協議が出来る雰囲気が職場内に必要,と私は思う。それがないと,専門教科についての教師間の力量の差が年齢が進むに連れて広がるように思う。
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不発弾の処理費用は個人負担なのか?
April 1, 2018
物理学者の大槻義彦氏(早大名誉教授)が自身のHPの中で,以下を述べている。
https://blogs.yahoo.co.jp/otsuki1936
私は同感である。同時に,このような馬鹿げた判決文を作成して恥じない者が裁判官をしているという日本の法曹界の実情に,私は怒りと寒気を覚える。
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朝日新聞からの引用
戦時中に投下された不発弾を処理する費用は自治体や国が負担すべきだとして、大阪市の不動産管理業の男性(59)ら3人が市と国に576万円の支払いを求めた訴訟の判決が26日、大阪地裁(比嘉一美裁判長)であった。
「国・市に費用を負担する法的義務はない」と訴えを棄却した。男性らは、南海難波駅から徒歩数分の同市浪速区に土地を所有。2015年3月、戦時中に投下されたとみられる米国製1トン爆弾が見つかり、市は交通規制のチラシ作製費など約190万円を負担し、同年5月の撤去作業は陸上自衛隊が担当。一方、爆発に備えた土?(どのう)の防護壁や、周辺警備の費用576万円は、市が男性らに負担させていた。
大槻のコメント
実にふざけた判決だ。不発弾は明らかに戦争の落とし物、戦争がもたらした被害ではないか。もし保障の法的義務がなければ法律をつくれば良いのだ。
576万円プラス190万円は相当な金額ではないか。これまで不発弾が出るごとに自衛隊が出動。費用はすべて当然のことながら国、または自治体の負担と思っていた。私の考えが甘かった。
住民は戦争による空襲によって大きな被害を受け、さらに今ごろになって不発弾の被害とは。2重苦、3重苦ではないか。『戦争の被害は住民自身の自己責任』とはあきれた話ではないか。
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前回の本ブログで不発弾処理は自己負担というとんでもない判決を批判しました。法律がない、との理由でした。バカな裁判官ですね。憲法があるでしょう。憲法を素直に読めばこんな判決は出せないのです。
それなら原爆被害者への補償は何なのでしょうか。不発弾が爆発して、大怪我をすれば補償するのでしょうか。原発事故の放射能汚染の除染は国、自治体が無料でやってます。戦争被害の補償はなるべくやりたくない、という国の方針を側面から援護する裁判に怒ります。
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公害病の半世紀
March 22, 2018
公害病半世紀。この社説(2018年3月22日 朝日)の意見には,誰もが納得できよう。
”公害は人がつくり出した” のである。
しかし,1960,70年代の日本には,公害の摘発と防止のための国民的運動に対して,いつも冷笑を浴びせ,更には妨害の論陣を張る 卑劣な大学教授や評論家がいたことも事実である。
単に自校卒業者であることだけで,まともな資格審査もせずに,何の学問業績もない当人を教員に採用したその大学のお粗末さが,こうした”お粗末教員”を生み出したのであろう。この ”教授” は,当時,その大学の理工学研究所の所長も兼ねていたとのことだが,研究の経験がなく(そのために学位もなく),もちろん学問業績もゼロの ”教授” が所長をしていたとは,一体その ”所長” の仕事は何だったのだろう。
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政治家に弱い文科省
March 21, 2018
この社説(2018年3月21日 朝日)の末尾「敵とみなした人々を批判し,排除することを繰り返した安倍政権の体質」は正鵠を射ている,と私は思う。
もともと,政治家に弱いと言われている文科省。「公務員は全体の奉仕者」を無視し,「政治権力は教育や人の内心に土足で踏み入ってはならない」の原則を放棄することは,そもそも,自分の仕事について自信と誇りを失っているからであろう。
「学校現場には政治的中立性を要求する一方で,与党議員の意を汲んで中学校の個別授業に介入する,という矛盾を文科省はどう説明するのか」とは,まさに,本質的で厳しい批判であり,文科省はここまで馬鹿にされているのである。”政治家に弱い文科省” を改めて暴露した一件といえる。
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和田政宗という男
March 19, 2018
和田政宗は,以前,NHK新潟支局のアナウンサーとして,テレビ画面でよく見かけた。新潟県民は,この和田からNHKのニュースを聞かされていたのである。その後,退職して政界に転じたが,その当初からおかしな言動が目立った。現在,そのまま転落への道を突き進んでいるように見える。与党から,野党から,そして官僚からも,和田への批判が出ているのは当然であろう。あちこちから,”札付きの男”として棚上げされる日が近いと私は思う。
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安倍の政界引退しか道はない
March 10, 2018
安倍昭恵の意向を”忖度”していた谷査恵子氏が社会で騒がれると,早々にイタリア大使館1等書記官への ”御栄転” として国外退避させられたことと,これは全く同じに見える。
国民を舐めて逃げ回っている安倍昭恵を,やはり国会へ証人喚問しなければならない。”参考人の招致”とは違い,”証人喚問” では虚偽答弁は刑事罰の対象となる。
今回の財務省の文書改ざん問題は,そもそも,開校予定だった森友学園の小学校の名誉校長を一時務めた安倍昭恵と籠池泰典前理事長夫妻とのつながりが発端なのだ。
日本国民は,安倍昭恵と佐川宣寿そして佐川を起用した麻生太郎と安倍晋三を放置しておくべきではない。安倍内閣の退陣と,安倍の国会議員辞職(「私と妻がかかわっていたら総理も国会議員もやめる」の表明により)以外に道はないと思う。
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食べ物を粗末にしない
March 8, 2018
団塊世代の私は,戦中,戦後の食糧難を体験してきた親から,子供の頃に ”食べ物を大切に
する” ことを厳しく教えられた(それは,私だけではないであろう)。
箸をつけたからには最後まで食べよ,残すくらいなら始めから食べるな,との言葉が今も私の脳裏にある。この記事は,誰もが賛同できる意見だと私は思う。(2018年3月8日 朝日)
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NHK受信料の不払い通告
February 18, 2018
「NHKからの一方的な契約請求だけでは,受信契約は成立しない」とする最高裁判決は極めて重要であり,実質的にはNHKの敗訴であろう。
NHKからどのような請求が来ても,視聴者の同意がなければ受信契約は成立しない。よって,受信料の支払い義務が生じない。
NHK受信料の支払い契約を求めてNHK支局の営業部員が来た。私は「現在ではNHK受信料を支払う意志がない」ことを以下の理由で説明し,「これらについて、私が納得できる回答がNHKから来たら受信料を支払う。」と彼に伝えた。
(1)「公共中立の放送」であることをNHK自身が事実を以て国民に証明していただきたい。(民法533条による同時履行の抗弁権,即ち,双務契約履行の義務)
(2)視聴者の全体から法的根拠で受信料を徴収するのであれば、会長や経営委員を公選制とし,その人選の経過を視聴者に公開し、かつ、視聴者による審査と罷免の制度を設けること。
(3)視聴者の全体に受信料の支払いを求めるのであれば、テレビを有する暴力団事務所にも受信料の支払い契約を求め,その契約成立の結果を私に示すこと。
(4)テレビ本体を持たず、パソコン、スマホ、カーナビでテレビを見ている視聴者は、放送法64条によれば(テレビ受信を目的にした機器ではないために),法的にも受信契約の義務がない。それは、NHKが主張する「受信料の平等負担の原則」と矛盾する。
(5)衛星放送が受信できない地域の視聴者でも、衛星放送を見ない視聴者でも「テレビに衛星放送の受信機能がついていれば、地上デジタル放送契約と同時に衛星放送受信契約も必要」とのNHKの主張は,法的根拠がない勝手な解釈にすぎない。(イラネッチケーを取り付けている視聴者にも受信料を請求する不合理と同じ。)
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「高専行政の担当者」の責任
February 10, 2018
2月となり,今年も全国の工業高等専門学校の入試の季節がやって来た(今年は2月18日)。将来のエンジニアを目指す夢多き15歳の少年たちは,入学後の新しい学生生活に胸を膨らませていることであろう。
15歳人口が一段と減少を続ける時代の中で,全国の高専は,意欲ある学生の確保のために魅力ある学園造りを目指し,さらに海外研修や専攻科研究なども加えて,高専のアピールのために懸命の自助努力を続けている。それは当然のことだ。それが奏功して,ロボットコンテスト,日本情報オリンピック,高校化学グランドコンテスト,などに高専の学生が参加し入賞していることで高専教育のメリットをアピールしている。
しかし,一方,創立以来60年近くにもなる高専には,創立以来の”不都合な真実”,即ち,重大な欠陥と悪弊が放置され,それが本質的には全く改善されていないことを忘れてはならない。それらは,昨今の高専の上記の懸命な自助努力や対外活動の優れた成果を以って補償出来ることでは決してない。
高専卒業者(20歳)の中で高校卒(18歳)の学力に達している者が,私の印象では1割以下,高専の3年生の中で大学入試センター試験の問題をまともに解答できる者が1割以下という現実,そして,それが学生の能力ではなく高専の教育課程に起因するという事実(例えば,高専における必修科目の ”必修” とは ”単位取得が義務” の意味ではなく,単に ”授業に出席が義務” という意味であり,そのため,”必修科目” の単位が未習得でも進級や卒業が出来る!),さらに,基礎学問の教育が軽視されているために専門教科の学習が ”砂上の楼閣” となっている,という事実を直視すれば,高専制度と高専教育の重大な欠陥は欠陥として,抜本的な大改革が必要であることは言うまでもない(入学者の2,3割が,留年や退学により5年後の卒業式には消えている実情や,毎年,学内で金品の盗難事件が発生していることについては,ここでは詳述を控える)。
幸いに,在職中に私が接してきた多くの学生諸君の中から,大学へ編入し卒業後に,あるいは大学院を修了後に,若手起業家として活躍している者,また,大学院で博士号を取り,大学の教員や企業の研究者として立派に活躍している者を見聞すると,私は大変に嬉しくなる。そして,そのたびに,将来のエンジニアを目指す夢多き純真な15歳の少年たちの熱い期待に応えうる教育機関に,高専は大胆に変貌しなければならない,と私は改めて確信する。それは,ひとえに「高専行政の担当者」の責任である。
今日,早急に求められていることは,その担当者が行政官としての威信にかけて,高専の抜本改革に着手することである。
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7歳の孫からのハガキ
February 5, 2018
約一ヶ月ぶりに,この日誌を書く。先月の下旬に,直近の親族に衝撃的な不幸があり,日誌なんぞを書く気にはなれなかった。
最近は,少しづつ気を取り戻しつつあるが,先日,孫娘(小学一年生)から初めてのハガキが来たので,それを見ると,気持ちが落ち着いてきた。「そうか,7歳の子供が書く文章とはこういうものか」と,感慨深く,そして,温かい気持ちになる。同時に,「そうか,この子にとって,俺は ”にいがたのジジ” なのだな」と,改めて思った。
早速,返信のハガキを書いたが,全文をひらがなで書くことは,かなり気を使う。普通ならば漢字で書いてしまう語句に気を使いながら,全文をひらがなで作成した。
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再度,「水素を積んだFCVは危険で無駄なオモチャ」
January 7, 2018
数年前から、一部の自動車メーカや自動車評論家により、水素を燃料とするFCV(燃料電池車)の有効性が宣伝され、今も時々、テレビや新聞で ”水素で走る車” が華々しく報道されている。
しかし,”水素タンクを積んだ燃料電池自動車”の普及は,水素の爆発事故に対する安全対策の技術が現在よりも格段に進歩しない限り,絶対に不可能である。 それを前提としない美辞麗句の宣伝や報道に騙されてはならない。燃焼工学を学び、永年、その分野で仕事をしてきた私は、「国や自治体は,決して,"水素タンクを積んだ燃料電池車" を推奨してはならない」と確信する。
そもそも,水素はガソリンに比べて危険性の度合いが格段に上である。そのことが,まだ日本の一般社会には知られていない。
将来,ガソリンスタンドと同じように,街中のあちこちに ”水素スタンド” が建設されたらどうなるか。市民生活の安全性確保が極めて危うくなる。加えて,交通事故などによる車の破損に伴う水素爆発の防止対策も、現在は全くの未熟である。
その上,致命的なことは,”水素タンクを積んだ燃料電池自動車”は,CO2の削減対策にも逆行することであり,車の燃料(水素)の製造費用が,ガソリンよりも高価なことである。これらは全て,水素というものがガソリンとは違って,地中から出てくるのではなく,人為的にかなりの費用をかけて製造しなければならないためである。もちろん,その際には大量のCO2が排出される。
要するに,”水素で走る車”は,決して環境浄化対策や省エネルギ対策にはなれない。現段階では,それを製造する自動車メーカーや、自動車評論家による美辞麗句の宣伝に騙されてはならない。この ”モータージャーナリスト” と称する清水和夫氏は,FCV用に水素を調達するための何段階にも渡る作業工程の全費用がFCVの普及により回収できるのか,という重要な観点に全然気付いていないために、その検討も分析も,全く念頭にない。
まともに理工学教育を受けた者であれば誰もが熟知しているはずの自然科学の大原則である「質量保存法則」,「エネルギ保存法則」,「熱力学第2法則」を,この清水氏は知らないようだ。改めて言おう,”水素を積んで走る車”は”危険で無駄なオモチャ”に過ぎない。
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ワンセグにNHK受信料?
December 29, 2017
例えば,5人家族の一人ひとりが,それぞれワンセグ付きのスマホやケータイを持っている場合は,その一人ひとりに,支払い義務が発生するのか。 所有者が未成年でも支払い義務が発生するのか。 そもそも,放送法64条では,”受信契約を結ぶ該当者” が特定されていない。そのため,受信料の支払いを誰に請求するのか特定出来ない。よって,「ワンセグを持っていれば受信料の支払い義務あり」とは,法的に全く整合性のない "欠陥判決" といえる。実際、裁判所により逆の判決も出ている。結局は、本件も最高裁の判断を待つことになろう。
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NHK受信料の不払い理由
December 27, 2017
今日、NHK受信料の集金委託会社の青年が来た。人の良さそうな彼には、私が現在ではNHK受信料を支払う意志がないことを、以下の5点の理由で説明した。「これらについて、私が納得できる回答がNHKから来たら受信料を支払う。」と彼に伝えた。彼は「わかりました。会社にそう伝えます。」と言って帰った。
(1)「公共中立の放送」であることをNHKが事実を以て国民に証明していただきたい。(民法における双務契約履行の義務)
(2)視聴者の全員から法的根拠で受信料を徴収するのであれば、会長や経営委員の人選の経過を視聴者に公開し、かつ、視聴者による審査と罷免の制度を設けること。
(3)視聴者の全体に受信料の支払いを求めるのであれば、テレビを有する暴力団事務所にも受信料の支払いを求めること。
(4)テレビ本体を持たず、パソコン、スマホ、カーナビでテレビを見ている視聴者は、放送法64条によれば受信料の支払い義務がない。それは、NHKが主張する「受信料の平等負担の原則」と矛盾する。
(5)衛星放送が受信できない地域の視聴者でも、衛星放送を受信しない視聴者でも「テレビに衛星放送の受信機能がついていれば、地上デジタル放送契約と同時に衛星放送受信契約も必要」とのNHKの主張は完全に不可。(イラネッチケーを取り付けている視聴者に受信料を請求する不合理と同じ。)
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「全期間の受信料を徴収」は不可能
December 09, 2017
例えば,それまでは支払っていたNHK受信料を30年位前に支払いを止め,その後,現在に至るまでNHKから支払いの請求書が来ないという世帯に,最近になって,今回の最高裁判決をもとに,NHKから支払い請求が来たとする。しかし,その時点では,既に,未払い受信料を徴収できる時効(5年)が成立しているから,過去の分は支払い義務がなく,請求が来た月の分から支払えば良い。
一方,未払い受信料を徴収できる時効(5年)について、「受信契約の成立前には時効は進まない」とする最高裁判決により、テレビを設置してから数十年間にわたって「未契約である世帯」に対して、NHKは裁判を起こして勝訴すれば、全期間の受信料を徴収できることになるが,個々の世帯が何年前からテレビを設置していたかは,プライバシーにも関わることであり,NHKとしては挙証できない(調査の法的権限がない)。そのため,実際には「全期間の受信料を徴収」は不可能である。今日の記事(朝日新聞)にはそれが明確に記されている。よって、その場合も「請求が来た月の分から支払えば良い」ことになろう。
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NHK受信料についての最高裁の判断
December 06, 2017
「NHKからの一方的な契約請求だけでは,受信契約は成立しない」とする最高裁判決は極めて重要であり,実質的にはNHKの敗訴であろう。
NHKからどのような請求が来ても,視聴者の同意がなければ受信契約は成立しない。よって,受信料の支払い義務が生じない。
この判断は,要するに,「受信契約はしているが受信料を払わない者」の一人ひとりに対して,NHKが支払い請求の「訴訟を起こして勝訴した場合」にのみ,不払い者には支払い義務が発生する,ということらしい。
一方,2014年9月5日の最高裁判決により,「受信契約をしている不払い者」への受信料支払い請求の権利は5年で時効となるから,支払いを停止してから現在まで請求が来ない場合は,今回の最高裁判決を根拠に受信料の支払い請求が来た時には,「過去の分の支払い請求は時効だ」と,NHKへ抗弁する旨のハガキを配達証明で地元のNHK放送局へ送れば受信料の請求権が消滅する。よって,支払い請求が来た直近の月の分から支払えば済む。
未払い受信料を徴収できる時効(5年)について、「受信契約の成立前には時効は進まない」とした。これにより、テレビを設置してから数十年間にわたって「未契約だった世帯」に対しても、NHKは,裁判を起こして勝訴すれば、全期間の受信料を徴収できることになる,という解釈があるが,個々の世帯が何年前からテレビを設置していたかは,プライバシーにも関わることであり,NHKとしては挙証できない(調査の法的権限がない)ことであるから,実際には「全期間の受信料を徴収」は不可能であろう。
”公共放送”を自称しているNHKの動向には,国民は厳重な監視が必要だ。
籾井前会長は「政府が右というのをNHKが左という訳にはいかない」と公言していた。公共放送を自称する組織の会長にしてこれである。
NHKの会長も理事も,受信料を払っている視聴者である国民が選出するのではない。 会長は時の政府による選任であり,経営委員は首相が任命する。よって,"NHKの公正中立性" なんぞ私には全く信用できない。 実際に,NHK前会長の籾井,前経営委員の百田尚樹や長谷川三千子という者達の発言が,NHKの ”公正中立性” に疑問を抱かせるとして話題になった。
メディア研究者の松田浩氏は,「政権のNHK支配 監視を」(露骨な人事 情報統制の発想)と題して警鐘を鳴らしている(2013年12月4日 朝日新聞)。 2014年5月8日の朝日新聞の社説は,NHKの当時の籾井会長の言動を取り上げ,「NHK会長 これで信頼保てるのか」と述べている。また,同日の朝日新聞の「私の視点」では,元NHK監事の黒川次郎氏がNHKの会長選任について,”公募導入し独立性確保せよ” と述べている。
「NHK受信料支払い停止運動の会」の共同代表である醍醐聡氏(東大大学院教授)は,以下の主旨を述べている。
「(NHKへの)政治介入を許す体質を改めたならば,支払いを再開する。改められるまでは(支払いを)止める権利がある。受信契約はNHKと視聴者との対等な双務契約であるから,民法533条の "同時履行の抗弁権" により,相手が義務を果たさないならば,こちらだけ一方的に義務を果たす必要はない。」
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最近に出会った”デタラメ訳本”
November 29, 2017
デタラメ翻訳の本は、出版社に返品し、返金を要求するべきだ。以前から,別宮貞徳氏(上智大学教授)を始め、多くの英文学者により,日本における ”デタラメ訳本” の存在が指摘されているが、私も、またまた、こうした ”デタラメ訳本” に出会った。
「橋はなぜ落ちたのか」(ヘンリー・ペトロフスキー著、中島秀人、綾野博之 訳)朝日選書686(2001年10月発行)。
これは、とんでもないお粗末な ”疑問訳” だらけの ”デタラメ訳本” であり,呆れるばかりだ。アマゾンにおける他の方々の書評でも以下の ように酷評されている。
「中学生の直訳のようである。...解読するのが苦痛である...全部、こんな調子だ。」,
「訳者は日本人か? こんな悪訳も珍しい。稀代の悪訳」,
「学生の下訳をそのまま載せたような....翻訳の質の悪さはいかがなものかと。...最低限、日本語として成立するようには整えてほしい。」
朝日選書は,よくぞまあ、こんな ”デタラメ訳本” を発行したものだ。英語の原本を何とか安価で入手出来ないものだろうか。是非とも,原本とこのデタラメ訳本を照合し検証したい、と私は思う。
そもそも、”序” と称するP.3の最初からわずか10行の中に、意味不明な ”疑問訳” が続出する。よって,その先はもはや読む気にもなれない。
「設計ミスと....最大悲劇は....見えることだ」?
「歴史上のケーススタディは、......知恵の宝庫である。」?
「そういったものは工学の教育課程には.......」?
「最新技術というものは....技術的生産物の中身と挙動について.......なぞっただけ......」?
「工学設計の基本的な性格は........最新技術なるものを超越したものだ。」?
「ガリレオが確証してしまった誤った仮説」 (第5章(P.78) の副題目)?
とんでもない。”確証” は名詞であり動詞ではない。この場合は ”確信” であろう。私はその原文を見たい。
いやはや、初歩的な馬鹿げた誤訳と拙訳の多さにはうんざりだ。裏表紙にある著者紹介によると,この2人の訳者(中島秀人、綾野博之)はともに「科学史」を専門とする大学教員であり,他にも翻訳本があるようだ。 そうであれば,他の翻訳本の内容にも重大な疑問が湧いてくる。
このデタラメ訳本は,明らかに訳者の英語力の不足によることが直ちに分かる。末尾の「訳者あとがき」を見ると,「訳者の一人綾野が下訳を準備し,中島がその原稿を基礎に最終原稿を作成した」,「専門工学的な面については,***教授,***教授に原稿を通読いただき,ご教示を仰いだ。また,編集担当の***にも数々の有益なご指摘をいただい。」,「当然のことながら,残された誤りの責任は訳者たちにある。」とある。
そうであれば,この2名の訳者の力量不足に加えて,2名の教授も編集担当者も,まともには原稿を通読していないこと(または、英語と日本語の能力不足)が推測される。
朝日新聞社としては,本書を絶版とし,この2名の訳者を更迭し,訳者を変えて再発行するべきだ。それが,出版社としての責任であろう。
一方,この馬鹿げた訳本は、見方を変えれば、”お粗末な訳本” の見本として、更にその翻訳者の英語力不足を示す証拠として,残しておくのも良いかもしれない。
よく言われることであるが、誤訳や拙訳を見つけるのは、実は簡単である。普通に読んでいて、意味不明な箇所、論理がおかしな箇所、主語と述語の対応が不明瞭な箇所,これらは、私が知る限り,全部,誤訳や拙訳であり,それは訳者の不注意や英語能力の不足による。
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大学教育の公的認証制度
November 27, 2017
「目先の利益ばかり求めていては教育も研究も早晩やせ細る。」
この社説(朝日新聞)の意見に私は全く同感であるが,一方,私の記憶では,この日本では,これらは既に50年近くも前から識者の間で出されている警鐘でもあり,昔と変わっていない。
少子化が一段と進む日本では,大学(特に新設大学)が生き残りのための経営戦略として,各種の資格取得を第一看板とするのは当然であり,大学の ”専門学校化” が更に進むであろう。それ自体は必ずしも悪くはない。
一方,日本で昔から続いている ”大学教育の正常化” の議論の終着駅は,結局は,文系,理系を問わず,大学教育の内容と卒業要件についての公的な認証制度( アメリカの大学における相互Accreditation ) の確立であろう。それにより,日本の大学における教育内容と卒業者の力量についての社会的信用も生まれよう。 日本の大学の工学部の教育については,既に20年以上も前から,JABEE(工学教育認証制度)が定着しており,一部の有名大学を除き,この認証を満たしていなければ,その大学工学部の教育内容と卒業者の力量は信用されない。
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土地所有権の永久制を廃止するべきだ
November 8, 2017
家屋,山林,田畑,住宅地については,私有地の2割が ”相続人なし” の状態らしい。日本では不動産の相続登記は義務ではないために,私有地が未登録のままで永年にわたり放置され,その一方で法定相続人が増え続け,結局は所有者不明となり,社会のお荷物となる事例が増えているようだ。その経済損失は年間1800億円にもなるらしい。個人の土地所有権を半永久的なものとせず,法改正を行い,所有者不明の土地を公有化し,国と国民がそれを有効利用するべき時代になっているようだ。
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アメリカ隷属に甘んじる日本
November 8, 2017
沖縄で米軍基地と米軍により多発する人権侵害,日米安保の不公平極まりない地位協定などなど,全てを棚上げして,アメリカとの卑屈な隷従外交を続ける安倍を含む歴代の自民党政権。永年に渡り,日本は何とバカにされ続けているのだろうか。「接待されつつ(おもてなしの心で)売り込みも出来るとすれば,これほど優秀なビジネスマンはいない」(11月7日の天声人語)
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高齢者の遺族厚生年金
November 7, 2017
共に65歳以上である夫婦の一方が亡くなった場合の遺族の年金受給額(遺族厚生年金)について,少し,調べてみた。
遺族年金制度(現在の遺族年金制度の仕組み)について,例えば下記の解説がある。
(1)http://www.mhlw.go.jp/shingi/0112/s1214-3j.html#top
具体例については下記の解説がある。
(2)http://www.mhlw.go.jp/shingi/0112/s1214-4e6.html#4
上記の解説(1)の中で,65歳以上の遺族配偶者(妻)に対する遺族年金についての説明文を平易な日本語文に書き直すと以下のようになる。
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老齢年金の受給権が発生している65歳以上の遺族配偶者(妻)は、自分の老齢基礎年金に加えて,報酬比例年金については、自分の老齢厚生年金と,夫の死亡による遺族厚生年金の両方の受給権を持つことになり,そのために,受給のための併給調整が行われる。その併給調整としては、以下の3つの方法の中から遺族配偶者(妻)が選択する。
(1)遺族厚生年金,即ち,夫の老齢厚生年金の3/4のみを受給する。
(2)遺族厚生年金を不要とし,自分の老齢厚生年金のみを受給する。
(3)夫と自分の老齢厚生年金の合計額の1/2(即ち平均値)を受給する。
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遺族(妻)は,上記の選択肢から,通常は,受給額が一番大きくなる方法を選択する。
生前の夫の老齢厚生年金の額をA,妻の老齢厚生年金の額をBとし,夫の生前には AがBの
α倍(α>1)であったとすると(即ち,A=αB),上記の選択肢による遺族(妻)の受給額は以下のように表される。
(1)A*3/4=0.75αB
(2)B
(3)(A+B)*1/2=0.5(1+α)B
これによると,α>2 の場合は,0.75αB>0.5(1+α)B となり(1)>(3),α=2 の場合は(1)=(3),2>αの場合には(1)<(3)となる。
即ち,遺族(妻)に推奨される選択は,α>2ならば(1),α=2ならば(1)または
(3),2>α>1ならば(3)となる。なお,夫の生前に A<B( 即ち,1>α)ならば,もちろん,妻は遺族厚生年金を不要として(2)を選択するのが良い。
具体例で遺族(妻)の受給額を計算してみよう。
A=100万円,B=40万円,即ち,α=2.5の場合,
(1)0.75*2.5*40=75万円
(2)40万円
(3)0.5*3.5*40=70万円 よって,(1)を選択するのが良い。
A=60万円,B=40万円,即ち,α=1.5の場合,
(1)0.75*1.5*40=45万円
(2)40万円
(3)0.5*2.5*40=50万円 よって,(3)を選択するのが良い。
また,A<40万円の場合(即ち,1>α)は,もちろん,妻は遺族厚生年金を不要として(2)を選択するのが良い。 なお,A=B(即ち,α=1)であった場合には(2)や(3)による受給額は夫の生前と同額になるが,(1)を選択すると,妻の受給額は減額されて75%になる。私の場合は,学生時代が長く,就職した時期が遅いので老齢厚生年金については,1>αである。
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紅葉の中で阿賀野川でのLong Regatta
November 3, 2017
2017年11月3日。新潟県阿賀町を流れる阿賀野川で,ナックルフォアによる10kmの ”津川Long Regatta "に参加した。出場は12クルー。快晴の中で(昨年のどしゃ降りの中とは正反対),我々のクルーは約55分でゴールした。一位は,やはり高校生の現役Rowing Clubクルー。我々 "Over還暦クルー" はついて行けずに,9位。終了後は,もちろん,反省会と称する宴会。だが,新潟市から参加した私達は,帰路に車の運転があるために,残念ながらビールなどは飲めなかった。
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小学校の先生方の勤務実態
October 9, 2017
今日の学校教育現場の先生方は,大変な事態のようだ。
私の小学校時代(昭和30年代前半)を思い出すと,生徒から見て,先生方の仕事はこれほどには過密ではなかったと思う。 放課後にグラウンドの砂場で先生がクラスの生徒を相手に相撲をし,私達が何度も砂の上に投げつけられた楽しい思い出もある。そういう時代であった。
一方,この勤務時刻表をみると,自動的に,高等教育機関における ”研究を放棄した楽チンな教員” の姿も浮かび上がる。 今日と違って,研究費の獲得競争や,JABEE(工業教育認証制度)などが無かった昭和40年代の大学教員や,つい20年位前の高専教員の姿。
まさに,”愚者の楽園”といわれた所以である。”教授と乞食は3日やったらやめられない”などと揶揄されたものである。
筒井康隆氏によるベストセラー小説「文学部 唯野教授」を以前に読んだことがあるが,半分ほど読みかけて,余りにも情けなくなり,途中で放棄した。
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”温度差”だの”化学反応”だの.....?
October 4, 2017
「A社とB社によるこの共同事業の取り組みには,実際は,両社の方針の間に微妙な温度差があり.....」???
「我が党とA党とが連携することにより化学反応が起き,国民の中に広い支持が生まれることを期待する.....」???
これらは安直で不正確な語句の使い方の最近の典型例である。”温度差”は,今や全国紙の記事の文中にも時々見られる。特に,若い記者による原稿の中に多いようだ。また,最近では政界の中で議員らが ”化学反応”なる語句も使い始めた。
”温度差”も”化学反応”も,本来の正式な意味を有する科学用語であるが,これらが新聞やニュース記事,また政治家の発言の中で,安直にかつ不正確に使われ続け,独り歩きしていく風潮を私は危惧する。日本語のデタラメな使用を阻止するべく,新聞記事については校閲部によるチェック,またニュース報道番組においては原稿担当者の校正とチェックの責任が,今日,一層大きいと言えよう。
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政治家としての節操もないのか?
October 3, 2017
東京新聞の望月衣塑子氏は以下のように語る(2017年10月3日)。私も同感である。
無節操な”政治家気取り”の面々が,つい最近までの自分の姿を反故にして,恥も信条もかなぐり捨て,世間体の良さそうな新党に入れてもらったところで,そんな新党やそのメンバーは,所詮,烏合の衆に過ぎない。長続きはするまい。国民は,そうしたメンバーの一人ひとりを記憶に残しておくことになろう。
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高校の同級生の塚本千津子さんの夫、現民進党総支部長の前田順一郎さんも、希望の党からの出馬を取りやめ、安保反対、改憲反対を旗印に掲げたいとする、枝野議員らが設立する、立憲民進党からの出馬を決意したとのこと。
これまでの経緯を見ると、前原代表がどこまでのやり取りをした上で、希望の党との合流を決意したのかはわかりませんが、この間、民進党の議員の何十人かは、あれほど国会で反安保の論戦を激しく展開していたにもかかわらず、安保法案には反対しないとの、希望の党が示した踏み絵を意図も簡単に踏みました。細野豪志議員は、一昨年、国会前のデモで声高に安保反対を訴えていました。また、小池氏側近の若狭勝議員も、安保法案の決議の際は、欠席し反対の意を表していたはずです。
小池氏の主張は、恐らく首尾一貫しているものなのかもしれませんが、何故、側近の議員らがこうも簡単に信念や信条を変節できるのか。彼らのあの訴えは、全て虚偽だったのか。
それこそ、ブームに乗って小池氏の主張のいいなりになっているだけではないのか。
そんな疑問が拭えませんし、そのことに酷く落胆します。
民進から行く、多くの議員は小池都知事の看板で勝てそうだから行くのでしょうか?
党をうつる議員の方々には、自分の信念信条と、希望の党の打ち出した主義主張が、本当に一致できるものなのか。自分の政治家として貫いてきた、信念信条との矛盾はないのか。
いま一度、考え抜いた上で判断をしてもらいたいと思います。
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日没の夕陽の位置
September 21, 2017
新潟市秋葉区の新津から見た日没直前の夕陽。今日(2017年9月21日)の夕陽はとてもきれいだ。この日没の夕陽の位置は季節の変化とともに,毎年,弥彦山,角田山,佐渡山脈のそれぞれの稜線を規則正しく左右に往復する。新津から見ると,冬至の頃には一番左に(雨乞山の稜線に),夏至の頃には一番右に(佐渡山脈の稜線に)。また,春分の頃と秋分の頃は,真西の同じ場所に(角田山の右側に)夕陽が落ちる。各月々の日没位置の変化を,きれいに撮影出来るまでに4年半待った。
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北朝鮮(金正恩)をどう見るか
September 12, 2017
北朝鮮(金正恩)の動きをどう見るか。朝鮮半島や日本の一般国民に被害が出ないためには(破滅状態にしないためには),結局は,”北風と太陽”の施策を参考にせざるを得ないと私は思う。 自分の弱さを分かっている犬ほど,激しく吠える。
まずは,朝鮮半島近海での米韓の合同軍事演習を廃止するべきだ。 日本の周囲の海で,中国と北朝鮮による合同軍事演習が頻繁に実施されたら,日本政府と日本国民はそれをどう受けとめるかを想定してみると良い。
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第25回 阿賀野川レガッタ
September 5, 2017
Rowing の町,新潟県阿賀町(旧津川町)における毎年恒例の「阿賀野川レガッタ」に出場した。ナックルフォアの500mのレース。私達は「アンチエイジングA」というクルーで出場した。天気は良かったが,強い向かい風の中で,阿賀野川の水面が大きく波立ち,どのチームにとっても,Rowing Race にはかなりの悪条件であった。
私達は,熟年(平均年齢60歳以上)部門の中で,敗者復活戦から決勝に進み,日頃の練習のかいあって,ついに今年は優勝した。タイムは 2分17秒48。これにより,来年に琵琶湖で行われる都道府県対抗のRowing Race における新潟県の熟年チームとして出場権を得た。
今後も私達は練習を続けるが,新潟を含む北陸では,11月下旬から3月までは,雪と風の季節であり,信濃川での練習は不可能になる。そのため,ジムや自宅で体の筋力を鍛えるしかない。
70歳近くなっても,こうして同好の仲間とRowingが出来ることを幸運に思う。自分の今後の人生は長くてもせいぜいあと15年くらいであろうから,やるべきことをやり,残す物と捨てる物を峻別し,更に健康に留意し,Simpleでかつ納得のゆく生活を目指そうと思う。
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大河を舞台にボートで熱戦
第25回阿賀野川レガッタ開催(新潟日報 2017/09/03 18:24)
「ボートの町」を掲げる阿賀町の一大イベント「第25回阿賀野川レガッタ」(実行委員会主催)が3日、同町津川の県立津川漕艇場で開催された。県内外80クルー、約470人が参加し、大河で熱戦を繰り広げた。
年齢構成や性別により8部門に分かれ、距離はいずれも500メートル。かじを取るコックス1人と、こぎ手4人がオールを1本ずつ操るナックルフォアで競った。
定位置についた各クルーは、合図とともにスタート。「キャッチ、ロー」の掛け声とともに加速して水上を疾走した。終盤まで競り合う展開もあり、会場から大きな声援が送られた。 大学時代のボート部仲間と参加した埼玉県川越市の医師の男性(70)は「阿賀町の人は親切にしてくれて家庭的な雰囲気。元気でいる限り参加したい」と話した。
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北朝鮮のミサイル発射
September 1, 2017
2017年8月29日早朝,北朝鮮は(金正恩は),またまた,乱暴なことをするものだ。
上空を通過したとはいえ,ミサイルを発射された方向にいる日本人として,腹立たしくなる。北朝鮮のミサイルが日本に着弾する場合を想定すると,もはや,J-アラートだの避難訓練などは,全部が無効となるだろう。この問題の本質について,下記の意見は私には参考になる。 北朝鮮のこうした乱暴な発射が,一層,自国の国際的信用を落とし,金王朝の崩壊をもたらすことを,金正恩は知らないようだ(もし,グアムやハワイの近辺に着弾でもすれば,もはや,北朝鮮本土はアメリカ軍からの未曾有の総反撃を受け,金王朝が崩壊する)。
ICBMの大気圏外への最高到達高度を更新するだけならば,強力なエンジンを搭載すれば良い(なお,その強力な大型エンジンも北朝鮮の自力開発ではなく,実はウクライナを経由したロシア製品の移入に過ぎない,とする報道もある)。しかし,軍事的に有効となるためには,それ以上に技術的に困難な大きな壁がある。即ち,大気圏再突入時のミサイルの安定化技術と,目標への着弾精度(命中率)である。
北朝鮮は大気圏へのミサイル再突入の技術が未熟であること(機体が空力加熱により分解される)は既に多くの報道のとおりだが,遠距離にある目標への正確な着弾のためには,北朝鮮の現状では,おそらく,他国が上げてくれた衛星によるGPSに頼っているために,まずは自力でGPS衛星を打ち上げる能力が必須であろう。そのような技術が北朝鮮に確立されるためには,まだ相当な年数が必要,と私は思う。
一方,日本に向けた今回のミサイル発射に対する日本政府の対応について考えてみよう。そもそも,日本やアメリカが打ち上げている監視偵察衛星は,危険なイスラム国,中国,ロシア,北朝鮮などを上空から常時監視するのが目的であり,現在では,画像解析技術の飛躍的な進歩により,その取得画像の解像度(分解能)は,50cm以下にもなっているようだ。
つまり,北朝鮮における核実験準備,ミサイルの移動,発射準備,発射方向などは,アメリカ政府も日本政府も,常に正確に把握しているはずである。
しかし,情報戦というものは「相手の情報は全部つかみ,かつ,自陣の情報は完全秘密とする」のが鉄則であるから,相手の動きを事前に察知していても,それを公開しない(知らないことにする)のも当然である。
日本政府が,今回のミサイルが北海道の上空を飛来することを予知しつつも,J-アラートを,あえて北陸,東北,北海道を含む広範囲地域に流したのは,日本やアメリカの監視偵察能力のレベルを北朝鮮に知らせないためであろう。J-アラートを東京や関西に流さなかったのは,そこには着弾はしないという報告を政府が受けていたからであろう。それ自体は,情報戦としては常識であったかもしれないが,一方,むしろ今回はJ-アラートが不要であったかもしれない。日本政府が急な動きをしたり,アラート地域の日本国民が,どこへ逃げたら良いのかと右往左往すればするほど,日本の情報収集能力を北朝鮮に明かすことになる。
実際,ミサイル発射の予定を知らされていたはずの安倍首相は発射の前夜は公邸に泊まり,発射当日の早朝には公邸から官邸に駆けつけ,報道陣にコメントを出している。この対応自体は当然のことであろう。結局,日本が取るべき手段としては,金正恩にミサイル発射を思いとどまらせるための,国際協力による外交努力しかない。それは日本政府の外交行政手腕を世界に示す試金石となるだろう。
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白井聡 氏(京都精華大学人文学部専任講師)の意見(『神奈川新聞』8月26日朝刊)
■無意味な訓練の意味
北朝鮮から日本に本当にミサイルが飛んでくるのか、現在のところ可能性は低いと見るが、究極的には分からない。だが仮に本当に飛んでくるとしても、こうした訓練は意味がない。小学校の体育館に逃げ込んで身を守れるのか。体育館に集まった方が安全だと判断する根拠はどこにあるのか。頭を抱えたところで、落ちてくるのはミサイルであり、対処法は基本的にない。
政府は、グアム方面に発射されたミサイルを日本上空で迎撃すると言い、島根、広島、
高知の3県に地上配備型迎撃ミサイル「PAC3」を配備した。だがこれも無意味だ。
日本上空を通過するときにはミサイルは高高度を飛んでいるためPAC3で撃ち落とせ
ない。
北朝鮮が米本土に向けて撃つミサイルを日本が撃ち落とすなどと言っているが、これもばかげた話。この場合、ミサイルは日本上空を通過しない。
これらに共通しているのは危機認識の前提や、その対処方法に「全く合理性がない」という点だ。太平洋戦争末期に政府が「竹槍(たけやり)で爆撃機B29を落とす」と言っていたのと変わらず、見ているこっちが恥ずかしくなる。
ではなぜ無意味なことをやるのか。そこに別の意味があるからだ。つまり社会的効果を見込んでいる。戦時中、竹槍でB29を落とす訓練に「そんなのは無意味だ」などと言おうものなら、「お前は何を言っているんだ。非国民だ!」と爪はじきにされた。いま行われている弾道ミサイル避難訓練はこの構造とよく似ている。つまり不合理に屈する国民を生産するという社会的効果がある。
■朝鮮戦争にこそ原因
大いに懸念されるのは、こうした訓練を繰り返すことで、人々の心が「とにかく頭を抱えるべきなんだ」となり、同時に「なぜ、こんなことになっているのか」という問いが消えてしまうことだ。
なぜ日本がミサイル攻撃を受ける可能性があるのか。なぜ私たちはそこまで憎まれているのか。なぜそれほどの犠牲を強いられるのか。こうした根本的理由を問うことをやめ、せいぜい「あの国は理解できない」などという説明で納得した気になってしまう。
だが当然ながら問題はそんなに単純ではない。もつれた歴史の糸をほぐしながら考えなければいけない。
これは朝鮮戦争が終わっていないことに起因している。国際法的には今も戦時であって、一時的に休戦しているに過ぎない。この状態が60年余り続いているのは異常だ。米国はこの戦争の当事者であり、だから北朝鮮は、米国に対抗するために核開発とミサイル開発をやめない。
この構造の中でなぜ日本に危険が及ぶのか。それは日本が米国の前線基地であるからだ。
60年以上続くこの異常な状態を、アジアの住人が主体となって解消しなければいけないと考えるべきだが、日本人の多くにそうした発想はない。
■本質から目そらすな
「東アジアの安全保障環境が厳しさを増している」という理由づけで、安倍政権は2014年7月に集団的自衛権の行使容認を閣議決定し、翌年安全保障関連法制を成立させた。このとき、集団的自衛権行使の前提として「存立危機事態」にあることが条件とされた。「日本と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」事態だ。
当時、国会で挙げられた事例(ホルムズ海峡封鎖)と比べれば、北朝鮮のミサイル問題は、存立危機事態にはるかに近いと言えるだろう。では、その「存立危機事態」はなぜ生じているのか。原因は明らかに米朝関係と日米安保体制に求められる。この現実から目をそらしてはいけない。
こうして全体を俯瞰(ふかん)して分かるのは、ミサイルが飛んでくるかもしれないと言って行われる避難訓練がいかにばかげた行動であるか、ということだ。考え、解決しなければいけない問題は別の次元にある。頭を抱える練習をしたところで、何も守れはしないのだ。
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NHKは国民を舐めてはいけない
August 25, 2017
この社説(朝日新聞 2017年8月25日)に私は賛同する。
NKHと受信料制度を現状のままにしておいて収入を増やしたい,そのために,電力会社やガス会社にNHK が照会して受信料契約のない住民の氏名と住所を教えてもらう,とは腹立たしさを通り越して呆れてしまう。国民を舐めてはいけない。
公共放送を標榜するのであれば,NHKの公正中立性への重大な疑問,NHK役員人事の公選制への取り組み,などについて,まず第一に国民に答えるべきだ。
「なぜ,NHKが国民の受信料を使って放送をしなければならないのか」は,国民の中に昔からある本質的な疑問である。
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電気自動車そしてオール電化住宅
August 17, 2017
国の政策として,石油系燃料を使うエンジンを搭載した車を廃絶して,電気自動車に切り替えていく...? それにより地球温暖化や大気汚染の防止対策が促進される.....?
とんでもない。私には全くそうは思えない。一国のすべての車(バス,トラック,建設機械車両,タクシーも含む)が電気自動車になったら,社会はどうなるか。
そのための充電施設の建設と維持,充電に必要な供給電力を満たすために国全体としての発電所における発電量の大幅な増加(それは重油や天然ガスなどの化石燃料の使用量の大幅な増加をもたらし,それによる排気ガスも増える。),電気自動車に搭載される充電池の廃棄やリサイクルにおける環境安全対策などなど,大きな問題も派生する。
これら全体を考慮すれば,電気自動車への切り替えは,地球温暖化や大気汚染の防止対策の促進になるとは,簡単には決して言えない。「低燃費車の普及策」と題する記事(朝日新聞 2017年8月17日)は,私には深く肯ける。今,世界に求められていることは,「排ガスや二酸化炭素の排出を抑える低燃費車の現実的な普及策」なのである。
なお,同じことが ”オール電化住宅” の勧誘キャンペーンについても言える。地域社会の住宅全体がオール電化住宅になることが,本当に,地球温暖化や大気汚染の防止対策になるだろうか。地域社会のそれらの住宅全体への供給電力を満たすべく発電所の発電量を増やすことは,発電所における重油や天然ガスなどの化石燃料の使用量の大増加をもたらし,それによる排気ガスも増える。それは,国全体として,地域社会全体として,決して省エネルギや環境浄化の対策にはならない。
”オール電化住宅” の勧誘キャンペーンは,社会の電力消費量をより一層増やしたいとする電力会社の経営戦略と住宅メーカーの共同作戦に過ぎない。さらに,電気自動車やオール電化住宅の普及キャンペーンは,それによる国内の電力不足の到来を好機とする ”原発再稼働” 推進グループの策略に転化するかもしれない。これらの不正キャンペーンを冷静に監視し,”偽りの省エネルギや環境浄化対策” に騙されてはならないと私は思う。
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喜多方シティレガッタ
August 14, 2017
8月6日,福島県喜多方市の荻野ボートコースにて,第10回喜多方シティレガッタが行われた。私達は,新潟Rowing Clubの「おじさんクルー」として,出場した。
ナックルフォアで500mのレースである。私達のクルーは,敗者復活戦で2分07秒の成績だったが,入賞はできなかった。 来年も,頑張ろうと思う。夏の楽しい思い出になった。
次は,9月3日に,新潟県阿賀町(旧津川町)での阿賀野川レガッタに出場する。
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企業には博士課程修了者が必要
August 8, 2017
既に30年以上も前から,日本の科学技術と企業の研究開発力のレベルは「欧米に追いつけ,追い越せ」の段階を卒業している,と私は思う。
そのため,日本での博士課程進学者が今後も減少し続けることは,国際的な競争の環境の中では,とても損なことだ。手持ちの技術の改良,改善だけの企業は,国際社会を生き残れるだろうか。この記事(2017年8月8日,朝日新聞)は,私にはよく納得できる。
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北朝鮮のICBMの技術的現状
August 1, 2017
以下の記事は,当然のこととして理解できる。
ICBMの大気圏外への最高到達高度を更新するだけならば,強力なエンジンを搭載すれば良い。しかし,軍事的に有効となるためには,それ以上に技術的に困難な大きな壁がある。
即ち,大気圏再突入時のミサイルの安定化技術と,目標への着弾精度である。再突入の技術的困難については,下記の記事のとおりだ。
加えて,目標への着弾のためには,現状では北朝鮮は他国が上げてくれた衛星によるGPSに頼っているために,北朝鮮には,まずは自力でGPS衛星を打ち上げる能力が必須だ。そのような技術が北朝鮮に確立されるのは,まだまだ,相当な年数が必要ではないだろうか。
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北朝鮮、再突入技術未獲得か=ICBM弾頭消滅?-専門家
【ワシントン時事】英国際戦略研究所(IISS)のミサイル専門家マイケル・エレマン氏は31日、北朝鮮が28日発射した大陸間弾道ミサイル(ICBM)について、いまだ大気圏への再突入技術を獲得していないとみられると分析した。事実であれば、北朝鮮は米本土攻撃能力を持つICBMを完成させるまで、さらに実験を重ねる必要があることになる。
米ジョンズ・ホプキンス大高等国際問題研究大学院の米韓研究所のホームページに掲載されたエレマン氏の分析記事によると、ICBMの飛行時間や到達高度などから計算すると、弾頭部分の大気圏再突入時の速度は秒速6キロ以上。日本海に落下する弾頭部分が映った映像では、空力加熱で高温になり、明るく輝いていた弾頭部分が高度3~4キロで消滅した。 弾頭部分の再突入技術獲得はICBM開発で最難関の一つとされる。(2017/08/01-05:20)
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教育系大学の本分を忘れてはなるまい
July 13, 2017
教育系の大学・学部における教員養成の教育を ”職業訓練” に転落させてはなるまい,と以前から私は危惧しているが,群馬大学名誉教授の森部英生氏が,永年に渡る教員養成の経験から,以下のように述べておられる(朝日新聞 2017年7月13日)。教師の毎日は,無限の可能性を秘めた青少年と接する仕事である。私は,森部氏の意見に全く同感である。
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技術革新と言論の責任
July 5, 2017
「技術革新と言論の責任」の記事。「大切なのは,周辺を含めて事実関係をきちんと把握し,その言論に責任を負うことである。」この意見に私は全く同感である。
私はいつも強調しているが,出来る(造れる)ということと,それによる製品が社会に普及することは,全く別の話であろう。
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安倍政権の自滅と崩壊が近いような.....
July 3, 2017
今日(2017年7月3日)の各紙の社説を見ると,産経新聞以外は,主題が共通しているようだ。社説を比較すると興味深い。民主主義の社会はこれで良いのだろう。
「安倍自民は歴史的惨敗の意味を考えよ」(日本経済新聞)
「大敗の自民 「安倍政治」への怒りだ」(東京新聞)
「都議選自民大敗 「安倍1強」の慢心を反省せよ」(読売新聞)
「都議選で自民が歴史的惨敗 おごりの代償と自覚せよ」(毎日新聞)
「都議選、自民大敗 政権のおごりへの審判だ」(朝日新聞)
「小池勢力圧勝 都政改革の期待に応えよ」(産経新聞)
なお,安倍政権の自滅と崩壊が近いようだ。
「自民、逆風で崩壊 揺らぐ安倍政権」(毎日新聞)
「自民幹部「安倍おろしの声出るかも」首相の求心力低下」(朝日新聞)
「首相責任問う声も―自民 「国民の怒り招いた」」(東京新聞)
「自民都連5役全員辞任へ「党への怒りだった」」(読売新聞)
「「安倍1強」岐路に 解散・改憲に不透明感 」(日本経済新聞)
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安倍政権打倒の国民的大運動の開始
July 2, 2017
友人がHPにて,以下を述べている。私も全く同感である。自分の国の首相がこんな厚顔無恥なウソつき者であることを情けなく思う。安部政権打倒の国民的大運動が,いよいよ開始の段階に入ったと私は思う。
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都議選候補者の応援演説に街頭に姿を見せた安倍首相に浴びせられた「安倍辞めろ!」「帰れ!」のシュプレヒコールに向かって安倍が返した「演説を邪魔するような行為を自民党は絶対しない。相手を誹謗中傷したって何も生まれない」「こんな人たちに私たちは負ける訳にいかない」には「よく言うよ。どのツラ下げて言えるんだ」と思うとその鉄面皮には心底腹が立った。
石原経済産業相の「(これは)ある意味で民主主義を否定します。自分たちの主義主張があるならば、自分たちの応援するところに行って主義主張をするのが民主主義の基本でありますけれども、残念ながら反対をすることだけしかできない人たちが、さまざまな会場で選挙の妨害を繰り広げたということは、民主主義を守っていく私たちとしては、情けなくも申し訳なくも思っている」(いずれも情報源は時事通信)には笑止千万、「おまえが言うか」と思うと顔が赤らんだ。
すべての公務員は憲法順守義務が誓約させられるわけだが、それを率先垂範して蹂躙し、多数派は何をしてもいいんだと錯覚して国会運営の民主主義的手続きのイロハさえも踏みにじる暴挙を繰り返し、落としどころを探る丁寧な審議を嘲笑いながら暴走ダンプの如く突っ走り、国民同士が街頭でいがみ合う分断を呼び込んだのは誰の責任なのか?
世界は統合よりは分断へ向かう時代の潮流であるが、日本も同じ道を辿ることを予感させる。安倍政権打倒を叫んで「街頭へ!」とデモを呼びかける広範な市民運動・大衆運動が粘り強く組織されるだろうが、共謀罪法を既に”先行実施”しているに違いない警察は、彼らが「一般の方」とは考えない市民をリストアップしその私生活を完全監視しているはずだし、極右が民主主義の奪還を叫ぶデモ隊を襲うという可能性も高く、その際には流血の惨事が避けられない。安倍政権には既に腐臭が漂い始めている。やはり”黄昏”とさせなければならない。
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”この総理大臣”のお粗末さ
July 2, 2017
物理学者の大槻義彦氏(早大名誉教授)は,HPの中で,以下のように述べておられる。
私も全く同感である。
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それにしてもわが総理大臣閣下の無二のオトモダチがなぜこうも低レベルなのでしょうか。総理大臣閣下のお目にとまり、将来性を託された防衛大臣が『防衛省、自衛隊か
ら都議選自民党への投票お願い』をやりました。
文部大臣が『国立大学教授から自民党への投票お願い』などと発言したらとんでもない暴言です。防衛大臣の都知事戦自民党への投票お願いも同じことです。
これまでも安倍内閣の、オトモダチ閣僚、大臣も相次いで失言をして批判されたり、辞職したりしました。それだけではないのです。総理大臣の権限で政府系関連団体、法人にオトモダチを付けました。その例がNHK会長でした。しかしこの人、信じがたい発言と番組介入で批判を受けつづけついに再任されませんでした。
民間のオトモダチも、みなさまよくご存知のようにオソマツの極みです。例の森友スキャンダルの園長、理事長先生しかり。加計理事長しかり。森友では家族ぐるみの付き合いで総理夫人は名誉園長だったとか。
友達付き合いをみればその人物のおよその程度、レベルが分かります。森友にあっては幼稚園の従業員の数をごまかし、園長の兼職をごまかし、補助金の不正取得で立ち入り調査を受け、小学校設立ではウソの工事見積もり提出。こんな不正行為デタラメ学園に深く関与していたとは信じられないことですね。
それにしても一国の総理大臣がかくも怪しげな人物となぜ交友を深めてきたのか。それが総理のレベルの程度と言ってしまえばそれまでですが、肝心なことは右翼、極右のオトモダチであったことです。
元々東京裁判を拒否して靖国神社に公式参拝するような極右の人たちはごく単純なのです。確たる哲学もなければ真の学問もない、内心ではナチをも肯定する。よくもこれだけ単純な総理大臣がかくもスキャンダラスなおつきあいをしながら今なお相当高い支持率を維持できるものだ、と感心します。
その理由はただ一つ。経済です。日本のデフレ脱却を声高らかにとなえてアベノミクス。これが支持率維持のただ一つの理由です。そういえばナチ、ヒットラー政権も極右ファッシズムの一歩手前には国家破たん前のドイツ経済の抜本的立て直しの施策が支持されました。
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大学教育の無償化は時期尚早
July 1, 2017
現在の日本では,大学の授業料の無料化は時期尚早だと私は思う。それにより予算の削減を受ける他の重要な行政への悪影響が大きいこと,さらに,そもそも,人口の割には多すぎる大学の「大学教育の質」の改善と向上が先決であるためだ。この記事の意見に私は同感である。
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ペナン島のドリアン紀行
June 29, 2017
旧知の友人が,今が旬の時季ということで,ドリアンを食べに,マレーシアのペナン島へ行ってきた。「果物の王様」と言われる「生のドリアン」を私は食べたことはない(はるか昔に,加工品を一口かじっただけで退散した)。
11年前に,インドネシアのジャカルタのスーパーの食品売り場にて,陳列されているドリアンを見たが,この時は100gあたり1300ルピア(約¥16)であった。
マレーシアは世界一のドリアンの産地であり,ドリアンの旬は6月と11月らしい。それが好きな人はわざわざツアーを組んで食べに来るらしい。以下は,その友人による「ドリアン紀行」である。
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ドリアンは,朝とったのを田舎から売りにきて屋台を出しています.着いた翌日のお昼頃,タクシーに連れて行ってもらいました.1キロいくらで売っているので,「たくさんは食べれない」と伝えると,小さめなのを選んでくれました.直径15cmくらいでしょうか.64RM=1800円でした.
まず手を洗い手袋をします.お店の人が棘の硬い殻を割ってくれるので,いくつかに分かれた中身を指でつかみだし,タネのまわりをしゃぶるような感じで食べます.
水気は少なく,ねっとりと粘度が高いクリームのような食感です.やさしい甘みで,ほとんど香りはありませんでした.種類がいろいろあり,苦味があるのが好きだという人もいました.たくさん食べると具合が悪くなるときいていたので,タクシーの運転手さんと半分こにして,4,5個くらい食べました.あとでお水を飲んで口をすすいで終わりです.
今はケーキやお菓子がいろいろありますし果物の品種改良が進んでおいしいものが食べられるけれど,それがなかった時代にこういうものが木に成る.クリームが木に成っている,ということがすごいですね.
翌々日の午後,別の屋台にいったところ,今度は軽く匂いが漂っていました.ああ,この匂いなんだ,とわかる感じで,悪い匂いではありませんでしたが,もっと強くなるといわゆるテリブルな臭気になるんだと思います.この日は70RMでちょっと違う種類のものですが濃厚なクリームのような食感は変わりませんでした.1日目よりちょっとたくさん食べてしまいました.
でも,それからが大変でした.そのあと山上のヒンズー教の寺院(本山みたいな立派なお堂)にいったのですが,登るにつれ汗だく.のぼりと暑さだけでなくドリアンのせいがあると思います.すごくカロリーが高いものようです.しかも臭いゲップがたくさんでてきて降参.ドリアンとビールを一緒に飲食してはいけない,という話を思い出しました.
そのお寺は観光地ではなく礼拝の日でもなかったためほとんど人がいなかったのは幸いでした.山をおりたときにはすっかりへたばってしまい,お水を飲んで休憩しました.
でも大丈夫.2日目の経験も含めてドリアン体験完了.果物の王様をしっかりを味わい,気が済みました.ドリアンにも種類があり,山猫王というのがドリアンの中のドリアンだそうですので,もし行かれるなら奮発してこちらを召し上がるといいと思います.
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”新技術”や”新エネルギ”への考え方
June 27, 2017
メタンハイドレートは採算的に不適当らしいとの記事(2017年6月27日朝日新聞)。
しかし,それは,もともと予想されていたことだ。
「新しい技術によりこういうことが出来る」,「こういう新エネルギも利用できる」,「リサイクル技術により,省エネルギと環境保全になる」として”新技術”,”新エネルギ”,”省エネルギ技術”などが報道され,鼓舞され,一時的に賞賛されたとしても,理工学教育を受けた者であれば,質量保存法則,エネルギ保存法則,熱力学第2法則,そして更に,費用効率(採算効率)に照らして,それらを冷静に考えなければならないと思う。
出来る(造れる)ということと,それによる製品が社会に普及することは,全く別の話であろう。こうした観点から「音が静か。排気ガスがきれい。環境保全に良い」とされる水素自動車や電気自動車にも,私は以前から大きな疑問を持っている。
以前に記した記事(2013年5月8日)の末尾を,以下に再度掲載する。
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現在,よく鼓舞されている多くの「リサイクル促進運動」の内容は,本当に「リサイクル」や「省エネルギ」と呼べる技術なのだろうか。空き缶,古紙,食用油などの再利用奨励の説明は本当に科学的に正しいのだろうか。バイオ燃料は本当に "環境に優しい" のだろうか。"オール電化生活の普及" は本当に "安全で快適な生活の普及" なのだろうか。風力発電や太陽光発電は本当に合理的な "省エネルギ" の技術なのだろうか。水素自動車やハイブリッド車は 本当に "安全で快適な市民生活" のための "環境にやさしい技術" なのだろうか。原子力発電は,その建設費用,環境汚染防止対策,核燃料廃棄物の処分や再処理対策,事故における安全対策とその費用などを検討すると,総合的な費用効率はどうなのだろうか。
これらを少し詳しく検討してみると,環境保護対策,省エネルギ対策,リサイクル技術,と言われる多くの話の内容には,実は,かなり疑問な面も見えてくる。見過ごせない無駄,社会的な非効率,普通の市民生活に対する看過できない危険性,などが見えてくる場合もある。
私達は科学的根拠の乏しい安直な(素人騙しの) "リサイクル論","省エネルギ技術", "環境保護論" などに騙されないだけの(それらを検証できる)知識と分析力を持つ必要があると思う。端的に言えば,自然科学の根源的な法則の中の,質量保存法則,エネルギ保存法則,熱力学第二法則という3法則に照らして虚心坦懐に考えることにより,巷にあふれるリサイクルのキャンペーン,省エネルギ機器や技術の宣伝, 環境保護キャンペーン などを,誰もが検証でき,その結果,科学的根拠の乏しいものを確信を持って一蹴,排除,さらに駆逐することが出来ると思う。
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天下りによる無資格の大学教授
June 8, 2017
「教授職 博士号ゼロは異常」と題して,千葉大学の大西教授が意見を述べておられる(朝日新聞2017年6月8日)。
この中で,重要な指摘として以下の3点をあげている。私は同感である。
(1)文科省が推進してきた大学院重点化政策を,文科省自らが否定している。
(2)博士号を取得はしたが定職につけない若い研究者が多数いるにも拘らず,大人が抜け駆けして再就職したという情けない事実。
(3)大学教授の資格を規定した大学設置基準の第14条が,文科省自らと当該大学により,不正に運用され,教授としてふさわしくない者が縁故採用されるリスクが有る。
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最近の大学教員の追加仕事
June 7, 2017
この記事によると,最近の大学教員には,教育以前に生活指導の仕事も必要らしい。特に,定員割れをしている大学には「学級崩壊」の様相があるらしい。
ちょうど50年前,私が大学に入学した時も,各クラス(所属学科に関係なく,選択した必修の第二外国語により決められる)に,一応,それぞれ ”担任の教師” が設定されていた。
しかし,私のクラス担任の英語教師は,週に一度の授業でその姿を見るのみであり,それ以外で見かけることはなかった。
ある時,授業の中で,ひとりの学生が「将来は,会社を起こしてそのCompanyのPresidentになりたい。」と言うと,「会社を立ち上げた時は,最初はCompanyではなく,Firmなのだよ。」とその教師が言ったことを憶えている。
「昔と違って,今時の大学生は,学生ではなく生徒だ。」が彼の口癖であり,「クラス担任としての仕事など,本来は必要ないものだ。」と私達に言っているかのように思えた。
「ここは大学だ。皆さん,ご自由にどうぞ。」というメッセージが,彼の後ろ姿に表れているように私には思えた。
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モズの”はやにえ”と野鳥の季節
June 1, 2017
モズ (Lanius bucephalus) の ”はやにえ” として,庭のモチノキの小枝にカエルが串刺しにされ干からびていた。何のために,こんなことをするのか不明だが,これはモズ科の鳥の習性らしい。
毎年,自宅の周辺には数種類の野鳥が来る。今の時季にはカッコウの大きな鳴き声が近所一帯に響き渡るが,近くで見るとそれは体長が35cmくらいもある大きな鳥である。
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研究論文とその掲載誌の評価
May 27, 2017
物理学者の大槻義彦氏(早大名誉教授)が,最近のブログの中で以下を述べている。
これは,研究者であれば誰にとっても傾聴に値する意見だと思う。一方,従来から,研究論文やそれが掲載された学術誌の評価の指標として,Impact Factor つまり,その論文や学術誌の ”国際的な被引用回数” が重視されている。これは,どんな学問分野でも共通のことである。
その Impact factor の数値は,毎年変動するのが普通であり,それが常に極めて大きいNature や Science などがある一方,あまり大きくはない学術誌もある。よって,どんな学術誌でも,その編集者は,受理した掲載論文の Impact Factor の数値の変動に常に注目しているはずである。それがその学術誌の国際的評価とレベルに直結するためである。Impact Factor の数値が大きい学術誌は,論文の投稿数に比べて掲載率が低い,すなわち,掲載が難関であり,名門の学術誌といえる。
こうした今日では,”predatory 出版” か否かは,研究者だけでなく,”会計監査の役人” でも,Impact Factor の数値の大小により容易に判別できるはずである。
実は,この指標は研究者にとって厳しい関門であり,私自身も,自分の研究論文を投稿する学術雑誌を決める時に,Impact Factor の数値が余りにも大きい学術誌を敬遠したことが何回もあったことを認める。一方,論文が運良く受理され掲載された学術誌の Impact Factor が意外に大きくなっていることを知ったときには,とても嬉しかった。そして,もちろん,その逆もあった。
私は論文の別刷りを毎回,研究費で購入していたが,論文掲載料が必要な学術誌には投稿したことはないために,それを支払ったことはない。
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『まともでない論文誌へのまともでない投稿』
SRADというサイトの最近(2015年12月)の記事によれば『まともでない論文誌』に投稿、発表された論文の数は,東大はじめ旧帝大系の大学所属の人たちによるものが『世界を圧倒している』という。ここで『まともでない論文誌』と は『predatory 出版』と呼ばれているものの総称である。
このような『論文誌』は,たしかな査読者、閲読者制度もない代わり、法外な『投稿料』を払わせる。つまり投稿者を『食い物にする(predatory) 』出版というわけだ。
predatoryと言っても、それを承知で著者たちは投稿したのだ。つまりこれは食い物にされることを百も承知でやったことではないか。
それにしてもこのpredatory論文誌の執筆者の所属が東大はじめ旧帝大系が世界で群を抜いて多いというのは唖然とする。問題となるのは大きく分けて二つある。
一つは人事考課などでこのpredatory論文が役立っている現実である。学位審査、スタッフ採用、昇格人事でまともな研究論文とみなされているのではないか。もしそうでないのなら、わざわざ大金を払って投稿するはずがないからだ。
もう一つの問題は法外な掲載料支払のことである。通常、大学所属の研 究者は大学院院生も含めて、論文の掲載料は研究室の予算、あるいは大学の研究補助費から支払われる。まったく個人で、『身銭を切って』払うのは稀である。だから『食い物にされ』被害を受けるのはこれら研究費の支出者である。つまり文科省、大学など。これは会計監査の対象にすべき事案である。
しかしそうは言っても引用文献の論文掲載誌のどれがpredatoryかを人事考課の教授会や役員会の大部分は知らないし、また会計監査の役人などはまったくの門外漢であるから知る由もないのだ。すると当然のことながらしっかりと指導すべきは研究室の指導者である。その研究室の指導者は一体正確にどの論文誌がpredatoryか を知っているのだろうか。
predatory論文誌を承知で論文を投稿し、法外な値段の掲載料は公的研究費予算から支払うとなればこれは研究費の不正支出ではないか。もっとはっきり言えばこれは研究不正であり、研究費詐取ともなる。研究室の責任者の教授もこの支出を承認したのだからこれは研究費不正の加担者となりうる。(パリティからの転載)
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”専門職業大学” は失政の再来を招く
May 25, 2017
”専門職業大学”の開設が可能となるらしい (2017年5月25日朝日新聞)。一方,「職業大学 新設の必要があるのか」との社説も出ている(2016年6月1日 朝日新聞)。
”専門職業大学”構想とは,50年以上前の ”安上がりの高専構想”の再来であろう。こんな ”構想”は廃案とするのが正しい。実状を知らずに入学した純真な青少年が,卒業後に社会に出て損をするという,高専制度と同じ事態をくリ返してはなるまい。 既に40年も前から,日本では,理工学敎育の中心が大学院修士課に移行しているのだ。
大学レベルの高等教育の中で”職業訓練”を重視し,それを実施するのであれば,その場は専門職大学院(大学卒業後に入学する)でなければならない。実際,アメリカの大学院はそうなっている。その内容は,私が知る限り,どれも学生に猛勉強を強いる ”職業訓練”である。(なお,これらに入学する前の大学での専攻分野は問われないのが普通である。)
専門職大学院を卒業したプロフェッショナルに必要なことは,ツブシが効き,自分の持つ専門知識や技術を広い見地から活用でき,「まともな意思決定ができる」ことであろう。 これらは,もちろん,大学院在学中だけでなく,就職後の仕事の中で継続的に訓練,陶冶されることにより可能となるが,それが可能になるための要件は,広い基礎教育が当人の中に培われていることであろう。 高等教育機関における一般教育課程が重要かつ不可欠とされる所以である。 その意味で,今日の日本の大学教育の中での人文社会科学の分野の整理,縮小,廃止の構想や,”専門職業大学”構想などは,大学教育を安上がりの職業訓練に転落させる”危険な愚論”といえる。
「専門職業大学」なるものについて,物理学者の大槻義彦氏(早大名誉教授)は以下のように述べている。私は全く同感である。
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『専門職業大学』とは言え、これは『専門』などとはほど遠く、『即戦力』を身につけた、まさに『実学中心職能大学』である。それに『観光』はともかく『情報技術』、『農業』というからまさに中級エンジニア(実学)要請である。
しかもこの『大学』は長期間の企業実習が義務づけられているではないか。
何? 実習だと? つまり学生はこの間大学には行かず、企業で働けというわけである。
一体これが大学と呼べるのか。
この間,大学は授業をやることがない。噂によるとこの中央教育審議会の中で議論されたときその中身が噂となって流れている。なんとこの『長期の実習』は全単位数の半分ぐらいと想定されている。してみると,この国立大学は通常の大学の半分しか授業をしないのだ。その分,教授の数も半分以下、教育研究費も半分以下。
しかし,学生としてはたまったものではない。『実習』という名で企業でこき使われて、その合間に大学にもゆく。 なんのことはない、これは体のよい『定時制大学』ではないか。喜ぶのは企業側。まさに安手で安易な労働力が手に入るのだ。
それなら,一体この答申を出した中教審とは何だ。会長は財界のトップ中のトップだった。三井住友銀行会長。なんとなんと,三井財閥、住友財閥の中心人物。いわば産業界の思惑を代弁するのにこの人物をおいて他にはない。
学問の最後の砦、国立大学が産業界の思惑で安手の技能者養成になりさがった先進国の姿に愕然とする。
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法科学に果たす燃焼研究の役割
May 17, 2017
燃焼科学の優秀な研究者である弘前大学名誉教授の伊藤昭彦氏は「法科学に果たす燃焼研究の役割」と題して,以下のように述べておられる(日本燃焼学会誌:2017年5月,Vol.59, No.188)。
私自身も,今までに数回,裁判における鑑定意見書を提出してきたが,下記の意見に全く同感である。(ごくわずかに一部の文言を改訂、補足したが、カッコ内は私による補筆)。 なお、伊藤氏の意見に加えて、私は、鑑定を引き受ける者の「研究者としての職業倫理」の重要さを強調したい。真摯な研究者であれば、自分が熟知していない現象や課題については、依頼者の期待に依拠した”こじつけ”や、勝手な想像による”鑑定意見”は厳に慎むべきである。裁判では、依頼された鑑定人の意見は、判決に対して極めて重要な意味と影響を持つためである。
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燃焼に関わる科学鑑定は,火災や放火などで重要な役割を演じる場合が多い。とりわけ刑事事件では,検察側は専門家を擁する科学警察研究所や科学捜査研究所の組織を持つ一方で、弁護側には特別な組織もなく,伝手を便りに大学の研究者や,民間の鑑定機関に依頼することになる。科学鑑定結果が分かれ,裁判の行方がどちらに流れるかの局面では,通常は、圧倒的に検察側に分がある。
元判事で現弁護士の木谷明氏は,「弁護側は空気銃で大砲に立ち向かうようだ」,「弁護側は目隠しをして戦っている」と,述べておられる。木谷氏は,30以上の無罪判決を確定させているが、一生のうち,ただの一件も無罪判決を出したこともない裁判官が多々いると聞く。日本の刑事事件裁判での有罪率が99.9%の所以である。
一方、このパーセンテージを”科学鑑定の正確さ”に要求することは、研究者にとっては極めて辛い数字である。 科学鑑定における燃焼研究の役割が重要なこと,社会的にも必要とされていることは理解できる。しかし、だからといって,科学鑑定の依頼を研究者個人のみに向けるのは推奨できない。
その理由は,まず,鑑定意見書が持つ社会的な責任の重さである。人の人生がかかっているのである。場合によっては,その人の生命がかかっているから、鑑定人にとっては相当なプレッシャーになる。次に,鑑定にかかる費用である。(裁判官による判断が)「不可知論」に陥ることを避けようとすると,できるだけ正確な再現実験が要求される。
(大阪の)東住吉事件の再審裁判では、多数の弁護士の参加と,支援団体やマスコミの後押しがあったことにより実大規模の再現実験が可能になったが、鑑定を依頼された研究者個人ではとてもそのような再現実験は実施出来ない。更に,公判を維持するための費用も相当なものである。
裁判所から鑑定人尋問の要請があって,遠路、裁判所に出頭したことがある。旅費や日当は裁判所から支給されたが,良く書面を見ると,有罪の判決が出た場合には被告の負担とする,とあり,驚いた。
なお、研究者の立場から見ると、鑑定を行ったことが研究者にとって業績として評価されるわけでもなく、研究費の獲得につながるわけでもない。とりわけ、若い研究者にとっては、科学鑑定を行ったことのメリットは希薄である。
では、どうすればよいのか。これまでの経験から、次のような流れを構築することを私は提案する。(1)中立な立場として鑑定を受け付ける窓口を学会の中で専門委員会として立ち上げる。(2)その専門委員会が、鑑定にふさわしい複数の研究者を選び、鑑定を依頼する。(3)法科学との接点を構築し、学問として発展させる。(4)燃焼研究を法科学の中で根付かせ、自然科学による公正な判断を促す。
これらは研究者にとって、大きな社会貢献であるといえる。
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北朝鮮のミサイル発射
May 15, 2017
2017年5月14日の早朝,北朝鮮がまた日本海に向けてミサイルを発射した。いつものことながら,それは「我が国は強いのだ!」とする虚勢を張った示威行為であろう。新潟市までの距離は,北朝鮮の東海岸から約900km,西海岸から約1200km。
今回の発射基地は北朝鮮の西海岸にあるらしいが,1200km以上の地表弾道距離を飛行して在日米軍基地に正確に着弾させることは簡単ではない。地表での弾道距離を延長するにはミサイルの最高到達高度を相応に上げなければならないが,それに加えて,目標に正確に着弾させるための充分な信頼性のある「姿勢制御システム」の開発が不可欠である。今回の発射ではミサイルが上空2000km以上に達した,との報道がなされているが,上空へのミサイルの最高到達高度が更新されたことだけでは,信頼性のある軍用備品が出来たとはいえない。ミサイルの方向制御は,実際はかなり難しい高度な技術だ。そもそも,アメリカや日本が打ち上げてくれたGPS用衛星が発信する電波を,北朝鮮のミサイルが受信してミサイル本体の姿勢と方向の正確な自己制御が出来ているのか否か。
ミサイルが目標に正確に着弾するためには,他国(アメリカや日本)が打ち上げてくれたGPS衛星に頼るしかない。そのための高度な姿勢制御技術が北朝鮮にあるのかどうか。最近,北朝鮮は頻繁に「ミサイル実験に成功した」とテレビで自賛しているが,私は疑問に思う。
なお,北朝鮮が本当にアメリカのニューヨークやワシントンを狙うのであれば,発射方向はシベリアやベーリング海峡方面になるから,日本海に向けた北朝鮮のミサイル発射は,やはり,明確にアメリカへ向けた威嚇行為ではなく,虚勢を張った示威行為にすぎないと,私は思う。
もし,北朝鮮が,本当にアメリカ本土に向けてミサイルを発射し,アラスカ沿岸のアメリカ領海内に着弾でもすれば,あるいは,ハワイやグアムに着弾すれば,アメリカ政府としては,国際世論の支持のもとに,総反撃に出るのは必至であり,本格的な戦争となる。その場合には,もはや北朝鮮には勝ち目が全くないこと,それは同時に金王朝独裁国家の崩壊を意味することを,あの危険で未熟な金正恩でも理解しているであろう。
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社会人から大学院博士課程への入学
May 11, 2017
***君へ。すでにアメリカで社会人となっている君が,現在,博士課程への入学を考えているとのこと,私は嬉しく思います。将来的には,是非とも,博士号を取得した方が良いと私は思います。それは君の今後の人生に,計り知れない大きな意味をもたらすと,私は断言出来ます。
君も憶えていると思いますが,私は高専に在職中に,学生諸君に「高専卒だけで自分の人生を決めるな。大学へ編入せよ。」,「世界は,まだまだ広いのだ。自分の人生を,もっともっと,大きく考えよ。」と,鼓舞していました。「勉強はもう飽きたから,早く就職して月給をもらいたい。会社への推薦状を書いて下さい。」などと言ってきた学生を,若かった私は,叱りつけて追い返したこともありました。
石田研究室のOBからは,Ph.Dがすでに4名誕生し,また,私が担任したクラスの中の学生や,特に親しかった学生諸君をも含めると,博士号を取得した者が20名近くいます。石田研究室OBの中で最初に博士号を取得した***君は,現在,ある私立大学の学長です。
高専に着任した当初から,私の目標は,自分が指導した学生諸君の中に,できるだけ多くの博士,修士,を輩出することでした。高専の学生は「いろいろな家庭の経済的事情」により高専に来たことを私は承知していましたが,それでも,私は,有能な彼等を「高専卒」だけで終わらせたくはありませんでした。 高専の学生の持つ無限の才能と能力を,もっと,もっと,私は引き出してやりたかったのです。そういう気持ちで,私は28年間,高専教員をつとめて退職しました。
博士号を取得したOBから時々来るメールを見ると,高専に在職中の私は,決して「良い教師」ではありませんでしたが,在職中の私の信条は,やはり正しかったと,今も思います。
なお,博士号の取得の意味は,日本とアメリカではかなり違います。それは,日本とアメリカでは「博士課程の教育」に対する考え方(システム)が全く違うためです。アメリカは取得希望者に対するスクーリングが中心の特訓型,日本は当人の研究成果に対する勲功型。そのため,例えば,”論文博士”などという制度はアメリカには存在しません。そして,博士論文の内容自体については,日本の方が上の場合もあるでしょう。
結局,博士課程について,アメリカと日本のどちらがいいかの判断は,学位取得後の当人が職場(企業や大学など)の中でどのように活躍できているか,によるでしょう。
かなり前ですが,ある大企業の幹部の方が「アメリカでPh.Dを取ってきた者なら採用するが,日本の大学の博士は要らない」と言っていたことを思い出します。日本の大学院教育を考えると,これは痛い指摘といえます。是非とも,頑張って,博士号を取得して下さい。
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初夏のキジ
May 7, 2017
気候が良くなったこの季節には,毎年のことながら,近所でキジの鳴き声が響き渡る。
「キューン,キューン」と必ず2回鳴く。
鳴き声がする方角を見ると,今日は田植え前の水田に,大きな雄のキジがいた。
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「独立国家としての日本」の改憲の論議
May 3, 2017
今日は憲法記念日。日本では,毎年この季節になると,憲法第9条に関する論議が再燃する。その事自体は,とても良いことだと思う。私は,以下のように思う。
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今日の日本に必要なのは,結局は,「独立国家の要件とは」という国民的な議論の開始ではないでしょうか。
日本の憲法第9条が,憲法の専門家により,「自衛の交戦権をも否定する」と解釈されるのであれば,また,それが法律の専門家の中での統一見解とされるのであれば,第9条は独立国家の憲法ではないと私は思います。しかし,今日の日本で,法律の専門家の中で,そのような統一見解が確立しているとは思えません。
戦争放棄や恒久平和を目指す日本憲法の精神自体は,もちろん,保守革新を問わず,誰もが賛成でしょう。一方,真の独立国家とは,「国外からの侵略を自力で撃退できる国」,すなわち,「自国民の生活と安全を自力で守り保障できる国家」であり,「武装中立の自信にあふれた国」のことでしょう。その見地に立てば,独立国家として,日本は自衛のための交戦権を有することを明示し,自衛隊をそのための国防軍として完備するべく,憲法第9条を例えば以下のように補足(改定ではなく)する必要があると私は思います。
「我が国は,主権国家としての交戦権を有する。ただし,そのための武力行使は,自国の領土,領海,領空が侵略され,自国民の生活と安全が脅かされた場合に限る。」
これであれば,国防軍としての自衛隊の存在にも,なんら法的な齟齬がなく,独立した主権国家の平和憲法として,あれこれの解釈の違いが払拭されるのではないでしょうか。また,国際的にも普遍的な理解が得られるでしょう。
結局,憲法第9条に関する論議は,日本の国防をどうするか,の論議に帰着されると思います。「米軍基地は,日本から出て行け」と主張するのはやさしい。しかし,その主張の背後に,日本の国防政策についての思考停止の影を,私はいつも感じるのです。 1960年代末から70年代に,当時の社会党は,日本の将来像として「非武装中立」を公言していましたが,「危機には座して死を待て」と国民に要求する政党に国政を任せることは出来ません。独立国としての日本の自衛権を認める一方で,現行の憲法第9条をこのまま守る,とする共産党の従来からの主張は,明らかに自己矛盾であり論理破綻ではないでしょうか。
「本当に米軍基地が日本から無くなったら,中国や北朝鮮からの威嚇,沖縄,南西諸島,南方諸島などの安全と防衛,尖閣諸島の守備防衛,千島列島の返還,などについて,日本は自力で対応できるのか」について,どの政党も自信ある政策を示せない。 憲法上「交戦権の否定」の制約を受けるとされる自衛隊と,海上保安庁だけで本当に日本を防衛出来るのかについて,今日,どの政党も責任ある具体策を示せず,さらに,日本の「国防の完備」の議論から逃避しているように,私には見えます。それどころか,従来から,「米軍基地反対」の声は,しばしば「自衛隊反対」の声と合体しています。 それは自国の国防の完備についての思考停止と無責任を示して余りあるのではないでしょうか。
日本の国防政策と現憲法との関連が充分に国内で議論されておらず、日本政府もそれを避けたまま,憲法改定を鼓舞することは,当然,「日本の弱み」として,アメリカ政府は以前から看破しており,それが,日本を「密約」で縛って平然としていられるアメリカの自信ではないでしょうか。
不当極まりない日米地位協定の中でも,第17条、第5項の(C)「日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員又は軍属たる被疑者の拘禁は、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行なうものとする。」は,日本の政治と政府が,アメリカ政府にその足元を見られて馬鹿にされている証拠の最たるものでしょう。
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保険会社への対応
May 2, 2017
記事「弁護士が車に轢かれた結果を晒してみる」は,大変に参考になる。
要するに,保険会社の回答をそのまま甘受してはならない,まずは,保険金請求者として納得の行く説明を保険会社に要求すべし,保険会社を決して甘やかしてはならない,ということである。
保険を勧誘する時は,保険会社はあれこれの利点や安心できそうな補償内容を提示する。しかし,いざ,事故になり,それによる補償を請求すると,その補償金額は意外なほどのひどい低額。それどころか,支払い拒否などの回答が来ることさえある。
”保険金の請求者が会社であれば,こんな回答はしないはずだ”と思えるような回答を,請求者が個人である場合には出してくることがある。保険会社は”個人の請求者”を舐めているのである。私は,保険金の支払いを受けたことが過去に3回ある。
雪道で停車中に,対向車がスリップしてぶつかって来たときは,私の過失割合がゼロなので,修理金額の全額を相手の保険で支払わせた。
スーパーの駐車場で私の車が停車中に,ある車が軽くぶつかってきた時は,その車の運転者が全面的に非を認め,私の自宅に菓子折りを持って謝罪に来た。ところが,保険会社の担当者は「駐車場は公道ではないので,道路交通法が適用されず,過失割合をゼロには出来ない,よって,あなたの過失割合を3割にしてくれないか」とのこと。「とんでもない,相手が非を認めており,私の車の過失はゼロだ」と言ったが,結局は,私の過失割合を2割に下げ,相手の保険と私の保険とで,双方が補償し合うことになった。
その担当者が永年の付き合いのある人だったので,私は妥協することにしたが,今,思い出すと,やはり「私の過失はゼロだ」の主張を維持するべきであった。
ある高齢の男性が運転する車が赤信号を無視して交差点に突っ込み,私の車の横に衝突した。その男性は,全面的に非を認め,その日のうちに私の自宅に菓子折りを持って謝罪に来た。警察による事故証明でも,もちろん,私の車の過失はゼロ。
車の損傷が大きいので,修理はせずに全損として,私は相手の保険会社に対物保険による賠償金を請求した。ところが,新車で購入後4年でしかない私の車の時価評価額を,保険会社は,著しく低く見積もった補償金額を提示してきた。走行距離も少なく事故歴もない車なので,私はそれを拒否し,交渉したところ,最初の5割増しの補償金額を提示してきた。この辺が落とし所かな,と私は妥協した。今思えば,快調な車の全損であるから,もっと,補償金額を上げるべく要求するべきであった。
ある小さな会社の事務所が,石油ストーブの不具合が原因と思われる火災により全焼した。その社長が火災保険金を保険会社に請求したところ,保険会社が保険金の支払いを拒否したので,社長は弁護士に相談した。 その弁護士が私に提示した保険会社の回答書を見て私は驚いてしまった。「当社が調査した結果,保険金を支払うべき事項には該当しない。請求者が自分で放火した疑いもある。もし,この決定に不服であれば,裁判を提起されたい。」という趣旨の,わずか数行の文面である。
この社長が驚き,怒ったのも無理はない。この保険会社は,請求者が小さな会社の個人経営者であるために,足元を見て馬鹿にしていることがひと目で分かった。明らかに,裁判費用を負担させる恫喝により,保険金の受領を諦めさせるのが目的のように私には思えた。
この件は,出火原因と思われる石油ストーブが保険会社により勝手に持ち去られ,あれこれ手を加えられてしまったので,私としては原因の究明ができない,と答えるしかなかった。
なお,地震により町内に火災が発生し,それにより自宅が焼失した場合でも,通常は,別途の ”地震保険” に加入していなければ,火災保険金は一円も支払われない。また,仮に火災保険の中に ”地震保険特約” を付加していた場合でも,その補償金の支払いの審査は第三者によるのではなく,保険会社自体が行うために,火災保険金額の3~5割程度しか補償されない。これほど,民間人をバカにし,舐めているのが保険会社であるから,保険の勧誘員には,十分な説明を求め厳しく追求するべきことは,一般庶民の知恵であり常識としなければならない。
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新入社員に向けた言葉
April 27, 2017
「新入社員の皆さんへ」と題する記事(朝日新聞「経済気象台」)がとても面白い。若者を見るこの筆者の温かい心が伝わって来る。こういう大先輩が職場にいたら,そこの新入社員は幸せだろうな,と思う。
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今村復興大臣の発言と辞任
April 26, 2017
友人がブログの中で,以下を述べている。私も同感である。
彼が言うように,この「暴言」を産み出す国策を問題にしなければ本質を見逃すことになる。 今村氏一人を悪者にして(トカゲの尻尾を切って),逃げようとする原子力ムラや安倍政権側を見逃してはならないと思う。
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「原発事故自主避難者の帰還、避難継続は自己責任で」との今村復興大臣発言は許しがたいと思ったが、彼が更迭されることはなかった。
今回「(大地震の発生場所が)東北で、地方だったからよかった。これがもっと首都圏に近かったりすると莫大な、甚大な被害があった」と政権党の《本音》を代弁しただけの彼が、何故その発言の責任を取って更迭されなければならないのかがわからない。
逆説的な言い方をするのは、安倍晋三氏や原子力村の住人をはじめとして、国策として原発を推進してきた者たちは皆同じ思いで、原発はやっぱり巧みに「僻地」に押し付けておいてよかったと、東北大震災・福島原発事故後に安堵の胸をなでおろしたのではないのかと思うからだ。お上のやることにイチャモンをつけるフリーのジャーナリストに対し、「出て行け!二度と来るな!」と一喝するツワモノだから今村ファンも多いだろう。
東京電力の原発が何故東京湾になくて福島や柏崎にあるのか? 関西電力の原発が何故大阪湾になくて福井高浜にあるのか? 安全神話など神主の唱える祝詞(ノリト)程度のおまじないの言葉、実はヤバくて危険極まりないものであるという共通認識が原発推進派の中に厳然としてあるからである。「万が一」のことがあっても日本国の政治・経済の中枢部分は安泰でいられるからである。 事実、「万が一」のことが福島で起こったのだが、ゴーストタウンに等しい広大な「帰宅困難地域」にぺんぺん草が生えるにまかせ、福島の民を犠牲にしながら日本は曲がりなりにも経済的に機能している。
毛細血管の詰まり=若狭や越後や東北の事故は、「まあこの際、やむなし」とはできても、大動脈=大都市圏を危険に晒すことはできない、つまり、手足の1~2本失っても”命に別状”はないが、内臓が破裂すれば命はない。単純明快、ただそれだけのことである。
この認識に立てば、今村氏の「東北でよかった」発言は何ら間違ってはいない。この「暴言」を産み出す国策を問題にしなければ意味がない。
(新聞に東北を馬鹿にするな!の見出しや東北差別なる語が躍るが、目くそが鼻くそを笑ってどうするのだ。失礼ながら、今村氏の選挙区佐賀も「手足の1本」にも加えてもらえない土地だと思う。玄海原発の大事故で佐賀が壊滅的な被害を受けても彼は同じ発言ができるのか?)
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研究において,AIは人間に勝てるか。
April 25, 2017
有名な物理学者の大槻義彦先生(早大名誉教授)は,最近,ブログの中で,以下のように述べておられる。
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つい先ごろ、日本の論文誌Journalに、AIに物理学の研究をやらせた論文が出ました。 さまざまなトポロジー的形状の物体のどのあたりが金属になり,他のどの部分が絶縁体になっているかをAIに解かせたものです。
これまでなら,博士課程の大学院生二人ぐらいに3,4年かけて計算させたものです。それをそんなに巨大でもない普通のコンピューターのAIソフトでディープラーニングさせることであっという間に解けてしまったのです。
若手の研究者よ、さあ、どうする?--
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大学院生になったばかりの若い研究者であれば,誰もが一度は痛感することは,先達による多くの優れた研究成果の中から「未解決の課題を見つけ出す難しさ」であろう。平凡な大学院生に過ぎなかった私には,それが痛いほど良く分かる。
偉大な先達が残した多くの優れた研究成果を,まずは理解しようとする努力(勉強)に加えて,それを「理解できる能力」が求められ,さらに,先達が残した多くの優れた研究成果の中に潜んでいる「未解決の課題を発見する」ための力量が求められるためである。私は以前に下記の言葉に接したことがある。
Many great scientists owe their greatness not to their skill in solving problems but to their wisdom in choosing them (E.W. Wilson, Jr.).
偉大な科学者の偉大さとは,問題を解決した当人の能力ではなく,その問題を当人が発見した(選択した)ことにある,というのである。
「課題が設定され,それを解く」という段階になれば,人間よりもAIの勝ちになるかもしれない。だが,「未解決の課題を発見し,それに自分が挑戦しようと決断する」ことは,人間だけが出来ることである。それはAIには不可能であろう。
よって,若い研究者が挑戦すべき仕事は,まだまだ,たくさんあると言えよう。今日の若い科学者の未来は,まだまだ,決して暗くはない。
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日本は基礎研究を軽視していないか
April 17, 2017
この3,4年間で国立学校教員への配分校費が急激に減額されている。そのため,国立大学,高専では,多くの教員が自分の研究経費の獲得はもちろんのこと,研究室の運営経費の維持にも苦しんでいるようだ。 文科系はもちろんのこと,理工学の基礎系でも、特に非実験系の分野の教員は、民間からの研究助成金も獲得できにくいらしく、かなり苦しんでいるようだ。
その一方で、防衛省が募集する研究助成費は急増している。日本に、「大学へ回すお金がない」わけではない。結局,これは「実用性のない研究は,もはや不要」とする国策なのだろう。確か1,2年前に,大学における文系学部は不要だ,とする意見が文科省から出て,大学人から猛反発が出たことがある。
この状態がこのまま続くとすれば、3,40年後くらいには,もはや日本からノーベル賞受賞者が出なくなるかもしれない。特に基礎学問分野の研究者の多くが,今まで以上に,アメリカなどへの脱出を選択することになるかもしれない。
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歴史の汚点「教育勅語」の復活を目指す者たち
April 11, 2017
「良いことも書いてある」,「憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」,「一義的には教員、学校長の権限」。
これらはすべて,日本の歴史の「重大な汚点」である「教育勅語」についての認識不足。「憲法や教育基本法に反しない形で教材として活用」とは具体的に何か,安倍首相自身がそれを国民に説明しなければならない。それが出来ないので(当人の歴史認識が単純で粗雑なので),ボカして逃げているように私には見える。 むしろ必要なことは,「教育勅語」なるものを,戦前の日本の教育現場における「重大な汚点」の証拠として,今日の教育現場にて子供たちに提示することだと私は思う。
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「教育勅語 憲法とは相いれない」朝日新聞社説(2017年4月11日(火))
政府の容認姿勢が、教育現場への「復活」を後押しするのではないかと危惧する。
義家弘介・文部科学副大臣が、教育勅語を幼稚園などの朝礼で朗読することについて、「教育基本法に反しない限りは問題のない行為であろうと思う」と国会で答弁した。教育行政に責任ある立場の発言として、不見識だ。
改めて確認したい。教育勅語は、憲法が定める主権在民とは相いれない。憲法施行の翌48年、国会は排除・失効の決議をした。それは国民主権の国として歩む宣言でもあった。
歴史資料のひとつとして使うのなら理解はできる。だが、朗読は、教育勅語の暗唱を求めた戦前・戦中の「修身」に通じる。今後、道徳を含む幅広い科目での活用を黙認することにつながりかねない。
安倍内閣は先月、教育勅語について「憲法や教育基本法に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を閣議決定した。朝日新聞は社説で、なし崩し的な復権だと強く批判してきた。
その後、松野博一文科相は道徳の教材として使うことを否定せず、「一義的には教員、学校長の権限」と説明。菅義偉官房長官も「それぞれの現場で判断すること」と述べた。
解せないのは、では憲法や教育基本法に反しない形での活用法とは何なのか、政府が具体的な説明を避けていることだ。
教育勅語は、「朕(ちん)(明治天皇)」が、「臣民(国民)」に守るべき徳目を示している。いざというときは「皇運」に尽くせと国民に迫る内容だ。同じ明治期にできた軍人勅諭と共に、戦時中は国民を総動員体制に駆り立てる支えともなった。
そうである以上、「負の歴史」として教材にする以外に活用の仕方は考えにくい。それを明言したくないから、説明を避けているのではないか。これでは使ってもいいとの空気だけが教育現場に広がってしまう。
疑問の声は与党内にもある。私学教育にも携わる自民党の船田元・衆院議員は自身のブログで、政府答弁書について「戦前の軍部や官憲による思想統制の道具とされてしまったことは言うまでもない」とし、「『憲法や教育基本法に反しない形』で教育勅語を教材に使えるのだろうか」と疑問を呈した。 こうした声に、政府はどう説明するつもりか。
来年度から義務教育で段階的に道徳の教科化が始まる。「修身」の復活につなげてはならない。
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冤罪事件と検察官,裁判官
February 27, 2017
大阪の東住吉事件について,下記の記事が出ている。
客観的に見て,明らかに間違った判決文により,二人の人間が無期懲役とされて20年間も服役させられた事件である。
下記の記事は当然だと私は思うが,一方で,起訴状に沿い,でたらめな”こじつけの鑑定意見書”を出して平然としていた”大学教授”の存在を思い出すと,私は腹立たしくもなる。
今日の日本で,冤罪を主張している事件は,他にもたくさんあるが,その根源は,”起訴はされたが無罪判決が出た”という場合を”検察側の黒星”と見なす考え方の誤謬性にあると私は思う。検察官としては,普通に職務を遂行していたのであり,検察官として事実関係を調査して起訴を決定している。そのため,裁判官から無罪判決が出たとしても,それは”裁判の結果”であり,”起訴自体が間違っていた”とは,必ずしも言えないであろう。こうした認識が個々の検察官と検察の世界に定着すれば,冤罪事件は激減する,と私には思える。
袴田事件のように,明らかな反証が出てきても何が何でも再審に反対している検察側の姿勢には,無実を訴えている被告の人権尊重よりも,”先輩検察官が起訴して有罪判決を導き出した事実を,ここで否定する訳にはいかない”とする,”検察官のプライド優先”の姿勢が鮮明に出ていると思う。
今日の日本の検察官や裁判官は,袴田事件(1966年)の当時には,まだ生まれてもいない,あるいは,まだ小学生であった方々が,もはや大半なのである。
被告から冤罪の訴えが出たとき,弁護団から客観的な証拠をもとに再審請求が出されたときには,”過去における先輩検察官や裁判官の判断”をまずは,棚上げし,再審請求人の主張に真摯に向き合うことが,検察官や裁判官に求められる。
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最高裁裁判長が「冤罪」意見
大阪女児焼死、故滝井氏
昨年8月に再審無罪となった大阪市の小6女児死亡火災で、母親青木恵子さん(53)の無期懲役がいったん確定した2006年の最高裁決定を巡り、直前まで裁判長だった故滝井繁男氏が「全ての証拠によっても犯罪の証明は不十分」として一、二審の有罪判決を破棄するべきだとの意見を在職中に書き残していたことが26日、分かった。
共同通信は親しい関係者に引き継がれた書面を入手した。「滝井裁判官の意見」と題した24ページの構成。冤罪事件を巡って最高裁内で有罪に異論があったことを克明に記した異例の内容だ。
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81年前の月刊誌「小学6年生」
February 9, 2017
自宅の書物を整理していると,興味深い珍しい雑誌が出てきた。「小学6年生」の昭和11年11月号。定価 金50銭,小学館発行。 8年前に義父が亡くなった時,義父の多くの書籍を整理して自宅に運んできたが,その中に混じっていたようだ。
昭和11年(1936年)といえば,2月に2.26事件が起きた年である。軍国主義たけなわの時代であるために,この雑誌には小学生に向けた戦意高揚の読み物や記事が満載されている。さらに,一方,「高等師範学校訓導」の方々による「理科の研究」,「算術の研究」,「受験作文の研究」など,中学校受験の準備の記事も多くある。
また,模擬試験問題や「通信模擬試験問題成績発表」もあり,北海道から朝鮮,九州,満州国に至るまで,当時の日本全国の生徒(読者)の名前が出ている。読者通信欄には,全国の愛読者からの便りや,愛らしい顔写真もある。当時のこの本の読者が12歳の小学6年生とすれば,読者は大正13年(1924年)生まれであり,ご存命であれば今年は93歳となる超高齢者の方々である。
茶色に変色した81年前の月刊誌は,ページをめくるごとに当時の時代背景を鮮明に映し出す。また,今日の超高齢者の方々の少年時代を彷彿させ,微笑ましくもなる。
毎年のこの時季(2月)は,首都圏や大都市圏では私立中学校の受験シーズンの真っ最中である。小学生がこうした雑誌を愛読し,中学校受験に向けて勉強し,また模試を受け,そして受験する様子は,「日本の小学生」の昔も今も変わらない様態を改めて思わせる。
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周防大島と陸奥記念館
January 8, 2017
例年に比べて暖かい冬とはいえ,雪やミゾレの多い新潟から,輝くばかりの明るい別世界の瀬戸内海にある山口県の周防大島を訪問した。この景色と気候の良さは,ここが日本一の長寿の町といわれることを,なるほどと思わせる。同じ日本でも,新潟と瀬戸内海沿岸は,冬の気候には別世界と言える違いがある。
徳山駅で新幹線から山陽本線に乗り換え,柳井方面に行く電車に初めて乗ったが,車窓から沿線の景色を見ていると,懐かしい昭和30,40年代の新潟県のローカル線を思い出した。沿線の住宅の庭のミカンの木に,たくさんのオレンジ色の実がついている光景は,見る人に,新潟と南国との”冬の違い”を有無を言わせず強く印象づける。
周防大島の東端にある陸奥記念館を見てきた。戦艦陸奥は,1921年に完成したが,1943年6月8日,この島の伊保田沖の柱島水道に停泊中に,謎の大爆発により沈没し,総員1471名のうち生存者はわずか350名。1970年に,8年越しの引き上げ作業により,ついに遺骨,遺品,主砲など,船体の75%が引き上げられた。
引き上げられた遺品や資料を展示し,乗組員の冥福を祈り,戦争の悲惨さを後世に伝え,恒久の平和を願うために,この記念館が設立された。
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「黒い巨塔」最高裁判所(講談社)
Dec.19, 2016
久しぶりに,読み進むに連れて息詰まるような展開を見せる優れた小説を読んだ。最高裁判所の内情を元裁判官が描いている。
著者(明治大学教授の瀬木比呂志氏)が『絶望の裁判所』、『ニッポンの裁判』(共に,講談社現代新書)で主張してきたことを、小説という媒体を使って、より一層具体的に表現している小説である。著者の主張したいことを盛り込めるだけ盛り込んだ力作と言えよう。
この本はフィクションではあるが,著者の前記の2冊にも詳述されているように,日本の裁判官という職業は,がんじがらめの窮屈な勤務評価による管理社会の仕事であることをよく示している。原発訴訟に対する裁判所としての姿勢に関する最高裁事務総局内の人物の暗闘の凄まじさは,息詰まるような場面が続く。
日本の三権分立などという建前が,司法と行政については,全くの虚構であることが分かる。この本は,裁判官や最高裁判所の内部を知る(勤務の体験が有る)人でなければ完成できない内容と言えよう。
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夕陽の位置の季節変化
December 5, 2016
新潟市秋葉区の新津からほぼ真西に見える夕陽の日没位置の変化を,月ごとに追跡すると,とても面白い。冬至の頃には,弥彦山のさらに左の国上山へ行き,その後,U-ターンして右へ移動を始め,夏至の頃には,角田山を通り越して,はるか向こうの佐渡山脈に来る。その後,再び,U-ターンして左へ動き始める。
日没時の夕陽は,毎年,この両端を規則正しく往復するので,その位置により,季節(月)が分かる。はるか昔,小学校の理科で習ったとおりだ。
新潟の冬は,快晴の夕焼け空がめったにないので,残念ながら,12月15日から1月15日までの間では,きれいな夕陽を撮影できたことがない。今冬こそは,きれいな夕陽に巡り会いたいと思う。
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キューバ革命の指導者カストロ氏が逝去
November 27, 2016
2016年11月26日,キューバのフィデル・カストロ氏が逝去された。90歳。彼と彼の偉大な功績を思うと,私は深く弔意を表したい。
ちょうど20年前の1996年,国際共同研究のために,私はキューバの第2の都市,サンチャゴ・デ・クーバのオリエンテ大学にいた。キューバは,国は貧しくとも,人々は明るく,活気があった。それは,ひとえに次の3要因によると,私には思えた。即ち,カストロ首相の強い方針により,国民生活の中に以下を断行したことである。
(1)文盲の一掃,(2)教育の無料化,(3)医療の無料化
さらに,カストロ氏は,自身の偶像化を嫌い,自身の写真や肖像画を公共の場所に掲示することを禁じた。国は貧しく,人々の生活も苦しかったが,それでもカストロ氏への支持が高かったのは,これらの理由によるのだろう。
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トランプ訪問は情けない”土下座の詣で”
November 18, 2016
就任前の次期アメリカ大統領に,日本の安倍首相が,一体,なぜ急遽,参拝に行くのか。その理由が私にはさっぱり分からない。先進国と言われる諸国の首相が,そんなことをするだろうか。自主独立の国家の政府の首相として,自信があれば,まずは,就任後の新大統領の出方を見てから,日本政府として是々非々の態度を表明するのが常道であろう。こんな訪問をすることは,自主独立国家の首相として,恥ずかしくないのだろうか。
そもそも,トランプ氏は日本を知らない。政治に関与した経験もなく,世界政治の機微や駆け引きも知らない,一介の不動産業者である(そのために,あれこれの暴言が出る)。
”新大統領との信頼関係を築くために”訪問することにした....? 何という安直で馬鹿げた発想であろうか。「トランプタワーで会談が始まった」などというニュースを見ると,三流コメディの開幕のような気がする。 こうした日本首相の急な,理由の不明な訪問は,ますます,アメリカのみならず欧米の先進諸国に,日本は”アメリカの卑屈な子分”という印象を改めて強く与えることになろう。世界の先進諸国の政府は笑っているだろう。
日本駐留の米軍の維持費を日本は全額負担せよ?
馬鹿を言うな,日本国民がそれを認めると思ったら大間違いだ。それなら米軍は早急に日本から出ていってもらおう。それは,米軍と自衛隊の協力関係を解消することではなく,日本としては何の支障もない。むしろ,それにより困るのは貴国ではないのか。
TPPには反対だ?
それなら,日本の世論にも反対が多いから,一緒にTPPから脱退しようではないか。
こうした姿勢を,日本政府は自信を持って表明できなければならない。二国間の本当の信頼関係の姿というものは,相手国の状況をよく検討した上で,”何でも賛同”ではなく,相手国政府に,時には自信を持って苦言や助言を呈し,自主独立の国家の政府としての矜持を表明できることである。イギリス,カナダ,さらに,フランスなどのヨーロッパの先進国の政府とアメリカ政府との関係は,大いに参考になる。
普通に考えれば,それは当たり前であろう。人間関係も同じだ。自分の言うこと為すことに,何でもかんでも,”ごもっともです”と,相手が対応して来たら,相手が卑屈に見え,信頼も失せ,小間使いの子分にしか思えなくなるだろう。場合によっては,むしろ自分が相手から馬鹿にされているように思えるかもしれない。
おそらく,トランプ氏には,そして,オバマ政権にも,今回の安倍首相の突然の訪問は,まさに”詣でに来た卑屈な子分”として映るであろう。
「胸襟を開いて率直な話ができた。信頼関係を築けると確信できる会談だった。」
「同盟は信頼がなければ機能しない。トランプ氏は信頼できる指導者だと確信した。」
安倍首相の言葉として,これらの発言が伝えられているが,アメリカの政治家が日本政府を見る目は,そう単純ではない。安倍氏の判断は甘い。
トランプ氏とゴルフの道具やシャツの交換をしようが,再会を約束しようが,アメリカの重要な外交政策の中では,ロシア、中国、インドの存在の方が日本のそれに比べて遥かに大きいのである。よって,今回の安倍首相の急な ”トランプ詣で”は,体裁よくお相手してもらったに過ぎないと見るべきであろう。トランプ氏やアメリカ政府が受けた印象としては,日本の首相が,ペルーなどへ行くついでに,途中下車でアメリカに立ち寄ったにすぎない,ということであろう。
以前から少なからぬ識者がしばしば指摘していることであるが,アメリカはもともと”有事で日本を助ける”ことは想定しておらず,また,その義務もないのである。日本駐留のアメリカ軍は,アメリカ軍の極東戦略のために存在しているのであって,日本人を守るためではない。駐留アメリカ軍が日本で軍事行動に出るとすれば,それは,日本におけるアメリカ人とアメリカ軍基地が危険に晒された時だけである。
トランプ氏のみならず,通常のアメリカの政治家の中で,日本を良く知る人は少ない。
アメリカ社会の中では,中国やインドに比べて,日本の存在感は比較にもならないくらいに小さい。私の印象では,特に地方都市の一般市民の間では,それが顕著である。東京と北京の違いを知る人も少ないであろう。まして,日本の首相の名前など,議員の中でも知らない人が多いようだ。
20年以上前だが,アメリカの地方都市に滞在中,当時の日本の首相がアメリカ大統領を訪問した。だが,そんなニュースは,地元の新聞やテレビには全く出なかった。一ヶ月くらい後に入手した日本の新聞の記事により,私はその訪問をようやく知った。
こうしたアメリカ社会の現実の中で,日本政府が自主独立の国家としての存在感を表明するには,時間をかけてアメリカ政府と対峙し,アメリカの立場と国益に配慮しつつも,時には強硬に苦言や助言を呈することである。それが二国間の信頼関係の構築の過程というものであろう。
要するに,大統領選挙後間もないこの時期に,急遽,トランプ参拝をする安倍首相の姿勢は,”どうかお手柔らかに”の卑屈な ”土下座詣で”に過ぎない。
世界の先進諸国の政府の失笑を誘いかねない安直な”トランプ参拝”を,日本人の一人として,私は恥ずかしく思う。
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第49回信濃川Regatta
November 14, 2016
2016年11月13日,新潟市の信濃川で行われた毎年恒例のボートレース(第49回毎日杯争奪信濃川レガッタ)。名前は立派だが,出場クルーはすべて新潟県のクルーというローカルな大会。当日は,晩秋の新潟には珍しく,青空の下,風なし,波なし,という絶好のコンディション。
私は,新潟ローイングクラブ(手前のクルー,平均年齢62歳)のメンバーとして参加し、ポジションはエイトの整調(右端の操舵手のすぐ左)。
スタートして間もない頃はRowing が安定していたが, その後は,他の2クルーにどんどん抜かれ,結局は3位でゴールイン(出場クルーは3チーム!)。
観戦していた人からは「きつそうな1000mレースでしたね」と言われた(労われた)。1位は新潟大学ボート部の現役学生クルー(平均年齢20歳),2位は新潟大学OB(緑悠会,平均年齢50歳)。
いやはや,昨日のRowingは,自分でも恥ずかしくなるようなオール操作であった。そもそも,船体のバランスが悪くて,まともには漕げない状態。レースの後には自分で自分が情けなくなった。
しかし,基本的には,練習不足と,自分の未熟な技術がその原因であり,年齢のためとは認めたくない。来年は,しっかり練習しようと痛感させられた次第。
とはいえ,楽しいレースであった。これから,冬の到来とともに,新潟では雪とミゾレと風の季節となり,Rowing が不可能なので,どのクルーも,来春のRowingシーズン再開の時まで,屋内トレーニングの季節に入る。
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アメリカの新大統領
November 9, 2016
アメリカの新しい大統領には誰がなるのか,それが,日本政府にとってそんなに大きな問題だろうか。
日本政府が,あれこれと対応策に迷っているとすれば,対米従属の,自信のない惨めな ”奴隷国家の馬脚” を世界に晒していると言えよう。ドイツ,イギリス,フランス,ロシアなどの諸国は笑っているだろう。
トランプ氏が当選した以上,TPPについては,その取り消しも含めた再検討がなされるであろう。米軍が沖縄から,さらに日本から撤退すれば,巨額の ”思いやり予算” が不要となり,沖縄に平和がもどり, 同時にまた,国防軍としての自衛隊の重要性が,日本国民の中に今まで以上に認識されることになるだろう。「自衛隊は憲法違反」と強弁する ”革新政党” は,ますます苦慮することになろう。
日本政府に ”独立国家としての自信” があれば,誰がアメリカの大統領になっても,それは大きな問題では全くないはずである。このことを明言するジャーナリストの記事の中の下記の意見は正鵠を射ている。
「本来、自分たちのあるべき姿のイメージがあって、それに対して相手はどう出てくるだろうかという話であるはずが、相変わらず「米国はどうなる」という話ばかりだ。日本自身のビジョンがまったく議論されていない。」
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展示物の火災
November 7, 2016
2016年11月6日,明治神宮外苑で開催されていたイベント「Tokyo Design Week(東京デザインウイーク)2016」の会場で、ジャングルジムのような木製の展示物が燃え、中で遊んでいた幼稚園児が焼死し,二人の大人も負傷した。
この報道における現場の画像を見る限り,燃え広がり現象における典型的な事例が想像できる。即ち,起毛のある可燃物(毛羽立った布地,フリース,カーペット,毛布,タオルなど)の表面に沿う火炎の広がりである。
火災現場のオブジェの骨組みの木材には,カンナ削りで出るような木クズがたくさん巻き付けられており,また,内部の床にはオガクズが敷いてあり,LED光源と白熱電球が内部を照らしていたという。おそらく,その白熱電球やLED光源が熱源となり,周囲の木クズに着火し,その熱(火炎)により骨組みの木材に巻き付けられた木クズにも着火し,火災に至ったものと思われる。実際,消火後の画像を見ると,骨組みの木に巻き付けられた木クズは燃え尽きているが骨組みの木は残っている。
起毛のある可燃物の表面に沿った燃え広がり速度は,通常の木材表面に於ける燃え広がり速度とは比較にならないくらいに極めて大きい。その詳細な機構はここでは省略するが,ごく簡単に言うと,燃え広がりに必要な可燃性混合気の発生速度とその発生量が格段に違うためである。さらに,今回の場合,木クズに着火した後に,木材に巻き付けられた木クズに沿って上方へ燃え広がっているために,その燃え広がり速度は極めて大きくなる。
燃焼現象の発生には,次の3条件がすべて満たされていなければならない。即ち,(1)可燃物と酸化剤が適量に存在すること,(2)充分な熱源があること,(3)直近に吸熱体がなく蓄熱できること,である。
これらのうち,一つでも不満足であれば,燃焼は継続しない。言い換えると,燃焼現象(火災)を防止するためには,これらのうちの一つでも不満足にすれば良い。
つまり,今回の火災原因の熱源が白熱電球やLED光源であるとすれば,光源の周囲の通気が良く,常時,光源が冷却されていれば,火災は発生しなかった,と私には思える。
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今日の過労死の本質
October 29, 2016
昨日(10月28日)の朝日新聞の記事「経済気象台」は,”過労死の本質”と題して,以下のように述べている。
「肉体労働の世界では,長時間労働は直ちに過労である。」
「しかし,頭脳労働の世界では長時間労働が直ちに過労であるとは単純には言えない。」「(頭脳労働では)極端に言えば寝食,休憩の間でさえも考え続けている。」
「「今回の女性社員の自殺は労災に違いないが,簡単に過労死で片付けては本質を見失う。長時間労働も問題だが,原因はそれだけではないだろう。」
「管理者による彼女の労働の成果に対する正当な評価や指導の欠如こそが本質なのであり,責められるべきは彼等の指導能力,体制なのだ。」
「我が国の労働の,おそらく過半を占め,さらにその割合を増していく頭脳労働における労災として,問題の本質を労働政策当局は間違えてはならない。」
わずか24歳の女性新入社員が自殺し,それは過大な残業時間を含む過重労働に原因があるとして労災の認定がなされた。東大を卒業して希望通りの一流企業に就職した一年後の結果がこれである。この会社では,数年前にも若い男性社員が過労死と思える自殺をしている。この会社の労働組合は,一体,何をしていたのだろう。
人の命を何だと思っているのか,こんな理不尽なことがあっていいのか,本人の親ならずとも,このニュースには,無性に腹立たしさを覚える。
全く,この記事のとおりだと私は思う。この主張は,30年以上にわたる,研究者の端くれとしての私自身の仕事から,良く納得できる。
一つの論文を作成している時は,寝ても覚めても,あれこれの考えが湧き上がってくる。考えていた時間,実際にパソコンに向かっていた時間,あれこれと書き直しを考え,試行錯誤をしていた時間。 これらを合算した”勤務時間”などというものが算出できるはずがない。
私の場合,年次有給休暇など消化したことはない。給与に残業手当など付いたこともない。それでも,”過労死” をせずに仕事をやってこれたのは,出来上がった仕事(研究論文)への客観的な評価と,それによる,自分の仕事の達成感があったためである。
人間であれば,”やらされてする仕事” では,長時間労働は過労となるだろう。しかし,”自分で設定した仕事” では,”長時間労働” などは過労の原因にはならないだろう。それは,時間で雇用されているか,仕事内容で雇用されているか,の違いと言っても良い。”労働の質” によるこの違いは,極めて大きい。
今後,日本の製造業の現場の多くがアジア諸国へ移転する一方で,日本では,IT産業の需要と競争が高まり,ますます,頭脳労働者が増えるであろう。その時には,日常の仕事が ”勤務時間内に終わる” などは有り得ない。雇用契約における ”勤務時間” を越えた残業が当たり前となり,”勤務時間” など無きに等しくなるだろう。その時代には,職場での拘束時間を撤廃して,社員の仕事の評価を成果主義とするのも一法だが,実際は,そう単純にはいかない。
こうした社会になった時に,社員の仕事をどう評価するのか,まさしく,上記の記事の通り,「管理者による社員の労働の成果に対する正当な評価や指導」の成否が重要な社会的課題になるだろう。新入社員に「君の残業時間のうち20時間分は会社にとって無駄だ。」などと言う者は上司たる資格がない,と私は思う。上司たる者の能力と資格が問われるのが今後の社会であろう。
頭脳労働者の過労死があるとすれば,それは,部下に無定見な仕事を与える一方で,正確な業務評価ができなかった上司の無能に原因があると思える。
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余りにも重い課題
October 27, 2016
私の高校卒業同期の友人が以下を述べている。全く同感であるが,余りにも鋭く,かつ重い課題であるために,私は頭を抱えてしまった。
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石巻市の大川小学校津波訴訟は最初から気の滅入るものだった。ひとつには言うまでもなく私もかつて学校を職場とする者の端くれだったからだ。
あの時、あの学校が私の勤務先であったら、あの状況下でどのような行動が取れただろうかと想像してみる。そもそも指揮命令系統も定かではないようなパニック状態の中で、児童を全員無事に避難させられたであろうなどという自信は微塵も持てない。恐らく右往左往するだけの周章狼狽の中で津波に巻き込まれていたはずだ。
事実、74人の児童と共に10人の教員が命を落としている(児童74名中4名は今も行方不明。当時の大川小在籍児童数は108人)。その10名も含め、児童の命を預かる立場としての教員の管理責任を問う、と喉元に刃を突きつけられたのが今回の訴訟である。
もうひとつには、地方都市の小学校区という極めて狭いコミュニティーの中で、濃密なものであったであろう地域住民間の人間関係が訴訟を巡って崩壊してしまう可能性が容易に想像できたからである。このたびの訴訟で原告に名を連ねたのは、74名の死亡・行方不明児童中、23名の19遺族。この数字が既に地域社会の人間関係に亀裂が入ったことをもの語っていると思う。
児童の命を守ろうと懸命に奮闘しつつ落命した10名の教員を被告としてその管理責任を問うことをためらった末に、葛藤しつつも訴訟には参加しない選択をした遺族も少なくないと考えられる。そういう重い課題を引きずりながらの訴訟であったが、仙台地裁は「津波の予見は可能で、教員は不適切な避難誘導をした過失責任がある」と認定、宮城県と石巻市に14億円の賠償を命じた。
福島第1原発事故をめぐって原発推進派の中に漂う「天災なのだから仕方ない。誰の責任でもない」と言わんばかりの雰囲気との落差には唖然とするが、現に教員の避難誘導に従って行動した児童たちが命を落としているのだから、私はこの判決を基本的に了とする。
ただ、この判決を受けて大川小学校区というコミュニティー内の亀裂はさらに広がり、修復不能なレベルにまで達するのではないかということが気になる。損害賠償請求の民事訴訟だから、宮城県と石巻市は原告に名を連ねた19遺族に対して仙台地裁が認定した賠償額を支払う法的義務が発生ということだろう。
逆に言えば、行政は原告に名を連ねなかった51名の児童の遺族に対してはその責を負わないことになるし、しかも現時点では民法上の賠償請求の時効が成立している(というのが私の理解なのだが、法的解釈としてこれでいいのかどうかは自信がない)。
恐らく行政は判決を不満として控訴することになるから、上級審の判断がどうなるかはわからないが、いずれにしても、誰もが「まさか」と思った大津波が、地域の結束を深めるよりは崩壊に導いた事例として歴史に刻まれるのではないか、という暗い予感がする。
メディアは「原告勝訴」という言葉で括るが、何故か虚しい響きがするだけだ。気の滅入る、重苦しい事案である。他方、シリアでは学校を標的とした空爆で22人の児童と6人の教員が殺されたとの報道。この責任は誰が取るのか?
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新しい新潟県知事への願い
October 22, 2016
高校卒業同期の友人が以下を述べている。私は,全く同感である。
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誰も予想しなかった米山氏の圧勝で終わった新潟県知事選。地元の興奮もようやく落ち着いてきた頃ではないかと思うが、そろそろ米山氏勝利の意味をより冷静に考えてみる時ではないかと思う。
原子力ムラや官邸筋等から今後米山氏に仕掛けられるあの手この手の圧力に監視の目を光らせなければならないと思うが、米山氏本人の言動をも注視し続ける必要があるだろう。
彼は,当初,原発推進派であったことは周知の事実で、福島の原発事故を目の当たりにして「考えが間違っていた」ことを認め潔くその政治的スタンスを”転向”させた方だが、泉田現知事同様に、彼は《脱原発》とは一言も言っていない。
泉田知事の路線継承、つまり「福島の事故の検証と総括が先で、現状では再稼働は認められない」が公約だったはずである。論理的帰結として、これは「諸条件が整えば再稼働もありうる」ということになる。つまり、福島事故の検証と総括が終わり、より高い安全性が確保され、事故時の避難計画も納得いくものが策定されれば再稼働に反対する理由がなくなるということを「論理的には」意味する。
米山氏を支援した野党3党は明確に反原発・脱原発の立場であり、投票所まで足を運び米山氏に1票を投じた有権者の大半も柏崎刈羽の再稼働などあり得ないという思いだったのではないか? 新知事の公約と民意との間の若干の齟齬がやや気になる。
新潟県民の民意を正確にアジェンダに反映させるのであれば、米山氏は知事就任と同時に「柏崎刈羽原発再稼働絶対阻止」=《脱原発》の姿勢を明確にしなければならないのではないか。
「原発の安全性の確保」などということは、机上の理論上はともかくとして、実際上はあり得ない話であることは明白だろう。たとえば重大事故時の避難経路と手段の確保。選挙終盤に30km圏内にヨウ素剤を配布するから安心せよという愚かな怪文書も配布されたが、柏崎刈羽で福島第1原発級の重大事故が起こればどれほどの数の被災民が避難を余儀なくされることになるのか?
「世界一厳しい日本の原子力安全基準」などという原子力ムラの宣伝文句もまやかしである。たとえば米国の安全基準に照らせば福島原発クラスの事故のでは基本的に50マイル=80km が避難対象で、事実、当時日本に在住・滞在していた米国市民はすべて本国からの指示で80km圏外に避難している。
日本地図をひろげ、コンパスを使って柏崎刈羽原発を中心に半径80kmの円を描いてみられるとよい。南西部は富山県境に達するし、東北部は新潟市を完全に覆いつくす(ちなみに80kmというのは福井高浜原発から宝塚までの距離。事実、原発大事故を想定した避難訓練で若狭の住民が宝塚市の末広防災公園までマニュアルに基づいて避難してくる訓練が実際に行われている。
30kmにしたところで上越の大半と長岡をはじめとする中越の主要都市はすべてが含まれる)。大事故が起これば、少なく見積もっても数十万の人間の Exodus が展開されることになる。それが越後の真冬の夜間であればどういうことになるかを想像してみられよ。配布されたヨウ素剤を握りしめ、北西の季節風吹きすさぶ中、平野部で1~2m、山間部で3~4mに達する積雪の凍てつく道を、先を争うように峠を越えて隣県にどうやって避難しろというのか?
全員の安全避難など絶対に不可能である。東電はそういうことは百も承知の上で、安全神話を振りまき、地元行政のトップやボス連中のほっぺたを札束でひっぱたくようにして誘致話を進めたのだとしか私には考えられない。避難計画の策定そのものがお笑い種ではないか。
柏崎刈羽原発の再稼働など、決してあってはならない話なのであって、《廃炉》以外に選択肢はない。20年ほど前に巻町(当時)への原発誘致を住民投票で阻止し、全国がその賢明な選択を称賛した土地である。あの時の住民の思いが今回の知事選結果に連動していることを思えば、新知事が《反原発・脱原発》の立場を鮮明にすべきことは当然だと思う。
今後加速されるであろうあの手この手の”新潟いじめ”、「そら見たことか」の反知事派の大合唱の中で、米山氏が”音を上げる”ことのないことを祈っている。
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留年する学生の事情と心理
October 19, 2016
京都大学の学生総合支援センターのカウンセリングルームが出している「学生さんへ」
が話題になっているようだ。
悩み,苦しんでいる少なからぬ若い学生たちにとって,何と温かく優しい呼びかけだろう。悩み多く暗かった自分自身の学部時代を私は思い出してしまった(嫌な思い出にフタをして,もはや脳裏から払拭していたつもりであった)。 一体,この呼びかけは,どんな人が書いたのだろうかと,ふと考えてしまった。
高専の場合,学生の留年の要因は,私の印象では,高専入学後に学生が受けた ”期待はずれ” の印象と,入学後に自分の進路に悩む ”高専不適応症候群" によることが圧倒的に多かった。そして,それが勉学意欲の喪失と学力不振を加速していた。つまり,高専の留年者は,みな高専を知らないで入学した ”高専に騙された犠牲者” であったと私は思う。
この呼びかけの内容は,とても大事なことだと思う。これに救われた学生はたくさんいるだろう。人間は,七転び八起きである。日本人であれば,普通は80年以上もある人生なので,自分を長い目で見て,ゆっくり生きるのが良いと,私は思う。
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新しい新潟県知事
October 17, 2016
新潟県に新しい知事が誕生した。原発の再稼働に慎重な姿勢を公表している候補が,選挙告示の直前に立候補を表明したが,その彼の主張が県民に支持されたといえる。
新潟県第2の大きな市である長岡市の市長を5期,更に全国市長会の会長を務めた対立候補を退けての当選である。 この選挙結果を私は歓迎したい。
新潟県民にとって,これほど注目を集め,意見が二分された県知事選挙は,私の記憶では過去20年以上ない。その最大の要因は,もちろん,柏崎原発の再稼働の是非である。
今回の選挙は,自民,公明の両党としても,再稼働を目指して,”国の言うことを聞く候補”を支援したが,しかし,一方,国政レベルの複数野党も一致協力してそれに対抗した。その結果,新潟県民の判断のもとに,原発の再稼働に慎重な新しい知事が誕生した。
マスコミも,”この知事選挙は予想外の展開になるかもしれない”と報道した。投票日の前日の日刊ゲンダイ(10月15日)の記事は,「原発天王山選挙 新潟県知事選 最終情勢はまさかの展開」と題してこう述べている。
「再稼働反対の光が新潟から消えたら、この国はオシマイ。安倍政権はどんどん暴走する。新潟県民の選択が日本全体の行く末を握っているといっても過言ではないのだ。脱原発を望む大多数の国民が県民の賢明な選択を祈っている。」
新しい知事に対する新潟県民の期待は極めて大きいと言えよう。一方,当然,自民公明から,更に東京電力から,新知事に対する陰に陽にの圧力と抵抗も一層続くであろう。鹿児島県知事に対する九州電力や安倍内閣の凄まじい抵抗を見ればそれが十分に予想出来る。
しかし,49歳というまだ若い知事は,県民の期待を担って公約を守り,仕事に邁進してほしいと私は思う。
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また出た,あのキャンペーン
October 14, 2016
今日(10月14日)の新聞に入っていた「新潟を再生する会」の知事選ビラには驚いたが,一方で,原発再稼働についての姿勢が不可解であるために追い詰められた候補の ”窮地に陥った断末魔のあがき” と,私には思える。
「県庁に赤旗が立ってもいいのか?」という文言は,かつて,東京都知事選で革新候補を攻撃するために使われた文言と全く同じ手口である。このような大人気ないビラは,むしろこの陣営が推す候補の人格と品格を貶める,逆効果であることを分からないのであろうか。
裏面にある「原発の安全について」は,誰が知事になっても行う当たり前のことだけであり,東京電力への対応策が何も示されていない。県民に対する真摯な姿勢ではない。
仮に,この候補が当選したとしても,この候補の陣営がこのようなビラを出した事実は,県民の中に記憶として永く残るであろう。
明後日は投票日である。夜には新しい知事が決まる。
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新潟県知事選挙の最大争点
October 9, 2016
投票日まで,あと一週間となった。その結果がどうあれ,今回の新潟県知事選挙は,全国的にも注目を集めている重要な選挙である。最大の争点は,再出馬を断念した現知事が死守している「東電の無責任な現状では,柏崎原発の再稼働は不許可」の姿勢が,新知事により崩れるのか否か,であり,この争点は,安倍内閣と電力業界による,有無を言わせぬ”原発再稼働の推進勢力”と,原発を有する県の知事として県民の生命と安全を本気で守る姿勢との対決と言える。
ここで,原発について,冷静に考え直してみよう。まず,第一に言えることは,原子力発電は経済的にも不合理ということである。このことは,エネルギ政策を検討する上で,極めて重要なことである。
現在の日本の電力供給事情を見てみると、実は、原発がなくても全く大丈夫なのである。福島の事故以来の5年間の日本の電力供給状況がそれを証明しているのである。電気製品の省エネルギ技術は日々進歩しており,また,自然エネルギー、とくに太陽光、風力エネルギーの利用が急速に進んいる。今日ではこれらのエネルギーが増えており「送電線がパンク状態」と発表されている。 電力会社の元社員は以下のように語る。
「70年代のオイルショックの後で「油断」という小説が売れた頃から、「電断の危機」という言葉は明確な意図をもって使われてきたと思います。
代替エネルギーの開発スピードも重要な課題ですが、それ以上にこの電断の議論を左右してきたのは電気事業法に守られた地域独占体制であることを忘れてはならないと思います。
日本中の産業コンビナート地帯には大規模な発電能力があります。産業用の自家用発電所です。もちろん各工場の操業のための装置なので、そのまま一般家庭用にカウントできるものではありません。ただその余剰電力が活用できれば大きな戦力になる可能性があります。
これまでは2つの制約がありました。「一般向けに安定的に供給できるのか」という点と、「電力需要の変動に対応できるか」という点です。電力自由化の波とスマートグリッドの技術革新により以上の2点の障壁をクリアできる可能性が出てきたと思っています。こういう面がきちんと検討されているかどうかについても情報公開を要求し、透明性を確保していくことが重要です。」
では、電力会社や経済界が、それでもなお”原発の再開”を要求するのはなぜか。何の事はない。電力会社の経営陣が「原発は利益率が高い」と誤解していることに加えて,経済界による近視眼的な安手の商売根性がその根底にある。
2016年3月に,大津地裁は関西電力高浜原発3、4号機の運転差し止めを命じた。それに対して,関西経済連合会の角和夫副会長(阪急電鉄会長)は会見で「なぜ一地裁の裁判官によって国のエネルギー政策に支障をきたすことが起こるのか」、「憤りを超えて怒りを覚える」と語ったという。
報道によれば,再稼働による電気料金の値下げで、阪急電鉄だけで年間5億円の鉄道事業のコスト減を見込んでいたようだ。関西にはパナソニックやシャープ、中小企業の集積地がある。「関西全体ではかなり大きな影響になる」と見込んでいたようだ。要するに,原発地域の住民の命よりも,自分の会社の目先の利益が大切ということだ。
しかし,2年前、関電大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じた福井地裁の判決は,「多数の人の生存に関する権利と、電気代の高い低いの問題などを並べて論じること自体、法的には許されないことである」との趣旨を述べている。普通に考えれば,裁判官でなくても,それは当たり前である。
現在の原発の技術水準では、原発導入による実際の収支は悪い(導入のメリットがない)ことが判明している。 つまり、莫大な建設費用、燃料廃棄物の処理費用(その処理方法さえも今だに未解決問題)、安全対策費用、事故後の莫大な補償費用と大規模な放射能汚染,事故が起きた直後における地域住民の安全の確保などが全く未定であること,などを考慮すると、現在の原発の技術水準では、原発を決して再稼働してはならないのである。
(なお、現状の原発を否定することは、「原子力エネルギの利用」そのものを否定することではないことは、勿論である。 今後,放射能に危険がないような、あるいは抜本的に少ないような、新しい原発、例えばトリウム改良型、核融合などの研究開発を推進すべきであると,物理学者は主張している。)
今回の知事選で,自民党の推薦を受ける候補者が述べている「規制委員会の意見を考慮しつつ,県の判断を尊重して,県民の安全を第一に対処する」などという姑息な逃げ文句を,新潟県民は決して許してはならないと私は思う。”県の判断”など,自らが任命した諮問委員会による ”答申” により,如何ようにもできる。
”県の判断”ではなく,”県知事の判断”が問われているのだ。 誰が県知事になっても,”県民の安全を第一に考える”のは当たり前ではないか。「東京電力自身が”責任ある安全管理体制”を確立し,それを県知事が納得するのでなければ,柏崎の原発再稼働は不可。」という明確な姿勢を公開できる者が,新潟県知事でなければならない。
現在の技術水準のままでは、原発は採算的にも全然合わない。 ドイツをはじめヨーロッパでは脱原発をめざしている。今日の日本では,建設後40年以上過ぎた原発を原則的に廃炉とする動きが広がっている(だが,その「原発40年規制」を骨抜きにしようとする安倍政権への危惧を指摘する声もある。2016年4月21日,朝日新聞 社説)。日本原子力発電は,廃炉事業を専門とするアメリカの会社(エナージー・ソリューションズ)から廃炉技術の導入を決定した。
熊本大分大地震の余震が続いている現在,鹿児島県知事が川内原発の再稼働に慎重な姿勢を示している中で,それを無視している九州電力,さらに,”川内原発は大丈夫”と強弁する担当大臣の姿は,県知事を舐めているためであり,それは安倍内閣による後方支援があるためである。
今回の新潟県知事選挙で,自民党の推薦を受ける候補者が,柏崎原発の再稼働に対する”知事としての態度”をあえて公開しないのは,やはり,こうした後方支援があるためと思える。
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沖縄・辺野古の米軍新基地建設についての裁判
September 18, 2016
このような判決は,もともと,予想通りである。
日本では,個々の裁判官の出す判決文は,最高裁事務局が入念に検討し,国の方針に異を唱える判決文を作成した裁判官は,早々に異動(配置転換)させられ,遠隔地の地方裁判所や家庭裁判所へ回される(もちろん,当人の昇進と昇給にも影響が出る)。10年毎の再任審査により,当人を任期満了として解雇することも出来る。
こうした日本では,そもそも,本件のような内容を裁判に訴えることは,国民の中に大きな問題提起をすることは出来ても,原告が望む結論を得ることは,始めから不可能なのだ。
それは,担当の裁判官に,”意を決して正義の味方になれ”,”人生信条を変えて,危険な橋を渡れ” と要求するようなものだ。家族を抱える普通の人間である裁判官にそれを要求することは,土台,無理なのだ(原告団もそれを分かっているはずである)。
過去の判決事例を見ると分かるが,冤罪であることを示す判決文や,国の行政内容を違法とする判決文を作成できるのは,もはや配置転換や人事査定などを気にする必要のなくなった,定年間近の裁判官が多い。訴訟の当事者は,担当の裁判官を選べない(制度としては,裁判官の忌避が出来るが,それは極めて特殊な場合である)。
結局,本件は,沖縄の基地移転についての大きな問題提起をし,日本国内の関心を改めて集めたことに,最大の意味があったといえよう。裁判官の置かれている実状については,下記を見ると良く分かる。
「司法官僚」新藤宗幸著(岩波新書,2009年8月)
「絶望の裁判所」瀬木比呂志著 (講談社現代新書, 2014年2月)
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第24回 阿賀野川Regatta
September 9,2016
9月4日(日)は,恒例の”阿賀野川レガッタ”(ナックルフォア:4人漕ぎ)に初めて参加した。
新潟県阿賀町の津川地区を流れる阿賀野川には,日本ボート協会公認のボートレース会場がある。これは,私が高校一年の時(1964年)に,新潟国体のボートレース会場として造成され,その後,改良が加えられて,今日の立派な会場になったものである。
今年は,熟年男子の部で,”アンチエイジング”という名のチームの一員として参加した。平均年齢60歳。予選と準決勝をくぐり抜け,決勝に進み,4位となった。3位との差は僅か0.29秒。
脊柱管狭窄により,両足のシビレが続くが,マイペースで,ボート,ランニング,山歩きなどで健康を維持しようと思う。
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日本人が英語を学ぶということ
September 7, 2016
高校の卒業同期の友人(元,高校の英語教師)が,ブログ(2016年9月6日)で以下を述べている。私は,全く同感である。
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いよいよ英語が小学校から必修になるようだ。あちらこちらに雨後の筍の如く「キッズ英会話」の看板が上がり、入校受付には列ができている。また英語教育論争がにぎやかになるのだろう。
大手商社に就職後大半の日々を海外勤務で過ごして帰国した者、豊かな海外留学経験を持ち、客員教授として欧米の大学で長い間教鞭をとった経験を持つ者、若い頃欧州を中心に気ままな放浪暮らしを送った者等々、私の友人たちも多士済々で、それぞれが経験に基づく英語教育論を持っているだろうと思う。
さらに、「正解はひとつ!」ということでもなさそうなのでこの種の論争はいつも噛みあわない。私は留学どころかホノルルに1週間ほど旅行しただけで英語圏で暮らした経験さえない、つまり終始日本語の文化圏に身を置いて英語に取り組みながら40年以上それを教えることを生業としてきた者だが、自分の経験に依拠した”信念”めいたものがあるとすれば、「強靭な母語の基礎の上にしか外国語という構造物は乗っからない」ということになるだろうか。
これは私のオリジナルな見解ではなく、私がいろんな意味で敬愛する同時通訳の草分け、故國弘正雄氏が常々指摘しておられたことだ。つまり、まずは母語の運用能力を徹底的に鍛え上げなければ何も始まらないということだろう。たしかに、英語の達人と呼ばれる方々はほとんど例外なく、その前に”日本語の達人”である。
「キッズ英会話教室」は繁盛するだろう。いわゆる pattern practice で叩き込めば幼い子供がたちどころに、"How are you?","I'm fine, thank you, and you?"などと一丁前のやり取りをするようになるし、親も我が子が「英会話」ができるようになったと喜ぶのかもしれない。しかし,それは我が家のセキセイインコのメイちゃんとそれほど変わらないレベルの現象であることを頭の片隅に入れておくべきだと思う。
要は、誰と何を communicate するのか?に帰着するわけで、語るべき中身を持たない者はそもそも日本語でもしゃべれないのであって、いわんや、英語をや、という話なのである(さらに付け加えれば、1975年に発表されたダグラス・ラミス氏の「イデオロギーとしての英会話」は今も色褪せない重要な示唆に満ちている)。
その意味では、日本では中学から学び始める英語の学習開始時期が遅すぎるなどと私は思わないが、数年前に冬の韓国を旅した時に、ソウルやプサンの街中で出会う高校生や大学生の英語を話す能力の高さに驚いたことも事実だ。
英語の発音に関する蛇足。いかなる言語も《文字》より先に《音》が存在するのだから、多くのフォークソングやカントリーソングを聴かせて覚えさせ、小学生に他言語の音に慣れさせることは意味があることかもしれない。まあ、私にとっては「任せなさい!」の領域だが、それにしたってさほど神経質なることもない。自分ができもしないことを生徒に要求できるわけもなく、私は「それらしく聞こえりゃいいんだ。デッカイ声で話せば絶対通じる!」で通した。
日本人が発音する rice は ネイティブには lice に聞こえるなどとよく言われる。國弘正雄氏はこの種の主張は「日本人は米ではなくシラミを常食にしているなどと本気で思う人間がいれば、即刻精神病院で診察を受けた方がいい」と明快に切って捨てた。
日本人が特に苦手とする R、L、F、Th、等の音を意識させたい時に私が教室で生徒たちに聴かせ、時に歌わせたりした歌は、The Cascades の『Rhythm of the Rain (悲しき雨音)』。冒頭部分はいきなり Listen to the rhythm of the falling rain と始まる。
この部分を「それらしく聞こえるように」歌えれば英語の発音には自信を持っていいと思う。 発音に自信を持つ英語教師が,生徒の発音の枝葉末節を口うるさく指摘して、”英語嫌い”を増やすことは愚かなことだ。
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「貧困」に対する考え方
September 5, 2016
友人が以下を述べている。昭和30年代に小中学校時代をすごした団塊世代の一人である私は,この意見に全く同感である。
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”貧困”とか”差別”というのはいかに想像力を研ぎ澄まして迫っても、それを直接自分の体験を通して味わったことのない方には理解し難いものなのだろう。NHKが「子供の貧困」と題して放映した番組に登場した高校生が国会議員も絡んだバッシングを受けているらしい。
こういうバッシングを浴びせる階層は決して富裕層ではない。富裕層に属する人々は万全の余裕があるから実におおらかな方が多く、貧困層に対しては極めて同情的であり優しい。
厄介なのは「富裕層ではさらさらないが貧乏人と呼ばれるほどには落ちぶれ果てていない」というプライドを持って生きる”中産階級の中位から下位”あたりに位置付けられる人々、そして,その層に迎合することで支持率を伸ばそうとする政治家連中だろう。
貧乏人は常に貧乏人らしい身なりをし、三食のメシを二食に減らすような耐乏生活を送ってもらわなければ気の済まない彼らは、奨学金なんぞを受け取っている貧乏学生が、自分たちと同じように居酒屋で酒を飲んだりパチンコをしたり、生活保護の受給者が自分たちと同じようにパソコンを所有したり、映画館に入ったり、1000円のランチを食ったりするのが断じて許せないのである。
生活保護受給者の中には単なるグータラとしかい言いようのないいい加減な者たちが混じることも事実だろう(暴力団の構成員が受給してたりするケースもある)。
しかし、極めて特殊な例を安易に一般化して議論することは危険なことであり、ましてや政治家が意図的にこの手法を利用するのであれば、それは決して許されない厳に慎むべき行為である。
以下の雨宮処凛さんの意見は,いずれも鋭くコトの本質を突いているのではないかと思う。
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Homepage の 威力
September 3, 2016
最近,私のHPを訪問してくれた方から下記の連絡(一部の文言を変更)をいただいた。同様な方々から,時々,こうしたメールをいただく。大変にありがたいと思う。
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私は,高専の元教員です。高専教育について、ものすごく的を得た意見、非常に参考になりました。以前に勤めていた高専が、学生のためになることよりも、国立高専機構へ向けていい顔をすることを優先していると感じ、私は退職しました。学内の上層部の方々は、「学生のための改革」を連呼してましたが。
高専の経営は厳しいですが、経営よりも「学生の人生」の方が大事だと思います。
私が担任していた学生は,今,専攻科の2年生。この多感な時期(15~22歳)に7年間も環境が変わらず、あの田舎にずっといることは,本人の成長も望みにくいと思うので、彼等が専攻科に進むことは反対していたのですが........。
50年以上前の思想(高専設立当時の)が、現在にも通用するとは思えません。そのため,早期の高専改革を望んでいます。青少年たちの為にも。
私は,幸いに,国立高専機構の方々と話す機会がありそうなので、色んなことを提案してみようと思います。 これからも時々、HPを拝見させていただきます。
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また,最近は,高専卒業者による意見でも引用されている(第3,8章では,私を ”I博士” と表示している)。インタネットの時代におけるHPの大きな威力を,改めて思う。
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新潟県知事の突然の選挙撤退宣言
August 31, 2016
昨日(2016年8月30日),突然に,新潟県知事の泉田氏(53歳)が10月の4期目の知事選の出馬を断念すると宣言し,県内に大きな波紋が広がっている。つい最近まで,4選を目指しての出馬を表明していたのだ。
その理由は,県内の最大新聞である新潟日報の報道には承服できない,新潟日報から誠意ある対応がない,これでは県民の不信が残るばかりであるから県政に責任が持てない,とするものである。
一方,新潟日報としては,自社の報道は綿密な事実確認に基づく正確なものであり,間違いはない,誤報であるかのような印象を与える一方的な見解を公表することは新潟日報社の社会的信用・評価をおとしめる行為であり断固として抗議する,知事は県民に対して立候補撤回の真の理由を説明すべきだ,不出馬の理由として特定の報道機関を名指しで批判して自説を展開するのは正しくない,と反発している。
また,一部の報道によれば,不出馬の本当の理由は,県内の市町村長から自分が不評を買っているので,県内各政党の支援が得られず,今回の選挙には勝てない,と自分で判断したためではないか,とのこと。
私は,どちらも,一理あると思う。しかし,もし,現職の知事として自分の仕事内容に自信があれば,やはり,当初の表明通り,知事選に出馬するべきだと思う。その選挙戦の中で,自分の意見を県民に公開し県民の判断を仰ぐべきだ。仮に,その結果として,敗れたとしても,それはそれで,厳粛に受け止め,潔く胸を張って退任するのが良い。それが県政の最高責任者であった者としての,最後の花道というものだろう。
今回の不出馬宣言は,厳しい言い方をすれば,”泉田氏の弱さ” が出たのではないだろうか。(今日の朝日新聞によれば,彼は側近に「だって,心が折れちゃったんだもん」と吐露していたとのこと。)
彼の経歴,即ち,京大を卒業後,上級公務員として経済産業省に入り,岐阜県の部長をしていた時に,出身地である新潟県の知事選に41歳で担ぎ出されて当選,という経緯の中に,負け戦を知らない,自信家のエリートにありがちな ”弱さや脆さ” が見えるのは私だけであろうか。確か,知事に当選した一期目における県庁内での彼に対する評価の中に,部長級の職員(もちろん,泉田氏よりもはるかに年上であり,県庁での在職経験も長い。)を ”お前” 呼ばわりして仕事内容を詰問し,不評を買っていたというのがあった。 全力を上げて勝負に出て,負けたら負けたで潔く引き下がる,という経験が今までにないのであろう。
本当のエリートは,打たれ強く,タフでなければならないのだ。図太く,時には図々しく,逞しくなければならないのだ。(その意味で,百戦錬磨の中で鍛え上げられたアメリカの政治家の逞しさは,大いに参考になる。)
東京電力の不誠実な対応を批判し,柏崎原発の再稼働を認めず,時には中央政界に抵抗する,県政の最高責任者としての彼の姿勢を,私は高く評価している。彼には,当初の予定通りに知事選を戦って欲しかったと私は思う。
「日本海横断航路の船舶購入」の件についての県の対応を問題にした新潟日報の報道姿勢には,かなり無理があるようだ。投書欄に「県としての責任ある回答を求める」という読者の意見が載ったので,それに対して,県としての回答を送付したが,新潟日報はそれを掲載しなかった,というのは報道機関として公正な姿勢ではない。
実状として,新潟日報は,県に対する責任追及を急ぐあまり,その功名心から,坂道を転がり落ちるかように無理な報道姿勢を続けているだけのように見える。 実際,この件については,他の各紙は,かなり冷静に見ており,新潟日報のような姿勢をとってはいない。今回の新潟日報の姿勢については,泉田氏としては,「虚偽報道は県政に対する名誉毀損である」として,法的手段も視野に入れて,もっと強い態度に出るべきだ。
不出馬の理由は,余りにも単純であり不可解といえよう。たかが地元の一新聞に過ぎない報道機関との軋轢を理由にしても,多くの県民はおそらく理解できまい。
出馬しないことは,10月の選挙が,もし単一候補になって無投票となれば,それは県民の意思表示にフタをすることであり,12年間の泉田県政への県民の評価の機会を,自ら消滅させることになる。
泉田氏は,思い直して出馬するべきだ。思い直しても,それを批判する県民は,おそらくいないと私は思う。
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無罪確定。しかし,この冤罪の責任は....
August 10, 2016
大阪東住吉事件の再審で,今日(8月10日),大阪地裁で予想通りに無罪判決が出た。検察は上訴しないことを表明しているので,二人の被告の無罪が確定した。この件は,公開記事の中でも報告されているが,被告にされた青木恵子さんは,上申書の中で,須川修身教授(諏訪東京理科大学)のデタラメな意見書について,怒りを込めてこう述べている,
「須川修身教授の証人尋問について
2014年4月15日に、須川教授の証人尋問が行われた結果について、弁護士さんから、報告を受けました。須川教授が作成された「意見書」の中で、重要な部分であるにも拘わらず、重大な計算ミスを犯していたこと。単純な計算ミスは、あるでしょうが、桁を3桁も間違えるでしょうか?
更に、須川教授は、ご自身の実験を正当化するために、結果の辻褄を合わせるために、入力する数値を都合良く変更したことは、言語道断です!! これが、科学者、専門家の行う態度、行動ですか?
弁護団の反対尋問に対しても、真摯に受け止めることなく、苦しい立場に立つと保身に走り、「筆が滑った」、「感覚です」と逃げ腰になる姿勢からは、真実のかけらも感じられません!! 須川教授には、真実を明らかにする気などなく、検察官の望む結論、「意見書」を作成しているだけです。到底、須川教授及び、須川教授が作成された「意見書」に対して、不信感しかなく、信用できるものではありません!!」
新聞やテレビでは,違法な取り調べによる無理な自白強要や,自白偏重による過去の誤った判決を報道している。しかし,それに加えて,学問研究者としての真摯な姿勢が全く欠落した,毎回の裁判で常に検察側につき,デタラメな意見書を提出する ”御用学者” の責任をも追及するべきだ。このような ”デタラメな意見書” も,冤罪発生の重大な要因になるためである。
(この「時々の日誌」の2016年5月2日の記事で,本件と北海道恵庭OL殺害事件について,多くの裁判で常に検察側証人として登場する "札付きの人物" の不適格さについて私は述べたが,今日の無罪判決が出た以上,当人,即ち,須川修身教授の名前をここに公開する。)
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日本の大学の”負の連鎖”
August 3, 2016
群馬大学医学部附属病院で起きた,技量の未熟な執刀医による下手クソな肝臓手術により発生した18人もの患者の死亡事例。担当の執刀医は懲戒免職,そのデタラメな手術を黙認していた第二外科の指導教授(この教授自身も,肝臓の手術経験が少ないらしい)は諭旨免職。
これを伝える多くの新聞記事は,教員の2/3が群馬大学の卒業者であるという群馬大学医学部の ”閉鎖性” を報じている。だが,これらの報道には,さもありなん,という感想があるのみだ。
群馬大学に限らず,自校の教員を自校出身者で固める,という「村社会の悪習慣」は,日本の大規模な大学には,現在も,その事例がたくさんある。
HPを見ると、ある大学のある学科では,21名の教員の中で17名が自校出身者。自校の卒業者が,いい加減な "審査" で教員に採用され,ろくに研究業績もないまま,仲間内の合議により、若くして教授に昇任,などということもあるようだ。人事というものは、それを決める側の見識と力量が示される。
必然的に、それにより出来上がるのは教員の大多数を自校卒業者で固めた同族の "生活互助会"。どんなに優秀な教授でも,自校出身者でなければ,その大学では,所詮,"外様" 扱い。
この根本原因,即ち,”未知の人材”の中から有能な人材を本気で探索することをせずに,安直に,自校出身者の中から採用することの根本理由は,ひとえに,”教授の自信の無さ”である。
(在職中,私が学科長の時に,新規に教員を採用することがあった。その時に「在学中に成績が優秀で,気心の知れている卒業者がいい」とホザいた教員を,厳しく批判したことがある。「公募により未知の人が採用されると,その人がうちの学科に馴染んでくれるかどうか不明だ」というのは,自分の仕事に自信のない者の典型例である。)
例えば,自分と同じ学問分野で,自分よりもはるかに学問業績のある ”未知の若者”や ”有名な研究者” を自分の大学へ教員として招聘することはしない。そもそも,自分自身が,自校出身者であり縁故採用であるから,従来の慣例を無視した冒険は出来ない。これが,大学教員の世界における ”負の連鎖” である。
アメリカの大学の教員採用における審査では、応募者の学問業績に加えて推薦書の内容の入念な検討がなされ、さらに、その応募者について所属学会への問い合わせがなされる。そのため、通常は審査に半年以上かかる。そうした「Open であるがために厳しい」という正々堂々とした選考規定が,日本の大学には根付いていない。
なお、日本では、推薦書は当人の良いことばかりを記述する御祝儀の文書であるが、アメリカでは、その作成者に責任が伴う、当人についての正確な鑑定書である。
かなり前だが,NHKのテレビ番組「エリートはこうして育てられる」で,ハーバード大学の紹介があり,その中で「ハーバード大学の教員の第一条件は、ハーバード出身ではないこと」というのがあった。日本の大学は,この番組を清聴するべきであろう。
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不要となった国立機関の処分の流れ
July 26, 2016
「不要となった国立機関の処分の流れ」を一つの例を上げて見てみよう。職場の組織変更や廃止の時には,職員(社員)の異動が伴うために,慎重な方策が求められるが,同時に,それを実施する側にも強固な意志が必要になる。
民間企業ならば,経営者は短期間で断固としてそれを実施するであろう(そうでなければ,経営に支障が出る)。しかし,国立の機関では,最終責任が不明であるために,あれこれの引き伸ばし策が出され(ウソとゴマカシのあれこれの延命策が提案されて),その実施には長期間を要する。しかし,その引き伸ばし策を遮断し,処分を断行する最大の力は,国民の声であり,それを背景にした強固な政策であるという実例である。
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大学院で燃焼工学を学んだ私は,自動車会社の研究所に勤務した後,1981年に,西日本に開設された政府系特殊法人(雇用促進事業団)の国立の "職業訓練短期大学校" の教員として着任した。だが,そこは、実は,雇用促進事業団が運営する職業訓練校が、入校者の減少による ”業務効率の低さ” を行政管理の省庁から指摘されていたために、苦肉の策として”工科系短大”に看板を塗り替え、行政批判をかわして訓練校の姑息な延命を画策したにすぎなかった。”短大への転換”は、雇用促進事業団それ自体の「内発的な改革策」ではなかった。雇用促進事業団が運営する総合高等職業訓練校の実状について,会計検査院は,1981年度の決算検査報告の中で正確に分析している。
職業訓練校技の能訓練指導員の中には,誰一人として短大教員資格のある者がいない。大学卒業者さえほとんどいない。そもそも,事務職員も技能訓練指導員も,”短大への転換” は自分達の意志ではなく,行政の施策として職場の看板が勝手に変えられたにすぎないと認識しているために,自分の職場が ”工科系短大” と思っている者がいない。もちろん,技能訓練指導員の中に自分を”短大教員”と自覚している者がいない。すなわち,組織自体が ”工科系短大” としての体裁をなしていない。
1981年4月始めの地元新聞には,「職業訓練短大が開校されるにあたり,東京の大学の研究所から教員3人が着任した」との趣旨の記事が出たが,姑息な策として数名の大学卒業者を採用し職業訓練校に ”注入” したところで,訓練校が ”工科系短大” になれるわけがないことは普通の市民であれば誰もが思うことである。
言うまでもなく,短大転換には,まずは,教員資格を持たない技能訓練指導員を職業訓練校へ配置転換させ,人員を刷新することが先決でなければならなかった。
ところが,その配置転換が労働組合の抵抗により断行できず,正常な教員組織の構築が不可能であった。雇用促進事業団それ自体が,”短大転換の政策” に自信を持てなかったために,労働組合と馴れ合い,癒着して妥協してしまった。
そのため,”工科系短大” の教員としては大学院修士課程修了以上の有資格者を大量に採用して開校する,という当たり前のことが実施できず,在籍する技能訓練指導員に,当時にあった職業訓練大学校にて6ヶ月間の研修を受けさせたのみで,何の資格審査もなしに,彼等の全員を ”短大教員” に仕立て上げてしまった。
当然,こうした欺瞞はすぐに露呈してしまい,成績の良い学生の中からは退学者が出た。”看板と中身が違う”,”教員が能力不足である” として校長宛に意見書を提出した学生もいた(その後,退学)。当時のある管理職は「恐れていたことがついに起きた」と述べていた。短期間で辞職した新任教員もいる(着任の当初から在職を短期間と決めていた私だけでなく,まともな大学卒業者であれば勤務意欲を失うのは当然である)。つまり,雇用促進事業団は”短大転換”の社会的責任を果たすことが全くできなかった。
「公金で運営されている以上,この粗末な実態を必ず社会に公開し,自分は早期に辞職するべきだ」と,私は着任早々に決意した。3年後に,このまま在職することは ”ゴマカシ行政” に自分も加担し続けることになる,それは自分の人生信条に著しく反し,また,自分の経歴にも傷がつくとして,その旨を明記した辞表を出し,”職業訓練短期大学校” なるものを,私は捨てた。(後年に,上記の ”職業訓練短期大学校” の実態と問題点を,私は新聞紙上に公開したが,これに対して,多くの賛同の意見を頂いた。弁解は来たが反論は来なかった)
この事態の打開のために,雇用促進事業団は,80年代の末から90年代の初めにかけて,学会誌などの求人欄にて,職業訓練短期大学校の教員の募集広告を出し,その応募資格として,大学院修士課程修了以上と明示している。
結局,この ”短大転換”の「失敗の本質」は,日本の職業訓練事業が地方自治体が運営する職業訓練校により既に充足された時代となったために,もはや雇用促進事業団の職業訓練校が社会的に不要になったという現実を前にして,雇用促進事業団と訓練校労働組合との馴れ合いと癒着が生まれ、”短大”の看板を信じて入学した学生に対する社会的責任を果さなかったことにある。
雇用促進事業団の職業訓練校の廃校のシナリオは,指導員の定年退職を待ち,その後には指導員の補充をせず,更に,当時の職業訓練大学校を段階的に縮小,廃止し,それにより雇用促進事業団による職業訓練事業の消滅を待つ以外に道はなかった。
その後の流れを見ると,雇用促進事業団が苦肉の策として職業訓練校の看板を次々に塗り替えて,全国に粗製乱造した ”職業訓練短期大学校”なるものは,頻繁に組織の再編や統合,さらに名称変更などが繰り返された(私が所属していた学科も,当時の私が予想していた通りに開設後わずか7年で廃止された)。
加えて,そもそも,雇用促進事業団それ自体があれこれの批判を浴びて廃止され,「高齢・障害・求職者雇用支援機構」と改名され,その業務内容が大きく削減され整理された。さらにまた,予想通りに,職業訓練大学校それ自体も廃止され,後に,入学者定員をごく少人数にした職業能力開発総合大学校と改名された。
今日では,”職業訓練短期大学校”なるものは,再編や統合を経て,すべて職業能力開発短期大学校と改名された。一学科の教員はわずか5名程度だが,大学卒業者を揃えているようだ。これらは,文字通り,約35年前に当時の私が予想したシナリオの通りである。
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JR東日本の対応のお粗末さ
July 24, 2016
ちょうど2年前(2014年7月17日)に以下の趣旨の意見をこのHPに公開したが,先日に乗った上越新幹線の中で,座席の背後を見ると,以前と全く同じであった。
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JR東日本の新幹線の座席の背後にある以下の文章は,日本語も英語も不可解である。
「列車内では,キーボードの操作音など,まわりのお客様のご迷惑とならないようにご配慮ください。」
この "英語訳" として以下の文章が記されている。
Please be considerate of other passengers while using your computer(keyboard noise,etc.)
一読してすぐに分かるように,上記の "日本語文" は"欠陥文章" であり,読んでいると不快にもなる。 「.....迷惑とならないようにご配慮ください」とは,一体,具体的に何をせよというのだろう。「ご配慮ください」とは何だろうか。
be considerate of ........ using your computer ??? これを一読した外国人にこの "英文" の意味が直ちに分かるだろうか。
この "英文" は「キーボードの操作音が好きな人が周りにいれば,その操作音をわざと大きくして,周りを楽しませて下さい」とも受け取れる(実は,JR東日本の担当者はこれが分からない)。
上記の "日本語文章" は欠陥文章の典型である。主張したいことを,なぜ単刀直入に明快に書かないのだろう。 この文章は,例えば以下のように書き直すのが良い。
「キーボードの操作音などは,周りのお客さまにとって迷惑となりますので,小さくしてください。」
これであれば,文章の意味が一読して誰にも明解であり,そのために英訳も易しい。例えば以下は,少なくとも現行よりは良い。
Thank you for your cooperation to suppress the hitting noise on your keyboard, etc., for preventing the irritation of other passengers.
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2年前の7月に,上記の意見をJR東日本へ伝えたところ,下記の呆れるようなバカげた回答が来た。
「パソコンご利用時のマナーについて、順次ステッカーを添付し、マナーに関するお願いをさせていただいているところでございます。 このたび頂戴いたしましたご意見を参考とさせていただき、今後も幅広いマナーの向上に向けて幅広く検討を行ってまいりますので、何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。」
私が言っているのは,ステッカーにある文章の欠陥のことであり,パソコンの使用のマナーのことではない。JR東日本のこの担当者は,日本語の読解能力が不足らしく,私の意見の文章が理解できなかった。
「これでは回答になっていないので,再度,回答しなさい。」と私は返信しておいた。
その後,一ヶ月近く過ぎた頃,ようやく,再び,以下の「回答もどきの回答」が来た。
「このたび頂戴いたしましたご意見を参考とさせていただき、マナー周知の日本語文・英文について幅広く検討を行ってまいりますので、何卒ご理解を賜りますようお願い申し上げます。このたびは、貴重なご意見ありがとうございました。」
明らかに,この担当者には,そもそも,自分ではまともな日本語の文章の作成能力がないようだ。さらに,「ステッカーを印刷し直すには時間も費用もかかるから,このまま,何もしません。」ということだ。JR東日本には”まともに日本語が使える人材”がいないようだ。
そして,2年後の先日,2年前と同じこの意見をJR東日本に伝えたところ(JR東日本のHPの中の ”ご意見、ご要望” のページにて),今日,やはり,2年前と同じ下記のバカげた回答が来た。日本語能力のある担当者がJR東日本にはいないらしい。(こうした対応の仕事は,外部の会社に委託しているのかもしれない。)
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「いつもJR東日本ならびにJR東日本ホームページをご利用いただきましてありがとうございます。 再度のご投稿をいただき、誠に恐縮でございます。
車内でのパソコンのご利用につきましては、現在お控えいただくようお願いはしておりませんが、キーボードの操作音などをご不快に感じられるお客さまもいらっしゃることから、ご利用の際には周囲のお客さまへのご配慮をお願いさせていただいているところでございます。 このたびのご意見を含め、多くのお客さまからいただくご意見を参考とさせていただきながら、サービスのレベルアップに努めてまいる所存でございますので、何卒ご理解賜りますようお願い申し上げます。」
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呆れるやら,情けないやら,腹立たしいやらで,もうこれで打ち切ろう,と思ったが,2年前と同じ文言で返答し,「私が言っているのは,ステッカーにある文章の欠陥のことであり,パソコンの使用のマナーのことではない。これでは回答になっていないので,再度,回答しなさい」と,今回も送信した。しかし,たぶん,2年前と同じトンチンカンな回答が再び来るのだろう。
JR東日本のHPの中の ”ご意見、ご要望” のページに対応する担当者は,日本語と英語の能力が著しく不足しているが,一方,JR東日本は,会社が大きくなりすぎて,多くの業務を外部に委託しているらしく,HPを通しての外部からの意見にも,必ずしも,JR東日本の職員が対応してはいないようだ。
しかし,もし,JR東日本の職員が直接に対応しているのであれば,その対応者は,直ちに担当から外すべきである。それが,JR東日本の会社としての責任である。
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民間企業の製品と政府の姿勢
July 22, 2016
今日(2016年7月22日),新聞にはこういう記事が出ている。
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「任天堂などが開発したスマートフォン向けゲーム「ポケモンGO」が配信されたことを受け、警視庁交通部は22日、東京都新宿区の新宿駅西口付近で、「歩きスマホ」をしないよう駅の利用者らに呼びかけた。
歩きスマホの危険性について「視野が極端に狭くなる」「思わぬ事故やけがにつながる」などと書かれたチラシ1千枚を携帯を手にした通行人や学生らに配布。衝突して相手にけがをさせると、過失傷害罪に問われる可能性もあるといい、警察官らが「注意してください」と呼びかけていた。
交通部によると、渋谷区恵比寿では5月、スマートフォンを操作しながら歩いていた30代女性が、交差点で車にはねられ軽傷を負っている。交通部などは22日、全警察署に対しスマホを操作しながらの運転や移動を集中的に指導するよう通達を出した。」
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率直に考えてみると,たかが一企業の開発した製品の使用について,政府や警視庁がこんな警告や通達を出す必要があるのだろうか。それは,民間の一企業に対する国家的な営業妨害ではないだろうか。
例えば,ある製菓会社が,誰にも美味しいと思える**チョコレートを開発し販売したところ,国民の中に大流行となり,その食べ過ぎにより,肥満になる人が多数出たとしよう。その時,厚生労働省が国民に向けて「**チョコレートの食べ過ぎは,体に良くないから止めましょう。」などという警告や通達を出すだろうか。
ある自動車会社が,車内でカーナビ,テレビ,ラジオはもちろん,ゲーム,インタネット,電話,FAXなども無料で自由に使い放題の楽しいクルマを開発し,それが良く売れて大流行となり,その一方で,交通事故も増えたとする。その時に,政府が国民に向けて「**の車は危険であるから,使用には注意しましょう。」などという警告や通達を出すだろうか。
冷静に考えてみると,こんな警告や通達は全て,余計なお世話ではないだろうか。このような警告や通達を政府機関や自治体が出すことは,日本という国の良さ,親切さなのかもしれないが,しかし,一企業の開発した製品の使用について,その流行の大きさゆえに,政府機関がその使用について,国民に警告や通達を出すことは,個人主義が未成熟な社会の特徴であり,かつ,それは政府による一種の統制ではないだろうか。
スマホを操作しながら歩いていたために,車にぶつかった,他人とぶつかってケンカになった,駅のホームから落ちた,電車にぶつかった,などは全て当人の自己責任であり,スマホ自体には何の責任もない。よって,「歩行中のスマホの使い方には注意しましょう」などの警告や通達などは不要ではないだろうか(ただし,中学や高校での生徒に対する注意としては,それは必要であろう)。これらの事故は全て,使い方を逸脱した使用者の自己責任である。
一般的な注意,例えば「車の運転中の携帯電話の使用は危険だ。」,「タバコの吸い過ぎは健康に良くない。」などはよいと思う。そして,政府や自治体としての国民に対する警告や通達は,この程度のレベルにとどめておくべきだ。政府機関が,特定の製品の名前を上げてその使用についての警告や注意を出すのは良くない。それは一企業に対する明白な営業妨害ではないだろうか。未成熟社会の顕著な側面であると思える。
なお,この記事を見た方から以下の意見をいただいた。
「自己責任である、という点には同意するが,異例であっても今回の件に関しては、政府は呼びかけるべきだ。現に立入禁止区域に進入している事例も出ており、これらは国防にも関わるからだ。アメリカでは原発への侵入事件が起きた。日本では初日にして、京都御所への侵入が起きた。よって,メーカは行政と連動し、民家や立ち入り禁止区域への配慮をすべきだ。また、早急に要望を出せるサイトや電話口を設けるべきだ。」
私は,もちろん,この意見に同感である。スマホの中で「ポケモンGO」を操作すると,何処へでも入れるルートが表示されるとすれば,それはプライバシー保護や立ち入り禁止区域の保全などの観点から,絶対に不可である。 行政担当者としては,「ポケモンGO」のソフトの変更命令をメーカーに出すべきだ。
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早朝のキジ
June 29, 2016
例年通りに,今年も,近所で一日中,キジの鳴き声が響き渡る。
必ず「キューン,キューン」と2回鳴く。 今朝は,その声が特に大きいので,窓の外を見ると,大きなオスがいた。 綺麗な羽根に赤い顔。
急いでカメラを取り出して,その勇姿を撮影した。自宅周辺は自然が豊か。
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共産党に国政を任せられるだろうか
June 26, 2016
今日の報道には以下が出ている。
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2016年6月26日(日),共産党衆院議員の藤野保史(やすふみ)政策委員長は、NHKの討論番組に出席し、防衛予算について「人を殺すための予算」と語った。番組には各党の政策責任者が出席した。
藤野氏は防衛費が2016年度当初予算で5兆円を超えたことなどを指摘した際、「人を殺すための予算ではなく、人を支え、育てる予算を優先していく」と述べた。その場で公明党議員らが発言の撤回を求めたが、藤野氏は応じなかった。
番組終了後の同日夕、藤野氏は文書で「海外派兵用の武器・装備が拡大していることを念頭においたものだったが、発言はそうした限定をつけずに述べており不適切」などと釈明した。
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やはりというか,呆れるというか,公の政党の政策委員長にしてこの程度の認識である。共産党に日本の国政を任せることが出来るのだろうか。
今日の日本に必要なのは,結局は,「独立国家の要件とは」という国民的な議論の開始ではないだろうか。 戦争放棄や恒久平和を目指す日本憲法の精神自体は,もちろん,誰もが賛成であろう。一方,真の独立国家とは,国外からの侵略を自力で撃退できる国であろう。すなわち,自国民の生活と安全を自力で守り保障できる国家であり,武装中立の自信にあふれた国のことではないだろうか。
独立国家として,日本は自衛のための交戦権を有し,そのための国防軍の法的な根拠を構築するべく,憲法第9条を,例えば以下のように改定する必要がある,と私は思う。なお,この趣旨は安倍政権による安保法制や集団的自衛権とは,全くの別物である。
「我が国は,主権国家としての交戦権を有する。ただし,そのための武力行使は,自国の領土,領海が侵略され,自国民の生活と安全が脅かされる可能性がある場合に限る。」
第9条がこれであれば,国際的にも普遍的な理解が得られ,また,国防軍としての自衛隊の存在にも,なんら法的な齟齬がない。 これが,独立した主権国家としての真の平和憲法というものであろう。
「米軍基地は,日本から出て行け」と主張するのはやさしい。しかし,その主張の背後に,日本の国防政策についての ”思考停止” の影をいつも感じるのは私だけであろうか。
かつて,1960年代末から70年代に,当時の社会党は,日本の将来像として「非武装中立」を公言していたが,その不見識と無責任さには,いまも呆れるばかりだ。「危機には座して死を待て」と国民に要求する政党に,どうして国政を任せられよう。
また,独立国としての日本の自衛権を認める,国の危機には現在の自衛隊を活用する,とする一方で,自衛隊の存在は憲法違反である,現行の憲法第9条を守る,とする共産党の主張は,とんでもない自己矛盾であり,ひどい論理破綻であろう。ところが,今だに,共産党にはそれが理解できないようだ。
共産党の志位委員長は,以下のように述べている(産経新聞 6月28日)。
「日米安保条約、自衛隊、天皇制の問題での私たちの考えは、野党連立政権になった場合、横に置きます。自衛隊の解消は、全ての国々と平和的な友好関係をつくり、国民の圧倒的多数が「もう自衛隊なしでも大丈夫だ」となって初めて着手します。かなり将来の話で、それまでは有事や大災害の際には自衛隊にも働いていただきます。」
以前から,多くの識者によりしばしば指摘されているように,相変わらずの惨めな苦しい言い訳である。 自衛隊の存在は憲法違反だが,かなり将来までは有事や大災害の際には自衛隊には働いてもらう....? こんな明白な詭弁と矛盾を,事あるごとに振りかざして国民を説得できると本当に思っているのだろうか。あれこれ言うたびに,”惨めな苦しい言い訳”として聞こえる。
共産党は,今日,もはや過去の経緯を払拭して,勇気を出して正直に,以下のように宣言するべきなのだ。「独立国としての自衛権を従来から認める共産党は,憲法第9条を改定し,自衛隊を国防軍として完備する」。
これにより共産党が損をすることは何もない。そして「共産党は変質した」などとは誰も思わないどころか,従来の共産党の主張に整合性が生まれ,日本国民と世界各国への説得力が生まれよう。
「本当に日本から米軍基地が無くなったら,中国や北朝鮮からの威嚇,沖縄,南西諸島,南方諸島などの安全と防衛,尖閣諸島の守備防衛,千島列島の返還,などについて,日本は自力で対応できるのか」について,どの政党も自信ある政策を示せない。
憲法上「交戦権の否定」の制約を受けるとされる自衛隊と,海上保安庁(交戦権を有する)だけで本当に日本を防衛出来るのかについて,今日,どの政党も責任ある具体策を出せず,さらに,日本の「国防の完備の議論」から逃避しているように見える。
「革新」を自認する野党も,日本から米軍基地が本当に無くなった後に厳しく求められる「独立国家としての日本の国防の完備」の政策が出せない。
それどころか,従来から,「米軍基地反対」の声は,しばしば「自衛隊反対」の声と合体している。とんでもないことである。それは自国の国防の完備についての思考停止と無責任を示して余りあるといえよう。
日本の国防政策と現憲法との整合性が充分に国内で議論されておらず、日本政府もそれを避けていることは,当然,”日本の弱み” として,アメリカ政府は看破しており,それが,日本を”密約”で縛って平然としていられるアメリカの自信である。つまり,戦後70年間,一貫して,アメリカは日本の足元を見ているのである。
不当極まりない日米地位協定の中でも,第17条、第5項の(C)「日本国が裁判権を行使すべき合衆国軍隊の構成員又は軍属たる被疑者の拘禁は、その者の身柄が合衆国の手中にあるときは、日本国により公訴が提起されるまでの間、合衆国が引き続き行なうものとする。」は,アメリカ政府に日本の政治と政府が足元を見られて馬鹿にされている証拠の最たるものといえよう。よって,沖縄における,米軍と軍属の者達による犯罪は,なくならないであろう。
日本の自衛権を認め,国の危機には自衛隊を活用する,とする一方で,自衛隊の存在は憲法違反であるとし,現行の憲法第9条を守るとし,さらに,日本の国防を米軍に頼っている現状を認める一方で,米軍基地は日本から出て行け,とする支離滅裂な政策を持つ共産党は,日本の国政を担当する資格があるのだろうか。こんな政党であれば,その政策委員長から「防衛予算は人を殺すための予算」とする発言が出たとしても不思議ではない。
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”日本会議”なる集団の経緯と素性
June 21, 2016
”日本会議” なるものを,私は聞いたことはあるが内容については関心もなく,最近まで,よく知らなかった。衣装を変えて,またまた登場した ”保守派の集団” らしい,ぐらいにしか思っていなかった。 しかし,先日に見たこの記事は,1997年に結成された,この ”日本会議” の素性が,日本国民にとってかなり ”危険な集団” であることを,詳しく伝えており,遅れはしたが,私には大変に参考になった。
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マスコミの矜持とは
June 18, 2016
つい先日,友人(高校の卒業同期)が自身のHPの中で以下を述べている。私は全く同感である。新聞やテレビは,”マスコミの矜持” を失ってはなるまい。
むしろ,舛添氏よりも,今日の新聞とテレビは,総力を上げて,都知事時代の石原慎太郎の公私混同を追及するべきではないだろうか。
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都知事の公私混同問題を巡るスッタモンダで明け暮れたこの1ヵ月ほど、メディア、とりわけ各テレビ局の報道番組を観ながら不愉快な気分に陥ることが多かった。
昇り詰めた地位に未練がましくしがみ付こうとする舛添氏の優柔不断な態度に対してではない。それを報じるキャスターやゲストコメンテーターたちの立ち位置に対してである。
わずか数ヵ月前に、憲法学者の9割超が違憲見解を表明し、自民党支持者でも過半の良識派がその「暴走」に懸念を示した安保関連法案の国会審議の際に、放送メディアへの露骨な介入姿勢を鮮明にする安倍政権に睨まれることに怯えて、あれほど歯切れ悪く、奥歯にものの挟まったような発言しかできなかった彼らが、銃口が自分に向けられることはなく、矢が自分の方に向かって放たれることは絶対にないと判断した途端に、口を極めて舛添氏を揶揄、嘲笑、罵倒するその厚顔さに腹が立った。
私でさえ、この段階で「そこまで言っていいんかい?」と思うような過激なことを仰るキャスターもおられた。あるいは「製造者責任」などという言葉を用いて”畏れ多くもかしこくも”自民党・公明党を批判するコメンテーターもおられたが、勝ち馬に乗るような態度は見苦しい限り。
製造者責任というなら、もっと勇気を奮って舛添氏に投票した211万人の有権者に向かっても言わなければ片手落ちではないか。「その《罪状》さえ未だ明らかでなく、《被告》でさえない211万票を集めた現職の都知事に向かって、結構いい度胸しているじゃねぇか、安倍にも張り手くらい食らわせろよ」と思った。
集団リンチという激しい言葉は使いたくないが、都議会も含めて、集団ヒステリーとも呼べるほどに冷静さを欠いた異様な光景であり、魯迅の「水に落ちた狆をさらに打つ」という言葉まで頭に浮かんだ。
私は今でも心に引っかかりを感じていることを一点だけ指摘しておく。じわじわと辞職へと追い込まれていく流れの中で報じられた舛添氏の「子供のことを考えるとすぐにでも辞めたいが云々」という発言が気になった。
私は舛添氏の子供が何歳なのかも知らないが、「学校で陰湿ないじめを受け、泣いて帰ってきたりするようなことが起こっているのか?」ということを想像し、舛添氏の発言の真意を知りたいと思った。私の知る限り、現時点までにその”真意”を報じているメディアはひとつもなく、唯一、マイクを向けられた共産党女性都議の「子供まで引き合いに出して云々」というコメントを聴いただけだ。
舛添発言の”真意”の推測がズレていればそもそも議論にもならないわけだが、仮に彼女の想像も私と同じものだとの前提に立てば、この都議は頭を冷静にしてもう一度自らの発言が何を意味するかを反芻してみるべきだと思う。
今後日本の右傾化が加速し、戦前回帰のような状況が生まれれば(もちろんこれは何としても阻止しなければ日本はもう終わりだが)、反戦の旗を高く掲げる政党に所属する彼女は、ご自身は言うまでもなく、子供を含む家族、一族郎党が「非国民!」の罵声を浴びながら礫を投げつけられる立場である。その時に彼女は「子供や孫まで引き合いには出さない」でいられるか?
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今日では,”叩きやすい舛添氏” を生け贄にするよりも,石原慎太郎が都知事時代にやってきた,ひどい公私混同を検証し,追及するのが,正常なマスコミとしての新聞やテレビの義務だと思う。正常なマスコミには,その矜持が大切であろう。
これらの記事は,「石原慎太郎は,ウソつきで卑劣な小心者」と断ずる本多勝一氏の評価と良く符合する(「貧困なる精神 25集」”石原慎太郎の狂った果実”,2013年7月1日 金曜社)。 結局,舛添氏は,”巨悪”の隠れ蓑として,Scape Goat にされたようだ。
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特別抗告の棄却
June 15, 2016
2000年3月17日の早朝,北海道恵庭市北島の雪に覆われた砂地の農道で発生した「恵庭OL殺害事件」について,昨年に,札幌高裁が再審請求を棄却したので,弁護団が最高裁に特別抗告をしていたが,先日,6月13日付で最高裁から「本件抗告を棄却する」との通告が来た。
その理由は,「本件抗告の趣意は,憲法違反,判例違反をいう点を含め,実質は単なる法令違反,事実誤認の主張であって,刑訴法433条の抗告理由に当たらない。よって,同法434条,426条.1項により,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり決定する。」というものである。
先月の末に,弁護団は特別抗告のための6通目の補充書(起訴状内容の根幹に関わる重大な内容である)を提出したばかりであり,昨年に提出した書面をも含めて,最高裁としては,今までの書面を本当に精査したのだろうか,との疑問が湧く。弁護団には,これに挫けずに闘って欲しいと,私は思う。
北海道新聞(2016年6月16日)には,本件に関する記事の中で以下の記述が出ている。
「棄却の決定を受け、主任弁護人の伊東秀子弁護士は「遺体の燃焼状況の矛盾点などを明らかにしてきたが、最高裁は何一つ判断を示すことなく『抗告理由に当たらない』という一言で退けた。あまりにもひどい決定にあきれ果てている」と語った。第2次再審請求を申し立てるかどうかは「(大越受刑者)本人の意向を確認したい」と述べた。」
冤罪事件で勝訴した八田隆氏も,この棄却の件について述べている。
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アメリカ社会の銃規制の難しさ
June 14, 2016
2016年6月12日の未明,アメリカのフロリダ州オーランドのナイトクラブで,一人の男が無差別の銃乱射を行ない,射殺された犯人を含めて50人が死亡し,53人が重軽傷を負った。アメリカでの銃乱射による史上最悪の大量殺傷事件となった。このニュースに驚くと同時に,またか,という印象も受ける。
20年以上前,私は大学の研究員としてアメリカの地方都市にいた。私達一家にとって,楽しくまた貴重な体験の多い日常であった。しかし,時おり,新聞やテレビでアメリカ社会の厳しい現実を知らされることもあった。 その筆頭が,人々の医療費負担の問題と,銃による事故や事件である。子供たちがハロウィンを楽しんでいた時,留学生の服部君がルイジアナ州で射殺されるあの事件が起きた。
日本の20倍以上の国土の中で,出身国籍,宗教,人種,さらに州によっては言語さえも異なる3億人以上の人々が住む "モザイク国家"。それがアメリカである。そのため,子供たちは "人種差別の禁止" を学校で厳しく教え込まれている。普通の日常生活や職場では "差別" を感ずることはない。アメリカ社会は,意欲と能力のある者に,経済力,人種,出身国,年齢,性別,宗教などに関係なく,勉学,昇進,起業などの機会を広く用意している度量の大きな温かい社会でもある。 大学,大学院生には多くの奨学金が用意され,さらに,支払った授業料は税額控除の対象となる。社会の貧困層の人々には無料で食事が出され,医療もなされる。
だが, ノーベル賞受賞者を何十人も輩出し, コンピュータ社会での優れたアイデアと技術で起業して億万長者となる者が続出する一方で,KKK団のような極端な人種差別主義集団が存在し続けるのも, アメリカ社会の現実である。世界最高の医療技術と設備を持つ国で,無保険であるために十分な医療が受けられない人々が大勢いること,銃による惨事とそれによる死傷者がいかに多くても,銃の所持を厳しく規制する法案が最終的にはいつも廃案となること,これらの事実はアメリカという "モザイク国家" の運営の難しさをつくづく思わせる。
国民皆保険の制度や銃規制の制度には,今も強固な反対者が大勢いるのがアメリカである。自分の身は自分で守るべし,個人に対する国家からの規制は出来る限り排除するべし,とする "独立精神に満ちたアメリカの開拓者魂" を尊ぶ国民性は今も健在のようだ。
アメリカの街には普通に銃の射撃練習場があり,銃の取り扱いと使用方法についてのトレーニング(講習会)もある。自分で持ち込んだ銃を使ってもよし。そこで借用した銃を使用してもよし。日本における室内ゴルフ練習場やバッティングセンターと同じである。
私もその射撃練習場に行き,実射の体験をしたことがある。最初に,拳銃の安全な持ち方,他人への拳銃の手渡し方,標的に向けての拳銃の構え方などの指導を受けた。22口径の弾丸とはいえ,その発射の反動は初体験者にとってはかなり強かった。
多くの州では、ライフルやショットガンの購入は18歳以上、ピストルの購入は21歳以上という年齢制限が設けられているが,銃の購入の手続き自体は簡単であり(州により多少異なる),所定の書類(狩猟免許証,運転免許証,SSナンバー,その他)があれば,申し込みをしてから一週間程度の身辺調査(犯罪歴の有無など)を経て購入できる。
射撃練習場には銃の売り場もあり(ネットでも,スーパーにもある),所定の手続きを経れば,外国人でも銃を購入できる。拳銃は400~600ドル,ライフル銃は1000~2000ドルである。軍用自動小銃の世界的名機であるカラシニコフ(AK47)は 1800~2000ドル。実際に持ってみると,これはかなり重い銃である。
アメリカのこうした現状を見ると,3億人以上の人々が住む "モザイク国家"では,「厳重なる銃規制」の実現は,当分無理であろう。
国民皆保険の医療制度と銃の不法所持禁止法の両方を達成した日本社会は,その点だけを言えば,アメリカに対して,いや世界に対して大きく胸を張れる "安全安心社会" であると私は思う。
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”専門職業大学” は失政の再来を招く
June 8, 2016
「職業大学 新設の必要があるのか」との社説が出ている(2016年6月1日 朝日新聞)。
”専門職業大学” 構想とは,50年以上前の ”安上がりの高専構想” の再来であろう。こんな ”構想” は廃案として葬るのが正しい。『専門職業大学』の実状を知らずに,間違って入学した純真な青少年が,卒業後に社会に出て損をするという,高専制度と同じ事態をくリ返してはなるまい。
50年以上も前の日本の高度経済成長期の時代要請に応えて,即戦力の実践技術者の育成を目指すと標榜しつつも,まともな理工学敎育の高等教育機関とは著しくかけ離れて粗製乱造された日本の工業高専は,創立当初から,文部行政の "失政の産物" であった。
高専の一般教育(1-3年)は,高校設置基準を満たしていない。加えて,高専行政では,高専における必修科目とは"履修が義務" であって "単位の取得が義務" の意味ではない。 よって,工業高専とはいえ,数学,物理,英語,実験など全てが不合格でも,教育課程が学年制(単位制ではなく)であるために,学生は進級ができ,進級すれば単位未修得の科目でも ”修得” と見なされ,卒業もできる。
即ち,"即戦力の実践技術者の養成" を建前として,基礎学問の修得を二の次としているのだ。 高専創立以來のこの実状を日本社会の人々が知ったら驚くであろう。 純真な少年達をこれほど馬鹿にした失礼でお粗末な ”教育課程” が許されるものだろうか。
数学,理科,英語など,どれをとっても,工業高専とはいえ卒業者(20歳)の中に,理系の大学進学を目指す進学校の高卒者(18歳)の学力に達している者はほとんどいない。高専の4,5年生(19,20歳)の中で,入試センター試験の問題を解ける学力に達している者はほとんどいない。高専卒業者の英語の学力はせいぜい中学3年程度。 工業高専のこうした惨状の原因は,決して学生の能力ではなく,高専という "安上がりの職業教育課程" に起因する。 加えて,既に40年も前から,日本では,理工学敎育の中心が大学院修士課程に移行しており,高専卒だけの敎育歴では,企業の中で,通常は,中心的な技術者にはなれない(そもそも,高専の創立当初から,企業は,高専卒業者にそこまでの要求はしていない)。
今日の高専には専攻科があるために,専門学科の教員の任用資格として博士号が必須であり,また教員の研究活動が奨励され,研究費獲得の自己努力が求められている。 しかし,研究者の世界で高専の教員が伍していくのは容易ではなく,そのため,高専の教員は大学院がない職場環境の中で悪戦苦闘しつつ研究を続けている。 ところが,高専教員の職務から研究の義務を除外した50年以上も前の法的な職務規定は,今もそのままである。即ち,文科省の高専行政は,高専教員の手足を縛っておいて "自力で泳げ" と言っているに等しい。
50年以上も前の創立当初から,高専が文部行政の "失政の産物" と言われる所以である。
大学レベルの高等教育の中で”職業訓練”を重視して実施するのであれば,その場は専門職大学院(大学卒業後に入学する)でなければならない。実際,アメリカの大学院はそうなっている。その内容は,私が知る限り,どれも学生に猛勉強を強いる ”職業訓練” である。(なお,これらに入学する前の大学での専攻分野は問われないのが普通である。)
専門職大学院を卒業したプロフェッショナルに必要なことは,ツブシが効き,自分の持つ専門知識や技術を広い見地から活用でき,「まともな意思決定ができる」ことであろう。 これらは,もちろん,大学院在学中だけでなく,就職後の仕事の中で継続的に訓練,陶冶されることにより可能となるが,それが可能になるための要件は,広い基礎教育が当人の中に培われていることであろう。
その意味で,今日の日本の大学教育の中での人文社会科学の分野の整理,縮小,廃止の構想や,”専門職業大学”構想などは,大学教育を安上がりの職業訓練に転落させる”危険な愚論”といえよう。 「専門職業大学」なるものについて,物理学者の大槻義彦氏(早大名誉教授)は以下のように述べている。私は全く同感である。
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『専門職業大学』とは言え、これは『専門』などとはほど遠く、『即戦力』を身につけた、まさに『実学中心職能大学』である。それに『観光』はともかく『情報技術』、『農業』というからまさに中級エンジニア(実学)要請である。
しかもこの『大学』は長期間の企業実習が義務づけられているではないか。
何? 実習だと? つまり学生はこの間大学には行かず、企業で働けというわけである。
一体これが大学と呼べるのか。
この間,大学は授業をやることがない。噂によるとこの中央教育審議会の中で議論されたときその中身が噂となって流れている。なんとこの『長期の実習』は全単位数の半分ぐらいと想定されている。してみると,この国立大学は通常の大学の半分しか授業をしないのだ。その分,教授の数も半分以下、教育研究費も半分以下。
しかし,学生としてはたまったものではない。『実習』という名で企業でこき使われて、その合間に大学にもゆく。 なんのことはない、これは体のよい『定時制大学』ではないか。喜ぶのは企業側。まさに安手で安易な労働力が手に入るのだ。
それなら,一体この答申を出した中教審とは何だ。会長は財界のトップ中のトップだった。三井住友銀行会長。なんとなんと,三井財閥、住友財閥の中心人物。いわば産業界の思惑を代弁するのにこの人物をおいて他にはない。
学問の最後の砦、国立大学が産業界の思惑で安手の技能者養成になりさがった先進国の姿に愕然とする。
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アメリカに赴任する君へ
May 26, 2016
来月早々に,社命により,カリフォルニア州の市に赴任するとのこと。我が研究室のOBの中に,海外赴任者がまた一人増えましたね。その前の駆け込みというわけか,この数日は,あえて蕎麦や丼物や天ぷらなどの日本食を,頻繁に食べているとの話には,笑ってしまいました。私はその市には行ったことがありませんが,そこに住んでいた人によると,日本人が多く(そのために日本人学校,日本語学校,日本人会がある),日本料理店も多いらしいです。その点ならば,ロスアンゼルスやサンフランシスコも同じです。 一般に,日本人が多くいるカリフォルニアの町以外では,アメリカの日本料理店は,かなり値段が高い(ヨーロッパでは,さらに高い)。
20年以上前ですが,ケンタッキー州のレキシントンにいた私達家族は,日本料理店には高すぎて入れず,その代わりに,安くて美味しくて,量もあった中華料理店によく行きました。 普通の都市では,日本食材を扱っている店が必ずあり,自宅にて普通の日本食による生活が出来るので御安心を。 特に,カリフォルニアであれば,美味しいカリフォルニア米が入手でき,また,日本食材には不自由しないはずなので,御家族共々,安心して日本食の生活が送れるでしょう。
アメリカは車社会なので,当然,君も車を購入すると思いますが,AAA(日本でのJAFに相当する)には必ず加入すること。支払う会費に比べて,受け取るメリットがはるかに大きいのです。もし,君が既にJAF の会員であれば,JAF とAAAは提携しているので,AAAの事務所でその会員証を提示すると,さまざまな旅行のサポートが受けられます。アメリカ全州の詳細な地図やガイドブックがもらえるのはもちろん,レンタカーもホテルも,ディスカウント料金で済みます。
現地の幼稚園や小学校に子どもを入れるときには,出生時からの日本での予防注射履歴の証明書が必要なので,母子手帳と予防注射証明書の英文訳を提出することになります。おそらくそうした手続きは会社の総務課や同僚が教えてくれるでしょう。アメリカでは,子どもが義務として受ける予防接種の本数が日本とは違うので,日本から来た子どもは,幼稚園や小学校に入る手続きの時の義務として,不足分の予防接種をしないといけない。我が家の子供たちも,アメリカ入国後に数本の予防接種を受けました(かなり,高いです)。
「以心伝心は,ありえない」,「言ったことのみが相手に伝わる(言わなかったことは伝わらない)」,「無口は無能の証明」,「能ある鷹はツメを出す(能のない鷹はツメが出せない)」,「相手のいうことに黙っていることは,了解したものとみなされる」,「他人を尊重し,他人との違いを出そう」。 アメリカは多民族国家(人種,出身国,宗教が,時には言語も違う)なので,これらは当然のことです。 これにしっかりと慣れるまでに少し時間がかかりますが,慣れてしまえば,かなり,気が楽になります。
昔と違って,今はインタネットにより,日本の親兄弟や友人との連絡には何の支障もなく,しかも,無料ですから,日常生活には何の支障もないはずです。カリフォルニア州の南部を旅行すれば,毎日がまさに「カリフォルニアの青い空」。
外国で仕事をしていると,日本におけるとき以上に,家庭がうまく行っている時は仕事もうまくいく。仕事がうまく行かない時は家庭もうまくいかない。仕事と家庭は大切な両輪なのですね。私の体験から,それを断言できます。
せいぜい,家族を大切にし,あちこち旅行をして,アメリカ生活を楽しんで下さい。君自身はもちろん,御家族にとっても一生の思い出ができることでしょう。
時々の滞在報告を楽しみにしています。
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沖縄の米軍犯罪を絶滅するには
May 22, 2016
沖縄で,駐留アメリカ軍関係者が若い日本人女性を殺害するという重大犯罪事件が,またまた起きた。駐留アメリカ軍関係者によるこうした重大犯罪は,今までに数えきれないほど多くある。これらをなくすには,「アメリカ軍を沖縄から移転させる」以外に解決策はない,と私は思う。
沖縄駐留アメリカ軍の主力である海兵隊は,日本の防衛のための戦力ではない。アメリカの政策で動くアメリカ軍のための特殊攻撃部隊である。北朝鮮のミサイルや中国の艦船から日本を守る戦力ではない。 そもそも,「米軍は極東の平和と安全のために日本に駐留している」,「日本駐留の米軍が日本を守っている」は,とんでもない誤りである。
日米安保条約の内容は,NATOとは違う。アメリカには「日本を防衛する義務」はない。日本が攻撃を受けた時に,それが「アメリカにとって脅威と認められた場合」にのみ,合衆国憲法により,アメリカ議会の承認を経てアメリカ軍が動くということである。
沖縄の駐留アメリカ軍による犯罪を絶滅するべく沖縄から退去させるためには,日本国民として「自国の防衛政策をどうするのか」についての充分な自信が確立していなければならない。 沖縄の米軍基地の国外移設問題は,必ず,日米安保条約の正否と日本の国防政策を合わせた3点セットで再検討しなければならない。 そうでなければ合理的な解決策は決して出ない。
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久々に見た死闘
May 19, 2016
2016年5月19日。快晴の新潟市。自宅の窓から外を見ていると,偶然に,近くの水田で,やや大きいシマヘビとカラスの死闘の真っ最中の様子が見えた。
すぐに,常時スタンバイしている愛機 Nikon CoolPix P510 を取り出し,最大ズームでその動画を撮影した。三脚をセットする余裕はなかった。「お~い,カラス,もうそのへんで許してやれよ」との声が出そうになった。はるか昔の子供の頃 (新潟県長岡市の宮内地区)以来,こういう場面に出会ったのは何十年ぶりだろう。
最終的には,カラスがシマヘビの頭部をくわえてあぜ道に上がり,何回か突っついた後に,大して美味しくないと思ったのか,動かなくなったシマヘビを残してそのカラスは飛び去っていった。
負けたシマヘビ君は頭部に重傷を負い,動かなくなった。弱肉強食,適者生存の世界は厳しい。だが,約一時間後に再び見に行くと,もはやその姿はなかった。幸いに自力で回復できたか,あるいは再びそのカラスが来てくわえていったのだろうか。
この辺は自然が豊か!
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防衛省との研究協力のあり方
May 16, 2016
2016年5月16日 の東京新聞朝刊には下記の記事が出ている。
「防衛省と大学・研究機関で現在も継続中の主な研究協力」の一覧表を見ると,その発展的な用途がどうあれ,どれも重要な研究課題だと思う。
最初は不可能かと思われた高度な技術の開発目標が,国内外の多くの科学技術者による果敢な粘り強い挑戦により達成され,その偉大な成果が民生用にも軍事用にも応用され,今日では,それらなしには現代社会が成り立たない例が無数にあることは周知のとおりである。
どのようなものが軍事研究であり,どのようなものが軍事研究ではないといえるのか,を詳細に明示せず(実は,それはきわめて困難だが,その議論を避けることはできない。),また,今日の数えきれないほど多くの優れた民生用科学技術の開発の動機と,その開発過程の詳細な検証を怠り,防衛省との研究協力を,全て「軍事研究であるから反対」と一括りにすることは,思考の停止であり,正しくないと私は思う。 それは,結局は、基礎科学、基礎工学の研究をすべて否定することにならないだろうか。
私は,軍事研究も良い,と言っているのではない。 科学者の職業倫理として,また,通常の社会通念として,重要なことは,「全ての基礎科学,全ての基礎工学は軍事技術に利用される可能性がある」ことを十分に認識することなのだ。 それを前提とした上で,「非人道的な殺傷兵器の開発」への転用を厳しく監視,禁止する社会システムとコンセンサスを確立し,その転用への歯止めとなる社会的規約を構築することが必要なのだ。 情報公開法の権限の強化,防衛省との協力による”研究成果の概略”の公開の義務化なども,もちろん,必要であろう。
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「防衛省と研究協力が急増 「軍学共同」15年度23件」
2016年5月16日 東京新聞朝刊
防衛省と国内の研究機関が技術交流する研究協力協定に基づく研究が二〇一四年度から急増し、一五年度に継続中の研究が二十三件に上ったことが、防衛省への取材で分かった。協力協定に基づく研究は〇四年度に始まり、一三年度までは最多で十四件だった。第二次安倍政権は一三年十二月に「軍学共同」路線を打ち出しており、専門家は「政権の意向を反映し、協力協定による軍学交流が進めば、大学などでも公然と軍事研究が行われるようになる」と指摘する。 (望月衣塑子)
防衛省は大学や国立研究開発法人などが持つ優れた技術を積極的に導入することを目的に、〇四年度から研究テーマごとに協力協定を結び始めた。同年九月に宇宙航空研究開発機構(JAXA)と耐熱複合材技術の研究に関して初めて協力協定を締結した。
以後、東京消防庁、帯広畜産大、帝京平成大、東京工業大、慶応大などと協定を結んだ。研究協力の期間は最短三年で、十年以上続く研究もある。〇四~一三年度の十年間に始めた研究協力は各年度一~五件で、一三年度に継続中の研究は十四件だった。
一二年十二月に発足した第二次安倍内閣は一三年十二月に安全保障戦略と防衛計画大綱を閣議決定。「大学や研究機関との連携の充実、防衛にも応用可能な民生技術の積極的な活用」などと、軍学共同を推し進める政府方針を打ち出した。
これを受けて防衛省は一四年六月、大学や研究機関との連携強化を盛り込んだ「防衛生産・技術基盤戦略」を策定。一四年度に八件の新たな研究協力が始まり、同年度に継続中の研究は二十件、一五年度は二十三件に達した。
防衛装備庁技術戦略部は協定が増えた理由を「防衛計画大綱や防衛省の新戦略で大学などとの連携の機運が高まった。技術者同士の交流を通して防衛省との技術交流を本格的に進めようとする声が出てきたことも影響している」と説明する。
軍学共同に反対する署名の呼び掛け人で海洋研究開発機構の浜田盛久研究員は「防衛省は大学や研究機関の研究者が持つ高度な技術を武器開発に取り込みたいのだろう。しかし、大学や研究者の技術は本来、軍事や特定の国家のためではなく、人類・社会の平和的発展のために用いられるべきだ」と批判する。
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タブーに切り込む報道を
May 13, 2016
Livedoor News (2016年5月9日)の宮島みつや氏の記事(下記)は正鵠を射ていると私は思う。報道に携わる者は,心ある専門職としてのプライドがあるならば,"巨悪を見逃さず,タブーに切り込み,追及を継続する” ことが職業倫理であろう。
”小悪”なんぞを,面白おかしく叩いて記事にし,一時的に社会の喝采を浴びたところで,後で振り返れば,叩きやすいところ(者)を叩き,安全圏をくぐり抜け,首尾よく ”報道記者としての体裁” を維持した自分が惨めに思え,事大主義に転落した自分の姿に恥ずかしさを覚えるだけであろう。しょせん”線香花火”に過ぎなかったことに気づき,職業記者としての自分が空しくなるであろう。
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舛添要一東京都知事の税金を使った贅沢三昧が次々と判明し、批判が殺到している。
約2年間で8回の海外出張に費やされた経費は計2億円以上、本人は一泊20万円のスイートルームにも宿泊していたという。さらに「週刊文春」(文藝春秋)が報じた、ほぼ毎週末、公用車で湯河原の別荘へ通っていた問題......。
各社報道によれば、舛添都知事の海外出張の宿泊費は、都条例が定める1泊あたりの上限を最大で3.8倍も上回っている。もちろん原資は血税だ。また、毎週末の別荘移動についても、地震などの非常時に都知事としてすぐ対応できるとは思えない。新聞やテレビも徹底追及の構えを見せ、連日のように報道しているなか、舛添都知事は疑惑を払拭できない限り、即刻辞任が妥当なところだろう。
だが、この問題では、舛添都知事をフクロ叩きにしているマスコミがなぜか一切ふれない事実がある。それは、東京都知事の豪遊、税金での贅沢三昧が、石原慎太郎・都知事の時代から始まっていたということだ。いや、それどころか、1999年から2012年まで続いた石原都政での知事の"公私混同"は舛添都知事を遥かに上回っていた。
たとえば、04年、「サンデー毎日」(毎日新聞出版)が「『知事交際費』の闇」と題した追及キャンペーンを展開したことがある。「サン毎」が情報開示請求を通じて明らかにしたのは、高級料亭などを使って一回に数十万単位が費やされていた「接遇」の実態だった。
これは、他の知事と比べても突出したもので、しかも相手の顔ぶれを見ると、徳洲会理事長の徳田虎雄氏や文芸評論家の福田和也氏など、ほとんどが石原氏の友人やブレーン。
ようするに石原氏は"お友達"とのメシ代に税金を湯水のごとくぶっ込んでいたのだ。
さらに、海外視察も豪華すぎるものだった。石原氏は01年6月、ガラパゴス諸島を視察しているが、公文書によれば、その往復の航空運賃は143万8000円、もちろんファーストクラスを利用していたとみられる。しかも、この視察で石原氏は4泊5日の高級宿泊船クルーズを行なっており、本人の船賃だけで支出が約52万円。 この金額は2人部屋のマスタースイートを1人で使った場合に相当するという。なお、随行した秘書などを含む"石原サマ御一行"の総費用は約1590万円だった。 訪問国や為替レートを考えると、これは、今問題になっている舛添都知事と同じ、あるいは、それ以上の豪遊を税金を使って行っていたといっていいだろう。
ところが、当時、この「サンデー毎日」のキャンペーン記事を後追いするメディアは皆無。世論の反発も怒らず、追及は尻すぼみに終わった。しかし、その2年後、石原氏の"無駄遣い"が再び発覚する。
発端は、共産党東京都議団の追及だった。しんぶん赤旗06年11月16日付によれば、石原氏が都知事に就任してからの19回の海外出張のうち、資料が入手できた15回だけで、総経費が2億4千万を超えていた。たとえば、06年5月からのロンドン・マン島出張では、本来の目的であるはずの五輪の調査は実質約1時間半にもかかわらず、マン島でのオートバイレース見物などをして3600万円もの経費をかけていたという。
この再燃した豪華外遊問題に加え、石原氏が自分の四男のプロジェクトに都の税金を億単位もつぎ込むなど、身内を重用したことも問題視された。そして、湯水のように使っていた交際費についても、裁判で一部が「違法」と認定され、09年に石原氏の敗訴が確定している。 つまり、先に述べたとおり、東京都知事の公私混同&贅沢三昧は、石原都政の頃からすでに顕在化していたのだ。
さらに言えば、舛添都知事は「湯河原へ行っているときに大地震が起きたら指揮がとれないだろ!」と糾弾されているが、実は、石原氏にいたっては、都知事でありながら登庁すらせずに、たびたび"行方不明"になっていたという。 「サン毎」は04年1月25日号で石原氏の「勤務実態」についても追及しているのだが、入手した公文書によれば、石原氏の"出勤"は週平均でわずか3日程度。また、公用車の運転日誌によれば、登庁日も自宅を出るのはだいたい午前10~11時ごろだったという。
企業の相談役でも石原氏よりは"出勤"しているのでは?と思えるサボりっぷりだが、しかも問題は、知事日程表にしばしば登場する「庁外」なる文言だ。これは、知事の動向を職員たちが把握していない日を指す。つまり"動静不明"なわけだが、これが資料に記された1年間7カ月の期間で、なんと110日も数えられたという。
つまり、今、舛添批判のひとつとなっている「都知事が緊急時に連絡がつかない」という問題についても、石原氏はその"先駆者"と言えるのだ。 いや、一応湯河原の別荘にいることが分かっている舛添都知事と比較してみると、職員らが行く先を把握していなかったという石原氏のケースは「危機管理」の観点から見ても、よっぽどトンデモだろう。
では、なぜ、目を爛々とか輝かせて舛添都知事を追及しているマスコミがあの時、石原都知事の問題を徹底追及しなかったのか。それは、石原批判が多くのメディアにとって"タブー"だからだ。
ご存知のとおり、石原氏は芥川賞選考委員まで務めた大作家であり、国会議員引退後、都知事になるまでは、保守論客として活躍していたため、マスコミ各社との関係が非常に深い。読売、産経、日本テレビ、フジテレビは幹部が石原べったり、「週刊文春」「週刊新潮」「週刊ポスト」「週刊現代」も作家タブーで批判はご法度。テレビ朝日も石原プロモーションとの関係が深いため手が出せない。
批判できるのは、せいぜい、朝日新聞、毎日新聞、共同通信、TBSくらいなのだが、こうしたメディアも橋下徹前大阪市長をめぐって起きた構図と同じで、少しでも批判しようものなら、会見で吊るし上げられ、取材から排除されるため、どんどん沈黙するようになっていった。その結果、石原都知事はどんな贅沢三昧、公私混同をしても、ほとんど追及を受けることなく、むしろそれが前例となって、豪華な外遊が舛添都知事に引き継がれてしまったのである。
にもかかわらず、舛添都知事だけが、マスコミから徹底批判されているのは、今の都知事にタブーになる要素がまったくないからだ。それどころか、安倍政権の顔色を伺っているマスコミからしてみれば、舛添都知事は叩きやすい相手なのだという。
「安倍首相が舛添都知事のことを相当嫌っているからね。舛添氏は第一次安倍政権で自民党が参院選で惨敗した際、『辞職が当然』『王様は裸だと言ってやれ』と発言するなど、安倍降ろしの急先鋒的存在だった。安倍首相はそんな舛添氏の口を塞ごうと内閣改造で厚労相にまで起用したが、内心ではかなり舛添に腹を立てていた。都知事になってからも、五輪問題で安倍の側近の下村(博文・前文科相)を批判したり、憲法問題で『復古的な自民党改憲草案のままなら自分は受け入れられない』などと発言をする舛添都知事のことを、安倍首相はむしろ目障りだと感じていたはず。 だから、今回の件についても、舛添が勝手にこけるなら、むしろいいチャンスだから自分の息のかかった都知事をたてればいい、くらいのことを考えているかもしれない。いずれにしても、官邸の反舛添の空気が安倍応援団のマスコミに伝わっているんだと思うよ」(政治評論家)
実際、普段は露骨な安倍擁護を繰り返している安倍政権広報部長というべき田崎"スシロー"史郎・時事通信社解説委員なども、舛添に対してはうってかわって、「外遊なんてほとんど遊びだ」と激しい批判を加えている。 一方で、石原元都知事にその贅沢三昧のルーツがあることについては、今もマスコミはタブーに縛られ、ふれることさえできないでいる。
舛添都知事の不正を暴くのは意味のあることだが、「マスコミもやる時はやるじゃないか」などと騙されてはいけない。強大な権力やコワモテ政治家には萎縮して何も言えず、お墨付きをもらった"ザコ"は血祭りにする。情けないことに、これが日本のメディアの現状なのである。
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トランプ氏の主張は日本の好機かもしれない
May 6, 2016
最近の新聞には,共和党のアメリカ大統領候補になることが確実になったドナルド・トランプ氏が,「日本に米軍が駐留し続けるならば、全費用を日本が払うべきだ」と断言したことについて,あれこれの憶測と懸念が出ている。下記はその典型である。
「日本政府や与党には警戒感が広がっている。」
「トランプ氏が大統領に当選した場合には、日米安全保障条約の見直しや、駐留米軍費用の負担増などで日本への要求を強める可能性があるためだ。日本政府はトランプ陣営とのパイプの構築を急ぎ、対日政策の軌道修正を促していく構えだ。」
しかし,これらの報道内容は,もともと分かりきっていることの二番煎じであり,国民への説得力や新鮮味が全然ないと,私は思う。”日米安全保障条約” や 不平等極まりない ”日米地位協定” などの見直しや撤廃の必要性は,昔からしばしば言われていることであり,今頃何を言っているのか,と思う。これらの報道は空疎なカラ騒ぎにすぎないと思う。
沖縄駐留アメリカ軍の主力である海兵隊は,日本の防衛のための戦力ではない。アメリカの政策で動くアメリカ軍のための特殊攻撃部隊である。北朝鮮のミサイルや中国の艦船から日本を守る戦力ではない。 そもそも,「米軍は極東の平和と安全のために日本に駐留している」,「日本駐留の米軍が日本を守っている」は,とんでもない誤解であろう。
( 日米安保条約の内容は,NATOとは違う。アメリカには「日本を防衛する義務」はない。日本が攻撃を受けた時に,それが「アメリカにとって脅威と認められた場合」にのみ,合衆国憲法により,アメリカ議会の承認を経てアメリカ軍が動くということである。日本海に向けた北朝鮮からのミサイル発射や尖閣諸島問題などは,アメリカにとっては無関係であり,全くの対岸の火事にすぎない。北朝鮮が最短距離でアメリカを攻撃する場合のミサイルは,シベリアと北極海の上空を通る。)
40年前にベトナム戦争が終結し,さらに30年も前に米ソの冷戦構造も消滅したために,米軍が沖縄に駐留する意味も無くなってしまった。加えて,今後に,中国や北朝鮮と日本が良好な外交関係を築き始めれば,ますます,日本に駐留する米軍の存在意義が薄れる。
現在では,日本に駐留する米軍に,毎年,日本が巨額の”思いやり予算”を拠出していることにより,アメリカは ”米軍本体の維持費”を日本から援助してもらっており,助かっているのである。沖縄駐留の米軍の経費の75%は日本政府が負担しているのだ。
”思いやり予算”なるものは,法律的な根拠が全く無く,あくまでも日本政府が国税の中から自主的に好意で駐留米軍に供与しているお金である。 当初は年間数十億円であったが,年々増え続け,2011年度には1858億円,これに基地周辺対策費や提供普通財産借り上げ試算,米軍再編関連費,などを加えると日本の負担は,今日では6000億円以上となった。
アメリカが日本駐留の全ての米軍を本土に撤収したならば,その米軍の巨額な維持費を全てアメリカが自前で負担することになる。そのため,結局は,その米軍を日本に代わる他国へ駐留させることになろう。
「大統領就任後に,米軍駐留費用の全額負担を日本に求め、応じなければ在日米軍の撤収を検討する」とするトランプ氏は,それにより,実は2000兆円もの巨額の債務国であるアメリカ自体が,ますます苦しくなることを知らないようだ。
結局,「日本に駐留する米軍の全費用を,全て日本が支払え。」とするトランプ氏の主張は,日本にとってむしろ好機ではないだろうか。
日本としては,その支払いを拒否するのが良い。それにより駐留米軍が日本から撤収してくれれば,沖縄米軍の普天間基地もなくなる。巨額の”思いやり予算”も不要となる。加えて,仮に,そのような巨額の予算を日本の国防費に回すとすれば,自衛隊という日本の戦力を十分に増強,維持でき,中国や北朝鮮への日本独自の対応も増強できよう。もちろん,それはアメリカと日本との友好関係を阻害することでもない。
元外務次官の故村田良平氏は,その著書「何処へ行くのか,この国は」(2000年,ミネルバ書房)の中の第3章第9節「思いやり予算の問題」(P.125~)で,こう述べている。
「(在日米軍)駐留費の日本側負担は,1995年には72%となった。..... いまや,..... 80%となっている。駐留費の総額中約20%しか負担していないドイツとの差は大きすぎる。..... 万事にわたり(日本に)甘やかされてきた米軍は,日本の(思いやり予算の減額交渉における)譲歩を当然視し,日本の当然の減額要求への理解を示さなくなってしまった。こうなってしまったのは,日本側にも自主性が欠けすぎて米軍を甘やかしていたからで,..........」
また,第10節「地位協定の見直し問題」(P.128~)で,こう述べている。
「 思いやり予算の問題の根源は日本政府の ”安保上,米国に依存している”との一方的な思い込みにより,その後,無方針にずるずると増額してきたことにある。」
「米国は日本の国土を自由,勝手に利用し,........片手間に日本の防衛も手伝うというのが安保条約の真の姿である以上,日本が世界最高額の米軍経費を持たねばならない義務など本来ない。.........(米国は金銭ではかり得ない政治的軍事的利益を日本から得ていることを米国に認めさせた上で)地位協定全体の妥当な見直しを(米国に)要求するべきだ。」
「日本がかかる要求(思いやり予算の減額)をすれば,米国は憤り,安保体制解消すら言い出すかもしれない。それならそれで良い。」
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大阪東住吉事件と恵庭OL殺害事件
May 2, 2016
2000年3月17日の早朝,北海道恵庭市北島の雪に覆われた砂地の農道で,若い女性の黒焦げの焼死体が発見された。事件性があることは明らかであったが,事件直後からその女性と会社の同僚である一人の若い女性が警察にマークされ,後日,殺人と死体損壊の疑いで逮捕された。
しかし,直接の証拠が全くなく,被疑者の女性には殺害の動機もなく,もちろん,彼女も一貫して犯行を否定し(警察での強引な取り調べにより心身不調となり,一時的に精神科に入院した),さらに,被疑者の女性がガソリンスタンドで給油している姿のビデオ画像と,その時刻により,彼女にはアリバイ(現場不在証明)があった。
ところが,裁判における起訴状の内容は,大柄な体格の被害者に比べて身長が15cmも低いかなり小柄で体力的にも劣る被告が「三角関係のもつれにより,被害者を車の中で絞殺し,車から農道に引きずり下ろし,灯油10リットルをかけて火を付け,焼損させた」とするものである。
被告の若い女性には最高裁で懲役16年が確定した。弁護団により再審請求がなされが,2014年4月21日に札幌地裁はそれを棄却した。直ちに弁護団が抗告したが,2015年7月17日,札幌高裁はその抗告を棄却したために弁護団は最高裁へ特別抗告している。
この事件記録と裁判記録を見ると,直接の証拠がないことも無視し,殺害の動機がないことも無視し,アリバイの存在も否定し,雪に覆われた砂地の農道で灯油10リットルをかけて焼かれたとする遺体が,本当に内部にもわたって黒焦げに焼損するのか否かの詳細な検討もなく,初めから起訴状に沿って作文した,あ然とするばかりの無責任な判決であり,明らかに冤罪であることが普通の人には直感できる,と私には思われる。
再審請求を棄却した判決にてその根拠とされた一つに,検察側が提出したある大学教授の ”意見書” がある。 その ”意見書” なるものは,鑑定者自身が全く実験をやっておらず,空疎な推論を構築しただけものであり,そのため,内容には初歩的な間違いがある。こんな鑑定意見書で,裁判官はよくぞ判決文を書けたものだと,私は呆れると同時に,裁判官の勉強不足には腹立たしさを覚えた。
私は,弁護団に協力することにし,その ”教授” のデタラメな鑑定意見書について仮借ない批判を展開した鑑定意見書を作成し,弁護団に提出した。学問研究者の一人として,私はその人物の姿勢を許すことが出来なかった。
その大学教授のHPを見ると,肩書には ”警視庁顧問” とある。顧問とはいえ,こんなデタラメな推論で意見書を作成するとは,一体,この人物には学問研究者としての良心のカケラもないのか,と驚いてしまう。 火災,爆発関係の研究者の間では,裁判において,この ”教授” はいつも「検察側の証人」として登場する,有名な人物として知られているようだ。
今日(2016年5月2日),大阪地裁における ”大阪東住吉事件の再審公判” にて,検察側が「有罪の主張、立証はしない。裁判所にしかるべき判断を求める」と述べたために,無期懲役として20年も服役させられていた2名には今年の8月10日に無罪判決が出ることが確定的となったが,その大阪東住吉事件の裁判においても,検察側証人となり,後に,弁護側と検察側の双方の鑑定実験でも内容が否定された ”鑑定意見書” を作成した人物が,その”教授”である。
弁護士の今村核氏は,その著書「冤罪弁護士」(旬報社)の第5章のP.122 で,また,「冤罪と裁判」(講談社現代新書)のP.173 にて,冷静な筆致ながらその "教授” の姿勢を厳しく批判している。
この「恵庭OL殺害事件」は冤罪の疑いが極めて濃厚な有名な事件であり,今日では,インタネットにて広く公開されている。
もと裁判官であった方々や監察医などからも,多くの疑問が出されている。
本件を担当している弁護士の伊東秀子氏による下記の書は,この事件を克明に記述しており,読む者に強い説得力を持つ。
「恵庭OL殺害事件-こうして「犯人」は作られた」(2012年 日本評論社刊)
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原子力発電は経済的にも不合理
April 21, 2016
日本の電力供給事情を良く見てみると、実は、現在の日本では原発がなくても大丈夫なのである。福島の事故以来の5年間の日本の電力供給状況を見ると、それが証明されているのである。電気製品の省エネルギ技術は日々進歩している。また,自然エネルギー、とくに太陽光、風力エネルギーの利用が急速に進んでおり,今日ではこれらのエネルギーが増えており「送電線がパンク状態」と発表されている。
では、電力会社や経済界が、それでもなお原発の再開を要求するのはなぜか。
何の事はない。電力会社の経営者が「原発は利益率が高い」と誤解しているのである。さらに,経済界による近視眼的な安手の商売根性に過ぎない。
2016年3月に,大津地裁は関西電力高浜原発3、4号機の運転差し止めを命じた。それに対して,関西経済連合会の角和夫副会長(阪急電鉄会長)は会見で「なぜ一地裁の裁判官によって国のエネルギー政策に支障をきたすことが起こるのか」、「憤りを超えて怒りを覚える」と語ったという。
報道によれば,再稼働による電気料金の値下げで、阪急電鉄だけで年間5億円の鉄道事業のコスト減を見込んでいたようだ。関西にはパナソニックやシャープ、中小企業の集積地がある。「関西全体ではかなり大きな影響になる」と見込んでいたようだ。
しかし,2年前、関電大飯原発3、4号機の運転差し止めを命じた福井地裁の判決は,「多数の人の生存に関する権利と、電気代の高い低いの問題などを並べて論じること自体、法的には許されないことである」と述べているとのこと。それは当然であろう。
現在の原発の技術水準では、原発導入による、実際の収支は良くない(導入のメリットがない)ことがわかっている。つまり、莫大な建設費用、燃料廃棄物の処理費用(その処理方法さえも今だに未解決問題)、安全対策費用、事故後の莫大な補償費用と大規模な放射能汚染,などを考慮すると、現在の技術水準のままでは、原発は採算的にも全然割に合わないのである。 ドイツをはじめヨーロッパでは脱原発をめざしている。
幸いに今日の日本では,建設後40年以上過ぎた原発を原則的に廃炉とする動きが広がっている(その「原発40年規制」を骨抜きにしようとする安倍政権への危惧を指摘する声もある。2016年4月21日,朝日新聞 社説)。 日本原子力発電は,廃炉事業を専門とするアメリカの会社(エナージー・ソリューションズ)から廃炉技術の導入を決定した。
こうした中で,熊本大分大地震の余震が続いている現在でも,”川内原発は大丈夫” と強弁する丸川大臣の姿は,まさに電力業界の操り人形に見える。これでは,マスコミから袋叩きにあっているのは当然である。
なお、現状の原発を否定することは、「原子力エネルギの利用」そのものを否定することではないことは、勿論である。 今後,放射能に危険がないような、あるいは抜本的に少ないような、新しい原発、例えばトリウム改良型、核融合などの研究開発を推進すべきであると,物理学者は主張している。
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2016 熊本大分 大地震
April 19, 2016
2016年4月14日の夜9時26分頃,熊本県益城町で直下型の大地震(M7 ~ 6)があり,それに端を発して,大分に至るまでの九州を横断する活断層に沿った地域で大きな地震が続いている。
熊本城,阿蘇神社も大破壊された。現在,死者45名を含む多数の死傷者が報告され,余震がまだ続いている。被害者の方々には同情するとともに,被害を受けた地域社会の早急の復興を望む。こうした大地震を、私は2回体験した。
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Rowing 再開の春
April 18, 2016
高校時代(もはや50年もの昔だが)の部活の後輩が,素敵なHP を開設している。 嬉しく,また,誇らしく思う。
新潟の長い冬が明けた4月の土曜日は、NRC(新潟 Rowing Club )の早朝練習日。朝6時に信濃川に出艇。
自分の子供よりも20年近くも年少の後輩(高校ボート部員)たちの視線を背に受けて,
老体(とは,思いたくないが)の背に ”ウルマンの「青春」”を誇示して,信濃川にて,熟年のメンバーたちと協力して、今年もエイトを力漕している。
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”君が代” 斉唱の強制
March 24, 2016
昨年(2015年)以来、文科省と文科大臣から、国立大学に対して、卒業式で「君が代」を斉唱するべく、あれこれの無言の圧力がかかっている。当然のこととして、多くの教員からはかなりの反発(と無視)が出ているが、斉唱しないことによる、文科省からの予算配分での冷遇を危惧することにより、国立大学の卒業式での斉唱が、少しづつ広がっているようだ(2016年3月24日、朝日新聞)。
1999年に「君が代」が小渕内閣により突然に制定され,全国の公立の小中学校,高校で斉唱するべく強制されるようになった。 広島の県立高校の校長が卒業式における君が代斉唱問題に悩んで自殺したことをきっかけに,満を持していた政府与党内右派と文部科学省による法制化が性急に強行された。 国民の間に多くの批判意見があったにも拘わらず,国会での充分な審議が全くなかったことは周知の通りである。
文部科学省は,「君が代の斉唱」を「強制ではない」と強弁しつつも,実質は,各県の教育委員会を通して公立学校における「君が代斉唱」の強制を要求し,斉唱の実施状況の点検とその報告を要求している。 毎年、入学式や卒業式の季節になると,各県の教育委員会から「君が代斉唱」の職務命令が出され,その斉唱の実施状況の報告が学校長に求められている。毎年の春,教育現場における管理職と教職員との軋轢がこうして繰り返され,教育委員会も学校長も,ジレンマの渦中に陥る。
私自身は,”日の丸” の日本国旗は大好きであるが,小中学校の時に (歌詞の意味を知らないまま) 式典のたびに歌わされた ”君が代” はどうしても好きになれなかった。
高校時代に,”君が代” は日本国民全体の平和と繁栄を希求する歌では全くなく,単に,”天皇制の維持” と ”忠君愛国” を日本国民に鼓舞する歌でしかないことを知り,以來,今日に至るまで、どのような場合でも(私も国立学校の教員であったが),”君が代斉唱” なんぞに協力したことは一度もない。 馬鹿らしくて,情けなくて,さらに,戦争中(昭和天皇がその開戦を決断した)に日本軍からの暴虐を受けたアジアの人々、そして、その子孫である周囲の留学生たちに申し訳なくて,こんな失礼な(その上,陰鬱で暗い)歌を斉唱などする気には到底なれないのである。
"君が代" が,日本の国民全体を主体とし,その繁栄を希求して謳う歌では決してなく,実質的には,明治以来の天皇の長寿を願い,皇国思想を賛美するだけの歌でしかないことは,多くの識者がしばしば指摘していることである。下記の本は大変に参考になる。
「日の丸,君が代の戦後史」(田中伸尚 著,2000年 岩波新書)
だが、それだけではない。 君が代の斉唱を強制させる政治動向には,今までの幾度かの戦争において日本の軍国主義がアジアの諸国民に与えた甚大な被害に対する無言の頬かむりと無反省の影が色濃く付きまとう。 日本の軍国主義により,すさまじい暴虐と陵辱の被害を受けたアジア周辺の諸国から強い批判が出るのは当然である。
一方,私のようには思わない人々も当然いよう。それで良い。色々な考えがあって良い。要するに個々の人間(国民)の思想や信条を,時の政府の意向で拘束してはならないのである。普通の日本国民であれば誰もが,素直に気持よく斉唱できる歌を ”国歌” にしたらどうだろうか。そのような歌を広く日本国民から募集したらどうだろうか。 例えば,私は,”うさぎ追いしかの山,小ブナ釣りしかの川......” で始まる歌 ”ふるさと” が大好きである。もし,これが国歌として式典にて斉唱されるのであれば,私は素直に気持ちよくその斉唱に参加したい。
毎年問題になる,閣僚による靖国神社参拝も同様である。戦没者を弔い,永久の不戦を誓う気持ちは,誰もが同じであろう。そうであれば,その場が戦争責任者(A級戦争犯罪人)も多くの普通の兵士も,一緒に祀られている靖国神社である必然性は全くない。
むしろ,日本国民に求められていることは,宗教色を排除し,戦没者の合同慰霊碑を建立することであろう。そこに,日本国民が,戦没者を弔い,永久の不戦を誓う気持ちで慰霊することは,至極当然のことであり,世界中の誰にも納得でき,また,アジア諸国から何の反発もないはずである。
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日没の夕陽で知る地球の公転
March 16, 2016
新潟市秋葉区から見た "日没の夕陽" の定点観測を始めて以来、冬期間は今までに一度も撮影できなかった(雪や曇り空のために)”2月の日没の夕陽” を、ついに撮影できた。
地球の公転を考慮すると、冬至を過ぎて夏至に至るまでは,日没の夕陽の位置は,左端の国上山(313 m) から出発して弥彦山(634 m) と角田山(482 m) の稜線を日毎に右へ(北へ)移動する。
2016年2月8日 17:09 の日没の夕陽の位置は弥彦山の右端にあり,11月2日頃のそれと同じはずである。昨年11月4日 16:39 の日没の夕陽と比較すると、そのとおりであることが分かる。
2016年3月12日 17:45 の日没の夕陽は,弥彦山を通りすぎて,すでに角田山の右端に来ている。その位置は10月初旬のそれと同じはずであるが、昨年10月4日 17:20 の日没の夕陽と比較すると、やはりそのとおりであることが分かる。
また,地球の公転により、夏至を過ぎて冬至に至るまでは,角田山の右(北)のはるか遠くに位置した日没の夕陽は,U-ターンして日毎に角田山へ近づき,さらに角田山と弥彦山の稜線を日毎に左へ(南へ)移動し,冬至の頃には,弥彦山を通りすぎて,左の国上山の稜線に来る。
昨年7月26日 18:55 (夕陽の背後に佐渡ヶ島の山脈が見える)と,同 9月15日 17:51 ,さらに上記の10月4日、2014年10月18日 17:00、上記の11月4日,そして12月12日 16:22 の日没の夕陽の位置を追ってみると,その移動が良く分かる。
なお,秋分の一週間前と春分の一週間後の日没の夕陽の位置が同じであることは,上記の9月15日と2016年3月27日 18:00のそれらを比べると良く分かる。
地球の公転と日没の夕陽の位置の関係は,はるか昔、たしか、小学校の理科で習ったとおりである。 今後も、日没の夕陽の定点観測を続けようと思う。
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傍流での歩み
February 12, 2016
最近,私のHPの「時々の日誌」を見てくれた方々の一部から,「2回の転職? どういうことだ?」とのコメントをいただいたので,自分の過去を振り返ってみた。
私は自分の就職には曲折があり,苦労した。大学院で燃焼工学を学び,自動車会社の研究所に就職した。しばらくして仕事の内容に疑問がわき,悩んでいたころ,西日本に開設された政府系特殊法人(雇用促進事業団)の国立の工科系短期大学校の教員としての紹介を受け、転職。
しかし,そこは、実は,職業訓練校が、入校者の減少による ”業務効率の低さ” を行政管理の省庁から指摘されていたために、苦肉の策として、”工科系短大” に看板を塗り替え、行政批判をかわして組織の姑息な延命を画策しているにすぎなかった。雇用促進事業団が運営する総合高等職業訓練校の実状について,会計検査院は,1981年度の決算検査報告の中で正確に分析している。
誰一人として、教員資格のある者がいない。大学卒業者がほとんどいない。そもそも、職員自身が ”短大への転換” は自分達の意志ではなく,”行政の施策として職場の看板が変えられたにすぎない” と認識しているために,職員の中に、ここが ”工科系短大” と思っている者がいない。組織自体が工科系短大としての体裁をなしていない。
”短大転換” の失政の最大原因は,教員資格を持たない技能訓練指導員の配置転換(強制異動による人員整理)が労働組合の抵抗により断行できず,そのために,正常な教員組織の構築が不可能であったことにある。 技能訓練指導員を職業訓練校へ配置転換し,”工科系短大” の教員としては,大学院修士課程修了以上の有資格者を採用する,という当たり前のことが実施できなかった。 ”短大転換”の政策は失敗であった。公金で運営されている以上,このお粗末な実態を必ず社会に公開しなければならない,自分は早期に辞職するべきだ,と私は着任直後に確信した。
毎年,”工科系短大” の看板に騙されて、こんなところに入学する学生が,私には気の毒に思えて仕方がなかった。成績の良い学生の中からは退学者が出た。”看板と中身が違う” として校長宛に意見書を提出した学生もいた(その後,退学)。
全国に粗製乱造されたこの ”工科系短大” は,その後,頻繁に,組織の再編や統合, さらに名称変更などが繰り返された。(私が所属していた学科は開設後数年で廃止された。)
そのあまりにもお粗末でデタラメな学内の様子に失望し落胆した私は,このまま在職することは ”ゴマカシ行政” に自分も加担し続けることになる,それは自分の人生信条に著しく反する、さらに、自分の経歴にも傷がつくとして、3年後にその旨を明記した辞表を提出し,職を捨てた。その後,新潟の長岡高専の熱工学部門の助教授として着任した。
その数年後,一家を同伴してアメリカの大学に研究員として滞在。帰国後は,研究者の世界で淘汰されぬように,研究には不利な職場環境の中でも、自分なりに研究に一層励み、研究論文の増産に精出し,かつ,優秀な学生たちを支援してきた。その中で高専が抱える問題とその打開策を社会に公開してきた。学科長となってからは,高専の教育を職業訓練に転落させないために行政を監視し、学内の仕事をこなし, 若手の教員を支援し,合計28年を過ごし,2013年3月に退職した。
後年に,上記の ”短期大学校” の問題点を,私は新聞紙上に公開した。これに対して,多くの賛同の意見を頂いた。一方,弁解は来たが反論は来なかった。
結局,この ”短大失敗問題” の本質は,地方自治体が運営する職業訓練校により職業訓練事業が充足されているために,もはや雇用促進事業団の職業訓練校が社会的に不要となった一方で,それを廃止した場合の,職員の雇用維持の方策が不明瞭であったことの一点に尽きる。技能訓練指導員がそのままで”短大教員”になれるわけがない。即ち,当時の職員の定年退職を待ち,その後の職員補充を廃止し,更に,当時の職業訓練大学校を段階的に縮小,廃止することにより,その卒業者(職業訓練指導員)の就職先である職業訓練校を段階的に縮小,廃止する以外に道はなかった。実際,その後のあれこれの組織変更を経て,今日では,当時の私が予想したシナリオの通りになった。
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確定申告の時期
February 3, 2016
今年も確定申告の時期がやってきた。私にとって、3回目の申告書作成であるが、いつも国税庁の確定申告書作成コーナーで行なっている。
この申告書の作成は簡単に終わるので,過去2回は,あれこれの出て来た数字(金額)
について,その算出の背景(根拠)を私はよく考えることなく,税務署に提出していた。
そのため,この申告書を元に自治体が算定する自分の住民税や国民健康保険料の背景にも
今まで,私は疎いままであった。
しかし,今回,3回目の申告書を作成し,過去の申告書の内容と比べてみると,いろい
ろなことが分かって来た。 もちろん,それらは,税務署に問い合わせれば,教えてく
れるはずだが、今の時季は税務署も多忙なので,かなり待たされることになるであろう。
完全に退職して公的年金のみによる生活者の場合(私もその一人),世帯主と配偶者が受領した年金の総額(老齢基礎,公務員共済,企業年金など)から配偶者(無職であれば)が受け取った年金を差し引き,さらに,120万円を差し引いた金額が,世帯主の年間の ”正式な
所得金額” となる。
その ”正式な所得金額” から,まず,基礎控除が38万円,配偶者控除が38万円,さら
に,支払い済みの社会保険料(国民健康保険料,介護保険料,国民年金の掛金など),医療費(10万円以上の超過分)、生命保険料、地震保険料などを差し引いた金額(1000円未満は切り捨てる)が ”課税対象の所得金額”となり,そして,その課税対象金額の5%が "実際の税金額" となるが,現在は,その実際税金額の2.1%の "震災復興特別所得税" がさらに加わる。
よって、前年に天引きされた、あれこれの源泉徴収税の合計額が,"実際の税金額" と
"震災復興特別所得税" との合計額よりも多ければ,その超過分が還付される。
なお、”課税対象の所得金額” の計算結果がマイナスの値であれば、もちろん、 "実際
の税金額" はゼロとなり、"源泉徴収税の合計額" の全額が還付され, また、翌年の住民税
も最低額として認定される。
年金総額が400万円以下で、かつ年金以外の所得が20万円以下であれば,確定申告の必要が無い(私の周辺には,年金が400万円以上などというRichman は見当たらない)。
しかし、還付金が発生するのに確定申告をしないのは,もったいない話であるから、毎年必ず確定申告をするべきである。(年金以外に給与所得がある場合、その給与総額からは65万円が控除される。) そのような還付金があれば、数回の飲み会代に当てることもできる。
私は,学生時代が長く,就職が遅く,また2回転職しているので,年金額ではかなり損をしているが,もはや過ぎ去ったことは忘れて,今後も人生を楽しもうと思う。
少なくとも,あと15年くらいは,ウルマンの ”青春” を胸に刻み,反芻しつつ..........。
青春
サムエル・ウルマン
宇野収、作山宗久訳
青春とは、人生のある期間ではなく、心の持ち方をいう。
バラの面差し、くれないの唇、しなやかな手足、ではなく、たくましい意志、ゆたかな想像力、もえる情熱をさす。 青春とは、人生の深い泉の清新さをいう。
青春とは、臆病さを退ける勇気、やすきにつく気持ちを振り捨てる冒険心、を意味する。
ときには、20歳の青年よりも60歳の人に青春がある。
年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき はじめて老いる。
歳月は皮膚にしわを増すが、熱情を失えば心はしぼむ。
苦悩、恐怖、失望により気力は地に這い,精神は芥(あくた)になる。
60歳であろうと16歳であろうと、人の胸には、驚異にひかれる心、おさな児のような
未知への探求心、人生への興味の歓喜がある。君にも我にも見えざる駅逓が心にある。
人から神から美、希望、よろこび、勇気、力の霊感を受ける限り君は若い。
霊感が絶え、精神が皮肉の雪におおわれ、悲嘆の氷にとざされるとき、20歳だろうと人
は老いる。
頭を高く上げ、希望の波をとらえるかぎり、80歳であろうと人は青春の中にいる。
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師走の旧ユーゴスラビア諸国
December 31, 2015
今年の12月の旧ユーゴスラビア諸国は、旅行者の外国人のみならず現地に住む人々にとっても,暖かい天候のようだ。今回,訪れたのはアドリア海を挟んでイタリア半島の対岸である旧ユーゴスラビア諸国,即ち,スロベニア,クロアチア,ボスニア・ヘルツエゴビナの諸国である。どの国にも,紀元前さらに古代ローマ帝国時代の多くの遺跡が残る世界文化遺産の街が多かった。古代ヨーロッパの歴史を振り返れば,それは当然と言えよう。
緯度で見ると,イタリア半島の先端(長靴のつま先)は新潟市とほぼ同じであり,半島の付け根は北海道の稚内市とほぼ同じであるから,旅先の諸国は,全て新潟市よりも北に位置していることになる。
ルフトハンザ航空の機内では前の座席の背もたれの背後にあるモニターに現在の飛行情報が表示される。成田空港からドイツのフランクフルト空港への往路の航跡を見ると,成田空港を離陸した後,東北地方の上空を北に向けて縦断し,北海道に達してから進路を西へ(左へ)変え、日本海を横断してシベリアへ入り,その後,北極海へ抜け出てバレンツ海に入り,スカンジナビア半島の北端から南へ縦断してデンマークを通り,フランクフルト空港に到着する。この往路での飛行時間は12時間30分。その後、飛行機を乗り継いで約1時間20分で、オーストリア第二の都市であるグラーツの空港へ着き、さらに、バスに乗り換えて、スロベニアのブレッドに着いた。
フランクフルト空港からの帰路の航跡を見ると,往路とは違って,まず, 東のポーランドとバルト三国の上空を通過し,ロシア連邦に入り,シベリアの上空を通り,ハバロフスクから南下し日本海に出る。その後,佐渡ヶ島,新潟市,猪苗代湖,水戸市などの上空を通り,一度太平洋に出てから成田空港に着陸する。この帰路の飛行時間は約11時間15分であった。
スロベニアのブレッド湖は朝から快晴に恵まれ,まさに絵葉書に出てくるような光景であった。遠くに見えるトリグラフ山(2864 m)と,湖畔の断崖にあるブレッド城が湖面に映える。トリグラフ山はスロベニアの象徴であり,その国旗の紋章にもなっている。
手こぎボートに乗って湖の中にある小さな島へ渡ると,そこには17世紀に改築された聖母被昇天教会がある。ブレッド城からは眼下に湖の美しい光景が広がる。旧ユーゴスラビアの故チトー大統領もこの湖を大変に愛した。湖畔には彼の大きな別荘があるが,これは,現在,ホテルとして使われている。
今回の旅先は,どこもスラブ語圏の国々なので,ブレッド湖にて早朝から開いている小さなスーパーで,ロシア語(学生時代に少しかじった)で店員に「ドウブルイ・ウートラ」(おはようございます)と声をかけると,「ドブロ・ユトロ」と返って来た。ロシア語が通じるようだ思い,買い物を終えた後に店員に「スパシーバ」(ありがとう)と言うと,首を振りつつスロベニア語で「フバーラ」(ありがとう)と返って来た。
ロシア語の「ドウブルイ・ジェーニ」(こんにちは)は,スロベニア語では「ドベル・ダン」,ロシア語の「ドウブルイ・ヴェーチェル」(こんばんは)は,スロベニア語では「ドベル・ヴェチェール」となる。また,クロアチア語はスロベニア語とよく似ているらしい。なお,ヨーロッパの諸都市では,どこでも英語が十分に通じるので,行くたびにいつも「英語は世界の共通語」と痛感する。
スロベニアの通貨はユーロ,クロアチアの通貨はクーナである。現在,1クーナは¥18くらいであり,7.5クーナが1ユーロ(¥135)に相当する。クロアチアでは,スーパーや少し大きな店であれば,ユーロで支払うことも出来る。スロベニアの店で,わさび味のピーナッツが売られていた。Sushiという日本食の国際化により,Wasabi は Tsunami と同じく,今日では世界の共通語として定着しているようだ。
ブレッドから南西に50kmくらい行くと,スロベニアの首都であるリブリャーナに着く。クリスマスが近いために,街中には人出が多く,また,広場ではクリスマス・マーケットが開かれ,たくさんの店が出ていた。リュブリャニッツア川にかかる三本橋には,アコーデオンを弾く街頭音楽師がいた。さらに,橋の近くの通りには,高齢と思える婆さんの物乞いもいた。どれも、ヨーロッパの街でよく見かける光景である。
ヨーロッパの街には,あのような "物乞い" が実に多い。 あの婆さんを見ていると、通りがかりの人が紙コップの中にお金を入れると,すぐに,そのお金をポケットにしまい込み,常に紙コップを空っぽにしておき、行き交う通行人を恨めしそうに見上げていた。
実は,ヨーロッパの諸都市にいる "物乞い" は,その実態が ”あやしい” のである。本当の貧民ではない。 彼等は,たいていが,ロマ(ジプシー系)の人らしいが,"元締め" の者がいることもある。女性の "物乞い" が赤ん坊を抱いていれば,その赤ん坊は実はレンタルである。 一般に人の好い日本人は、特に旅先では、こうした物乞いを見ると、すぐに同情してお金をあげてしまうが、まともに同情などせずに、無視するのが良い。
イストラ半島の東側の付け根にあるクロアチアの港町オパティアの早朝では,クルク島の稜線上に見事な朝日が昇る。
オパティアから,延々と続く岩肌の山を左手に,そして右手にアドリア海を見ながら340kmくらい南下すると,中世からの古い街シベニクに着く。ここには世界遺産である聖ヤコブ大聖堂があり,その入口にはアダムとイブの像がある。街中を歩いていると,3人づれの修道女に出会った。
シベニクからさらに55kmくらい南下すると,ここも世界遺産の古い街トロギールに着く。トロギールは周囲を城壁に囲まれた小さな島であり,クロアチアの本土とは橋で繋がっている。その橋の近くには市場があり,蜂蜜,アーモンド,クルミ,ニンニク,ミカン,オリーブオイル,など産地直送品と思える品々が並んでいる。
トロギールから東へ海岸線にそって30kmくらい行くと,アドリア海沿岸で最大の港町であるスプリットに着く。港は,そのまま絵葉書になるような光景だ。スプリットはクロアチア第二の都市であり,ローマ皇帝ディオクレティアヌスの宮殿がそのまま旧市街となっており,もちろん,世界遺産の街である。クリスマスが近く,また日曜日であったせいか,街の市場にはたくさんの人々が出ていた。
スプリットから東へ,岩肌の山が続く内陸を約180km行くと国境を超えてボスニア・ヘルツエゴビナの街モスタルに着く。岩山に囲まれた盆地の中に開かれた,オスマン朝時代の雰囲気を思わせる街であり,トルコ系の住民が多く,街の雰囲気がアドリア海沿岸の街とはかなり違う。
モスタルとは,ボスニア語で「橋の守り人」の意味とのこと。中心部をネレトヴァ川が流れ,その川には街の象徴である,橋脚を用いないアーチ型の石橋(スターリ・モスト)がかかっている。この橋は,1993年11月にボスニア紛争の中で破壊されたが,2004年にユネスコの支援でようやく復元された。
この橋の上にも、女性の "物乞い" が赤ん坊を抱いて座っていた。時には立ち上がって赤ん坊を抱いたまま旅行者を追いかけ、手のひらを差し出していた。同行の旅行者は、もちろん、無視して歩いた。
この川の東側はイスラム教徒,西側はクロアチア人と住み分けがなされているとのこと。橋の周辺にはトルコ系住民の店がたくさん並んでいる。
モスタルから,南へ約150kmいくと,”アドリア海の真珠”と呼ばれるクロアチアのドブロヴニクに着く。昔,ベネチア共和国と覇権を争った海洋都市であり,世界遺産である旧市街は8世紀頃に築かれた一周約2kmの城壁に囲まれている。クリスマスが近いせいか,夜には,城壁内が電光で飾られていた。
城壁の上は遊歩道になっており,そこを歩きつつ旧市街が見渡せる。1667年の大地震で街全体が破壊されたが,復旧された。また,街はユーゴスラビア連合軍による1991年の大空爆で再び破壊されたが,現在は修復された。アドリア海沿岸の諸都市と同じく,赤い色で統一された家々と城壁の組み合わせがとても美しい。
城壁に囲まれた旧市街を歩きつつ,クロアチア風のホットドッグ(細長いパンの中に穴を開け,太いソーセージを差し込む)を買って食べた。また,出会った警察官の写真を撮らせてもらった。
ドブロヴニクから北西に約445km行くと,プリトヴィッツエに着く。ここには湖を中心とした国立公園がある。標高差約60m,2kmのコースをゆっくり歩いた。
午後に,ほぼ真北へ約137km行き,クロアチアの首都ザグレブに着いた。高台を歩くと夕日に照らされた美しいザグレブの街がよく見える。クロアチアの国民的英雄であるイェラチッチ総督の銅像があるイェラチッチ広場はクリスマス直前のため,大勢の人で賑わっていた。近くのザグレブ大聖堂のとなりではキリスト誕生の野外劇が行われていた。 ザグレブの街中にもやはり,大道芸人や街頭音楽師がいた。
散歩の途中で,聖マルコ教会の前で、結婚式を終えたばかりの若いカップルがプロカメラマンの前でポーズをとっていた。それに便乗して、私もそのカップルの写真を撮らせてもらった。
そのカップルを囲んで私たち旅行者も一緒にプロカメラマンから撮影してもらっているときに、「あ、スリが来ましたよ!!」と、大きな叫び声が同行者から出た。私が振り返ると、小学生くらいの男児を連れ、リュックを背負った旅行者風の女性 (黒髪の中近東系の顔)が私から視線を外してすぐに離れていった。ヨーロッパの都市での常連である「旅行者を装った典型的な "スリ親子" 」だ、と私は直感した。
ヨーロッパ旅行では、どの都市でも、人混みの中や地下鉄の中では、常に、スリや泥棒を警戒しなければならない。普通の日本人旅行者は、日本という安心安全社会に住んでいるために、日常的なスリや泥棒には慣れていない。そのため、日本人はヨーロッパでの旅行中に、しばしば、スリや泥棒の被害にあうようだ。その事例を私はたくさん見聞している。
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論文の査読
December 15, 2015
来年の夏にソウルで開催される第36回国際燃焼シンポジウムに提出された論文2編の査読の依頼が,今月に入り,立て続けに来た。
そのうちの1編は、内容が私が今までに関わってきた研究とはやや離れているので、責任ある充分な査読が出来ないとしてお断りし,代わりに適当な方を推薦した。もう1編は,私が今までに関わってきた研究の内容と一致するので引き受けた。
我々退職した身としては,これも大切な無償のボランティア活動であろう。 私の場合,退職してから,年に1,2回だが International Journal Paper の査読の依頼が来る(よほど,人手が足りないのだろう)。
添付されてきたそれらの論文を見るたびに,自分自身が在職中に取り組んでおきたかった(論文にしておきたかった)課題の論文にしばしば出会う。 自分が究明できていなかった(途中で中断した)課題を,外国の若い研究者が挑戦してくれていることを嬉しく思う。
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放送法への自民党の干渉を許してはならない
November 10, 2015
放送倫理検証委員会の決定書(2015年11月6日)が出された。
http://www.bpo.gr.jp/wordpress/wp-content/themes/codex/pdf/kensyo/determination/2015/23/dec/0.pdf
特に第6章「おわりに」(P.25~)は,本決定書の重要なハイライトと言えよう。
P.26 には,以下の記述がある。
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放送による表現の自由は憲法第21条によって保障され、放送法は、さらに「放送の不偏
不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。」
(第1条2号)という原則を定めている。
しばしば誤解されるところであるが、ここに言う「放送の不偏不党」「真実」や「自律
」は、放送事業者や番組制作者に課せられた「義務」ではない。これらの原則を守るよう
求められているのは、政府などの公権力である。
放送は電波を使用し、電波の公平且つ能率的な利用を確保するためには政府による調整
が避けられない。 そのため、電波法は政府に放送免許付与権限や監督権限を与えている
が、これらの権限は、ともすれば放送の内容に対する政府の干渉のために濫用されかねな
い。そこで、放送法第1条2号は、その時々の政府がその政治的な立場から放送に介入す
ることを防ぐために「放送の不偏不党」を保障し、また、時の政府などが「真実」を曲げ
るよう圧力をかけるのを封じるために「真実」を保障し、さらに、政府などによる放送内
容への規制や干渉を排除するための「自律」を保障しているのである。
これは、放送法第1条2号が、これらの手段を「保障することによつて」、「放送による
表現の自由を確保すること」という目的を達成するとしていることからも明らかである。
「放送による表現の自由を確保する」ための「自律」が放送事業者に保障されているの
であるから、放送法第4条第1項各号も、政府が放送内容について干渉する根拠となる法
規範ではなく、あくまで放送事業者が自律的に番組内容を編集する際のあるべき基準、す
なわち「倫理規範」なのである。
逆に、これらの規定が番組内容を制限する法規範だとすると、それは表現内容を理由にす
る法規制であり、あまりにも広汎で漠然とした規定で表現の自由を制限するものとして、
憲法第21条違反のそしりを免れないことになろう。放送法第5条もまた、放送局が自律
的に番組基準を定め、これを自律的に遵守すべきことを明らかにしたものなのである。
したがって、政府がこれらの放送法の規定に依拠して個別番組の内容に介入することは
許されない。とりわけ、放送事業者自らが、放送内容の誤りを発見して、自主的にその原
因を調査し、再発防止策を検討して、問題を是正しようとしているにもかかわらず、その
自律的な行動の過程に行政指導という手段により政府が介入することは、放送法が保障す
る「自律」を侵害する行為そのものとも言えよう。
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さらに,P.27には,以下の記述がある。
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自民党情報通信戦略調査会がNHKの経営幹部を呼び、『クロ現』の番組について非公開
の場で説明させるという事態も生じた。しかし、放送法は、放送番組編成の自由を明確に
し「放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は
規律されることがない。」(第3条)と定めている。
ここにいう「法律に定める権限」が自民党にないことは自明であり、自民党が、放送局を
呼び説明を求める根拠として放送法の規定をあげていることは、法の解釈を誤ったものと
言うほかない。今回の事態は、放送の自由とこれを支える自律に対する政権党による圧力
そのものであるから、厳しく非難されるべきである。
当委員会は、この機会に、政府およびその関係者に対し、放送の自由と自律を守りつつ放
送番組の適正を図るために、番組内容に関しては国や政治家が干渉するのではなく、放送
事業者の自己規律やBPOを通じた自主的な検証に委ねる本来の姿に立ち戻るよう強く求
めるものである。
また、放送に携わる者自身が干渉や圧力に対する毅然とした姿勢と矜持を堅持できなけれ
ば、放送の自由も自律も侵食され、やがては失われる。これは歴史の教訓でもある。放送
に携わる者は、そのことを常に意識して行動すべきであることをあらためて指摘しておき
たい。
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この決定書について,自民党の安倍や谷垣や菅が,あれこれと負け惜しみの文句をつけている。放送法の基本精神を理解できない彼等の不満が,他の党や新聞から批判を受けるのは当然である。 放送法への自民党の干渉を許してはならない。
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大統領夫妻からの出生祝福レター
November 7, 2015
カリフォルニアにいる息子一家に,先月,第一子(女児)が生まれた。
アメリカで出生届を出すと、White House から、直接、その新生児あてに、オバマ大統領夫妻の署名入りの ”出生祝福レター” が届く。
White House の事務局からの定例メッセージとはいえ、その文面は,何と温かいメッセージなのだろう。日本でも、出生届が出された一人一人の新生児に、総理大臣夫妻からこんなメッセージが郵送されてきたらいいだろうな、と思う。人口が減少している今日の日本として、見習うべきシステムかもしれない。 日本語に訳すと,例えば以下のようになるだろうか。
「この世に,ようこそいらっしゃいました! あなたを囲む素敵な家族の大きな喜びが私達にも伝わってきます。あなたの御到着を祝うその喜びの中に私達も仲間入りできることを嬉しく思います。
あなたが成長し,いろいろなことを学ぶ中で,神の加護の下で,たくさんの経験と周囲からの揺るぎない愛情と素晴らしい人生の機会に恵まれますように。
いつもたくさんの大きな夢を持ってあなたが生きていくことを私たちは願っています。
オバマより。」
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ついに再審開始と釈放
October 27, 2015
2015年10月23日,午前10時,臨時ニュースとして,大阪東住吉の ”放火とされた事件"の再審決定が大阪地裁に引き続き,再び大阪高裁からも出され(検察の即時抗告を棄却して),受刑者である二人について,”刑の執行停止”が決定されたとの報道があった。私は,弁護団に協力していた一人として,喜びに堪えない。本件については,この「時々の日誌」にて,2013年4月29日と2014年1月18日にも記述している。
検察は,”刑の執行停止”の決定に対して異議を申し立てたが,大阪高裁の別の裁判官により却下され,26日の午後2時に刑務所から二人は釈放され,逮捕から実に20年後に,二人は一般社会に帰還した。23日以来,本件は新聞やテレビにより,連日大きく報道されている。
今日(10月27日)の午後の報道によれば,特別抗告の期限日である28日を前に,検察は最高裁への特別抗告を断念したとのこと。よって,本件は,大阪地裁にて裁判がやり直し(再審)となることになった。もちろん,検察がもはや新たな証拠を出せない以上,再審では無罪判決が出され,それが確定するのは間違いないであろう。今後は,貴重な人生を20年間も奪われた二人への国家賠償が課題となると思われる。この日本では,再審に至るまでは,実に長い長い戦いが必要とされることを改めて思う。
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初秋と名月
September 29, 2015
毎年のことながら,9月の中旬を過ぎると,季節が確実に秋に移ったことを感じさせられる。
9月3日の正午ごろ,新潟港に入港した「飛鳥Ⅱ」を見に行った。総トン数50,142トン,長さ 241 m,幅 29.6 m,旅客定員 960人,乗組員 545人。日本最大の豪華客船。 入港時に船首に立って着岸の操船指揮をとっているのが一等航海士である。これは,大型船舶であれば常識のようだ。 数万トンの巨大な船体を1m刻みで動かしてスムースに着岸させるべく,複数のタグボートと連携した操船指揮が求められる。 今日は,入港から着岸まで40分くらい要した。 新潟港は信濃川の河口であるために,入港した船舶は,着岸時には(出港時に備えて),船首を河口に向けて反転しなくてはならない。
21日から22日の朝にかけては快晴であったために、放射冷却により、22日の早朝は、自宅の周辺には見事な霧がかかっていた。23日は今年の秋分の日。これからは早朝の気温がどんどん下がり、このような光景がよく見られる。
27日の夕方,午後6時頃の「中秋の名月」。5月2日の月の画像の中でも見えるが、この月の画像の右下には, "スイカのお尻" のような白い放射状の興味深い紋様が見える。何だろう。大きな隕石の衝突痕だろうか。
昨日(28日)の21時に新潟市で見えたSupermoon 。やはり,”スイカのお尻” がみえる。 次回のSupermoonの出現時にも,運が良ければ撮影しよう。そのために健康でいよう。
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Windows 10 への更新
August 30, 2015
最近,常用しているPC2台(DesktopとNotebook)のOSを,Windows 7 から Windows 10 に更新した。無料の自動更新だが,それぞれ約3時間位かかった。更新前にインストール済みのソフトがそのまま受け継がれるために,更新後のPCの作動には今のところ大きな不都合はない。私は,結局,Windows 8 を一度も使わずに済んだことになる。
一方,ただ一点困ったのは,Windows 10 は,今までに順調に作動していたDVDの再生ソフト(私が使っていたIntervideo WinDVD8)をサポートしていないので,DVDが再生不能となったことだ。そのため,急遽,ネットでWindows 10でも作動するDVD再生ソフトを探し出してインストールした。
Windows 10は,無料の配布を開始してから1ヶ月経過したが,今まで快調に作動していたWindows 7に比べて,格段に性能が改良されたとも思えないので,Windows 7のサポートが2020年1月14日に完全終了するまでの今後4年半は,このままWindows 7を使い続けるのも良いと思う。
あるいは,多くのソフトについて,今後,Windows 10に対応するべく修正版が出るであろうから,それらをインストールした後に,OSを10に更新するのも良いと思う(来年の7月末までは更新が無料)。 なお,PCのOS をWindows 10に更新すれば,その無料サポートが2025年7月末まで続くから,そうなると,現在使用中のPC(そして、私自身)の寿命のほうが先に尽きるかもしれない。
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防衛省による「安全保障技術研究推進制度」
August 11, 2015
先日,ある大学教員がFBにて以下の趣旨を述べていた。
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本日、応募書類を提出した。大学本部で検討していただいた結果、問題ないとのことであった。下記の共産党の見解(赤旗 2015年8月9日)では、デュアルユース、スピンアウト、スピンインの功罪について全く述べられていない。
科学技術分野だけでなく、人文系、社会科学においてもこれらの問題が存在する。例えば、近代軍事史を研究している教員が、戦略に関する論文を発表したとしよう。この時点でスピンインする可能性がある。「よって,その研究は禁止するべきだ」とする赤旗の主張は正しくない。
「貴方の研究は軍事研究につながる可能性があるから、その研究をしてはならない、公募に応募してはならない」と大学が規制してしまえば、それこそ「学問の自由」に反する。
今回は、サイバー攻撃対処に関する研究テーマで応募した。応募した研究テーマは、軍事利用の目的で行っていたわけではない。 以前から研究していた集積回路の消費電力低減化技術を応用する上で、アプリケーションを模索していたところ、暗号回路で使えるかなと思い立ったのが4年ほど前。その後、学生とともに研究をし、そこそこの成果が出たために、では次は技術展開だ、と思っていた矢先、この公募を見つけた。 そこで、「民生品には問題点があるから、民生品をそのまま使用してはならない、しっかり対策を施してから使用すべきだ」という主張とともに応募した次第である。
正直言って、防衛省の研究公募に応募することには悩んだ。しかし、問題点があるのに知らないふりし、それを見過ごしておくことは、研究者としてできなかった。採択されるか否かは今後の審査次第だが、採択されなかったとしても、この問題提起をしたことにより、(自己満足かもしれないが)大学人としての社会貢献責任を果したと考えている。
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私は上記の意見に賛同する。
大学人,そして科学者の研究者としての使命と責務は,真理の探求であり,自然現象の解明であり,新しい知見の発見であり,それによる人間社会への貢献であろう。 そこには思想や信条の違いによる差別や規制,隔離などがあってはならないことはもちろんである。
どのようなものが軍事研究であり,どのようなものが軍事研究ではないといえるのか,を詳細に明示せず(実は,それはきわめて困難だが,その議論を避けることはできない。),また,今日の世界の数えきれないほど多くの優れた民生用科学技術の開発動機(軍事用,民生用を問わず)と,その開発過程の詳細な検証を怠り,10年一日のごとく,金科玉条に「軍事研究反対」などと叫んでいる方々は,1970年代にもいた。私は学生であった当時から彼等の主張には違和感を覚え,なじめなかった。「思考の停止」とも思える彼等の様態は今だに続いているようだ。 彼らの言う ”軍事研究反対” は、結局は、基礎科学、基礎工学の研究をすべて否定していることに等しい。 彼等(主観的には,みな善意なのだが)の主張への支持が,広範な科学者と学識経験者の中になかなか広がらないのはそのためであろう。
「赤旗」の主張の要点は下記の2点だけである。
「防衛省が大学に研究を委託することは大学に軍事研究をさせることだから学問の自由を蹂躙するものだ。」,「文科省から出る大学の基盤的研究費が削減されている中で,防衛省による研究公募は,資金がほしければ軍事研究に手をだせと大学を誘導する卑劣なやり方だ。」
この主張では,今日の多くの優れた技術開発の発端(動機)とその実用化に至るまでの過程とその検証について認識不足といえよう。「防衛省が公募する研究テーマ 28件は先端的技術ばかりだ。」としているが,技術開発であれば,それは当たり前であり,何の疑問もない。「赤旗」の主張では,防衛省による公募研究のテーマは,「電波・光波の反射低減・制御」,「レーザ光源の高性能化」,「無人車両の運用制御」,「昆虫サイズの小型飛行体実現」など、自衛隊の戦闘能力を高めるために必要とする先端的技術ばかりであり,たとえば「電波・光波の反射低減・制御」は、戦闘機が敵に探知されないようにする「ステルス化」に必須の技術だ,としている。
しかし,そう単純ではない。「電波・光波の反射低減・制御」は,例えば,放射線治療において,正常細胞をステルス化し,その裏の奥に隠れている”がん細胞”を検出できる技術に発展するかもしれない。表面には何の異常も見られない物体の内部損傷を,物体表面をステルス化して検出できる技術が生まれるかもしれない。「レーザ光源の高性能化」は,材質を選ばない超精密な機械加工の技術に発展するかもしれない。「無人車両の運用制御」は,人間が立ち入れない火山噴火口や未知の洞窟などの内部探索や,谷に落ちた遭難者の救出などに極めて有用な技術に発展するであろう。「昆虫サイズの小型飛行体実現」は,航空機の墜落,遭難や,地震などにおける瓦礫の中の遺体や生存者の発見のための重要な技術に発展できよう。
最初は不可能かと思われた高度な技術の開発目標(軍事用,民生用を問わず)が,国内外の多くの科学技術者による果敢な粘り強い挑戦により達成され,その偉大な成果が民生用にも軍事用にも応用され,今日では,それらなしには現代社会が成り立たない例が無数にあることは周知のとおりである。例えば,マイクロエレクトロニクス,レーダーシステム,オペレーションズ・リサーチ,コンピュータ,超音波技術,赤外線通信技術,人工衛星,GPS, インタネット,などを考えれば一目瞭然であろう。これらのほとんど全部が,その発端の研究は軍事目的である。
私は,軍事研究も良い,と言っているのではない。 科学者の職業倫理として,また,通常の社会通念として重要なことは,「全ての基礎科学,全ての基礎工学は軍事技術に利用される可能性がある」ことを認識することであり,それを前提とした上で,「非人道的な殺傷兵器の開発」への転用を厳しく監視する社会システムとコンセンサスを確立し,その転用への歯止めとなる社会的規約を構築することが必要なのである。
原子爆弾の製造は厳禁されなければならないが,しかし,それは原子物理学の研究を禁止することではないことを思えば,これ以上の説明は不要であろう。
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裁判官の誠意を問う
August 10, 2015
恵庭OL殺害事件の再審請求の棄却に対して弁護団が行なった即時抗告について,札幌高裁が出した先月7月17日付の「即時抗告棄却」の通知書の内容は驚くべきものであった。
私の再意見書はもとより,3月の札幌の雪の中で行なわれた弁護団による燃焼実験の報告書すらも,全く読まれた(誠実に検討された)形跡がなく,極めて不誠実な(不真面目かつ職務怠慢)ものであった。
これでは,私のみならず,弁護団が激しく怒るのは当然である。一人の人間の有罪や無罪を決める重大な文書として,こんな馬鹿げた不真面目な文書が,法曹界にはまかり通るものだろうか,と私も呆れてしまった。
八田 隆氏が本件について,以下を公開している。
http://fugathegameplayer.blog51.fc2.com/blog-entry-912.html
http://fugathegameplayer.blog51.fc2.com/blog-entry-896.html
http://fugathegameplayer.blog51.fc2.com/blog-entry-897.html
http://fugathegameplayer.blog51.fc2.com/blog-entry-899.html
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花火や山頂が見える距離
August 2, 2015
毎年,夏の今頃には,あちこちで祭りがあり,花火が上がる。今夜も,花火によるドーンという音が遠くから聞こえてくる。ところで,高く上がった花火が,離れた場所からでも見えるような最大距離はどのくらいだろうか。
これを考えてみると面白い。つまり,これは人が浜辺に立って遠くに見える水平線までの距離を計算することと同じためである。この近似計算は実に単純であり,私の授業中のいつもの脱線でこの話をすると,学生たちは興味津々の表情で私を見つめていた。
地球を半径 6380 km の球体とし,海面から人間の目までの高さをH(m)とすると,水平線までの近似的な直線距離は 3.9×√H (Km) である。
(この係数3.9は,数式上では3.57となるが,大気層内では光が空気密度の高い方へ,つまり地表側へ曲がるために,補正して3.9となる。また,この式により,大型船の操舵室から見た水平線上の物体や他の船までの距離が,操舵室の海面上の高さをもとに概算できることになる。これは航海術の基本のようだ。)
つまり,例えば,身長170cm の人が浜辺で海を眺めた時に,遠くに見える水平線までの直線距離は,3.9×√1.7により,5kmとなる。 この計算式によると,標高が分かっている山の頂上から見渡せる直線距離も計算でき,また,逆に,山の頂上や,高く上がった花火がどのくらい遠くから見えるか,の計算もできることになる。
新潟平野の海岸にそびえ立つ弥彦山(634 m)の頂上から見える水平線や地平線までの距離は 98 km となり,海抜100 mの展望台から見える水平線(地平線)までの距離は39kmとなる。
新潟市は新潟県長岡市から直線距離で約60km離れているから,長岡市における大花火大会の花火は,3.9√240=60 により,その高さが240m以上に上がれば,新潟市からでも見えることになる。同様に,富士山(3776 m)の頂上は,3.9√3776=240 により,富士山から水平の直線距離で240 km以内の場所であれば見え,それ以上の遠隔地では見えないことになる。
富士山から半径240km以内といえば,愛知県や岐阜県の全域はもちろん,三重県松阪市,金沢市,富山市,新潟県三条市,長野県,群馬県,栃木県,千葉県の全域,福島県会津若松市,福島県いわき市まで含まれる。これらの地では,山脈やビル群などの大きな障害物がなければ,富士山が見えるはずである。新潟市や京都や大阪では,地上にいる限り,富士山は見えない。
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泰斗碩学とその著書との出会い
July 28, 2015
団塊世代の中心である私は,昭和40年代初期からの10年以上を,大学,大学院の学生として送った。昭和40年代前半の当時は,安保沖縄問題,公害問題,大学紛争などにより,日本の社会も学内も時々騒然としていた。
受験戦争の中にいて,高校時代にまともに人文社会科学の書物に触れることのなかった(それは現実的に不可能であった)多くの学生達は,大学入学とともに当時の激しい社会の動きに見まわれ,たちまち啓発されることになった。加えて,当時,まだ意気盛んでカクシャクとしておられた多くの知識人は,日本社会とその動向について,自らの意見を多くの著書で公刊していたために,私は,吸い寄せられるように,その方々のあれこれの著書を読んだ(それは,決して私だけではなかったと思う)。
それらの著書の中には,読み進む中でその主張にどうしても賛同できないもの,論理展開が不明瞭で全く理解不能であったもの,私の興味や関心が続かなかったもの,などもあったが(それらは,みな,途中で放棄した),しかし,一方,主張内容が明解であり,誰が見ても妥当な正論にあふれた筆致で,かつ,著者自身の泰斗碩学としての充分な識見に裏付けられた冷静で説得力ある論理展開がなされている著書も多かった。当時の私は,そのような著書に魅了され啓発され,時には勇気づけられ,また鼓舞されたものである。
当時から50年近く過ぎた今日,今の自分の精神的支柱を形成してくれたのは,若かりし当時に出会ったあの書とその著者の方々であろうと,ふと思う。それらの書(今日では古書扱いであるが)は,今も私の書棚に並んでいる。
それらの著者の方々(その全てが,今は故人となられた)を,改めて思い出すと,10名前後を挙げることが出来る。まずは,向坂逸郎先生である。御専門のマルクス経済学なるものは,凡庸な私にはさっぱり分からず,その方面の著書は私には読めなかった。しかし,向坂先生御自身の生き方,そして,教育と人間についての考え方を述べた多くの著書(書棚には34冊ある)に私は深く感銘を受けた。例えば,以下の書は数回読んだ。
「若き僚友の死」(1960年11月 文藝春秋新社)
「学ぶということ」(1964年7月 文藝春秋新社)
「流れに抗して」(1964年12月 講談社現代新書)
「人間の回復」(1967年8月 文藝春秋社)
「わが資本論」(1972年12月 新潮選書)
「わが生涯の闘い」(1974年10月 文藝春秋)
「読書は喜び」(1977年7月 新潮社)
「歴史から学ぶ」(1978年7月 大和書房)
「嵐をついて」(1982年1月 新評論)
「愚者の道」(1982年7月 新評論)
次は,古在由重先生である。御専門のマルクス主義哲学なるものは,これも,凡庸な私にはさっぱり分からず,その方面の著書は私には読めなかった。しかし,古在先生御自身の生き方,そして,人間の思想と,人間についての考え方を述べた多くの著書(書棚には13冊ある)のどれにも私は深く感銘を受けた。中でも,以下の書はとても良かった。
「人間賛歌」(1974年1月 岩波書店)
「草の根はどよめく」(1984年5月 築地書館)
「和魂論ノート」(1984年6月 岩波書店)
「古在由重 人,行動,思想」(1991年 7月 同時代社)
「古在由重 哲学者の語り口」(1992年11月 勁草書房)
また,法学者であり”小繋事件”で有名な戒能通孝先生による「いかに生き,いかに学ぶか」(1966年12月 講談社現代新書)と,元東京都知事の美濃部亮吉氏による「苦悶するデモクラシー」(1959年4月文藝春秋新社)は,読んだ当時に20歳直前であった私は,衝撃的な深い感銘を受けたことを今もよく憶えている。
また,偶然に出会った「誤った裁判」(上田誠吉,後藤昌次郎 共著,1960年2月岩波新書)から受けた強い印象は,その後,冤罪事件や刑事裁判に私の関心を向かわせた。 後藤昌次郎 著「冤罪」(1979年4月 岩波新書),同著「無実」(1980年12月 三一書房),青木英五郎 著「逃げる裁判官」(1979年3月 社会思想社),同著「日本の刑事裁判」(1979年5月 岩波新書)など,これらの書は理系の学生であった私にも,日本の刑事裁判というものに強い関心を抱かせることになった。 その中で出会ったのが弁護士の正木ひろし氏による精力的な冤罪究明の数冊の書である。さらにまた,教科書裁判や日本の戦争責任に関するいろいろな議論の中で,家永三郎先生の書にも出会い,歴史学者としての妥協のない姿勢に感服した。以下の書はとくに良かった。
「戦争責任」(1985年7月 岩波書店)
「太平洋戦争」(1986年11月 岩波書店)
「家永三郎」(1997年6月 日本図書センター)
若い頃に読み,感銘を受けた書とその著者については,誰もがおそらく一生忘れることはあるまい。今の私を形成してくれた泰斗碩学の方々との出会いを幸運に思う。
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即時抗告の棄却
July 17, 2015
今日,この一報を知った時,突然に頭からバケツの水をかけられたような気がした。しかし,挫けずに,気をとり直し,弁護団に一層の協力をしようと思う。
「恵庭市内で2000年3月、会社員橋向(はしむかい)香さん=当時(24)=の焼死体が見つかった事件で、殺人などの罪で懲役16年の判決が確定した大越美奈子受刑者(45)の再審(裁判のやり直し)請求即時抗告審で、札幌高裁(高橋徹裁判長)は17日、再審請求を退けた一審札幌地裁決定を支持、大越受刑者の抗告を棄却した。弁護団は最高裁に特別抗告する方針。」(2015年7月17日 北海道新聞)
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高等教育と職業訓練
July 8, 2015
大学の客員教授(69歳)が投書欄で「文系目指す希望を諦めないで」と題して,下記の意見を述べていた(2015年7月7日 朝日新聞)。私は全く同感である。
そもそも,「大学の人文社会科学の分野を整理,縮小または廃止せよ」とする提案者は,当人の教育歴や教育内容のレベルがその程度であったのであろう。当人が通った学校や生活圏に,教育というものをそれで良しとする校風や教師が多かったのであろう。
大学レベルの高等教育の中で”職業訓練”を重視して実施するのであれば,その場は専門職大学院(大学卒業後に入学する)でなければなるまい。実際,アメリカの大学院はそうなっている。Law School, School of Government, School of Business, School of Management, Medical School, Doctoral Course of Science and Engineering.
これらの教育内容は,私が知る限り,どれも学生に猛勉強を強いる”職業訓練”であり,また,これらに入学する前の大学での専攻分野は問われないのが普通である(Medical School の学生には,入学前に大学で英文学や数学を専攻していた者もいた。MITのPh.Dコースでは余りに猛勉強を強いられるので,その結果として取得したPh.Dは,Permanent Head Damage の略語だというJoke があるらしい)。
専門職大学院を卒業したプロフェッショナルに必要なことは,ツブシが効き,自分の持つ専門知識や技術を広い見地から活用でき,「まともな意思決定ができる」ことであろう。これらは,もちろん,大学院在学中だけでなく,就職後の仕事の中でも継続的に訓練,陶冶されることにより可能となることであるが,それが可能になるための要件は,広い基礎教育が当人の中に培われていることであろう。その意味で,今日の日本の大学教育の中で人文社会科学の分野を整理,縮小や廃止したいとする提案は,大学教育というものを安上がりの職業訓練に転落させる愚論といえる。
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「「文系切り捨て,悔しいです」(6月29日)という高校生の投稿に共感しました。私は理系で,企業を経営する立場にいました。けれども,大学に職業訓練を期待したことは一度もありません。大学に期待するのは思考力や洞察力を鍛えてもらうことです。人文科学は,そのための大切な学問です。
閣僚や国会議員から,国立大学に余計なお世話と言わざるを得ない注文が続いています。文系見直しもそうですし,国旗掲揚と国歌斉唱の要請もありました。納税者の期待を洞察せずに「税金を使っているのだから」と言うのはおかしいと感じます。彼等こそ仕事の報酬は税金で賄われているのですから,見合う仕事をしてほしいと思います。
国立大学は人文科学の重要性に自信を持ち,投稿者のような若者に応えて下さい。若い人たちは目指す学問を諦めないでください。そして,18歳になって手にする投票の権利を大事に使って下さい。」
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庭のスズメ
July 5, 2015
初夏の到来とともに,野鳥たちの声が賑やかになってきた。思い立って,野鳥のエサを買ってきて庭に置いてみると,時々,スズメやムクドリがやって来る。
ある朝,スズメの親子が来て,親が子に口移しでエサを与えていた。 その様子を撮影するべく窓のカーテンを開けると,その親子は素早く飛び立ち,撮影できなかった。 昔から,鳥や動物を撮影したい時には”石になれ”と言われている。石のように動かずに(相手の警戒心を解き)撮影のチャンスを待て,ということだ。
2,3週間後には,「あの場所に行くと,十分な餌がある」と仲間内での情報が定着したらしい。いつもの場所に餌を置くと,たちまち,多くのスズメが集まり,食べ尽くしてしまう。容器内に入って餌を独占している者と,周囲に飛び散った餌を,一心不乱に,ついばんでいる仲間がいる。容器の縁に登って,「何だお前,俺の分まで食っちまったな」と,首を傾げて不満を言っているような者もいる。しかし,これらの様子を撮影する時には,いつものように,そうっと静かに窓を開けてカメラを向ける。その動作を十分に緩慢にしないと,彼等は瞬時にパッと飛散する。
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初夏のキジ
July 3, 2015
毎年,春から夏にかけて,自宅の周辺では,ほぼ毎日,”キュ-ン,キューン”(必ず,2回)というキジの大きな鳴き声が聞こえる。今年は,例年以上にそれが頻繁に聞こえる。どこにいるのか,いつもその姿が見えない。しかし,今日は,遂に自宅のすぐ近くの空き地に,1羽のやや大きいオスが現れたので,急いでカメラを取り出し,その勇姿を撮影出来た。赤い顔に鋭い目。この辺は,自然環境が豊か!。
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安倍内閣の”墓穴掘り”集団
July 1, 2015
先日,6月25日に,自民党の若手議員による勉強会 ”文化芸術懇話会” なるものの講師に招かれた百田尚樹が,またまた,非常識な妄言を吐き,沖縄県民はもとより,内閣や自民党内からも顰蹙を買っているようだ。このような者を講演者に招いた”議員”たちの不見識にも呆れるが,所詮,彼等のレベルも,その程度なのであろう。
だが,普通の国民は,なにも驚かないであろう。あの百田なら,さもあろうと思うだけだ。この百田に加えて,安倍首相は,櫻井よしこをもNHKの経営委員に任命したらどうだろうか。せいぜい,彼等を泳がせ,喋らせることだ。国民はNHKから離れ,受信料の不払い者が増える。安倍内閣にとって,彼等は滑稽かつ”墓穴掘り”の宣伝工作隊といえよう。
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”君が代”と”靖国神社”
June 18, 2015
最近,文部科学大臣が国立大学でも入学式や卒業式で国歌(君が代)を斉唱したらどうかと,要請したが,国立大学の多くの教員からかなりの反発(と無視)が来たために,強制ではなく提案である,と弁解しているようだ。 当たり前である。
私自身は,”日の丸”の日本国旗は大好きであるが,小中学校の時に (歌詞の意味を知らないまま) 式典のたびに歌わされた”君が代”はどうしても好きになれなかった。高校時代に,”君が代”は,日本国民全体の平和と繁栄を希求する歌では全くなく,単に,”天皇制の維持”と”忠君愛国”を日本国民に鼓舞する歌でしかないことを知り,以來,今日に至るまでどのような場合でも,”君が代斉唱”なんぞに協力したことはない。馬鹿らしくて,情けなくて,さらに,戦争中(昭和天皇がその開戦を決断した)に日本軍からの暴虐を受けたアジアの人々に申し訳なくて,こんな馬鹿げた陰鬱で単調な歌を斉唱する気には到底なれないのである。下記の本は大変に参考になる。
「日の丸,君が代の戦後史」(田中伸尚 著,2000年岩波新書)
一方,私のようには思わない人々も当然いよう。それで良い。色々な考えがあって良い。要するに個々の人間(国民)の思想や信条を,時の政府の意向で拘束してはならないのである。
http://hirokiishida.jimdo.com/belief/
普通の日本国民であれば誰もが,素直に気持よく斉唱できる歌を”国歌”にしたらどうだろうか。そのような歌を広く日本国民から募集したらどうだろうか。 例えば,私は,”うさぎ追いしかの山,小ブナ釣りしかの川......”で始まる歌 ”ふるさと” が大好きである。もし,これが国歌として式典にて斉唱されるのであれば,私は素直に気持ちよくその斉唱に参加したい。
毎年問題になる,閣僚による靖国神社参拝も同様である。戦没者を弔い,永久の不戦を誓う気持ちは,誰もが同じであろう。そうであれば,その場が戦争責任者(A級戦争犯罪人)も多くの普通の兵士も,一緒に祀られている靖国神社である必然性は全くない。
むしろ,日本国民に求められていることは,宗教色を排除し,戦没者の合同慰霊碑を建立することであろう。そこに,日本国民が,戦没者を弔い,永久の不戦を誓う気持ちで慰霊することは,至極当然のことであり,誰にも納得でき,また,アジア諸国から何の反発もないはずである。
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初夏の共生物
May 22, 2015
初夏の訪れとともに,今年も庭に姿を見せた地域社会の共生物であるシマヘビ。70センチくらいの長さ。いつもと違って,梅の木の中の枝をゆっくりと這っていた。急いでカメラを持ち出し,無断で肖像権を侵害させてもらい,その後,傍にあった小枝に彼(彼女かな)を絡めて後の畑へ逃してあげた。たまには,大きな青大将が姿を見せる。その写真を撮ろうとすると,大きい割には逃げ足が速いので,カメラに連写機能があると便利だ。この自然環境を大切にしたいと思う。
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我が写真(カメラ)人生
May 2, 2015
2015年5月2日の夜。晴天の新潟の夜空。きれいな満月を撮影した。このNIkon CoolPix P510は実にいいカメラだ。絞り5.9, シャッター速度 1/250秒。
私のカメラ歴は約45年になる。カメラ好きであった亡き父からもらった Konica Ⅱ(昭和28年製)と,Canon FX (昭和40年製) を使って,昔から,あれこれと写真を撮り続け,カメラの作動機構や,フィルムの現像と焼付けの手法を学んで来た。また,カメラ雑誌を読みつつ,写真を見る人に撮影者の意図を訴える手法,そして,写真を見た人が撮影者の意図をどのように受け取るか,などを学んで(学ばされて)きた。
40年をかけて,あちこちで買い集めた中古品の約30台のフィルム式カメラや交換レンズが,今は自宅に眠っている。それらは,全て,手入れしてあり,スタンバイ状態にあるが,もはや出番がなくなった。今日は,デジカメの時代である。
私の手元には7台のデジカメがスタンバイ状態にある。それぞれに適した用途があり,旅行の携帯用,動植物や風景の撮影用,星空の撮影用などに分けて,私は使用している。自宅の周辺は,新緑の春にはキジが出る。夏は緑豊かな田園風景,秋には黄金色の田園風景,冬には白鳥の群れ。 今後も,我が「写真(カメラ)人生」を続けようと思う。
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恵庭OL殺害事件の真相究明は急務である
May 1, 2015
昨年の10月12日と11月8日にも,この件を記している。 先日,本件についての再意見書を,弁護団を通して札幌高等裁判所に提出した。
この事件により加害者とされた当時29歳の女性は,懲役16年の判決が確定したが,昨年4月に再審請求も棄却され,今も服役中である。 彼女は,もちろん今も罪状を否認している。 再審請求の棄却を不服として札幌高裁に抗告している,総勢8名の弁護士からなる弁護団は,この無実の女性の冤罪を証明し,人権を回復するべく,総力を上げて闘っている。 その意気は,事件後15年が過ぎた今も,いささかも変わっていない。その弁護団から依頼を受けて,私も協力している。
今までにも記したが,本件の事実認定は全くのデタラメである。こんな馬鹿げた判決で一人の人間の人生が翻弄され破壊されることは,全く許されないことは言うまでもない。
今までの判決文や,本件を担当した検事による意見書を見ると,担当裁判官や検事の職務意識,即ち,”検事が起訴したのだから有罪のはずだ”,”起訴した以上は,有罪にしなければ検察の負けになる”,とする偏見でしかないことがよく分かる。
この事件と裁判については,今も,多くの識者から疑問が出ているが,その一例が下記である。 http://fugathegameplayer.blog51.fc2.com/blog-entry-844.html
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晩冬の旧ハプスブルグ家の領地
February 28, 2015
緯度が北北海道と南樺太との間にある旧ハプスブルグ家の領地であった諸都市(ウィーン,ブタペスト,ブラチェスラバ,プラハ,ドレスデン)を回って来た。曇り空であったプラハ以外は,幸いに,どの都市でも好天に恵まれ,日中の気温が5~9℃であり,緯度の割には寒くはなかった。ヨーロッパの他の諸都市と同じく,これらの都市も,どれも1000年前後の歴史を持ち,街並みや橋が古代ローマ帝国時代からの長い歴史を物語っている。
オーストリア(スイスと同じく永世中立国)では,原子力発電を禁止しているために,電力は水力や風力でまかなっている。ウィーン郊外には,数多くの風力発電の風車が見られる。ウィーンからE60号線を東へ3時間走ると,ハンガリーの首都ブタペストに着く。
ゲレルトの丘の上からは,ブタ地区とペスト地区を分けるドナウ川に架かるクサリ橋とブタペスト市内の夜景が眼下に見える。ブタペスト東駅から12,3分歩くと,大きなショッピングモールがあり,その中にTESCOという大きなスーパーがある。ハンガリーの通貨はフォリントだが,日本の1円はおよそ2フォリントに相当するので,日本円では値札の半額と思えば良い。寿司や豆腐の自家製キットが売られていた。ハンガリーでも日本食は人気があるようだ。 ブタペストには大きな鉄道駅が3つあるが,東駅が最も大きい。東駅と正面の道路には地下街がある。早朝に人びとが駅から出て職場に向かう出勤風景は,何処も同じく,世界共通である。ハンガリー語は,私には,もちろん分からないが,時々文章の中に英語に似た単語が混じることがある。
「漁夫の砦」からは市内の眺望がとても良い。すぐ近くにはマーチャーシュ教会がある。日本では高級車の代表とされるベンツも,こちらでは普通の黄色いタクシー車である。市内の道路で何か交通事故があったらしくパトカーと警察官を見かけた。聖イシュトヴァーン大聖堂の中は明るく,色彩豊かである。他のヨーロッパ諸国と同様に,ここにも英雄広場がある。 ハンガリーには豊かな温泉があるために,それを利用した”屋外温泉プール”をドナウ川近くの広場で見かけた。ハンガリーもワインの豊かな産地であり,レストランのワイン倉の壁には,多数のワインの瓶が陳列されている。また,ブタペストでも郊外に出ると,古代ローマ帝国時代の遺跡が見られる。夜にはドナウ川の観光船に乗り,周囲の夜景を見た。
ブタペストからE65号線を西へ行くとウィーン方面とブラチェスラバ(スロバキアの首都)方面との分岐点に来る。ハンガリーにも風力発電の風車がたくさん見られる。ブラチスラバ城(マリア・テレジアが20年間も住んだ)が見えるドナウ川の橋を渡り,一路プラハへ向かう。途中の道路脇の並木には,鳥の巣のようなものがたくさん見えるが,よく見ると小枝と葉の塊のようだ。木々の葉が落ちる長い冬期間でも,あの塊の葉はしっかりと冬の寒さに耐えているようだ。チェコに入国するときには何の検査もない。国境を越えて直ぐに,レストランにて早速,チェコのビールを堪能した。泡がきめ細かく,そして期待通りに実にうまい。500ccのグラスコップで100コルナ程度(約500円)。近くにあるレドニツェ城は,昔,リヒテンシュタインの王家が夏を過ごした城であり,広大な庭園に囲まれており,世界遺産に指定されている。
E65号線をさらにプラハに向かって行くと,途中には,13世紀に銀鉱山の街として栄えた世界遺産の街であるクトナー・ホラに着く。ここには,聖バルボラ大聖堂があり,この大聖堂からはクトナー・ホラの美しい街並みがよく見渡せる。
プラハ市内でプラハ城に行くと,ちょうど衛兵の交代時間であった。左右の衛兵は,一時間,じっと前を向いて立ち尽くし,大勢の人々のカメラの標的になっている。曇り空ではあったが,高台からは,赤い屋根の家々が連なるプラハの美しい街並みが見える。中心市街ではきれいな路面電車が運行されている。ブルタヴァ川にかかるカレル橋は世界遺産であるから欄干や彫像に登ることは厳禁され,そのために24時間監視されている,との看板がある。カレル橋にはたくさんの人がいた。他のヨーロッパ諸都市と同じく,ここにも街頭音楽師,物乞い,そして似顔絵描きがいた。あのような"生業"で生活が出来るとは,ヨーロッパの国々は,やはり”根底は豊か”なのかな,といつも思う。チェコの首都プラハは,全体が世界遺産といえるような街である。至るところ,絵葉書になるような光景が見られる。
プラハからE55号線を北西方向に約2時間行くと,ドイツのドレスデンに着く。ドイツへ入国する際には,たまには,国境にてパスポート検査があると聞いていたが,実際に,それに遭遇し,2名の警察官により検問を受けた。エルベ川が市内を流れる中世の古い街ドレスデンは,第二次大戦の末期に連合軍による凄まじい大空襲により街の大半が破壊されたが,戦後いち早く,建物,教会,大聖堂について中世の頃の設計図をもとに根気強い復興工事が開始され,街の全体が中世の昔通りに見事に再建された。大聖堂前の広場にはマルチン・ルターの像がある。建物の外壁に黒いレンガが混じるが,それらは,空襲で破壊された建物の瓦礫の再利用であるとのこと。ドレスデン市内の再建工事は戦後70年を経た今も続いている。
プラハから約2時間くらい南下すると,テルチという小さな街がある。まだ氷が張っている3つの池に囲まれた小さな街の広場は絵画のような建物に囲まれている。ここも世界遺産に登録されている。テルチから北西方向に一時間半ほど行くと,チェスキー・クルムロフの街に着く。市内をブルタヴァ川が曲がりくねって流れる美しい世界遺産の街である。まだ少し雪が残っているチェスキー・クルムロフ城からは,中世そのままの街並みが見える。
チェスキー・クルムロフから南東へ晩冬の雪景色を見ながら3時間くらい行くと,何事も無く国境を越えて,オーストリアの首都ウィーンに着く。
シェーンブルン宮殿の前の広場はところどころ氷が張っていた。宮殿の裏側から遠くに望めるウィーンの森がこの日は見えなかった。ベルヴェデーレ宮殿に向かう途中の通りではでは何かの事故らしく路面電車とパトカーが止まっていた。ベルヴェデーレ宮殿の姿は青空によく映える。宮殿の中からは前庭の向こうにウィーンの中心街が見渡せる。中心市街では,オーストリア国旗に似せたように車体の上下を赤白に塗り分けた路面電車が走っている。道路の対面に日本料理店と中国料理店があった。 ウィーン市内では,誰もがコインを入れて自転車を借用でき,目的地にてその自転車を戻せるシステムがある。
ウィーンから東へ約1時間くらい行くと,スロバキアのドナウ川沿いにある首都ブラチスラバに着く。2国間の首都が車でわずか一時間の距離だ。この旧市街を歩くと,ここにも物乞いがいた。マンホールから顔を出している”覗く人”の有名な銅像がある。街頭音楽師もいる。夕日を浴びたスロバキア国立劇場がきれいだった。
夜にウィーンに戻り,レジデンツ・オーケストラによるクラシックミニコンサートを聴きに行った。さすが音楽の都らしく,こうしたミニオーケストラでも素晴らしい演奏を聞かせてくれる。女性歌手によるソプラノ独唱も素晴らしかった。翌日の朝,ホテル近くの大きなショッピングモールへ行くと,肉や野菜はもちろん,海のない国でも海の幸が売られていた。
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”水素を積んで走る車” は ”危険で無駄なオモチャ"
February 25, 2015
最近,テレビや新聞で ”水素で走る車” が華々しく報道されている。しかし,”水素タンクを積んだ燃料電池自動車”の普及は,水素の爆発事故に対する安全対策の技術が現在よりも格段に進歩しない限り,絶対に不可能である。そのため,国や自治体としては,決して,"水素タンクを積んだ燃料電池車" を推奨してはならない,と思う。
そもそも,水素はガソリンに比べて危険性の度合いが格段に上である。そのことが,まだ日本の一般社会には知られていない。将来,ガソリンスタンドと同じように,街中のあちこちに ”水素スタンド” が建設されたらどうなるか。市民生活の安全性確保が極めて危うくなる。また,交通事故での車の破損による水素爆発の防止対策も現在は全くの未熟である。
その上,致命的なことは,”水素タンクを積んだ燃料電池自動車”は,CO2の削減対策にも逆行することであり,車の燃料(水素)の製造費用が,ガソリンよりも高価なことである。これらは全て,水素というものがガソリンとは違って,地中から出てくるのではなく,人口的にかなりの費用をかけて製造しなければならないためである。もちろん,その際には大量のCO2が排出される。要するに,”水素で走る車”は,決して環境浄化対策や省エネルギ対策にはなれない。現段階では,それを製造する自動車メーカーによる美辞麗句の宣伝に騙されてはならない。”水素を積んで走る車”は,”危険で無駄なオモチャ”に過ぎない。
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会長以下NHKの経営陣を刷新しよう
February 7, 2015
今日(2月7日)の朝日新聞の下記の社説には誰もが納得できよう。そもそも,このような人物をNHK会長に任命した安倍首相に最大の責任がある。即刻,籾井会長を罷免するべきである。NHKのテレビ番組には,過去にも現在にも多くの優れた作品があること自体は誰もが認めるであろう。しかし,一方,会長や経営委員の中に極めて不見識な者がいることも事実である。そのような連中を職場の上層部に頂いている多くのまともなNHK職員が気の毒に思える。NHK労組は,会長の罷免を決議したらどうか。NHK受信料の不払い者がますます増え,現在の不払い者の決意も一層強固になるであろう。
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NHKの籾井(もみい)勝人会長が、おとといの記者会見で、公共放送のトップとして、また見過ごすことのできない発言をした。
戦後70年で「従軍慰安婦問題」を取り上げる可能性を問われ、こう答えたのだ。
「正式に政府のスタンスというのがよくまだ見えない。そういう意味において、いま取り上げて我々が放送するのが妥当かどうか、慎重に考えなければいけない。夏にかけてどういう政府のきちっとした方針が分かるのか、このへんがポイントだろう」
まるで、NHKの番組の内容や、放送に関する判断を「政府の方針」が左右するかのような言い方だ。 就任会見で「政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない」と発言し、批判を招いて1年余。籾井会長は相変わらず、NHKとはどういうものか理解していないように見える。
当たり前のことだが、NHKは政府の広報機関ではない。視聴者の受信料で運営する公共放送だ。 公共放送は、政府と一定の距離を置いているからこそ、権力をチェックする報道機関としての役割を果たすことができる。番組に多様な考え方を反映させて、より良い社会を作ることに貢献できる。そして、政府見解の代弁者でないからこそ、放送局として国内外で信頼を得ることができるのだ。 政府の立場がどうであれ、社会には多様な考え方がある。公共放送は、そうした広がりのある、大きな社会のためにある。だからみんなで受信料を負担し、支えているのだ。 公共放送が顔を向けるべきは政府ではない。視聴者だ。
NHKがよって立つこの基盤が、籾井会長には、まだ分からないのだろうか。この1年の間、繰り返し指摘されてきたことだ。もはや失言や理解不足というレベルではない。
多くのNHK職員らは、視聴者のために、より良い番組作りを目指しているはずだ。そこには様々な考え方や意見が反映されなければならない。
政府に寄り添うような考えを公言する会長のもとで、現場が息苦しくなったり、番組内容が過度に抑制されたりしていないか、心配だ。こういう懸念が生まれること自体が、NHKの価値を大きく損なっている。 この事態を招いた籾井氏には重い責任がある。会長としての資質をめぐる疑問は深い。経営委員会は、近く一部の委員が交代する予定だ。新体制で、厳しく向き合ってもらいたい。
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日本の英語教育
January 20, 2015
英語について,私自身は高校時代に文法と読解を中心とした特訓授業,いわゆる "受験英語" をみっちり叩きこまれた世代であるが,その後の勉強でも日常の仕事でも英語が必携の商売道具の生活になってみると,高校時代に叩きこまれた英語の基礎知識の大切さと,当時の英語授業の有り難さを身にしみて感じている。個性豊かな名物先生の方々による英語の授業が昨日のことのように思い出される。
インタネット時代の今日では,日常生活でも職場でも,英語は世界の共通語と言えよう。そのために重要なことは,英語を正確に読解し,正確に書ける能力である。安っぽい "コミュニケーション英語" の風潮に振り回されてはいけないと思う。 英語をペラペラしゃべる割には,まともに英文が読めず,また書けないという人がたくさんいるように思う。「高卒の英語の力」が真に身についていれば,おそらくどんな職業に就いても,英語に不自由しないはずである。 "コミュニケーション英語" は,それが必要な仕事の中で練習すれば(させられれば),ある程度までは誰でもたちまち上達する。しかし,英語を「正確に読解し,正確に書ける能力」は,十分な訓練(学習)なしには得られない。語学の学習は短期集中の特訓でなければならないのだ。高校時代の英語教育(授業)の大切さを,改めて思う。
先日,高校の英語教師である友人が以下を述べている。私は全く同感である。
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公開された今年の大学センター試験の英語問題を見ながらいろいろなことを思う。
いよいよ小学校からの英語教育導入が政治日程に上がる時代になり、英語教育論争が再燃しつつあるが、その論点・争点は3,40年前とほとんど変わっていない。「従来の文法中心の古典的な読解授業が日本人の実践的英語運用能力を育てる妨げになってきた」などという議論はまったくの的外れであって、むしろ「基本的な文法知識も身に付けていないからこそ,まともな運用能力を獲得できないのだ」との主張は正鵠を射ていると思う。
現行学習指導要領どおりの、教師も生徒もできもしない all English での授業などこそ,これからの日本の英語教育をますますおかしな方向に向かわせ、英語嫌いを増やすだろう。
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季節の移ろい
January 18, 2015
今年も,残すところ,あとわずか347日となった。 今日の午後は,久しぶりのきれいな夕焼け空。日が少しづつ長くなり,季節が確実に動いていることが分かる。 冬至の頃には弥彦山のはるか左にいた夕日が,日毎に右にある弥彦山に近づいている。昨年の10月18日の夕日の位置と比べると,日没前の夕日の位置により季節の変化が良く分かる。”夕日の定点観測”を時々しようと思う。
新潟市のこの地では,毎年,10月中旬にもなると稲刈りが完了した近くの水田に,白鳥の群れが来ている。自宅から真西の方向で,弥彦山(左)と角田山(右)の間に夕日が沈む。この夕日は,冬至の頃には弥彦山のはるか左に沈み,夏至の頃には,角田山のはるか右に沈む。きれいだなと思っているうちに,わずか1分位で沈むので,私は急いでカメラを持って飛び出し,撮影に向かうことになる。
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西欧人の「基準」の危うさ
January 11, 2015
友人が以下を述べている。西欧人のuniversal standard なるものについて,以前から私も同様な疑問を持っていた。今回の彼の意見に私は全く同感である。
北朝鮮の金正恩を戯画にした映画をソニーがつくり,その上映を阻止するべく北朝鮮がサイバー攻撃をしたとして,アメリカ政府が "言論と報道の自由云々" を表明している。アメリカ政府には,相手が国交のない敵国とはいえ,そもそも,一国の指導者を揶揄し,戯画にする映画を制作することの傲慢さと,思い上がりへの反省が全くない。 そのため,彼等の標榜する「言論と報道の自由」には,底の浅さと欺瞞を私はいつも感じている。今回の件は,アメリカ映画の商業主義の馬脚が露呈しただけのことである。逆に,仮に,北朝鮮や中国がアメリカの大統領を揶揄し戯画にする映画を制作し,インタネットにより全世界に配信したら,アメリカの国民と政府はどのような態度に出るだろうか。
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仏週刊誌 Charlie Hebdo 襲撃の報に接した時、直ちに赤報隊を名乗る団体の朝日新聞阪神支局襲撃事件を想起した。言論を暴力によって封じ込めようとする暴挙は断じて許されるものでないことは論を待たない。
事件は3人の容疑者の射殺で幕を引いた。フランスで人質を取るというテロ行為が無効であることを知らしめるために、人質の中から犠牲者が出ようとも断固たる措置を取るとの政治的決断に基づく作戦であったことは明白だ。かつて、カーター大統領はパレスチナゲリラの無差別乱射というテロ行為についての意見を求められ、そのような行為は いかなる価値基準をもってしても許されるものではない.... cannot be condoned by any standard と表現したと記憶する。
今回オバマ大統領は、仏国民と連帯し、言論の自由という我々が共有する普遍的な価値 the universal value we share を断固として守り抜くと述べた。 一般論としては誰も反論の余地のない正論であろうと思う。
しかし、日本のヘイトスピーチ問題に関しても同じ思いを抱くのだが、言論の自由というのは、無制限に認められなければならない universal value であり、どのような発言・表現行為も無条件に認められなければならないという universal standard というものが存在するのだろうか?と考えると、私は一抹の疑問を拭えない。
具体的に今回の Charlie Hebdo の攻撃対象とされた風刺漫画に関して述べるならば、私はあの風刺漫画を見た際に、非常に気分が悪かった。その趣味は極めて repugnant で abject なものだと思った。いかなる宗教であれ、それを信仰する人々が《聖》なるもと崇めるものを戯画化して扱うことをも認めよというのが果たして universal standard か?
西欧先進キリスト教圏諸国がその standard を universal なものだと勝手に信じ込み、イスラムやアジア・アフリカという非キリスト教圏を蒙昧な教化の対象と見倣す思いあがりが意識の裏側にこびりついてはいないか?
正義の味方と悪漢仕立ての安物の西部劇のような報道姿勢のメディアが目立つが、ちょっと違った角度から切り込むのが日本のジャーナリズムの役割ではないのか。
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初冬のイタリア
December 16, 2014
初冬のイタリアを旅して帰宅すると,新潟は大雪になっていた。 ミラノ,ベローナ,ベネチア,フィレンツエ,ローマ,ナポリとは大違いである。イタリアのこれらの街には中世ヨーロッパの世界文化遺産が至るところにあった。また,スペインと同様にイタリアの多くの都市でも,その地中の至るところに古代ローマ帝国の遺跡が埋没しており,それらを破壊できないために,都市では地下鉄の経路を決めるのが難しいようだ。
ミラノのドウーモの教会の屋上から下を見ると,前の広場にはたくさんの人がいた。教会の周囲には露店市が連なり,クリスマスが近いこともあって,たくさんの人が出ていた。近くにはミラノ市警察のパトカーが待機していた。
ミラノから高速道路を東へ200 kmくらい行くとベローナの街に着く。少し雨が降っていたが直ぐに止んだ。この街も,ヨーロッパのほぼ全ての古い街と同じく,古代ローマ時代に造られたために,外敵から生活を守るための大きな城壁に囲まれている地区がある。近くには円形劇場(アレーナ)もある。露店市では焼き栗が売られていた。この街には,ロミオとジュリエットの舞台となった建物があり,ジュリエットが姿を見せたバルコニーの下の庭にはたくさんの人がいた。
ベローナからさらに東へ120 kmくらい行くと,ベネチアに着く。水上バスに乗り換えて,ベネチアの港に行き,サン・マルコ広場の鐘楼に登ると,ベネチア市内と港が一望できる。港の周辺では水路が縦横にあり,暗くなっても観光客を乗せたゴンドラが行き交っている。
ベネチアから高速道路を南へ(ボローニャ方面へ)240 kmくらい行くと,トスカーナ州の中心都市フィレンツエに着く。ルネッサンスの中心地,そして,メディチ家がミケランジェロやラファエロを始め多くの芸術家を支援した古い街である。ここにも,壮大なドウーモの教会がある。イタリアの古い街であるから,多くの彫像,教会,建物など芸術作品だらけだ。ガリレオ・ガリレイの像もある。ヨーロッパの多くの街の広場と同じく,ここにも街頭の似顔絵描きが数名いた。いつものことながら,そばで見ていると,どうして彼等は短時間にあんなに上手に似顔絵が描けるのだろう,と感心してしまう。広場では女性警官が観光客の質問に答えていた。12月8日は聖母マリアの誕生日とかで,広場では中世の騎士の格好をした人々のパレードがあった。
フィレンツエの鉄道駅から特急列車(イタロ)に乗り,イタリア半島を一路南東方向に約550km,2時間半ほど行くとナポリに着く。ナポリ湾の夜景は素晴らしいが,ナポリの街の中はやや汚い。ナポリの街から海岸沿いに約30kmくらい南下すると,ポンペイの街に着く。約1900年前に近くのベスビオ火山の大噴火により,街の人口の1割が死に,わずか数日で街中が火山灰に埋もれたポンペイである。発掘されたポンペイの街並み (もちろん,世界文化遺産である)には,古代の人々の暮らしぶりを思わせる遺品が多く残っている。
ポンペイから海岸沿いに約30kmくらい南下すると,途中で「帰れソレント」の歌で知られるソレントの街を通り,アマルフィ海岸の街に着く。断崖絶壁にへばりつくかのように家々が造られている。大きな地震が来たら,ほとんど全ての家が壊れて海へ転落するのではないか,日常生活における上下水道は大丈夫なのか,自宅には車を置く場所が無いために,毎日,海岸近くの道路から断崖の自宅まで,昇り降りしなくてはならない。高齢者には辛い生活だろうな,などといろいろ考えてしまった。
ナポリから高速道路を北西方向に約350 km,3時間半くらい行くとローマに着く。イタリアの首都であり大都会である。快晴の中で,サン・ピエトロ広場とサン・ピエトロ寺院にはたくさんの人々がいた。そこの衛兵になる資格は,スイス国籍で独身で175cm以上の身長の男子とのこと。トレビの泉は改修工事中。
スペイン広場の階段を歩いていると,一人の男(インド系の顔)が日本語で話しかけて来た。そして,ミサンガというヒモを私の手に巻こうとしたので,NO !と大声で怒鳴りつけると,くるりと後ろを向いて小さな声で「バカヤロ」とつぶやいて離れていった。彼等は観光客をこの手口にハメると40ユーロ(\6000)くらいを脅し取るらしい。
彼等(インド系とアフリカ系が多い)は,数人のグループを組み,常に観光客を狙っている。私は,観光ガイドブックにより,こうした手口を知っていたのでその男を撃退できた。 観光客の前に笑顔で急にバラの花を差し出し,観光客がそれをつかんだ途端に,50ユーロ(\7500)を請求し脅し取るという手口にやられた被害者もいる。
外国の旅先での日本人は,一般に鷹揚であるために格好の餌食になりやすい。通常は,話しかけてきた彼等を無視するのが一番良い。しかし,相手がしつこく強引に恐喝を始めたら,周囲に多くの観光客がいれば,その観光客が見ている前で,大きな声(もちろん日本語で)で相手を怒鳴りつけるのが良い。彼等には決して甘い態度を見せてはならない。
要は,日本人に手を出すと面倒なことになることを彼等に教えることである。十数年前のことだが,相手を見据えて私が柔道の対決姿勢を取ると,急に相手は逃げていった。日本人は誰もが柔道や空手が出来る,と外国人には思われているらしい。警察が来たら,その相手が何を言おうとも,自分は被害者であり正当防衛であったことを頑強に主張すること(現地の警察は,常習犯である彼等の顔を知っている)。さらに,日本大使館への連絡を強く要求すること。
私は,ヨーロッパへ行くときはいつもこの覚悟をしている。ヨーロッパにはこういう戒めがある。「騙した奴は悪い。しかし,騙された者も馬鹿だ」,「信じる者は騙される」。
フランスのパリ,スペインのバルセロナ,マドリッド,イタリアのミラノ,ローマ,ナポリ,デンマークのコペンハーゲン,オーストリアのウィーン,その他ヨーロッパの有名な観光都市は,いたるところスリと泥棒の巣窟である(この点がアメリカやカナダとは全く異なる)。
ただし,その実行犯はその国の人ではなく,ほぼ全員が東欧(特にルーマニアとブルガリア)から来た出稼ぎ集団であるらしい。彼等(男女問わず,もちろん子供も含む)はスリと泥棒を生業として生活しており,親の代からその仕事を学んでおり,かつ,”元締め役” の者がいる。ヨーロッパ大陸はEUで統合され,国境通過時のパスポート検査もなく,通貨もユーロで統一されているから,彼等は,観光シーズンには自由に何処へでも行き,グループで仕事(スリと泥棒)をこなし,いろいろな国を自由に出入りする。
ヨーロッパの観光地で人混みの中にいる時は,カバンやバッグを常に体の前に置かないと,たちまち彼等の餌食となる(リュックを背負っていることは,特に危険である)。バスや地下鉄に乗るときには,決して乗降口にいてはならない。彼等は降車の直前に盗むから,乗降口にいると彼等の格好の餌食となる。
ローマでのスリは,警察に捕まっても2時間で釈放されるから,その後また仕事(スリ,泥棒)に行ける。つまり,一日に3回くらいは捕まっても,通常は,彼等の仕事には支障がない(その日の稼ぎが少し減るだけ)。
イタリアを旅して特に印象に残ったことは,古代ローマ時代からの長い歴史を持ち,数多くの世界文化遺産を有する国であること(一国としてのその保有数は,おそらく世界一であろう),そのために街中の道路が狭いせいか(さらに,燃料が高いせいか),乗用車は,そのほとんどが小型車であること,また,タバコを吸う人が多く,その吸い殻を街中の道路に投げ捨てる者が多いことである。禁煙運動は今や世界的な傾向と思っていたが,イタリアは例外のようだ。
ローマのコロッセオは,予想していた通りの壮大な古代建築だ。ヨーロッパの都市でよく見かける街頭音楽師がここにもいた。ローマ市内も,至るところ古代遺跡が見られる。バチカンの丘に立つバチカン美術館の中の芸術作品はとても一日では見て回れない。美術館の窓からはローマ市内が見渡せる。美術館近くの地下鉄駅(Ottaviano)から地下鉄に乗り,共和国広場(Republica)に戻り,ローマ市内を歩き始めた。近くにはローマ三越がある。
近くのスーパーに入ると,店員が生ハムをスライスしていた。”寿司”と書かれている赤い提灯を出している店がある。他の国々の大きな都市でも,こうした日本食レストランをよく見かける(値段がやや高めだが)。電化製品,車,さらに食文化も,日本という国がヨーロッパの国々に知れ渡っていることを改めて知らされる。
イタリアでは,傘のような面白い形に刈り込まれた松の木の街路樹を多く見かけた。日本ではこのように刈りこんだ松の木を私は見たことがない。
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鑑定意見書
November 8, 2014
恵庭OL殺害事件の再審請求棄却に対する弁護側による抗告の資料としての鑑定意見書を,ようやく,ほぼ完成させた。連日,深夜まで書き続け,一日あけては考え直し,また書き続け,それを繰り返しているうちに,たっぷり一ヶ月間かかった。
考えてみると,自分をそこまで駆り立てたのは,正義感などという高尚なものでは全くない。初めから検察側証人の意見のみを重視して作り上げられた,科学的根拠から外れたデタラメな判決文に対する憤りであった。さらに,こんな馬鹿げた判決で,被告の若い女性の人生が台無しにされたことの不条理への腹立ちであった。
一方,友人の研究者から原稿を査読していただき,あれこれの温かい教示と指摘をいただいた。分野違いの人を,文書で説得させるべく自分の意見を述べようとする時の心構えを,反省させられた。何かで読んだことだが,「はやる心や意気込んだ気持ちで記述すればするほど,それは説得力を失う」を痛感した。
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恵庭OL殺害事件
October 12, 2014
2000年3月17日の早朝,北海道恵庭市北島の雪に覆われた砂地の農道で,若い女性の黒焦げの焼死体が発見された。事件性があることは明らかであったが,奇妙なことに事件直後からその女性と会社の同僚である一人の若い女性が警察にマークされ,後日,殺人と死体損壊の疑いで逮捕された。しかし,直接の証拠が全くなく,被疑者の女性には殺害の動機もなく,もちろん,彼女も一貫して犯行を否定し(警察での強引な取り調べにより心身不調となり,一時的に精神科に入院した),さらに,被疑者の女性がガソリンスタンドで給油している姿のビデオ画像と,その時刻により,彼女にはアリバイ(現場不在証明)があった。
ところが,裁判における起訴状の内容は,大柄な体格の被害者に比べて身長が15cmも低い147cmであり小柄で体力的にも劣る被告が,「三角関係のもつれにより,被害者を車の中で絞殺し,車から農道に引きずり下ろし,灯油10リットルをかけて火を付け焼損させた」とするものである。 被告の若い女性は8年前に懲役16年が確定し,現在服役中であるが,もちろん,弁護団により再審請求がなされた。しかし,今年の4月21日にそれが棄却されたために,直ちに,弁護側が抗告している。
この事件記録と裁判記録を見ると,直接の証拠がないことも無視し,殺害の動機がないことも無視し,アリバイの存在も否定し,雪に覆われた砂地の農道で灯油10リットルをかけて焼かれたとする遺体が,本当に内部にもわたって黒焦げに焼損するか否かの詳細な検討もなく,初めから起訴状に沿って作文した,あ然とするばかりの無責任なデタラメな判決であり,明らかに冤罪であることが普通の人には直感できよう。
再審請求を棄却した判決でその根拠とされた一つに,検察側が提出したある大学教授の意見書がある。その”意見書”なるものは,鑑定者自身が全く実験をやっておらずに,空疎な推論を構築しただけものであり,そのため,内容には初歩的な間違いがある。 こんな鑑定意見書で,裁判官はよくぞ判決文を書けたものだと,私は呆れると同時に腹立たしさを覚えた。その大学教授(名前だけは私も知っている)のHPを見ると,肩書には「警視庁顧問」とある。 顧問とはいえ,こんなデタラメな推論で意見書を作成するとは,一体,彼には学問研究者としての良心のカケラもないのか,と驚いてしまう。火災,爆発関係の研究者の間では,裁判において,彼はいつも検察側の証人として登場する人物として知られているようだ。 弁護士の今村核氏は,その著書「冤罪弁護士」(旬報社)の第5章のP.122
で,また,「冤罪と裁判」(講談社現代新書)のP.173 にて,冷静な筆致ながら彼の姿勢を厳しく批判している。大阪東住吉事件の弁護団に加えて,依頼により,本件の弁護団にも私は協力し尽力することにした。
この「恵庭OL殺害事件」は冤罪の疑いが極めて濃厚な有名な事件であり,今日では,インタネットにて広く公開されている。もと裁判官であった方々や監察医などからも,多くの疑問が出されている。本件を担当している弁護士の伊東秀子氏による下記の書は,この事件を克明に記述しており,読む者に強い説得力を持つ。
「恵庭OL殺害事件ーこうして「犯人」は作られた」(2012年 日本評論社刊)
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仕事を持つ者の宿命
September 26, 2014
多くの知人宛に以下の内容のメールを送った。これが仕事を持つ者としての宿命と,私は受け止めている。
あと一ヶ月で93歳になるという9月24日未明に,父が静かに生涯を終えたとの連絡が来た。 葬儀は27日だが,私は現在,前から関わっている東ティモール大学工学部支援プロジェクトの仕事のために東ティモールにいるので,もちろん出席できない。まずは,来春の年賀状は欠礼させていただくことをお知らせする。
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NHK受信料の支払いは任意である
August 22, 2014
「NHKの受信料を徴収するべく人が来た。それを断り,帰ってもらったが,その後3回も来た。」との話を知人から聞いた。
昔から,NHKの会長も理事も,受信料を払っている視聴者である国民が選出するのではない。 会長は時の政府による選任である。経営委員は首相が任命する。よって,"NHKの公正中立性"
なんぞ私はハナから信じていない。 実際に,NHK会長の籾井,経営委員の百田尚樹や長谷川三千子という者達が,彼等の発言により「NHKは公正中立ではない」ことの本質を遺憾なく日本社会に暴露してくれているので,受信料の不払い者が増えているらしい。
メディア研究者の松田浩氏は,「政権のNHK支配 監視を」(露骨な人事 情報統制の発想)と題して警鐘を鳴らしている(2013年12月4日 朝日新聞)。 2014年5月8日の朝日新聞の社説は,NHKの籾井会長の言動を取り上げ,「NHK会長 これで信頼保てるのか」と述べている。また,同日の朝日新聞の「私の視点」では,元NHK監事の黒川次郎氏がNHKの会長選任について,”公募導入し独立性確保せよ”
と述べている。 「NHK受信料支払い停止運動の会」の共同代表である醍醐聡氏(東大大学院教授)は,以下の主旨を述べている。(本多勝一著「NHK受信料を拒否して40年」金曜社 2007年発行,P.54 )
「(NHKへの)政治介入を許す体質を改めたならば,支払いを再開する。改められるまでは(支払いを)止める権利がある。受信契約はNHKと視聴者との対等な双務契約であるから,民法533条の "同時履行の抗弁権" により,相手が義務を果たさないならば,こちらだけ一方的に義務を果たす必要はない。」
2012年度末の推計では,テレビを持つ世帯の中で受信契約を結んでいない世帯が23%(1081 万世帯)に達するとのこと。
かなり昔,NHK受信料の徴収のために自宅に来た人に,私は理由を述べて支払いを断った。そして「NHKの会長が私の自宅に来て,受信料を支払う理由を私が納得できるべく説明してくれたら支払う」と伝えた。以来,今日に至るまで,受信契約を結んでいないので,私には受信料の請求が来ない(それが来ても,私は無視するであろう)。
放送法第64条では次のようになっている。
「協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であつて、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。第126条第1項において同じ。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。」
しかし,これは現実離れした時代遅れも甚だしい放送法の条文である。今日は,自宅にテレビがなくても,家族の中の複数の者が自分のケータイ,スマホ,カーナビ,パソコンなどで自由にテレビ番組を視聴できる。それらでNHKの番組を視聴している受信者一人ひとりを把握することなど出来るわけがないから,彼等への受信料の請求ができない。 NHKのテレビ受信料の支払い義務の法的根拠は,今日ではもはや時代遅れで消滅しているのだ。
結局,NHKは「支払い拒否の意思表示の強い人」や「手強そうな人」には受信料の請求をせず,学生,若い主婦,老人世帯などの「意思表示の弱そうな人」のみに対して,徴収人は強気に出て支払いを要求するのだ。受信料を払わなくても罰則の規定はない。
支払いを断る時に一番良くないのは,徴収に来た人に「我が家にはテレビはありません」とウソを言うことだ。 それは逃げの口上として受け取られかねない。
そもそも,徴収に来た人と論争しても何の成果もない。彼等は,ただ単に臨時雇いの仕事として徴収に回っているだけだ。そのため,徴収に来た人には,あくまでも「丁寧にかつ柔らかく応対する」ことが大切である。 徴収に来た人には以下のように伝えて,お帰りいただくのが良い。
「もちろん,自宅にテレビはある。しかし,NHKのテレビ番組を見るか見ないかはこちらが決めることである。頼みもしないのに勝手に電波を送り付けて受信料を請求するのは,まさに ”押し売り行為” である。よって,NHKの受信料など払う義務はない。 さらに,受信料を払っている視聴者(国民)に会長や理事を選出する権利がないのは不当だ。」
自宅のテレビを撤去した時にNHKの受信契約を解約するには,受信章(シール)を剥がして地元のNHK放送局へ返送するだけでよい。また,テレビの撤去をせずに,銀行や郵便局の口座引き落としを抹消しただけでは "受信料の滞納" になるのみで "解約" にはならないので,さらに,ハガキに自分の住所氏名を記して,「今後は受信料を支払わない」と放送局に通告する。それにより正式に解約となる。
その後,NHKから ”支払いのお願い” の郵便が何回か来るが,それらは裁判所からの督促状ではなく,無視しても差し押さえなどの執行はない(民事裁判の確定判決ではないために)。 開封せずに "受領拒否" と朱書して,そのままポストへ入れても良い(返送料金はNHKの負担となる )。
2014年9月5日,最高裁から「NHK受信料の請求は5年で時効となる」との判決が出たことを受けて,NHKとしては「契約者側から時効の請求があれば,5年で時効とする」とのことである。
ただし,受信料の請求権は5年が経過したら自動的に消滅するわけではない。民法145条によると,受信料支払いの請求に対して,「それは時効だ」とNHKに対して「主張」したときにはじめて、裁判所はその請求を時効として扱うことができる。その主張は,ハガキにその旨を記して配達証明付きで地元のNHK放送局へ郵送するだけで良い。
「NHKの受信料の支払いは不要である」ことの正当性については,下記のURLに詳細な説明がある。
1) http://www.inet-shibata.or.jp/~diet/o_democracy/o_democracy_NHK-1.html
2) http://www.ystseo.net/ngnhk/housouhou.html
3) http://jp.ask.com/web?q=NHK%E5%8F%97%E4%BF%A1%E6%96%99%E6%94%AF%E6%89%95%E3%81%84%E5%81%9C%E6%AD%A2%E9%81%8B%E5%8B%95%E3%81%AE%E4%BC%9A&qsrc=19&o=7131&l=sem
4) http://www.marino.ne.jp/~rendaico/3_manabu_corner_tyosakuken_ongakukyokai_nhk.htm
5) http://www.geocities.jp/shiharaiteishi/
6) http://nhk.crap.jp/
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再び,STAP細胞とその周辺
August 11, 2014
2014年8月10日,物理学者の大槻義彦氏 (早稲田大学名誉教授) は以下のように述べている。彼の意見に私は賛同する。
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「STAP細胞、笹井博士を抹殺してしまったのは誰だ!?」
それは日本の異常なマスコミと世論だ。科学の世界にこのような異常、異様なバッシングは許されない。そのおかげで人類は世界有数の再生医療のリーダー、ノーベル賞候補を失った。断腸の思いである。
およそ、通常の科学論文には誤りはつきものである。いやいや,もっとはっきり言えば誤り、誤解、または無価値な論文が多数を占めるのだ。 このような宿命は今に始まったコトではない。たとえばニュートンが万有引力を発見した後、『その万有引力は真空の宇宙空間をどのように伝わるのか』ということが最大の疑問であった。今ですらこのことは十分わかっているとは言えない。 ところがこの問題に取り組んで『万有引力はこうして伝わる』という論文が出始めた。ヨーロッパ、とくにイギリスを中心のこの問題を取り上げた論文が100篇以上ののぼった。すべて誤りだった。 このような誤りは世論や週刊誌で叩かれることもなく、ましてその著者が研究施設からクビになることもなかった。実際にはこのような誤りを土台にしてアインシュタインの一般相対性理論が構築されてゆく。 科学の世界では『誤りも進歩の歩み』になりうるのだ。
もう一つ。もっと新しい例をあげよう。それはあの超伝導現象である。絶対零度近くで電気抵抗が0になるという現象がオンネスによって発見されてからその原因となる理論的研究が何十年も続いた。 この間『超伝導の謎を解明した』という論文が500篇以上も発表された。すべて誤りか不十分であった。そしてついにBCSの理論で決着がついた。そこでこの500篇以上の論文の著者が新聞や週刊誌、NHKなどに叩かれ、身分をはく奪され、スキャンダルまで報道されたか?! ノー!!ノー!!実際には誤りであった論文もその後のBCSの理論の土台となった。まして誤りの論文を書いた著者が自殺に追い込まれたことも聞かない。
科学や教育の分野では誤りは許される。処分の対象にはならない。生徒が誤って答案を書くのは当たり前。科学者が誤った論文を書くのも当たり前。この誤りから進歩がある。 このことは一般社会での仕事上の誤りとはまったく違う。
笹井博士が小保方さんの作ったSTAP細胞の画像の解釈を誤ったとしても、処分の対象になどならない。まして週刊誌やNHKが個人的スキャンダルめいた批判までするのは行き過ぎであり、不幸なことだ。
STAP細胞はウソだった可能性が高い。それでも小保方さんがこれを故意にでっち上げたという証拠がない限り、単に膨大な数の誤った論文の一つにすべきである。そのときには処分などもってのほかである。 このような科学の進歩の現実に反するおかしな議論は、何と分子生物学会などにも広がっている。これについては改めて批判する。
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不公正で不快な記事
July 21, 2014
下記に武田邦彦先生(中部大学)の意見の一部分を紹介する。私はこれに賛成する。
私自身,過去に投稿論文の査読者から「このグラフは不要ではないか」と言われて,原稿から削除したことがある。実験のデータを疑われたことはないが,データの詳しい説明を求められて論文中の文章をかなり書き直したこともある。これらは,研究者であれば誰にも時々あることであり,ごく普通のことである。
今日の毎日新聞のこの記事は,研究者の世界と研究論文の査読過程を知らない,そして,現在弱い立場にある若い研究者を執拗に追い込む,極めて不公正で不快な記事だと私は思う。
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「2014年7月21日の毎日新聞を読んで、私は背筋にぞっとしたものを感じた。一面の大きなスペースを割いて、「STAP論文で、初期のころ提出して拒絶された論文の査読過程で、データの一部を削除した。これは意図的である」という記事だ。小保方さんが無給研究員でなんの権限もない頃のことだ。 データのグラフが掲載され、5つのデータのうち、査読中に削除された2つのデータを示し、このデータを査読委員が指摘したので削除したのは、万能性を示す論拠が弱くなるから削除したという推定(記者か協力者の勝手な推定で、著者の意見は掲載されていない)が書かれていた。またその記事には学者と称する人が登場して、まことしやかに記者の推定を補強していた。おそらく仲間内だろう。 社会でたった一人か、組織内にいてもその組織が防護してくれない一個人、犯罪も犯していないし、うっかりミスを少ししたという個人(この場合は小保方さん)を、毎日新聞という社会的公器が、毎日のように根掘り葉掘り、その欠点を報道し、しかも批判している相手にはほとんど取材していない。そんなことが許されるはずもない。」
「論文を出すと、査読委員会からあれこれと注文が付く、最初は、良かれと思って出したデータもかえって誤解を招くこともあることがわかったような場合、そのデータを「論文の趣旨がより明確にわかるために」削除することは普通にあることで、それを「隠そうと思った」と推定するのはよほどのことだ。 また、論文を提出して査読が終了するまでの原稿というのは、「内部で書いてチェックを受けている原稿」である。新聞でも書籍でも、最初の原稿の中に「差別的表現」があったけれど、チェックの過程で不適切とわかり、表現を変えたり削除したりすることはままある。その時に原稿と最終的なものを外部の人が比較して、「もともとあの記者は差別的思想を持っていた。それを隠すために表現を変えた」などと言われたら、どうしようもない。」
「現在のところ、小保方さんは「写真を2枚針間違った。写真の1枚をわかりやすくと思って加工した」というだけで、論文自体はネイチャーを通っている。ミスは小さく、しかもすでに社会的制裁は十分すぎるほど受けている(もともと、法治国家に社会的制裁があること自体がよいことではない)。
さらに仮に小保方さんの論文自体に問題ではなく、たとえば若山さんの研究に問題があるとか、笹井さんが研究に参加していないのに名前を使ったとか、研究費の使い方に問題があり、それを理研の経理が見過ごしたというようなことがあるなら、それ自体を記事にしなければならない。
何をさておいても、一個人を大新聞が毎日のように叩いて叩いて、ついに個人のほうがへこたれるまでやるということになると、それは恐ろしいバッシングの社会になってしまう。毎日新聞は最低でも、一個人を批判する場合は、最低限の形式を整えなければならない。
○一個人を批判する場合は、批判される個人にも対等な反論の機会を設けること、
○ことの内容について「批判側」と「擁護側」の論を並列に載せること、
毎日新聞は直ちにSTAP報道をやめるべきである。そして学問としての間違い、査読途中の論文の公開という不正な手段への謝罪をするべきである。」
(平成26年7月21日)
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おかしな表示
July 21, 2014
誰でもついやってしまう "うっかりミス" や, その時には気付かないが,後で指摘されて冷や汗をかきつつ訂正し時には自己嫌悪にも陥るような "間違い" は,誰にもあることだ。まさに,Error is human である。
それらをあげつらうような悪趣味は,私は持たないが,しかし,あまりにも長い間そのおかしなミスが放置されているのを見ると,これは作成者が本当に知らないために,ミスに気付いていないのではないか,と思えてくる。
例えば,路線バスの車体によく見かける "ノンステップバス " の表示。 最初にそれを見た時には私は驚いてしまった。意味がわからなかった。どうやら,身障者や足の不自由な人に対応するべく,車内の床に段差がないバスのことらしい。しかし,この文言をバスの車体に表示することを決める時に,バス会社は,Native Speaker にその是非を確認したのだろうか。 "ノンストップバス"
ならば目的地まで無停車の直行便であることが想像できるが,"ノンステップバス "では滑稽であり馬鹿げていると私は思う。例えば,Stepless Floor Bus, Full Flat Bus, Barrier Free Bus, Flat
Floor Bus など, いろいろ思いつくが,"ノンステップバス " では,外国人が見たらどんな印象を持つだろうか。(もっとも,Non Step Bus という英語表示ではなく,カタカナで表示されていれば,外国人の目には,単なる "日本文字らしき模様" にすぎないかもしれない。)
「発車したバスにはご乗車できません」の看板には,思わず吹き出してしまう。ある方の投稿の中に表示されていた写真を引用させて頂いた。当たり前じゃないか,と思うが,バス会社としては,発車したバスに飛び乗ろうとするのは危険だ,と警告したいのだろう。しかし,それならもっと別の文言があろう。
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小保方氏の”博士論文”の調査結果
July 20, 2014
STAP細胞の論文への疑惑に端を発して,早稲田大学での小保方晴子氏の博士論文の信憑性と妥当性までもが調査されることになった。 2014年7月17日,その調査委員会による調査結果が公表され,それは「彼女の博士論文には様々な重大な間違いと著作権法違反があるが,学位の抹消処分にまでは至らない」とするものである。
それを受けて,早稲田大学は小保方晴子氏の博士学位論文に関する調査を行う「大学院先進理工学研究科における博士学位論文に関する調査委員会」が作成した調査報告書の全文を大学のWebサイトで公開した。
それを報じるマスコミの見解を見ると驚いてしまう。早稲田大学大学院の先進理工学研究科が授与する博士号に対する,これほどの手厳しい致命的な調査結果があるだろうか。この厳正かつ正確な外部評価は永久に残るに違いない。早稲田大学大学院の先進理工学研究科の信用が,途方もなく失墜したと言えよう。その先進理工学研究科は,どのようにして社会的信頼を取り戻すのであろうか。その対応策の公開が社会的に求められよう。
調査結果が小保方氏の「博士号抹消」までは結論しなかったのは,”それをすると先進理工学研究科では過去の100人くらいの博士号も抹消しなければならない”という報道もある。今回の調査結果の最終結論にはそうした裏事情があるようだ。 早稲田大学大学院の先進理工学研究科としては,現在まずやるべきことは,小保方氏に学位の自主返納を求めること,そして,指導教員の大学院担当資格の停止処分を行なうことである。それらは,大学としての社会的責任から当然のことであろう。こうした経過の中で,前々から私が解せないのは,彼女の博士論文の指導教員が,ほとんどマスコミに登場していないことである。彼女の博士論文の指導教員は,今,どんな気持ちでいるのであろうか。
アメリカの理工学分野の大学院では,私が知る限り,敎育と研究のシステムが日本とは大きく異る。アメリカの博士課程では,博士論文の作成の前提となる学術雑誌への投稿論文は1,2報で良いが,一方,研究者としての敎育(授業)による特訓が主流であるために,大学院生は厳しい勉強を強いられている。日本のように "論文提出" による学位取得,いわゆる "論文博士" の制度はない。 所属する分野での
"つぶしが利く"(特定の分野に偏らない)研究者を育てる,というのがアメリカの大学院博士課程の教育目標なのである。 博士論文の内容自体は,日本のそれに比べて特に優れているということはない。アメリカの博士論文は,最初のページに,直接の指導教員(主査)の自筆の署名が記されている。 つまり,その博士論文には院生と指導教員が共同責任を負うことを表明しているのである。アメリカは厳しい "契約社会"
であるから,こうした署名は後々まで重要な意味を持つ。
アメリカの理工学系大学院の博士課程であれば, "STAP細胞の小保方氏" は,おそらく出現しなかったと私は思う。小保方氏は,もはや研究者の世界に残れまい。(ただし,STAP細胞が本当に再現され,細胞生物学の世界でその存在が認知されれば,もちろん,彼女は大逆転を果たして,賞賛とともに研究者の世界に歓迎されるであろう。)
2014年7月19日のマイナビニュースで報道された記事は以下の通りである。
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早稲田大学(早大)は7月19日、7月17日付で同大総長に提出された理化学研究所の小保方晴子研究ユニットリーダーの博士学位論文に関する調査を行う「大学院先進理工学研究科における博士学位論文に関する調査委員会」が作成した調査報告書の全文を同大Webサイトにて公開をした。
今回の全文公開は17日の会見で、同大総長の鎌田薫氏が公言していたもので、個人情報などに配慮した修正作業が終了し、各委員より公表の了解を得られたことから、掲載に踏み切ったと同大では説明している。 今回公開されたのは、82ページにわたる調査報告書の「本体」のほか、問題個所や転載元、ヒアリング対象者と実施日(対象者の一部は匿名化されている)が掲載された53ページの「付帯資料」となっている。
調査報告書の本体は、調査に至る経緯や調査目的、調査方法などを記した「序章」と、事実の経緯や論文作成過程における問題点の検証、論文内容の信ぴょう性や妥当性の検討、学位取り消し規定の該当性、論文作成過程における問題点、学位授与の審査過程における問題点などが記された「第2章 調査結果」の2章で構成されている。
なお、最後の「結語」において、調査委員会は、「本来であれば、これらの問題個所を含む本件博士論文が博士論文審査において合格に値しないこと、本件博士論文の作成者である小保方氏が博士学位を授与されるべき人物に値しないことも、本報告書で検討したとおり」と記しており、早大が博士学位を小保方氏に授与してしまったことは、同大なたびに同大において過去に博士学位を取得した多くの人々の社会的信用、ならびに同大における博士学位の価値を大きく毀損するものであったと指摘。
また、小保方氏に対しては、今回のような結果をもたらした自己の不注意さ、研究倫理に関する考え方の甘さ、論文作成の作法や知識の不十分さなどを猛省する必要があると指摘しているほか、論文の作成指導過程や学位授与の審査過程に関与した人たちにも、その結果の重大性や事故の責任の重さの自覚を促しており、最後に今回の調査報告の結果、小保方氏の学位取り消し要件に該当しないと判断はしたが、それがこの問題点の重大性を一切低減するものではないことを明言しているほか、同大の学位取り消し規定が、「不正の方法により学位の授与を受けた事実」となっている以上、今回の問題で学位を簡単に取り消すのは難しいともしており、学位授与という行為に、それだけの重みがあることを認識し、審査に関わる必要性を強調したものとなっている。
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気になっていた "日本語文"
July 17, 2014
前から気になっていたのだが,JR東日本の新幹線の座席の背後にある以下の文章は,日本語も英語も, あまりにも不可解で,かつ稚拙ではないだろうか。
「列車内では,キーボードの操作音など,まわりのお客様のご迷惑とならないようにご配慮ください。」 そして,この "英語訳" として以下の文章がある。
Please be considerate of other passengers while using your computer(keyboard noise,etc.)
上記の "日本語文" は,単なる "日本語もどきの文" であり,一読して,日本人として恥ずかしくなり,かつ,腹立たしくもなる。 ”操作音など,.....迷惑とならないようにご配慮ください” とは,一体,具体的に何をせよというのか。
be considerate of .... using your computer ??? これを一読した外国人にこの "英文" の意味が直ちに分かるだろうか。 この "英文" は「キーボードの操作音が好きな人が周りにいれば,その操作音を大きくして周りを楽しませて下さい」とも受け取れる。
上記の "日本語文章" は「話し言葉と文章言葉は全くの別物である」ことを分かっていない担当者が書いた「不明解な日本語文」の典型例と言えよう。
主張したいことをなぜ,単刀直入に書かないのであろうか。この "日本語文" は,例えば以下のように書き直すのが良い。
「キーボードの操作音などは,周りのお客さまにとって迷惑となりますので,小さくしてください。」
これなら,文章の意味が一読して誰にも明解であり,そのために英訳も易しく,いろいろな訳例が考えられる。例えば以下の英訳はどうだろう。少なくとも,現行よりは良いだろう。
Thank you for your cooperation to suppress the hitting noise on your keyboard, etc., for preventing the irritation of other passengers.
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初夏のドイツ南部の旅 - 4
July 6, 2014
ハイデルベルクから西へ車で30分ほど行くとルードウヒスハーフェンに来る。その80kmほど北にマウルブロンの街があり,世界遺産のマウルブロン修道院がある。作家ヘルマン・ヘッセが一時滞在していた修道院であり,彼の作品
"知と愛" はここがモデルである。周辺には,北ヨーロッパの諸国で典型的に見られる "木組みの家" が並んでおり,通常の日本人であれば,ここが北ヨーロッパであることを改めて痛感させられるのではないだろうか。
マウルブロンの街からフランクフルト方面へ約180km,マインツの街に近いリューデスハイム。ライン川に面した "ラインの真珠”と呼ばれる小さな街である。 "つぐみ横丁" と呼ばれる細い通りの両側にはワイン酒場やみやげ物屋が並んでいる。日本人が経営する "ワイン試飲”の店もある。この "つぐみ横丁" でも,もちろん,私はおいしいビールやワインを飲んだ。
リューデスハイムから珍しい外輪船である"ゲーテ号" に乗り,ザンクト・ゴアールまで約1時間半,世界遺産のライン川クルーズに参加した。私にとって外輪船に乗ったのは初めてであり,船の両舷にある外輪がどのように動くのか,とても興味深かった。 このライン川クルーズの船は,何回か途中の桟橋で停船し,そのたびに乗客の出入りがある。川の両岸には鉄道線路が通り,その背後の丘にはぶどう畑が広がり,また廃墟に近い古城がいくつも見られる。
ライン川は大きいが,中州があり大きな浅瀬もあるために船の航行は要注意である。中洲には,昔,船の通行税を徴収していた税関がある。
川岸には通し番号の標識があり,航行中のクルーズ船の現在位置が分かるようになっている。 554の標識は,日本人にその有名な歌がよく知られているローレライの岩山(断崖)の場所である。この場所はライン川で一番川幅が狭く,航行の難所とのこと。はるか昔,この場所でときどき船が事故に遭遇したので,「岩山にたたずむ美しい少女が船頭を魅惑し、舟が川の渦の中に飲み込まれてしまう」という伝説に転じ、ローレライ伝説が生まれたとのこと。 何回かの工事により今日では川幅が広がり,大型船も航行できる。ローレライの岩山の上には,EUとドイツの国旗に似た旗が立っていた。
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初夏のドイツ南部の旅 - 3
July 5, 2014
バイエルン州の首都ミュンヘン。フュッセンから北西へ100 kmくらいの距離だ。土曜日のせいか,人口136万人の大都会の市庁舎前とマリエン広場の周辺には人が多かった。やはり,バイエルンの伝統衣装のギター弾きがいた。そして,ここにも "人間銅像" がいた。また,愛犬を連れた女性の物乞いもいた。あの人達は長時間あの姿勢のままでいるのは辛いだろうな,トイレに行きたくなったらどうするのかな,などと心配してしまった。でも,一日ああしていれば,ある程度の収入があるのだろう。
ミュンヘンから北へ約170km行くと,バイエルン州第2,人口50万人以上を有する大都会ニュルンベルグに着く。第二次世界大戦では街の90%が破壊されたが,この街も復興され,中世そのままの昔通りに再建された。また,戦後にはナチスドイツが犯した戦争犯罪を裁いた "ニュルンベルグ裁判" が行われた裁判所がある街である(1933年にナチ党の第一回党大会が開かれ,ナチの記念物が建てられていたためらしい)。 日曜日の朝に散歩に出た。旧市街の教会の近くの広場では朝市の準備がなされていた。ブタの一頭が丸焼きされているのは初めて見た。
ニュルンベルグから北へ60kmくらい行くとバンベルクに来る。この旧市街も世界遺産である。豊かな川が流れ,遊覧船や白鳥の親子連れが見られる。子供連れの歩行者と自転車のみの専用道路であることを示す道路標識に付随している標識の意味は良く分からなかった(ボール遊びを禁止することだけは想像できた)。 この街の名産である,燻製の香りのする "ラオホビール"
は,かなりクセの強いビールだが,私にはとてもおいしかった。
バンベルクから西へ約270km行くと,大学と芸術の街であるハイデルベルクに着く。中心部には大きなネッカー川が流れ,その川にそって赤茶色の屋根の家々が広がる。山の上にあるハイデルベルク城から市街を見ると,まさに絵葉書にあるような光景だ。今は廃墟となった古城とドイツ最古の大学を持ち,ゲーテ,ヘルダーリン,ショパンなどの芸術家を魅了したこの街は,一年中旅行客が絶えないのであろう。約230年前にできた有名なカール・テオドール橋には,愛犬を同伴した街頭音楽師がいた。
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初夏のドイツ南部の旅 - 2
July 4, 2014
ロマンティック街道にあるローテンブルクの街。ホテルの近くには,ドイツ国鉄(DB)の駅と大きなスーパーマーケット(朝7時に開店!)があった。 その中にある肉屋には,ドイツらしく数多くの種類のハムやソーセージが並べられていた。写真を撮っても良いかと訊くと,店員の女性は快くポーズをとってくれた。ビールやワインにこれらはとても良く合う。なお,ソーセージもスープも,日本人にはかなり塩味が強く感じられるようだ。ドイツの人は,うまいが塩っぱいソーセージを食べた後にビールやワインを飲み,口の中をリフレッシュさせているのかもしれない。パン屋には,種類も形も様々なパンが並べられていた。
ローテンブルクは,人口がわずか11000人の高台にある小さな街だ。街の起源は9世紀頃であり,最初の城壁は12世紀頃に出来上がったとのこと。街を歩いていると中世の面影が十分に残っている。この街にも,やはり日本人が経営する店があった。街頭でのバイオリン弾きのおじさんもいた。ローテンブルク城の中には,"シューベルトの菩提樹" をフルートで演奏している青年もいた。 全身に金粉を塗った
"人間銅像" もいた。街頭におけるこうした楽器演奏者や,"人間銅像" をヨーロッパの街ではよく見かける。それで生活ができる程度の収入が得られるのだろう。
ディンケルスビュールの街はローテンブルクよりは静かな街だ。戦争の被害をほとんど受けていないために中世そのままの街並みがある。 ドイツ南部の街で,時々ハエが飛んでいるのは,観光客を乗せた馬車を引く馬が路上に落とすフンのためらしい。ディンケルスビュールから南に約190kmくらい行くと,のどかな草原の中に,美しいロココ様式のヴィース教会がある。これも世界遺産である。教会の後ろにはオーストリアとの国境をなす山脈が見える。
教会から車で30分位で国境の町フュッセンに着く。近くの山の中腹には有名なノイシュバンシュタイン城が見える。こんな所に巨額の費用と17年もの歳月をかけて城を建設させたルードウィヒ2世はバイエルン国に多大な損害を与えて国民から嫌われたが,今日では,一年中,多額の観光収入をもたらしている。
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初夏のドイツ南部の旅 - 1
July 4, 2014
かねてから念願していた南ドイツでの旅をしてきた。たまに小雨が降ったこともあったが,ほぼ連日,乾燥した爽快な気候であった。梅雨がないヨーロッパの6月末では,この気候が普通らしい(そのために,June Bride という言葉が生まれたらしい)。
ドイツもまた,スペインやポルトガルと同じく,古代ローマ帝国時代(またはそれ以前)からの遺跡と,その後の長い歴史による史跡(古城,教会,街並み)が数多く残っている国である。古い街であるほど,いたるところに "世界遺産" がある。今回は,ヴュルツブルク,バンベルク,ハイデルベルク,さらにオーストリアとの国境に近いフュッセン,ミュンヘンなどを訪ねてきた。
第二次大戦の末期に,連合軍による凄まじい空爆により多くの街が破壊されが,戦後,見事にかつ早急に復興工事が進み,古い歴史を持つ多くの街並みが,中世の昔通りに再建された。 街中の通りを歩いていると,ドイツという国の古い歴史を感じさせられる。感心させられるのは,ドイツでは街中を歩いていても,ゴミが落ちていないことである。ホテルの中もきれいだった。これらはドイツ人の国民性によるのであろうか。既に30年以上も前から,ヨーロッパ諸国の中でドイツは
"優等生の金持ち国家" として胸を張れるようになった。
ドイツは,周囲の9カ国と国境を接している比較的広い国土を持つ。スイス,オーストリア,チェコと国境を接している南部の山岳地帯を除けば,ほぼ全体が広大な丘陵地で構成され,その中をライン川,ヴェーザー川,エルベ川,ドナウ川,ネッカー川,イーザル川,その他数多くの大きな川が流れている。 郊外を走る車窓からは,麦,ホップ,ブドウなどの広大な畑が続いているのが見える。「原発の廃止」を決定したドイツでは,風力や太陽電池による電力供給への転換が進んでおり,丘陵地帯では太陽電池のパネル群や風力発電のプロペラ塔をたくさん見ることが出来る。
ドイツで存分に飲んできたビールやワインは,どれもみなとてもおいしかった。ヴュルツブルクの街にある世界遺産の大聖堂の中を見学した後,ローテンブルクの街へ行くと,ワールドカップでの勝利を歓び,ドイツ国旗を立てた車が街中を走っていた。ドイツ国民の明るさと幸せさが感じられた。
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粟ヶ岳
May 25, 2014
前日から晴れた5月の最終日曜日。新潟県の加茂市と下田村(三条市)の境にある,日本300名山の一つである粟ヶ岳(1292.7 m)に登ってきた。
加茂市の水源地にある登山口から入山したのが午前8時20分。3合目辺りから尾根伝いに歩きと登りが続く。途中には,3連のハシゴで登ることもある。尾根に出ると周囲の眺望がとても良い。この時季でもまだまだ残雪がある。先日に来た下田村の棚田と「かもしか病院」,さらに入山した登山口のある水源地が眼下に見える。
途中の休憩時間を入れて約3時間でたどり着いた頂上には若い人たちが沢山いた。かなり風があり,爽快であったが,こんな山頂でも顔の周りでうるさく飛び交うブヨが多く,閉口した。北の遠方には5月3日に登ってきた白山の丸い山頂が見える。
下山中には眼下に7合目の粟ヶ岳ヒュッテが見える。下山中の尾根で後ろを振り返ると,今まで歩いてきた道筋がよく見えた。案内書によると,粟ヶ岳の登山を経験すれば,中高度以下のたいていの山を登れるとのこと。同行した登山ベテランの友によると,今日で「新人登山訓練」が修了ということらしい。
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グシノ峰と木六山
May 20, 2014
梅雨入り前の快適な気候に恵まれた5月の快晴の日。新潟県五泉市村松町にある登山口(チャレンジランド杉山)から,木六山(825 m)に登ってきた。いつもの通り,竹馬の友の先導である。
手元の山登りの案内書によると「木六山の道は草木に隠れ,足場が小さくて狭い。ロープが張られているが充分ではなく,危険な箇所がある。転倒や滑落に注意し,慎重に行動しよう」とのこと。 確かにその通りだった。 山腹に沿って横に狭い道を歩く時は,何回か谷側に滑りかけ,今までになく足元に注意が必要な登山であった。 頂上に至る前に,岩と砂礫に覆われた "グシノ峰"(591 m)
に出ると周囲には見事な視界が広がっていた。右の眼下にはV字の谷,正面は木六山の頂上,左の眼下には水無平の樹林帯である。右の遠方には,白山や粟ヶ岳が見える。左の遠方には,五泉,村松,新津の平野が見える。
木六山の頂上では粟ヶ岳がよく見えた。日差しが強すぎたので,日陰の場所にて昼食を取るべく,水無平コースを少し下山を始めたが,枯れ葉に覆われたルートで遂に滑って転倒し滑り落ちた。下手に動くと,ますます,谷側へ滑落するので,どうしたものかと,あれこれと足場を探したが,私の持つストックを同行した友が掴んで引き上げてくれたので,何とか姿勢を元に戻すことができ,這い上がって,再び歩くことができた。危機を救ってくれた友には大感謝である。時々報道される登山中の滑落事故とその当事者の心境を味わった思いであった。 案内書によると「水無平コースは,ヤブ道で不明瞭な場所が多く,登山経験とヤブ山での技術が必要。」とのことである。
ようやく,日陰の場所を見つけて昼食をとり,休憩した。下山の時もかなり不明瞭な登山道を探しつつ歩いた。木六山は登山者が少ないせいか,登山道の周囲には山菜が豊富であり,途中でタラノメやコシアブラをたくさん採集できた。 歩行時間が約4時間半の登山(今年の3回め)であった。 体が動くうちは,今後も(冬季以外は)時々,山歩きに出かけようと思う。
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下田郷のヒメサユリの小径
May 17, 2014
5月中旬にしては気温が低く,曇り空であったが,新潟県三条市下田村の高城城址に至る "ヒメサユリの小径" を歩いた。( http://www.niigata-kankou.or.jp/kankou-blog/2013/05/post-1237.html ) 地元の人が丁寧に保護し,手入れをしているために,散歩道の両側に群生するヒメサユリの花はとてもきれいだった。五十嵐川の流域にある「三条市しただ郷」は,カモシカの生息地,ハヤブサの繁殖地,ヒメサユリの群生地であり,棚田が広がる自然豊かな地区である。
梅雨入り前の初夏の清々しい新緑に包まれた5月は,一年で私が一番好きな季節である。 紅葉と実りの季節である10月も良いが,雪におおわれる新潟の冬の到来を身近に覚悟させられる10月よりは,日毎に一段と日が長くなる5月のほうが私は好きだ。今年も,5月と6月は頻繁に山歩きに出かけようと思う。
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高専問題は行政の責任
May 14, 2014
この「時々の日誌」にて以前(2013年4月6日,5月30日)にも記したことであるが,創立以来指摘され続け,この30年間以上もその大矛盾が社会的に暴露されている工業高専という敎育制度の問題は,完全に文部科学省の行政責任である。 よって,ここに,あえてもう一度,日本における工業高専という敎育制度の矛盾と問題点を明示し,かつ,それを認識していながら,組織の存続を図るために,あれこれの姑息な "高専延命策" を社会に宣伝している文部科学行政の愚行を暴露することにする。
工業高専の姑息な延命策は文部科学省職員の雇用保障の延命策にすぎない。「仕事は減っても,役人の数は減らない」の言葉通りである。学生の海外研修制度,ロボコン大会,教員顕彰制度,教員交流制度,外国の学校との交流協定,高専敎育フォーラム,高専テクノフォーラム,国際工学教育研究集会などなど,現在,独立行政法人の国立高専機構は,あれこれの活動を社会的に表明している。それら自体はもちろん良いことである。しかし,高専制度の本来の大矛盾は何一つ解決されていない。 工業高専は,大胆な統廃合により現在の半数以下とし,設立趣旨を完遂できるべく,理工学のまともな教育機関に変貌させるべく法改正をする以外に生き残る道はない。それが,日本国民に対する責務であろう。今日の工業高専を現在の半数以下にしても,日本の社会には何の支障もないためである。
1985年に高専に着任して以来,定年退職に至るまで,私が一貫して確信を持って社会に訴えてきたことは,将来の技術者を目指す15歳の純真な少年であればあるほど,"工業高専に入学することは極めて危険な賭けである" という事実である。それに対して,実に多くの賛同の意見をいただいてきた。本来は十分な能力があり,大きな期待を持って高専に入学してはみたが,高専に失望し,自分に自信を失い,中退していった ”若い犠牲者達”
があまりにも多い。精神的におかしくなる者もいる。高専に疑問を感じ始めた学生には,「進路変更は決して敗北に非ず」として,私は積極的に退学と進路変更を勧めてきた。私の意見は,技術者を目指す純真な少年であれば,工業高専ではなく,普通に "高校から大学の工学部へ行くべきだ" という確信であり,また,"日本の高専制度は危険な制度" であるという警告である。
高専の一般教育(1-3年)は,高校設置基準を満たしていない。加えて,高専における必修科目とは,"履修が義務" であって "単位の取得が必須" の意味ではない。
よって,工業高専とはいえ,数学,物理,英語,実験,など全てが不合格でも,教育課程が学年制(単位制ではなく)であるために,学生は進級ができ(進級すれば,単位未修得の科目でも ”修得” と見なされる!),卒業もできる。
即ち,"即戦力の実践技術者の養成" を建前として,基礎学問の修得を二の次としているのである。高専創立以來のこの実状を日本社会の人々が知ったら驚くであろう。純真な少年達をこれほど馬鹿にした失礼な ”教育課程” が許されるものだろうか。
よって,数学,理科,英語など,どれをとっても,工業高専とはいえ卒業者(20歳)の中に,理系の大学進学を目指す進学校の高卒者(18歳)の学力に達している者はほとんどいない。高専の4,5年生(19,20歳)の中で,入試センター試験の問題を解ける学力に達している者はほとんどいない。高専卒業者の英語の学力はせいぜい中学3年程度。この惨状は,学生の能力ではなく,高専という "安上がりの職業教育課程" に起因することであり,普通の高専教員であれば誰にも周知の事実である。
50年以上も前の日本の高度経済成長期の時代要請に応えて,即戦力の実践技術者の育成を目指すと標榜しつつも,まともな理工学敎育の機関とは著しくかけ離れて粗製乱造された日本の工業高専は,創立当初から,文部行政の "失政の産物" であった。 日本の高度経済成長期における工業高専設立の趣旨そのものは良い(これは,誰もが認めるであろう),だが,この設立時の文部行政の最大の失敗は,高専教員の職務規定と人選を誤ったことである。「教員に学問研究の義務のない機関でまともな敎育が出来るはずがない」ことを文部省は見落としていた。そのため,高専創立時には教員採用時にまともな資格審査がなされず,杜撰な採用が蔓延していた。それが,創立以来30年以上にもわたり高専の敎育と教員人事の沈滞をもたらしてきた。
今日の高専には専攻科があるために,教員の任用資格として通常は博士号が必須であり,また教員の研究活動が奨励され,研究費獲得の自己努力が求められている。しかし,研究者の世界で高専の教員が伍していくのは容易ではない。そのため,高専の教員は大学院がない職場環境の中でも悪戦苦闘しつつ研究を続けている。
ところが,教員の職務から研究の義務を除外した50年以上も前の法的な職務規定は,今も変わっていない。即ち,文科省の高専行政は,高専教員の手足を縛っておいて "自力で泳げ" と言っているに等しい。そのため,年齢とともに疲れ,研究の意欲を喪失する教員が大学よりも多い。"大学設置基準を満たさない場で,研究の義務がない教員が大学教育を行なう" とする高専専攻科の重大な法的矛盾についても,文科省の高専行政は今だに頰かむりを続けている。
高専は,技術者の常識として大切な根幹となる "人文社会科学の敎育" を軽視した「安上がりの敎育課程」の中に,将来の技術者を目指す純真な少年達を今日に至るも閉じ込めているのである。 一方,今日の日本では,15歳人口が一段と減少しつつあり,高専の入学希望者も,もちろん減少し続けている。募集定員を満たすためには,かなり低学力の者でも入学させる。そのため,入学後,理数系の授業に全くついて行けない者もいる。加えて,既に30年も前から,理工学敎育の中心は大学院修士課程に移行している。よって,高専卒だけの敎育歴では中心的な技術者にはなれない。
"高専の存続" のために美辞麗句を並べ空手形を発行して15歳の少年を騙すことは,もはや許されまい。 文部行政は,早急に高専制度の終焉と破綻を認め,高専の大胆な統廃合と設立趣旨の法改正に着手するのが国民に対する責務である。"高専創立50周年の祝賀会" どころではなかろう。
もはや,これ以上,将来の技術者を目指す純真な少年達の中に "高専敎育の犠牲者" を生み出してはなるまい。
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菅名岳と鳴沢峰
May 12, 2014
快晴の下,竹馬の友とブナ林の中を歩き,熊に注意,との標識を見つつ,菅名岳(909 m)に登り,鳴沢峰(880 m) を通って下山してきた。遠くにはまだ雪を頂く飯豊連峰が見える。また,鳴沢峰の頂上からは眼下には阿賀野川と「道の駅 阿賀の里」が見え,その向こうには菱ヶ岳が見える。遠くには蛇行する阿賀野川と,その流域の広大な新潟平野が見える。26℃という気温は山登りをする身には高かったが,山頂では風があり,快適であった。下山の途中で,木の根が岩を砕いて成長する姿を目の当たりにして,その生命力に感心した。
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越後の霊峰 白山
May 3, 2014
早朝に,竹馬の友の車に乗せてもらい, 例のおじさんと合流して,新潟県五泉市村松町の南東にある慈光寺の近くの登山口に着き,そこから白山 (1012.4m)
へ入山したのが午前8時42分。 天候は晴れ。しかし,天気予報では「午後3時頃から曇り。所により小雨」とのこと。入山してから3合目までは急勾配の登りが続き,きつかった。途中ではところどころに残雪があり,その雪の上を歩き,約2時間後に雪に覆われた頂上に着いた。眼下には五泉市と村松町を中心とする新潟平野が広がる。頂上の直ぐそばにある立派な避難小屋の中に入り,そこで昼食。一休みした後に,同じく小屋にいた女性2名と合流して5人で下山を開始した。田村コースと称される登山道を通ったが,まだ残る雪の上を注意して歩いた。ところどころは雪解け水のために登山道がぬかるみだった。今年の冬は ”山雪型”
であったために,山には例年になく雪が残っているらしい。
いつものことながら感心したのは,私と同年代と思える御婦人のグループも逞しく登っていたことだ。みな「山登りに魅了された人々」なのであろう。日本100名山のうち,90くらいの山を制覇したという御婦人もいた。下山して戻ってきた登山口の近くの慈光寺を見ながら,「昔の人はよくぞこんな山奥に,こんな大きなお寺を建てたものだ」と感心した。往復で約4時間のややハードな山歩きだったが,幸いに雨に見舞われることなく下山できた。
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お受験と親の心情
April 30, 2014
私達の団塊世代では,学生時代に生活費を稼ぐために塾や予備校の教師,また家庭教師などのアルバイトをしていた者が多かった。 大学の事務部の掲示板にはそれらの募集の掲示がたくさん出ていた。 その中から,指導科目,対象とする生徒の学年,往復の通勤時間,そして報酬や時給などを考慮して選び,事務の担当者に申し込むのである。 それらの掲示の中で,時々,驚くやら,呆れるやら,おかしいやら,の注文条件があった。「家庭教師」として,「対象:中学2年生,指導科目:英語,英文科の学生を望む。」,「対象:高校1年生,指導科目:数学,農学部以外の学生を望む。」,「対象:医学部を目指す高校2年生,指導科目:数学と英語,医学部の学生に限る。」などである。
中学生に英語を教えるのに,なにも英文科の学生である必要は全くない。高校1年生に数学を教えるのに,なにも農学部の学生を排除する必要は全くない。医学部を目指す高校2年生とはいえ,数学や英語を教えるのに,なにも医学部の学生である必要は全くない。
私達学生は,こんな注文をつけてくる ”単純なバカ親” の存在を笑い合ったものである。しかし,一方,こうした親たちがいたからこそ,私達は助けられ,自分の生活を維持できたことも事実であった。
当時から40年以上も過ぎた今日でも,東京や大阪などの大都会では,このような親が依然として,健在らしい。有名大学への合格率の高い私立の一貫校に子供を入れるために,さらに周囲の親たちからの風聞にも煽られて,若い母親の間では,かつての "お受験" にも似た風潮が今も健在のようだ。子供を有名校に入れるために,親が狂奔しているのだ。
その親達は,おそらく大半が50歳以下であろう。つまり,私達の学生時代における当時の小学生以下である。その親達も,40年くらい前は "お受験" をさせられてきたのかもしれない。地方都市に住んでいると,大都会におけるそうした若い親達の焦りと風潮は伝わってこないが,その心情には同情する。
だが,ここで冷静に考えてみると,若い親たちを煽り焦らせる風潮の根源は,実はただ単に,少子化の日本の中で生き残りを図る塾や予備校,そして私立学校の経営戦略にすぎないのである。
人間の一生を長い目で見てみよう(こう言える心境になれるのは自分が年を取ったせいかもしれない)。 一個の人間としての,生きて行くときの逞しさと勇敢さ,一般常識の体得,不屈の生活力,友人との付き合いによる成長,落ち込んだ時からの立ち直り,などは20歳頃から本格的に陶冶される。
その時期には,かつて "お受験" に煽られ振り回されていた自分や親達が思い出され,滑稽に思えるに違いない。「 あの頃,あんな時があったな」と。 そして,今の自分は,"お受験時代”とは全く異なるのだ,現在の仕事と人間関係の中で生き抜く術の体得に必死なのだと。
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大学院博士課程の敎育と研究者
April 10, 2014
例の "STAP細胞"
の存在の真偽と,それを公表した論文(多くの疑問が出されている)の内容について説明するべく,論文の筆頭著者である若い女性研究者が公開会見の場に姿を見せ,長時間にわたり説明し,また質疑に対応していた。しかし,それを見ていた私には,結論として,真相が判然とせず,複雑な思いが残った。その質疑応答の内容には,既にマスコミを通じて各界の研究者からいろいろな意見が出ているからここでは言及しない。
STAP細胞を確認したとする彼女の論文の中に彼女の博士論文(STAP細胞の研究ではない)における画像データが流用されている,とする意見,さらに彼女の博士論文の記述の中にアメリカの機関による公表文献からの無断引用が少なからずある,とする意見もある。 それらが彼女のSTAP細胞論文に "捏造疑惑" をもたらして来た。彼女はデータの取り扱いに間違いがあったことを認め,謝罪しているが,しかし,STAP細胞の存在は明言しており,さらに研究者としての自分の人生の続行を希望している。 今,世界中の細胞生物学の研究者に求められていることは,STAP細胞が存在するのか否かの確認なのである。 少なくとも現在の時点では,"不正な改竄" とか "研究結果の悪意ある捏造" などの文言により一人の若い研究者を葬り去ることは正しくない。それは社会に多大な禍根を残すと私は思う。
こうした経過の中で,前々から私が解せないのは,彼女の博士論文の指導教員が,ほとんどマスコミに登場していないことである。それどころか,彼女が在籍していた大学院の研究科(創設7年)では,今までに認定してきた280編もの博士論文を再調査するとのこと。彼女の博士論文の指導教員は,今,どんな気持ちでいるのであろうか。
東大大学院工学系研究科の,かつて私が在籍していた専攻課程では,博士論文の提出条件として,所属分野の学術雑誌にて審査を経た投稿論文が3報以上(もちろん,自分が筆頭著者)あること,という申し合わせがあった。そのため,1,2報が出せても3報目がなかなか完成せず,苦しんでいた博士課程の院生が少なからずいた。私もその一人であった。3報目の投稿論文に正式な受理の通知が来た時には,心底から安堵したものである。一方,博士論文の作成は,今までの投稿論文を集大成すれば良かったので,それほど苦しくはなかった。直接の指導教員(主査)を含めた学位論文審査委員会としては,当の院生の研究成果について,自分達による判定だけではなく,専門分野の中での公的な認知が必要,としているのである。 後年に私自身も博士論文の審査員となり,その審査会議の後に合格を承認するべく自分の印を押す時には,かなりの責任を感じたものである。なお,日本では文科省の規定により,文系理系を問わず,学位取得後の一年以内にその博士論文を出版や投稿により公開しなければならないことになっている。
一方,アメリカの理工学分野の大学院では,私が知る限り,敎育と研究のシステムが日本とは大きく異る。アメリカの博士課程では,博士論文の作成の前提となる学術雑誌への投稿論文は1,2報で良いが,一方,研究者としての敎育(授業)による特訓が主流であるために,大学院生は厳しい勉強を強いられている。日本のように "論文提出" による学位取得,いわゆる "論文博士" の制度はない。 所属する分野での
"つぶしが利く"(特定の分野に偏らない)研究者を育てる,というのがアメリカの大学院博士課程の教育目標なのである。博士論文の内容自体は,日本のそれに比べて特に優れているということはない。アメリカの博士論文は,最初のページに,直接の指導教員(主査)の自筆の署名が記されている。つまり,その博士論文には院生と指導教員が共同責任を負うことを表明しているのである。アメリカは厳しい "契約社会"
であるから,こうした署名は後々まで重要な意味を持つ。
アメリカの理工学系大学院の博士課程であれば,件の "STAP細胞の若い女性研究者" は,おそらく出現しなかったと私は思う。理工学系大学院の博士課程の敎育システムとして,授業が中心の特訓型(アメリカ)と,論文完成を目指す研究型(日本)のどちらが良いか。それは,結局は,学位取得後の当人が就職後の職場の中で,”どのように活躍できているか” が判断基準となろう。
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早春のSpain, Portugal の旅
March 8, 2014
セビリヤからA-66とE-803号線をメリダまで北上し,メリダから西へ向かうとまもなく国境を超えてポルトガルへ入る。もちろん,パスポートの検査などは無い。通貨がユーロで統一された国々は,人々が自由に往来出来る,まさにヨーロッパという一国の中の単なる "地方県"
にすぎないようだ。 だが,今日は,珍しく高速道路上にて警官による検問があった。 オリーブの木と灌木しか見えない平原の中で,時々,電柱の先端にコウノトリが巣を造っており,自分のヒナに餌を与えている姿が見える。 それは日本では見られない光景であり,興味深かったが,コウノトリの営巣はこの地ではごく普通のことらしい。
ポルトガルのリスボンの東にある街エボラのカテドラルでは,1584年9月8日に天正遣欧少年使節の4人が訪問してパイプオルガンの演奏を聴いたとのこと。カテドラルの近くには2~3世紀にローマ人により建てられたティアナ神殿がある。ギリシャのアテネのパルテノン神殿に似ている。エボラの街中には,白と黄色で壁が塗られた家と石畳の道が良く似合う。
「自分のためならブドウを植えよ。子供のためならオリーブを植えよ。孫のためなら樫を植えよ。」とはポルトガルの言い伝え。 樫の木の外皮はコルクだが,一本の樫の木からその外皮(コルク)を剥がすと,もとの外皮が再生するためには9年かかるとのこと。コルクといえば,日本ではワインのビンのコルク栓ぐらいしか思いつかないが,実は,コルクからは帽子,リュック,カバン,ベルトなどいろいろなものが作られている。
リスボンから西へバスで約30分でロカ岬に来る。ここはユーラシア大陸の最西端。大西洋を超えたはるか向こうの対岸はアメリカ大陸である。 たくさんの人々が記念写真を撮っていた。岬の案内所では,ロカ岬到着記念の証明書を発行してくれる。
素晴らしい快晴に恵まれたリスボン市内を散策した。1520年に完成したベレンの塔, 1960年に造られた巨大な "発見のモニュメント" , 1502年から約100年もかけて完成されたジェロニモス修道院は,海洋王国としての当時のポルトガルの記念碑である。小中学生の団体が見学に来ていた。中学生の集団から「コンニチワ」と声をかけられた。ポルトガルの子供たちにとってテレビでの日本のマンガは人気があり,そのマンガから日本語を覚える子供がいるらしい。
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March 6, 2014
イベリア半島のほぼ中心に位置する首都マドリッドからA-42号線を南下すると街全体が世界遺産であるトレドに着く。1561年まではここがスペインの首都であり,8世紀初めから約400年もの間イスラム教徒の街であった。外敵から街を守るためにタホ川に囲まれた高い丘の上にひしめくように建物が造られており,その街の中には狭く迷路のような道が入り組んでいる。かつて,画家のエル グレコが住んでいた。
トレドからさらにCM-42号線を南下すると,乾燥した見渡す限りの赤茶けた台地がひろがり,時々,オリーブ,アーモンド,ぶどうの畑が見られる。アメリカの道路での車窓から見られるようなトウモロコシや小麦の広大な畑というものが全くない。イベリア半島の中心部は乾燥した石灰岩の台地であるために,それらが育たず,また森林も成長できないようだ。
やがて,ラマンチャ地方におけるドンキホーテの舞台の地であるコンスエグラに着く。ここは乾燥した大平原の中の小さな街であり,遠くに見える丘の頂上には風車小屋と廃墟となった城がある。
コンスエグラからさらにA-4とA-44線を南下すると,まだ雪におおわれた3000m級の山々が連なるシエラネバダ山脈が見え,やがてグラナダに着く。アルハンブラ宮殿は,今までにテレビや絵葉書で幾度となく見てきたとおりに素晴らしかった。ヘネラリーフェ庭園から遠くの丘を望むと万里の長城のような城壁が見え,その周辺にジプシーと呼ばれるロマ族の人々が住む穴居住宅が見える。
グラナダからA-92号線でほぼ真西へ行くと,太陽電池のパネル群や石灰岩の石切り場が見える。やがてスペイン第4の都会であるセビリアに着く。スペイン広場にて青空と強い日差しの中に映える壮大な建物の光景は絵葉書になる。アンダルシア地方の街中を歩くとしばしばオレンジの木があるが,このオレンジはこのままでは酸味が強くて食べられず,マーマレードへの加工用品種とのこと。 大きな木の下に,イヌの脱糞を禁止する標識があり,面白くまた感心もした。この標識は日本でも是非とも取り入れたほうが良いと思う。カテドラルの入り口には物乞いがいたので,こっそりと撮影した。カテドラルの中にある "担がれた棺"
の中にはコロンブスの遺骨が入っているとのこと。ヒラルダの塔の内部の階段を35番の階まで登ると,そこは地上70mの展望台であり,セビリアの市内が一望できる。
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March 4, 2014
バルセロナの西にある古い街サラゴサは世界遺産の街である。荘厳な大聖堂(スペイン国内のいたるところにある)が見事だ。中に入ると,ちょうど朝の礼拝の時間であった。 A-2とE-90号線を南西方向へ走り,マドリッドへ向かうと,途中では,風力発電の風車の列やアーモンドの木(薄いピンクの花をつけており,日本人には桜かなと思える)の畑,時々出現する巨大な黒い牛の看板などが印象に残る。これらは,日本では決して見ることができない。
マドリッドでは地下に古代ローマ遺跡が埋没していないせいか,地下鉄が縦横に走っている。また,マドリッドは博物館,美術館,修道院の宝庫だ。数日かけないと見回りきれないだろう。スペイン広場にはドン・キホーテの像がある。プラド美術館の中では,高校時代の美術の教科書に出ていた多くの名画が,今まさに自分の目の前にあった。マドリッドの町を歩くと,やはり,物乞い(愛犬を同伴!)
がいたので,こっそりと撮影した。スーパーの食品売り場で,塩漬けにした豚の足のモモ肉がそのままの形で売られていたが,日本ではこれは持ち込み禁止品とのこと。
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March 1, 2014
イスタンブール経由で初めてスペインへ来て,まず,バルセロナの町を歩いた。スペインという国全体が,8世紀初めから15世紀末に至るまで続いた,キリスト教徒がイスラム教徒を駆逐していった国土奪還戦争(レコンキスタと称される)の痕跡にあふれているようだ。そのため,国内に世界文化遺産としての大聖堂や城が多数ある。スペインはどこを歩いても絵になるような光景がある "世界遺産の国"
と言えるかもしれない。
バルセロナでは,港の近くにはコロンブスの塔があり,その前の広場ではガラクタ市が出ていた。ランブラス通りにもたくさんの店が出ており,ヨーロッパの町でよく見られるプロの似顔絵描きがいた。白黒の写真と見紛うばかりの見事な出来栄えと彼等の腕前には,いつものことながら感心してしまう。地元の人がボケリアと呼ぶサンホセップ市場の中は活気にあふれていた。世界遺産であるサグラダファミリアにも,たくさんの人々がいた。
パリ,ローマ,ロンドン,コペンハーゲンに限らず,スペインの街でも,スリが多く,その手口も巧妙である。スリは,ルーマニアを始めとする東欧系の者からなる出稼ぎ者の集団である。彼等は通常3,4名で組になっており,狙いをつけた対象者をさり気なく取り囲み,一瞬のうちに財布,デジカメ,携帯電話などを盗み取るらしい。しかも,被害者が自分の被害に気づかない場合が大半であるらしい。そのため,見知らぬ者が声をかけてきた時や,地図を広げて観光客のふりをして近づいて道を尋ねる者や,地下鉄やバスの降車口周辺にいる人物,バス乗り場にいる集団の者達については要注意とのこと。
バルセロナから海岸沿いに南下して世界遺産の街であるタラゴナへ行くと,古代ローマ時代に建造された水道橋や円形競技場があった。スペインでは,地下を掘ると,いたるところで古代ローマ時代の遺跡が出てくるので,古い街ほど地下鉄の建設が不可能であるとのこと。マドリッドはその地下に古代ローマ時代の遺跡が無いために地下鉄が縦横に建設できたとのこと。
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日本の裁判官の仕事
February 27, 2014
最近,下記の書を,引き込まれるように一気に読まされ,とても参考になった。
(1) 木谷明 著「刑事裁判のいのち」(2013年,法律文化社)
(2) 木谷明 著「無罪を見抜く」(2013年 岩波書店)
(3) 瀬木比呂志 著「絶望の裁判所」(2014年 講談社現代新書)
(1)と (2) からは,死刑廃止制度の重要さや,冤罪を防ぐための裁判官の心構えについて,多くの参考になる意見をいただいた。 (3)は,ごく最近に出たばかりの書であるが,かなり話題になっているらしく,Amazonにて本書を入力すると,現在,9件のカスタマーレヴューが表示される。私にはそのどれもが参考になった。
裁判官や裁判所の実状は,通常,訴訟,事件,調停などに関わったことのある人でなければ,普通の人には日常の中で無縁であるために分からない。 上記の書を読んで,私が特に強く感じたことは,「検事や裁判官の仕事を希望する人は,まずは,弁護士の仕事を体験してから任官したほうが良い」(司法研修所を修了しただけで任官するのは,本人のためにも国民のためにも良くない),さらにまた,「裁判官の世界は極めて特殊な閉鎖社会であるから,職場以外の人々と広く付き合い,視野を広げよ」ということである。
この日本では,裁判官の方々は,仕事の評価と人事評価について,最高裁事務総局によりかなり厳しい点検を受け,枠をはめられているために,窮屈な世界に生きていることが,上記の書(3)から理解できる。これでは,裁判官の世界に優秀な人材が集まるのだろうかとの懸念も湧いてきた。
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日本語教育の大切さ
February 9, 2014
厚生労働省職業安定局の雇用保険課あてに,「国民の皆様の声募集 送信フォーム」をとおして,リーフレット「高年齢雇用継続給付の内容及び支給申請手続について」の内容に関する私の質問を送ったところ,メールで以下の回答が来た。その末尾にはこう記載されていた。「当リーフレット「高年齢雇用継続給付の内容及び支給申請手続について」の書きぶりにつきまして、いただいたご意見は、今後の広報活動の参考とさせていただきます。貴重なご意見ありがとうございました。」
しかし,その回答には看過できない重大な "日本語の間違い" があり,回答者はそれに全く気づいていないようだ。そのため,このリーフレットのいろいろな説明文には不可解な箇所がたくさんあり,また,図の説明にも重大な欠陥がある。
今回の回答には以下の文章がある。
「高年齢雇用継続給付における低下率は、60歳到達時賃金月額(賃金月額)を基準として60歳到達後の各支給対象月において支払われた賃金額(支給対象月賃金額)の割合(%)となります。 よって、賃金月額より支給対象月賃金額が低くなるほど低下率は低くなり、賃金月額より支給対象月賃金額が高くなるほど低下率は高くなります。」
一読して分かるように,これでは "低下率" の意味が全くの逆である。
例えば,昨年に1000円の品物が今年は800円であれば,価格の低下率は20%であり,600円であれば価格の低下率は40%となる。つまり,価格の "下がり幅が大きく" なれば価格の "低下率は増加" した,と日本語では表現する。同様に,60歳到達時の賃金に比べて再雇用後(60歳到達後) の賃金の "下がり幅が大きい" 場合は,賃金の "低下率が増加"
したと表現するのが当然であろう。 ところが,この回答者は「再雇用後の賃金が下がるほど低下率は減少する」と述べている。(なお,回答者は低下率が "低くなる" や "高くなる" との文言を用いているが,それは日本語として正しくない。)
このリーフレットによれば,例えば、60歳到達時の平均賃金が30万円で再雇用後の賃金がわずか3万円になったとすると "低下率" は10%,再雇用後の賃金が前と同じく30万円のままであれば "低下率" は100%,再雇用後の賃金が逆に前より増えて36万円となれば、"低下率" は120% となる。
誰もが直ぐに気づくようなこれほどの馬鹿げた間違いに、回答者は気付かないのだろうか。厚生労働省の雇用保険課としては、"低下率" という語句の意味についての本質的な大間違いを犯している。 考えるまでもなく、この回答者が言う "低下率" とは、60歳到達時の平均賃金と比べた再雇用後(60歳到達後) の "賃金回復率" のことである。
下記の私の指摘は当たり前ではないだろうか。
「このリーフレットでの "低下率" とは、60歳到達時の平均賃金と比べた再雇用後(60歳到達後) の "賃金回復率" のことである。もし、'低下率' という語句を使うのであれば、計算式は以下でなければならない。
低下率(%)=[ (原則として60歳に到達する前6ヶ月間の平均賃金―支給対象月に支払われた賃金額 ) ÷ 原則として60歳に到達する前6ヶ月間の平均賃金 ]×100
よって,"低下率" の計算式を上記のように訂正するか,または,低下率を "賃金回復率" と訂正し,このリーフレットは作り直さなければならない。」
私は, 上記の意見を伝え,この回答は全くの不明解であるとして,雇用保険課としての再度の責任ある回答を要求している。中央省庁で行政に携わる者の日本語能力がこの程度では国民が迷惑するばかりだ。
やはり,日本人には子供の頃から "十分な日本語教育" が必要である。学校における国語の授業や国語の試験問題,さらに国語の入試問題は,日本人として "正確な日本語を使えることを目指す" ものでなければならない。
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大学入試と国語の敎育
February 7, 2014
今日の朝日新聞の投書欄には,「センター試験の国語は適切か」と題して,ある大学教員による以下の意見が出ていた。
「今年の入試センター試験で,国語は古文で出題された「源氏物語」が難しく,話題になった。いつも疑問に感じるのは,古文や漢文が出題の半分を占めていることだ。古典に関する学習は,その後の大学教育や社会人生活にどれだけ重要で役に立つのだろうか。
そもそも,大学入試は,大学の授業を理解できる基礎学力があるかを問うのが基本理念であってほしい。高校教育が大学入試の科目に翻弄されていることは疑う余地もない。それだけ,入試問題の学校教育に与える影響は大きい。
国語力は読解力以外にも,文章作成や会話術,表現方法など総合学力の根幹だ。多くの大学教員がゼミや論文指導で,学生の国語力の改善に多くの時間を割いている。
英語の出題内容は昔に比べて実用面を重視するようになったが,国語の出題内容もそろそろ改善の是非を問うべきではないだろうか。」
私はこの意見に全く同感である。私自身,高校時代に国語は好きな科目であったが,しかし, "国語の試験" には悩まされた。「この筆者が言いたかったことは,以下のどれか」などという設問にはほとほと疲れさせられた。ほとんど毎回 ”正解” に合致せず,点がもらえなかった。
しかし,高校時代の国語問題の定番メニューとして出てきた文章の作者であった作家や評論家(私の記憶では,その代表格が小林秀雄
出題の原典の著者自身も正解を出せないような国語問題に,自分を含む高校生は(そして出題者も)騙され,困惑させられていたのだ。 そのせいか,1987年に清水義範氏による「国語入試問題必勝法」なる小説が話題になったことがある。野口悠紀雄氏によると,一橋大学では国語の入試問題の出題範囲から古文や漢文を除外しているとのこと。とても良いことだと私は思う。
私自身は,今も,文章を書く仕事が多く,また,在職中は,学生の論文やリポート(さらに,教職員による連絡文書も含めて)を見る中で,日本語文章の使い方を厳しく添削し指導して来た (そのせいか,"日本語文章にうるさい先生" と言われた)。約30年間のそうした仕事の中で,古文や漢文の知識がなくて苦労したことは一度もない。一方,自分の書いた "現代文の日本語文章"
を友人から添削してもらう中で,あれこれの改善提案をいただいたことは数多くある。よって,今日の投書にある上記の意見は,極めて重要であり,多くの人々に見て頂く必要があると思う。
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反公害の運動と当時の大学教授
January 23, 2014
今日の日本では,私達の生活環境における環境の浄化とその保全は,様々な法的規制のもとで厳しく保障されており,昔に比べて生活環境の汚染防止対策が法的に厳しく整備されている。そのため,従来から耳にしてきた ”公害問題” という話題は今日の日本ではあまりマスコミの中でも見かけなくなって来た感さえある。 だが,日本の生活環境がこのような ”正常な環境”
になって来た道のりは決して平坦ではなかった。私が学生であった頃(1960年代の末から70年代の中頃)は,被害者による公害の告発と,環境汚染防止のための法的規制を求める国民の声に対して,数えきれないほどの様々な妨害があった。 ”大学教授”と称する者の中にも,当時の日本の公害反対運動に対して卑劣な妨害のキャンペーンをはり,また,卑劣な中傷を行なう者さえ少なからずいた。
それに対して,直接の公害被害者のみならず,学生を含めた国民一般からも激しい怒りと反対意見が出たのは当然であった。しかし,もちろん当時でも,公害問題を真摯に考えていた学者もいた( 「日本公害史論序説」宮本憲一
)。
当時から40年以上も経過した今日でも,当時の日本における公害反対運動を私は思い出す。そして,今日の日本における環境保全と環境汚染防止のための厳しい法的規制の成果による,国民の環境保全の意識変化を思うと,感慨深いものがある。日本における公害の防止と原因究明の運動が今も精力的に継続していることは,以下に公開されているとおりである。
環境問題と公害(中澤 港)
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今日の日本の大学
January 21, 2014
最近,大学教授による研究費の不正使用や,研究結果の捏造(データの改竄など)によるニセ論文について,いくつかの報道がなされている(医学,薬学,生化学,分子生物学などの分野にそれが多いようだ。 "完全に同一の条件下での追実験" というものが難しいためと思われる)。その背景には,研究費の使用規定(予算の執行規定)の不具合や,研究の過当競争による "業績優先争い"
に起因するものもあるようだ。40年間研究者の端くれであった私は,それらの報道記事に接するたびに,正直なところ,わずかながら彼等への同情を感ずることがある。
だが,一方,大学における理, 工学の研究分野に関する限り,私の実感として確信を持って言えることは,今日の日本の大学教授の "研究者としての力量レベル" が昔に比べて格段に向上していることである。その背景にあるのは,研究内容の国際化と研究成果の国際競争の激化,研究費獲得競争の激化,さらに,大学教授の仕事 (敎育と研究と社会活動) が国民に公開され,それを国民が監視するような現代社会になってきたことである。
大学が ”象牙の塔”と思われていたのは,3,40年以上も前のことであり,今日では,国立大学の独立法人化,少子化に伴う "大学自身の生き残り作戦" ,国内外での "大学ランキング " の公開,文科省による私立大学への指導強化など,大学における "敎育と研究の活性化"
が義務として促進されている。それはとても良いことであると私は思う(つい20年くらい前までは,外部からの大学評価を "大学に対する国家統制" だとして忌避する,時代錯誤の旧態依然とした浅薄な議論が一部の大学教員の中にあった)。
結果として,今日の日本では,大学で学ぶ学生たちは,昔に比べて幸運であると私は思う。理, 工学分野の敎育と研究に関する限り(実際は文科系も含めて良いであろう),少なくとも,私が学生であった1960年代末から70年代中頃の日本の大学や,一部の大学教授(その能力と資格に疑問がある)の様子に比べれば,今日の日本の大学敎育の内容と大学教授の "研究者としての力量"
は,全体としては格段に進歩し活性化しており,かつ,学生に対して温かくなっていると私は思う。 永年,研究者の端くれとして末席にいた私は,今日の日本の若い大学教員に大いに期待している。今年も大学入試の季節になった。春からの希望に満ちた新生活に入れるべく,受験生諸君の奮闘を祈る。
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再び,大阪東住吉の ”放火とされた事件"
January 18, 2014
先日(2014年1月13日),下記の記事が出ていた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140113-00000527-san-soci
検察側の実験の詳細がどのようなものか,この記事だけではわからないので,隔靴掻痒の感があるが,私としては下記の点がとても気になる。
検察側の実験が,事件現場を正確に模擬したもの(密閉された,高温の無風状態の車庫の中のコンクリート地面に置かれたガソリン満タンの車からガソリンが漏洩した)としよう。ただし,もし,この前提条件が「完全に満たされて」いなければ,それは事件現場とは異なる条件下の実験である。
事件当日(真夏の7月)と検察の実験日(真冬の12月)では,気温が大きく違うためにガソリンの蒸気圧が違う。そのために,わずか30ccのガソリンをコンクリート地面に2-3分かけて滴下したような場合の,コンクリート地面に滞留し広がるガソリンと空気の混合気の厚みや滴下面積は事件当日とは異なるであろう。
”風呂釜の種火を想定したろうそくの火” とはどのようなものか,を詳細に知りたい。ロウソクの長さ,火炎の大きさ,ロウソクが置かれた位置とガソリンの滴下された位置の関係,ロウソクの火炎の地面上の位置(高さ),などが本当に事件当時の,車庫の床に出ている風呂釜の種火を模擬しているのだろうか。
これらは,地面上に滞留した層状の混合気の引火を支配する重要な因子であり,燃焼現象を知る者であれば,必ず明示しなければならない実験条件である。
「滴下したガソリンは自然には引火しなかった」との記述からは,私には多くの疑問がわいて来る。それは,通常は考えられないことであり,この実験が事件現場を正確に模擬したものかどうかの疑問さえわいて来る。
「強制的に着火した後、約1分にわたって炎が上がったが、燃え広がらずにそのまま消えた」この記述もよく分からない。滴下したガソリンの量が少ないために火炎が小さく,さらに火炎周囲の風により消炎したのであれば,それは事件当時とは異なる条件下の実験であり,鑑定実験とは言えないのではないだろうか。
本件の重要な争点は以下であると私は思う。
「真夏の無風状態の密閉した車庫内で,ガソリンを満タンにした車から,ガソリンが熱膨張により漏れることがあるか,漏れるとすればその量はどのくらいか」
「真夏の無風状態の密閉した車庫内で車から漏洩したガソリンが,車から90cm離れた風呂釜の種火により引火するか」
「真夏の無風状態の密閉した車庫内で人為的にガソリン( 被告が強制されたとする "自白" によれば,なんと7リットル ! )が撒かれて火が付けられたとすれば,その行為者が全くの無傷で現場から退去できるか」
本件の再審開始決定に対して検察側が即時抗告し,再審の棄却を求めるための鑑定実験であれば,これらの争点のすべてを解明できるものでなければならない。
以下のURLが,よりいっそう多くの人に閲覧されることを私は期待している。
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/update/toppage/060514_010.html
http://www.jca.apc.org/~hs_enzai/
http://tamutamu2011.kuronowish.com/higasisumiyosihoukasatujinn.htm
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正常な日本語文章
January 4, 2014
行政における通達文書や一般市民に向けた案内文書の中に,どうしてこうも「間違い文章」が多いのであろうか。文脈が混乱したデタラメな文章,主語と述語が離れすぎた冗長で意味不可解な文章,などが頻繁に見られる。その最大の原因は,"話し言葉" と "文章言葉" が全くの別物であることを,作成担当者が全く理解できていないことにある。
間違うことは許される。しかし,その間違いに "気付かない" のは,明らかに作成者の日本語能力の不足によるが,その文書の公開を許可した管理職者の日本語能力の不足にも原因があろう。彼等は,子供の頃に一体どんな国語(日本語)敎育を受けてきたのであろうか。就職して以来,文章を正しく直してくれる(その能力のある)先輩や友人が身近にいなかったのであろうか。
最近の例をあげよう。
高年齢雇用継続給付の内容及び支給申請手続について(被保険者,事業主のみなさんへ) 。
これは厚生労働省から全国の都道府県労働局と公共職業安定所をとおして一般市民に配布されている文書である。 表紙に下記の記述がある。
「高年齢雇用継続給付は,60歳到達等時点に比べて賃金が75%未満に低下した状態で働き続ける60歳以上65歳未満の一定の一般被保険者の方に支給される給付であり,高年齢者の就業意欲を維持,喚起し,65歳までの雇用の継続を援助,促進することを目的としています。 60歳に達したときに被保険者であった期間が5年以上であるなど一定の受給条件を満たし,この給付金の支給を受けようとする場合には,公共職業安定所(ハローワーク)に支給申請等の手続を行ってください。」
これを,例えば以下のように書き直したらどうだろう。日本語の文章としてどちらが読みやすく,また明解だろうか。
「高年齢雇用継続給付は,60歳到達時点の賃金に比べて再雇用時の賃金が75%未満に低下した状態で働き続ける60歳以上65歳未満の一般被保険者の方に支給される制度です。この制度の目的は,高年齢者の就業意欲を維持,喚起し,65歳までの雇用の継続を援助,促進することです。 被保険者であった期間が60歳に達したときに5年以上である,などの一定の受給条件を満たした方で,この給付金の支給を受けようとする場合には,公共職業安定所(ハローワーク)にて支給申請の手続を行ってください。」
次の文章はどうだろうか。
「また,給付金の額は,60歳以後の各月に支払われた賃金の原則15%です。(賃金の低下率によって15%を上限として支給率も変動します)」(P.2)
これを,例えば以下のように書き直したらどうだろう。
「また,給付金の額は,原則として60歳以後の各月に支払われた賃金の15%が上限ですが,賃金の低下率により上限の範囲内で支給率が変動します。」
なお,"低下率" や "支給率" についての説明がこの記述の前にはない。それらは後のP.4 とP.6に出てくる。実に不親切な文書である。 それどころか,P.4には "低下率" の計算式の説明として下記のとんでもない記述がある。
低下率(%)=( 支給対象月に支払われた賃金額 ÷ 原則として60歳に到達する前6ヶ月間の平均賃金 )✕ 100
この計算によれば,例えば,60歳前の平均賃金が30万円で再雇用後の支給対象月の賃金がわずか3万円になったとすると "低下率" は10%となる。再雇用後の支給対象月の賃金が前と同じく30万円のままであれば "低下率" は100%となり,再雇用後の賃金が逆に前より増えて36万円となれば,"低下率" は120% となる。
誰にも直ぐに分かるようなこれほどの馬鹿げた間違いに,文章作成者は気付かないのだろうか。 厚生労働省としては "低下率" という語句の意味についての本質的な大間違いを犯している。 考えるまでもなく,この文書での "低下率" とは,60歳前の平均賃金と比べた再雇用後の "賃金回復率" のことである。
あえて説明するのも空しくなるが,もし,"低下率" という語句を使うのであれば,計算式は以下でなければならない。
低下率(%)=[ ( 原則として60歳に到達する前6ヶ月間の平均賃金―支給対象月に支払われた賃金額 )÷ 原則として60歳に到達する前6ヶ月間の平均賃金 ]✕ 100
これであれば,60歳前の平均賃金が30万円で再雇用後の支給対象月の賃金がわずか3万円になったとすると "低下率" は90%となり,再雇用後の支給対象月の賃金が前と同じく30万円のままであれば "低下率" は0%(つまり低下なし)となり,再雇用後の賃金が逆に前より増えて36万円ならば,"低下率" は -20%(つまり上昇)となる。
公共職業安定所(ハローワーク)の窓口では,そこに来た高年齢の再雇用希望者に対して,この文書を使って一体どのような説明をしているのだろうか。その説明を受けた人は本当に納得して帰っているのだろうか。
職場における連絡文書にみられる "不正な日本語文" を,私はその作成者に何回も指摘し,書き直しを要請したこともあった。 しかし,結局は十分には改善されなかった。そのため,行政の地方出先機関にいる事務職員が出す文書における ”日本語文章の正常化"
のためには,まずは,中央省庁の職員自身が地方機関に伝える連絡文書を作成する時に "正常な日本語文章" を作成しなければならない。
行政機関の事務職員は,若い頃には自分が作成した連絡文書について,上司(日本語能力の怪しい)により,その日本語文章を不本意に(不正に)改竄され,時には書き直しを命じられ,不本意ながらもそれに応じて文章を作成し直すことさえあるようだ。そのため,後年に自分も管理職になると,結局は若手職員の作成した連絡文書を,同じように "不正常な日本語文" に改竄してしまうようだ。行政の連絡文書における
"文脈の混乱" と,「も」や「等」を多用した ”責任回避の逃げ文章” の根源はそうした連鎖にある。
このような内容の意見を,私が中央省庁の幹部に伝えたところ,以下の趣旨の返事が来た。
「マニュアルを作成する等で改善するものではなく、結局は職員に対して、単に前例を踏襲するのではなく,正確で分かりやすい文章を書くという基本姿勢をあらゆる機会を捉えて徹底させたい。また,自らの名前で出す文章については,例として恥ずかしくないものになるよう努めたい。」
日本の行政機関(もちろん,公的な教育機関をも含む)における連絡文書の日本語文が,この返事の通りに改善され,"正常化" することを私は強く望む。
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日本の大学の教授
December 28, 2013
最近,大学教授による研究費の不正使用や,研究結果の捏造によるニセ論文について,いくつかの報道がなされている。その背景には,研究費の使用規定(予算の執行規定)の不具合や,研究の過当競争による "業績優先争い" に起因するものもあるようだ。40年間研究者の端くれであった私は,それらの報道記事に接するたびに,正直なところ,わずかながら彼等への同情を感ずることがある。
だが,一方,大学における理, 工学の研究分野に関する限り,私の実感として確信を持って言えることは,昨今の日本の大学教授の "研究者としての力量レベル" が昔に比べて格段に向上していることである。その背景にあるのは,研究内容の国際化と研究成果の国際競争の激化,研究費獲得競争の激化,さらに,大学教授の仕事 ( 敎育,研究, そして社会活動 ) を国民が監視するようになってきたことである。国立大学の独立法人化,少子化に伴う "大学自身の生き残り作戦" ,文科省による私立大学への指導強化など,大学における "敎育と研究の活性化" が義務として促進されている。それはとても良いことであると思う(外部からの大学の評価を "大学に対する国家統制だ " として忌避する,旧態依然とした浅薄な議論が20年位前までは一部の大学教員の中にあった)。
結果として,今日の大学で学ぶ日本の学生たちは,昔に比べて幸運であると思う。理, 工学分野の敎育と研究に関する限り,少なくとも,私が学生であった1960年代末から70年代中頃の大学や一部の大学教授(その能力と資格に疑問がある)の様子に比べれば,今日の日本の大学敎育の内容と,大学教授の "研究者としての力量" は,全体として格段に進歩している。 永年,研究者の端くれとして末席にいた私は,この日本の中での若い研究者に大いに期待している。
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大人としての人間の信条とは
December 28, 2013
日本の首相である安倍晋三氏が,一昨日の26日,突然に靖国神社を参拝した。今,当然の結果として,中国,台湾,韓国はもちろんのこと,アメリカやイギリス,そしてEUからも強い反発と危惧の念が表明されている。しかし,彼の "大人としての信条"
はもはや変わらないであろう。自らの信条を盾にして暴走しているかに見える石原慎太郎氏や橋下徹氏(大阪市長)も同じであろう。 彼等を見ていていつも私が思うことは,人間の信条の原点は何か,ということである。
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辺野古の埋め立て承認
December 28, 2013
沖縄県の仲井真知事は昨日27日,米軍の普天間飛行場を宜野湾市から移設するため,名護市辺野古の海の埋め立てを承認するとの判断を下した。その一方で「県外への移設が最も早いとの考えは変わらない」として,公約変更ではないと主張し,普天間基地の5年以内の運用停止を求めた(朝日新聞)。
知事によるこの承認については,各新聞で大きく報道され,社説にはいろいろな見解が出ている。知事としては,沖縄県民の批判や失望を覚悟し,また十分な説明責任があることは当然だ。
沖縄の米軍基地の移転問題については,私自身も以前からそれに注目してきた一人であるが,いわゆる " 革新勢力 " と称する政党による,ただ単なる「米軍基地は日本から出て行け」の声には私は決して賛同できない。私は「独立国家としての日本の国防をどう保障するのか」の視点と合わせて移転問題を考えなければならない,とする立場である。沖縄の米軍基地の移転問題は,必ず,安保条約の内容と日本の国防政策とを含めた3点セットで再検討しなければならない。 そうでなければ合理的な解決策は決して生まれない。
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冤罪と裁判官と自白
December 19, 2013
書棚に溜まっていた本の整理を始めている途中で,冤罪事件や裁判に関する約30冊あまりの中の数冊を,最近,再度読み返してみた。その中で改めて痛感させられ,腹立たしさも覚えるのは,"権力を持つ側の人間" による "弱者"(容疑者や被告)に対する密室の中での驚くばかりの人権侵害であり,それにより多くの犠牲者が出ていたことである。 さらに同時に,最初から裁判官が予断を持ち,
"有罪にしたいとする側の立場" に立ち,その姿勢で下した強引で恣意的な判決により,一般市民の中に多数の冤罪犠牲者が発生していたことである。 特に終戦直後から1960年代の中期に至るまではそれが多かったようだ。
そのような馬鹿げた "判決文" を作成して良心の呵責を感じない恥ずべき裁判官が当時に存在していたことに驚いてしまうが,一方,そうした裁判官を生み出す原因となっている,日本の "裁判官の人事評価と昇進のシステム" にも考えさせられてしまう。 「有罪にしたいとする側」の立場に初めからおもねり,人間としての自己の良心すらかなぐり捨てたデタラメな "有罪判決"
を下した裁判官が栄転し,昇進していった例(松川事件)さえある。
しかし,一方,自己の良心に照らして虚心坦懐に事件記録( 起訴状, 証拠資料, 供述調書,専門家による鑑定書など
)を精査し,客観的に人を納得させうる判決を下す立派な(正常な)裁判官も存在する。過去の判例に異議を唱える判決や,検察側が示した起訴理由を却下して無罪判決を下すに至るまでの裁判官の勇気と心理には,かなりの重圧と葛藤があるに違いないことは想像に難くない。下記の書は特に参考になった。
「誤った裁判」上田誠吉,後藤昌次郎 著(1960年,岩波新書)
「冤罪の恐怖」青地晨 著(1975年,現代教養文庫,社会思想社)
「日本の刑事裁判」青木英五郎 著(1979年,岩波新書)
「冤罪」後藤昌次郎 著(1979年,岩波新書)
「逃げる裁判官」青木英五郎 著(1979年,社会思想社)
「無実」後藤昌次郎 編(1980年,三一書房)
「日本の刑事裁判」石原千尋,渡部保夫 著(1996年,中公文庫)
「「裁判官」という情けない職業」本多勝一 著(2001年 朝日新聞社)
「松川事件から,いま何を学ぶか」伊部正之 著(2009年,岩波書店)
「冤罪と裁判」今村核 著(2012年,講談社現代新書)
これらの書と同時に,裁判官の日常の仕事について,下記の書も参考になった。
「日本の裁判官」野村二郎 著(1994年,講談社現代新書)
「裁判官はなぜ誤るのか」秋山賢三 著(1994年,岩波新書)
「法廷の中の人生」佐木隆三 著(1997年,岩波新書)
「ドキュメント裁判官」読売新聞社会部 著(2007年,中公新書)
「司法官僚」進藤宗幸 著(2009年,岩波新書)
なお,逮捕された容疑者や被告とされた者が置かれる状況と人間の心理については,下記が大変に参考になった。
「自白の心理学」浜田寿美男 著(2001年,岩波新書)
「<うそ>を見抜く心理学」浜田寿美男 著(2002年,NHKブックス)
「取調室の心理学」浜田寿美男 著(2004年,平凡社新書)
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Santa Catalina Island
November 30, 2013
Los Angelsの市内から南西へ車で15分位走るとLong Beachに着く。青空と太陽と,そして12月直前とは思えない暖かさ。まさに,1970年代末の大ヒット曲であるアルバート・ハモンドの "カルフォルニアの青い空” を実感する。この港には,退役した豪華客船の Queen Mary 号が保存されており,今は ホテル、レストラン、博物館となっている。
この港から南西方向へ約42Kmを船で行くと,約1時間10分位で Santa Catalina 島に着く ( http://www.catalinachamber.com/ ) 。この島では,自動車の台数が制限されているらしく,Taxi がない。この港町(Avaron)を見るには,観光客はひたすら歩くか,または,小さなCart (ヤマハのマークが付いていた)を借りて自分で運転する(4人乗りは$40/h,6人乗りは$60/h
)。 島の中は豊かな自然環境と動植物が保存されている。港で見た人懐こいペリカンは,右足のヒレがなくなっていた。ケガをしたのかな。
強い日差しのもとで町を歩きながら,今は冬に入り低温の日が続くミシガンや日本の日本海側を,ふと思い浮かべた。半日をぶらついて,夕焼けの景色が美しい Long Beach の港に戻ってきた。
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Ana Heim and Huntington Beach
November 29, 2013
Thanks Giving day(11月の第四木曜)の翌日である今日は,どの店も大きなバーゲンセールをするために,ショッピングモールの入り口では朝から人々の行列が出来ている。この日は America 中の商店の営業が必ず "黒字になる日" なので Black Fridayという。では,収支が赤字になった日を Red Dayというのかなあ。
南カリフォルニアは,一年中,気 候が良いので,住んでいる日本人の中には「四季の違いがはっきりしている日本が恋しい」などという贅沢な意見があるらしい。
Los Angels の南方,車で35分くらいのところに Ana Heimの町がある。日本企業の支社が多い。ヤマハ が面している道路は YAMAHA WAY という。斜め向かいには三菱自動車,三菱電機がある。
その他,ハウス食品,サンヨー食品,TAISEI などもある。この町は,日本企業がもたらしてくれる法人税により, かなり潤っていると思われる。
Ana Heimの西方,車で20分くらいのところにHuntington Beachがある。12月に近い時期だが,太平洋の波に乗ってサーフィンを楽しんでいるたくさんの人々がいた。
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Santa Monica and Griffith Observatory
November 27, 2013
Los Angelsの市内から西へ車で30分位走るとSanta
Monicaの海岸に来る。 映画や歌で,日本人にも良く知られたところだ。 青空の下で暖かく乾燥した空気。 これが11月の末とは.......。 南カリフォルニアとはこんなところかと,あらためて知らされた。 夜にグリフィス天文台へ行くと,月と地球と太陽の位置関係の季節変化をわかりやすく説明する場所があり,また,地球の自転を示す "フーコーの振り子"
もあった。 建物の外に出ると,眼下に,見る人を圧倒するような見事なLos Angels の夜景が広がっていた。 是非とも,もう一度来たいと思った。
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San Diego and Tijuana
November 26, 2013
アメリカ西海岸の最大の海軍基地の町である南カリフォルニアのサンディエゴは典型的な亜熱帯気候だ。サンディエゴ湾は絵葉書になるような平和な景観。ベトナム戦争で使われ,今は退役した巨大な航空母艦ミッドウェイが遠くに見える。サンディエゴから車で南下して国境で下り,歩いて国境を無審査で越える(途中,車の列の間に物売りの人々が出ている光景が,メキシコへ来たことを思わせる)。メキシコに入り,車で20分くらい走ると,ティファナの町に着く。メインストリートの両側には,メキシコ特産の革製品や銀製品の店が並んでいる。遠くには,民家が張り付くように密集した丘が見える。アメリカに戻るときには入国審査がやや厳しく,長い行列となった。国境の検問所は写真撮影が厳禁であった。
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Henry Ford Museum
November 22, 2013
アメリカのミシガン州デトロイトの郊外にある Henry Ford Museum は実に興味深い。 http://www.thehenryford.org/museum/
単一屋根で12エーカー(14640 坪)もの広さの建物。日本語の案内パンフレットも用意されている。自動車の歴史のみならず,大陸横断の巨大な蒸気機関車,発明当初の飛行機,さらに,20世紀前半のアメリカ社会などについて,見る者を飽きさせない。じっくり見て回るには,たっぷり丸一日かかるであろう。
アメリカ大統領の専用車を目の当たりにして驚いてしまった。車両全体が防弾仕様のせいか,ドアの窓ガラスの厚さは4,5 センチ
! 大統領夫妻が座る後部座席の前には警備員用の座席が2つ。また,車両の後端には2人の警備員が立つための専用の踏み台が2つ。ケネディ大統領が暗殺されたことを伝えるTelex の実物の文面を初めて見た。
巨大な "アレゲニー蒸気機関車" の高さは,日本の新幹線の1.5倍位はあろうか。牽引する車両の全長は1マイル(1.6 Km) 以上にもなるという。
飛行機の開発当初の複葉機の機体,翼,エンジン,プロペラなどを見ていると,航空機ファンの私は時間を忘れてしまう。
戦争中の,武器の製造のために "金物供出" を呼びかけるポスターや戦時体制下の心構えを学校の生徒に呼びかけるポスターなどもある。 ”欲しがりません勝つまでは!”,”贅沢は敵だ ! ”,”武器のために金物を供出しよう!” などと鼓舞されていた戦時下の日本と同じことがアメリカでも行なわれていたのだ。
人種差別が厳しかったアメリカ南部における差別の象徴の入り口,狂信的な人種差別主義の暴力集団であるKKK団などの展示もある。
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Detroit
November 20, 2013
久しぶりに来たアメリカ。ここはミシガン州デトロイトの郊外。今朝は,明るい日差しと青空のもとで晩秋の冷気に包まれた,平和そのものという景観の閑静な住宅街を散歩した。「この地区は近所で監視している。不審者や不審な行動があれば直ちに警察へ連絡する」との標識があった。(最近は,日本でもそれが必要なようだ。) 午後にはスクールバスが来て小学生を下ろし,近所から母親たちが集まり,子供たちを自宅へ連れて行った。アメリカの普通の住宅街の光景がそこにあった。昔,車を運転していて,停車中のスクールバスの横を通り過ぎようとしたら叱られた。アメリカでは,それは法律違反であることを知らされた。
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勉強とその方法,価値
October 3, 2013
最近,知り合いの高校一年生から勉強法についての意見を求められた。私自身が高校時代は勉強の方法に試行錯誤していた成績平凡な普通の高校生だったので,それを語る資格はないだろうと思ったが,一方,高校時代から今日に至るまでの自分を振り返り,本来の勉強の方法というものについて,今までに何度か考えさせられることが多かったので,ここで,改めて考えてみることにした。
高校時代の勉強法の要点とは,結局のところ,学校で学ばされる多くの教科について,万遍なく知識を蓄えて総合的に好成績を修める方法とは何か,さらには,大学入試を突破するための有効な受験勉強法とは何か,という点に集約されるであろう。それに気づき,自分なりの有効な勉強法を見出した高校生は好成績を修め,一方,それに気づけず,試行錯誤していた大多数の高校生(私もその一人であった)は自分の成績に悩みつつ高校生活をおくることになろう。
大学時代によく思い出したことだが,高校時代の私は随分非効率な勉強法をしていたものである。特に,大学入試が近い3年生の後期であるにもかかわらず「数学のワナ」にハマってしまい,他の受験科目にまでは手が回らなかった。「大学への数学」の ”学力コンテスト” や,Z会の難問などに熱中し,また,数学の問題集の「全問制覇に挑戦」などといった,およそ "受験勉強"
とは無縁な(極めて有害な)ことに時間を費やして,他の科目の勉強(受験準備)ができなくなってしまった。「入試は受験科目の総合点で合否が決まる」という,当然のことへの心構えと自覚が全くできていなかったといえる。それが自分にどのような不利益,そして回り道をもたらしたかは,今も思い出したくもない。
以前に読んだ下記の本は,今読み返してみても,高校生活における効果的な勉強法を示す優れた本だと思う(決してハウツーものではない)。 大人が読んでも,資格試験などの特定の目標に向かう時の勉強の方法として,大変に参考になり,示唆に富む本である。 自分も高校時代にこれらの本に出会っていれば,無駄な試行錯誤や回り道をしなくても済んだに違いない,とつくづく残念に思う。
和田秀樹著,ゴマブックス「受験は要領」1987年(ゴマ書房),
鍵本聡著,ブルーバックス「理系志望のための高校生活ガイド」2000年(講談社),
野口悠紀雄著「超勉強法」1995年(講談社)
進学校の理数科に通うその高校一年生には,もちろんこの3冊の本を熟読するように勧めておいた。
一方,入試を何とかくぐり抜けて大学生活に入り,さらに,それを終えて大学院での研究生活に入ってみると,本来の「勉強のあり方」について,別の側面も見えてくるのである。本当の勉強とはなにか,研究者としての開拓者魂はいかにして生まれ,かつ継続されるのか,独創性をいかにして生み出すか,と日常的に自問せざるを得ない研究者としての生活環境の中にいると,若かりし頃の(高校時代の)"試行錯誤の時代"
が,ほろ苦くも懐かしく思い出されることがある。
小学校入学から高校卒業までの勉強は,要するに,成人した後の一個の人間が正常に社会生活を送れるための基礎知識を修得する過程であり,その間の試験(と試験問題)は,基礎知識の修得を確認させるべく,"正解が用意されている試験問題" を定期的に少年に課す関門であるといえよう。 成長期の人間の教育過程として,それは必要かつ重要な事であることは言うまでもない。少年時代の詰め込みと暗記の敎育は人間の創造力養成ための重要な要件なのである。よって,単に「詰め込み教育をやめよう」などの意見には,私は到底,賛成出来ない。"詰め込み教育" 自体が悪いのではなく,強制された競争試験のシステムの中に置かれて(その中では,"問題発見の能力"よりも "問題解決の速度"
が優先される),知識を修得することの楽しさと達成感を,必ずしもすべての少年が得ることができないことが問題なのである。 つまり,問題意識がない年齢時の少年に不適切な内容の "詰め込み" は避けなければならない。そうでなければ,必ず "勉強嫌い" の少年を少なからず生み出してしまう。 勉強は,本来,楽しく,面白いのである。少年がそれを実感できずに学校時代を送るとすれば,それは間違った勉強法を強いた大人の責任である。
本来,成長期の人間は,詰め込まれるべき年齢時に,適切かつ充分に詰め込まれなければならないのである。野口悠紀雄氏も「超勉強法」の中で,同様なことを述べておられる。
一個の社会人として,日常生活の中で様々な問題に直面した時に,それらをどう判断しどう対処するか,どのように身を処するかは複雑で難しいことであり,その人間が蓄積してきた知識,一般常識,過去の生活と経験,本人の性格,などが総動員された結果が表れることは当然である。 普通の研究者であれば誰もが経験することであるが,未知の課題に挑戦する時,「どのように探索し,攻略するか」という研究戦略の策定には時間がかかる。その後に開始した研究の中でも,"そもそも,正しい解が本当に存在するのだろうか
? ","本当にこの手法で新しい知見を生み出せるだろうか ? " という不安に駆られることもある。私自身も,何度かそれに襲われた。しかし,研究者がそれでも立ち向かっていこうとする時の心理と行動の根底には,やはり,今までに蓄積してきた知識,興味や関心,先人が残してくれた偉大な業績についての勉強,現在に至るまでの自分の多くの経験などが大きく働いているのである。その意味で,人間にとって勉強は楽しく,また,それを継続する価値は大きいのである。
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アメシロ駆除の薬剤散布
September 3, 2013
庭にコナラ(どんぐり)のやや大きな木がある。今年は,その多くの葉に,例年になくアメシロの幼虫が異常に大発生した。
そのため,その幼虫を駆除するべく薬剤散布がなされ, その直後から長さ2,3cmほどの多数の幼虫が盛んに落ちてきた。たが,数時間の後に,7,8匹のカマキリ君たちも落ちてきた。手(2本のカマ)や足 (4本)が痙攣してブルブルと震えている。見ていると,なんだか,かわいそうになってきた。
さくら,コナラ,カキ,クルミなどの葉は,アメシロが好む樹木の代表例である。せっかくの葉が,幼虫に食われてみな茶色のクモ の巣のようになってしまうので,確かに見た目が悪い。しかし,そのためにその樹木が枯れるということはなく,毎年,花を咲かせ,果実を実らせるとのこと。それならば,アメシロ駆除のための広域の薬剤散布は,人間にとって良いことなのだろうか。自然環境への弊害はないのだろうか。下記の意見は,以前から自分も感じていたので概ね賛成できる。
http://zassou322006.blog74.fc2.com/blog-entry-179.html
http://matome.naver.jp/odai/2136962797608415401
http://www.city.nagaoka.niigata.jp/kurashi/gomi/gaicyu-kujyo.html
http://www.nakaco.com/onbu/ameshiro/ameshiro2.htm
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7年ぶりの東ティモール
July 11, 2013
6月22日(土曜)の深夜に羽田を発ち,約7時間半後に(23日の早朝に)デンパサール空港(バリ島)につき,そこで数時間待たされた後,乗り換えて,23日の午後に,再び(7年ぶりに)ディリ市内に着き,東ティモールの土を踏んだ。日本との時差がないために,日本における国内旅行のような日程となる。 私達の仕事は,東ティモール大学工学部のSetupのために,現地の教員の能力向上を目的とした集中講義をすることである。 連日,午前中は同行した先生が圧縮性流体力学を,午後は私が熱工学を担当した。 この支援プロジェクト(現地の教員の能力向上)での分担は,分野ごとに分けており,電気電子工学は岐阜大学が,土木工学は山口大学が,機械工学は長岡技術科学大学が担当している。
7年前に比べて治安も完全に安定しているようだが,しかし,国内の社会基盤(電力,道路,上下水道,橋,海岸や河川の護岸整備など)が,まだまだ,全くの途上である。市内に2,3箇所設置された交通信号はランプが消えたままであり,全く用をなさない。街中や郊外の道路では,豚の親子づれ,犬,ニワトリの親子づれ,山羊などが自由に歩き回っている。道路面はところどころに大きな穴が開いており,夜間に歩くときは危険である。 今の時季は乾季であるために雨がほとんど降らない。そのため,街中は乾燥したホコリの舞う道路であるが,木陰に入るととても涼しい。南緯9度にあるこの国は,毎朝6時40分頃に急に空が明るくなり,夕方6時40分頃に急に日が暮れる。 こうした日常に早く慣れて,健康に気をつけて,南半球にて,久しぶりの南国生活を味わうつもりであったが,やはり,前回と同様に,数日間もの間下痢に悩まされた。
前回と同様に強く感じたのは,この国の国民の"若さ"である。7年前は人口が約80万人とのことであったが,現在は約110万人とのこと。わずか7年間になんと4割もの人口増加である。そのため,国民の3/4が25歳以下とのこと。7年前は57歳といわれていた平均寿命は,現在62歳とのこと。 街中や市場では,実に人が多い。子供たちは,いたるところで裸足でサッカーをして遊んでいる。街頭では天秤棒を担いだ物売り(バナナ,魚,ニワトリなど)の人々は多いが,しかし,物乞いの人がいない。幸いなことに,この国の人々は食べていくことだけなら心配ないようだ。
空港から市内へ行く途中に,Timor
Plaza と称するショッピングセンターができていたのには感心した。さらに,現在は,政府の財務省の大きなビルが建設中である。朝の登校時と午後の下校時には,きちんとした制服を着た子供たちや学生が歩いている。こうした市民生活の経済基盤は,既に確立されているようだ。オーストラリアとの間に位置するティモール海には油田が開発されつつあることから,この国の経済は少しずつ豊かになってきているようだ。 外国資本にとっては,この国の現在は,きれいな海と海岸を利用した観光開発の絶好の機会と言えよう。 この国の公用語に英語を加えること(現在の公用語とされるポルトガル語を話せる人は殆どいない),さらに,諸外国の企業がこの東ティモールに工場や現地法人をたくさん立ちあげ,この国の豊富な若年労働者を十分に雇用出来る時が来れば,この国の発展はより一層加速されると思える。
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二王子岳と二本木山
June 16,2013
早朝に,竹馬の友の車に乗せてもらい,
例のおじさんと合流して,新潟県新発田市の東にある二王子岳の登山口に着き,そこから入山したのが午前8時8分。 昨日の雨が上がり,曇りの日。天気予報では午前九時頃から晴れるとのことだったが,山ではまだまだ霧がかかっており,蒸し暑かった。7合目辺りから,この時期としては珍しく,登山道の多くに残雪があり,その雪の上を歩いた。さらに,雪解け水のために,ところどころの登山道はぬかるみだった。今年の冬は
”山雪型” であったために,山には例年になく雪が残っているらしい。途中で湧き清水を飲み,約3時間登って二王子岳の頂上(1420 m)へ。そこにはすでにたくさんの人々がおり,昼食をとっていた。 残念ながら曇り空のために,飯豊連峰の絶景は見えなかった。頂上の記念塔で記念撮影をした後に,さらに30分くらい歩いて,隣の二本木山(1424
m)へ行き,「ここで昼食にしよう」とお二人が言った時には,私はホッとした。いつものことながら全身に大汗をかいた身には,水筒の冷たい水がおいしかった。その頂上で休んでいたのは私達3人だけ。昼食後,一休みした後に下山を開始し,再び時々残雪の上を歩いた。今日もたくさんの登山者がいた。感心したのは,私と同年代と思える御婦人のグループも逞しく登っていたことだ。みな,「山登りに魅了された人々」なのであろう。下山して戻ってきた登山口の近くの二王子神社を見ながら,「昔の人はよくぞこんな山奥に,こんな大きな神社を建てたものだ」と感心した。神社の前の広場にも湧き清水が出ている。その冷たい水を飲み,汗だらけの顔を洗い,気持ちが良かった。往復で約7時間のややハードな山歩きだった。 今週末から,私は国際協力の仕事で東ティモールへ行くので,「次回の山行きは,おそらく梅雨が空けている来月中旬以降になる」とお二人に伝えた。私は,そのためにも,現地では健康に気をつけようと思った。
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菱ヶ岳と五頭山
June 9,2013
早朝に,竹馬の友の車に乗せてもらって,新潟県阿賀野市の村杉温泉郷を通り抜けて菱ヶ岳の登山口に着き,そこから入山。 昨日と違って,県下は快晴の一日。約2時間登って菱ヶ岳の頂上(973.5 m)へ。そこで一休みした後に,尾根伝いに歩いて五頭山 (912.5 m)へ。両方の山は,新潟県の有名な山である。途中では,はるか東の向こうにまだ雪をかぶっている飯豊連峰が見える。飯豊山の向こうは福島県。五頭山の本峰から少し歩いた一ノ峰では周囲の眺望が素晴らしく,強い日差しの下でたくさんの人々が昼食をとっていた。 そこでは灌木が多く日陰がないので,しばらく下山して平地を見つけて昼食。 今日は梅雨時とは思えない快晴の日。たくさんの登山者がいた。感心したのは,私よりも明らかに年齢が上と思える男女がたくさんいたことだ。さらに,私よりも年齢が上と思える御婦人も一人で登っていたことだ。みな,"山登りに魅了された人々"
なのであろう。帰りはゆっくり歩いて下山し,「どんぐりの森」へ。今回も,すっかり竹馬の友にお世話になった。日頃の仕事に忙しい彼は,日曜日だけは "自分の日" と決めており,いつも山登りをしている。彼と話をしつつ,お互いに60歳をとうに過ぎても,健康で山登りができることの幸運さを思った。
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JABEE認証への疑問
May 30, 2013
最近,現在の日本の大学工学部の敎育内容に対するJABEE(工業教育認証制度)についての意見を求められた。率直に言って,現在の日本では,それは有効性の低い無駄な制度であると私は思う。実際,東大や京大を始め,通常の一流大学の工学部では,JABEE の導入などは,もともと "必要なし"
として全く無視されている。JABEEという制度の発想と目的の正当性自体は誰もが納得できよう。それは,もともとアメリカで施行されている,大学における「工学教育の品質保証」と「工学部卒業者の能力保証」のためのシステムである。アメリカには,更に,PE(Professional
Engineer)という資格制度もあり,その社会的な信用度は高く,有資格者の給与は高い。アメリカ社会では,人種,出自国籍,宗教などが様々な多民族国家であるために,それらや年齢,性別などによる差別が厳禁されている。そのため,教育歴の保証(学歴)や職務能力の保証資格(JABEE, PE, MBA など),
医師資格,弁護士資格,などのみにより,人々の能力や職業や待遇が考慮されるのは必然である。多民族社会では,人の採用審査や職場の人事考課においては,学歴,資格,それまでの職務実績などのみで当人の力量を判断 (判定)するしか方法がないのである。 なお,それは今日では先進諸国における人事考課に共通する方式であろう。
ところが,現在の日本社会では,JABEE の認証を受けた大学と,それを受けていない大学の卒業者との間に社会的な利益の差異が何もない。つまり,JABEE の認証を受けた大学の卒業者にとって,JABEE 認証のメリットが何もない(技術士の資格を希望する者には一次試験が免除されるというだけに過ぎない)。 現在の日本の社会では "JABEE の認証"
などは全く信用されていない。 それは,そもそも,日本の大学教育の内容とその成果(卒業者の力量)を,日本社会が(企業が)信用していないことによる。日本の大手企業が "新入社員教育" を重視し,それにかなりの費用と時間をかけているのはそのためである。
こうした日本の特殊な背景には,日本社会の根強い安直な "平等主義志向" がある。だが,今日のグローバル世界の中では,日本社会の安直な "平等主義志向" は,もはや "特殊な少数意見"
にすぎないと言えよう。「学歴偏重主義の弊害をなくそう」,「学歴不問と実力主義により開かれた企業へ」,などという謳い文句は,一見,もっともらしく聞こえるが,"日本の常識は世界の非常識" を示して余りあると言えよう。井戸の中の蛙のとんでもない能天気な認識不足。今日の世界における "真の平等社会" とは,
人の採用審査や評価,職場の人事考課において,年齢,性別,出自,学閥などを排除し,当人の敎育歴,公認資格,職務上の実績などのみで力量を判断 (判定)する社会的コンセンサスが定着していなければならない。(日本社会には学歴(かつ学閥)主義が昔も今も厳然として定着しており,今後も消滅することはないであろう。この点については,ここでは深入りしないが,例えば次の書に詳しく論じられている。吉川
徹 著「学歴分断社会」(ちくま新書),同「学歴と格差,不平等」(東京大学出版会))
今日,大学の工学部では,JABEEの受審のための準備書類の作成のために,教員の追加負担(書類作成の仕事)が異常に多い。自分の担当授業科目の全てについて,授業の目標と内容の対応表の作成,授業内容の達成度の点検書の作成,試験の合格答案例と模範解答例の保存,受講者の試験成績の一覧表と得点の標準偏差の明示,授業目標の到達度についての受講者による点検書の作成,などなど。こうした書類作成の作業を毎年強いられている工学部教員は辟易するばかりだ。その中には全くの形式的と思える資料文書もある。
よって,私の率直な印象として, JABEEの制度の本来の目的は工学部教員に対する業務(仕事)監査ではないか,と思うことさえある。20年くらい前まではどの大学工学部にも時々いた,誰でも単位を取れる "楽勝科目" の "休講の多い教授" や,いい加減な試験とドンブリ勘定の成績評価をする "鷹揚な名物教授" などは,
JABEEによりその存在が許されなくなった。 要するに,大学工学部教員に対して "手抜き仕事" の禁止が,JABEEにより厳命されたのである。(入学難易度の低いある大学工学部のある教員は,「うちでは,JABEEなどは到底,実施できない。授業内容のレベルが暴露され,また,学生の中に卒業不可能者が続出してしまう」と言っていた。)
そのため,結局は,多くの工学部教員の中に,「試験の不合格者が多ければ(平均点が低ければ),各設問の点数配分を変えて全体の平均点を60点に改変(操作)すれば良い」,「合格答案などは,各設問の配点を変更すればいくらでも増やせる」,などの冷めた心理が生まれるのは自然の成り行きである。ある大学教員は「JABEEの審査なんぞ,書類上のゴマカシ作業の連続だ」と言っていた。 私自身も全くの同感であり,JABEEの受審のための準備資料の作成には,空しさと馬鹿らしさで,まともにそれに取り組むことが出来なかった。実際,「もはや,JABEEの受審をやめよう」という声が出ている大学もある。高専の専攻科の中には,一時的にJABEEの受審をやめたところもある。
JABEEという,本来は理想であると誰もが認める制度が日本社会に認知され,社会的に機能するためには,それを通過してきた卒業者とそうでない卒業者に「社会的な処遇の差異」がなければならない。つまり,JABEEの認証を受けた大学工学部の卒業者に「社会的な利益」(例えば,初任給の割増し制度や,求人する企業が応募資格としてJABEEの認証を受けた大学工学部の卒業者であることを指定する,など)がなければならない。 日本の中に,そうした「社会的な利益」が実施される時代になって初めて,JABEEの制度が認知され,有効となろう。そして,そのためにはもちろん,日本における大学の工学部の教育内容と卒業者の力量(品質)が,社会を(企業を)十分に納得させるものでなければならない。
工業高専について,「そもそも,高専の専攻科に "JABEEの認証" を適用することは可能なのか?」という疑問,また「JABEEによる認定の対象は,大学工学部の教育プログラムであり,高専が標榜する ”実践的技術者教育プログラム”は対象外ではないか?」とする意見もある。これらには,私も基本的に全く同感である。 その理由は,高専の制度や教育課程について,
私は以前から教育雑誌やインタネットにて忌憚なく多くの意見を公開してきたが,その中に述べられている(多くの賛同意見を今も頂いている)。この新HPの「提言と意見」の中にもそれらを再掲した。
高専の4,5年生のカリキュラムと専攻科の2年間のカリキュラムを合算して,それを "大学工学部の教育課程" とみなすこと自体が "砂上の楼閣" に過ぎない。もちろん,高専におけるJABEEの認証の取得は "無理な背伸び"
であり,取得したとしても社会的な信用を得られまい。今までに私は何度も述べ,社会に公開してきたことであるが,工業高専の4,5年生(19,20歳)とはいえ,数学,物理,化学,英語などの重要な基礎科目について,大学進学を目指す理系の高校生3年生 (18歳) と "同等な高卒の学力" に達している者は,私の印象では2割以下である。この惨状は学生の能力ではなく,高専の特殊な教育課程に起因する( それでも2割程度は,学力の高い秀才が高専に存在するという事実は重要である)。
高専の必修科目の「必修」とは単位の「取得義務」の意味ではなく,単に「履修が必須」の意味である。 高校や大学における同世代の青少年が学ぶ基礎学問の修得を,「高専の学生には不要」とした50年前の設立趣旨は今も変わっていない。 高専を「中卒者を対象にした即席の5
年制職業訓練学校」とする文部行政上の立場からすれば,これでも良いのかもしれないが,しかし,普通に考えてみれば,将来のエンジニヤを夢見る純真で優秀な青少年達をこれほど馬鹿にした失礼な制度もなかろう。 結果として,工業高専とはいえ,数学,物理,英語などの基礎科目について,卒業者の大半に "高卒の学力"
が全く身についておらず,進学校の理系の高卒者とは比較にもならない。高専卒業者の英語の学力は中学3年程度でしかない。よって,技術革新の著しい社会では "高専卒" のみではまともな技術者には到底なれない (有識者であれば,高専の創立時からそれを知っている)。創立以来から続いている工業高専のこのような実態を日本国民全体の中に周知させる必要がある。
では,高専のこの現実を承知している国立高専機構の担当者が全国高専に "JABEEの認証取得"
を要求するのはなぜか。それはおそらく,文科省や大学評価・学位授与機構に対して,現在の高専専攻科卒業者の学位(学士)授与の手続きを簡略化させたいためと思われるが(専攻科を卒業したがその時点では学士号を取得できなかった者が,今日でも時々出現する),「大学設置基準を満たさない教育設備環境の場で,研究の義務のない高専教員が大学課程の教育と研究を行なう」とする高専の専攻科の重大な法的矛盾を行政担当者が放置している限り,それは不可能であろう。
旧態依然とした50年前の設立趣旨が既に30年前に完全に破綻し,本来の設立目的から著しく乖離してしまった今日の高専の実状を認識するならば,高専制度に関する文部科学行政の担当者が(逃げずに)早急に取り組むべきことは,50年も前から続く「中卒者を対象にした即席の5年制職業訓練学校」とする高専制度が抱える重大な矛盾の解消に真摯に取り組み,高専を工学のまともな教育機関に刷新することである。それが行政担当者の責任であることは言うまでもない。もはや,逃げ隠れは許されまい。"社会的な信用を伴った" JABEEの認証を高専が申請し,取得出来るのは,まだ当分先の話であろう。
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大蔵山と菅名岳
May 26, 2013
快晴の今日,竹馬の友と,10年上のベテランおじさんとの3人で,新潟県五泉市の南東にある大蔵山に登り,続いて尾根伝いに菅名岳に登ってきた。
その2人にとっては慣れ親しんだコースだが,私にとっては,これも初めてのコースである。 大蔵山(864m)の頂上から菅名岳(909m)の頂上への尾根伝いの道の途中では,この時季でもまだ少し残っていた残雪の上を歩いた。 大蔵山の頂上からの眺望は素晴らしかった。五泉市から新潟市方面の平野が一望のもとに見渡せる。一方,菅名岳の頂上では,周囲の樹木が眺望を遮っており,平野部が見えなかった。また,その頂上では強い日差しに加えて,顔の周囲をうるさく飛び回る小さな虫が多く,閉口した。909mの山頂にもこんなに多くの虫が出るのかと,感心もした。 2つの頂上にて標識を背後に登頂の記念写真を撮った。日差しが強いので,菅名岳の頂上から6,7合目までブナの大木の林の中を下山し,適当な平場を見つけて,昼食。 その後,登山口からの帰路に,この地方では有名な湧き清水(とても冷たい)を,そのままタップリと飲んだ。
今回も,あの2人の健脚ぶりには脱帽した。最近は,梅雨入り前の快晴の日々が一週間も続いているが,もうじき(6月の梅雨時になると),毎週の山行は少し中断するだろう。だが,竹馬の友は「お前を連れ出して体験させたい山が,まだまだ,いくつかある」とのこと。 もちろん,私は,できる限り同行するつもりでいる。
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西山三山
May 19, 2013
早朝から,竹馬の友と山登り。新潟市に近い小須戸町と五泉市との間にある”西山三山” (小須戸町から見れば "東山三山"と言えよう) を踏破してきた。登山歴の長いベテランである友は,途中で,コシアブラ,タラノメ,などの山菜を採集していた。山登り(いや,山歩き)の初心者である私は,彼の勇姿を,ただただ,見ているだけだった。山菜採りは,それを見分ける(見つける)眼力のある人だけが出来る特殊技能のようだ。”西山三山”である,護摩堂山,高立山,菩提寺山は,いずれも標高300m程度の山だが,4時間足らずでこれら全てを登り降りして踏破するのは,かなりの体力がいる。特に,最終の菩提寺山の頂上に至るための550段にもなる急勾配の階段は辛かった。前日の夕方に,7.5Kmのランニングをしていた私の身には応えた。
だが,ようやくたどり着いた山頂からの眺望は素晴らしかった。五泉市の平野とその向こうにそびえ立つ菅名岳を見ながら,おにぎり,ラーメン,オレンジ,などを食べ,水筒の中の冷たい水を飲み,竹馬の友と話をしながら,"至福の時”を過ごしてきた。来週は,はるか向こうに見えた,あの標高900mの菅名岳へ行く予定。帰宅した後,疲労により,2時間ほど寝てしまった。
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環境保護,省エネルギ,リサイクル運動を科学的に検証しよう
May 8, 2013
環境保護対策,省エネルギ対策,リサイクル促進運動などについて,特に最近の20年間くらいは私にとって考えさせられることが多かった。そのため,私は自分の講義や研究室の学生との討論の中で積極的にこれらを取り上げてきた。
地球は温暖化している? 炭酸ガスの排出の増加により地球が温暖化だ? 地球温暖化により海面が上がって南太平洋の島々が水没した? ダイオキシンは人間に有害だ? ダイオキシンが排出されるから通常のゴミ焼却炉は使用不可? バイオエネルギーは環境に優しい? ”オール電化"
は環境に優しい? 石油はあと40年で枯渇する? 化石燃料は炭酸ガスを出すから原発は必要だ? 原発が無ければ日本の電力供給が破綻する?
科学的な根拠の乏しい,こうした多くのセンセーショナルなキャンペーンが今日でも繰り返されている。一般の市民は,そして特に技術者や教師であれば,これらの粗雑で声高なキャンペーンに騙されてはいけない,と私は思う。 これらのキャンペーンや,よく見かける "エコポイント補助金" などの宣伝の背後には,実は,それにより商売の維持と繁盛をねらうビジネスもあることに注意したい。実際,"温暖化商売"
が明確に存在することを指摘する識者もいる。「原発は空気を汚さない」,「北極の氷が減少したために多くのシロクマが死んでいる」,「石油が枯渇する」,「エコキュートは省エネになる」などの間違いは,今日ではもはや完全に暴露されているが,しかし,まだまだ多くの非科学的な "環境保護論" や ”省エネルギ論"
が蔓延している。少なくとも,自然科学を学ぶ者,そして学んできた者であれば,常に科学的な観点から,冷静にかつ厳しくこうしたキャンペーンを検証したいと思うはずである。その上で科学的なエネルギー有効利用策と環境保護の方策を考えたい,と思うはずである。そのための資料の一例として,私として選んだ以下の書を挙げよう(他にも多数の優れた書があることはもちろんである)。
(1)「リサイクル幻想」武田邦彦 著(2000年10月 文春新書)
(2)「環境原論」平野敏右 著(2002年3月 丸善)
(3)「環境リスク学」中西準子 著(2004年9月 日本評論社)
(4)「正しく知る地球温暖化」赤祖父俊一 著(2008年7月 誠文堂新光社)
(5)「幻想のバイオ燃料」久保田宏,松田智 著 (2009年4月 日刊工業新聞社)
(6)「環境主義は本当に正しいか?」バーツラフ・クラウス 著(2010年6月 日経BP社)
今日,環境保護,省エネルギ,リサイクルなどに関する書籍が多数発行されているが,その社会的動向自体は大変に良いことであることは言うまでもない
。上記の「環境原論」,「幻想のバイオ燃料」,「環境主義は本当に正しいか?」は,私自身の日頃の考えや疑問を見事に再現し,忌憚なく展開し解明している。「環境原論」は小さな本であるが,各章の末尾に提示されている「検討課題」はどれも私たちの日常生活に直接関係のある歯ごたえのある大きな課題であり,簡単には回答が出せない。そのため,学生のみならず,教師や研究者にとっても十分に参考,そして勉強になると思われる。
現在,よく鼓舞されている多くの「リサイクル促進運動」の内容は,本当に「リサイクル」や「省エネルギ」と呼べる技術なのだろうか。空き缶,古紙,食用油などの再利用奨励の説明は本当に科学的に正しいのだろうか。バイオ燃料は本当に "環境に優しい" のだろうか。"オール電化生活の普及" は本当に "安全で快適な生活の普及" なのだろうか。風力発電や太陽光発電は本当に合理的な "省エネルギ"
の技術なのだろうか。水素自動車やハイブリッド車は 本当に "安全で快適な市民生活" のための "環境にやさしい技術" なのだろうか。原子力発電は,その建設費用,環境汚染防止対策,核燃料廃棄物の処分や再処理対策,事故における安全対策とその費用などを検討すると,総合的な費用効率は果たしてどうなのだろうか。
これらを少し詳しく検討してみると,環境保護対策,省エネルギ対策,リサイクル技術,と言われる話の内容には,実は,かなり疑問な面も見えてくる。見過ごせない無駄,社会的な非効率,普通の市民生活に対する看過できない危険性,などが見えてくる場合もある。この地球全体の自然の中で人間が何かを変えれば,それにより他の全ての動植物の生存環境にもその影響が及ぶことを,私たちは常に念頭に置かなければならない。
私達は科学的根拠の乏しい安直な(素人騙しの) "リサイクル論","省エネルギ技術", "環境保護論"
などに騙されないだけの(それらを検証できる)知識と分析力を持つ必要があることを,上記の書はどれも読む者に深い感銘と印象を与えつつ示唆している。端的に言えば,自然科学の根源的な法則の中の,質量保存法則,エネルギ保存法則,熱力学第二法則という3法則に照らして虚心坦懐に考えることにより,巷にあふれるリサイクルのキャンペーン,省エネルギ機器や技術の宣伝, 環境保護キャンペーン
などを,誰もが検証でき,その結果,科学的根拠の乏しいものを確信を持って一蹴,排除,さらに駆逐することが出来よう。そのため,私は毎年,学生諸君に自然科学の根源的な法則の重要さを強調し,また,上記の書を読むことを薦めてきた。
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大平山
May 6, 2013
昨日,快晴の中で山登りをしてきた。新潟県村上市の東にある大平山(565m)。
小学校時代からの竹馬の友(山登り大好き男)と, 彼の山仲間で,私達よりも10歳年上の "山登り大好きオジサン" の3人で登った。私とオジサンは初対面である。私の山登り体験は,はるか昔の学生時代に,丹沢や榛名山,そして北海道のニセコに登ったくらいのものであり(いずれも,楽しい思い出として今も残っている),私は全くの初心者である。
一方,件の竹馬の友やオジサンは登山歴の長いベテランである。特に,オジサンの健脚ぶりは,とても10歳年上とは思えなかった。今から10年後の自分もあのような山登りが出来るだろうか,と思った。登山道を歩きながら,2人のベテランに教えていただいて山菜のコシアブラを採集した。下山して,山麓にあるキャンプ場の広場で昼食を食べながら,あれこれの話をした。とても楽しい一日だった。仕事,年齢,経歴などに無関係に,こうした「趣味で付き合える仲間」がいることは,精神健康の面からとても良いことだと思った。今後も,機会がある限り,彼等との山登り(私が同行できるのは
"山歩き" かな)に参加しようと思った。彼らの山登り姿を見て,今日,私はスポーツ用品店へ行き,新しくリュックサックや登山用の杖その他を買い揃えた。
今の私の健康法は,社会人ボート部員として信濃川での練習,37,8年来のマラソン,
そして,山歩き (もともと運動神経がイマイチな私だが,走ることや歩くことには人並みに自信がある)。 国際協力の仕事に備えて(さらに90年人生を目指して)体を鍛えようと思う。
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信濃川での47年ぶりのRowing
April 30, 2013
先日の早朝6時より,新潟市の社会人ローイングクラブの練習に参加してきた。
"やすらぎ堤" が出来て以来,信濃川の両岸の景観は,素晴らしいものになった。当日の朝はまだ曇っていたが,晴れた日には絵葉書にもなれる光景だ。「水の都. 新潟市」として,日本に誇れる光景だと思う。
信濃川の川面でボートを漕ぐのは,1966年以来,47年ぶりかな。新潟大学ボート部のエイトのシェル艇をお借りし,私はストロークサイドの6番の座席でオールを持たせていただいた。私は高校時代からストロークサイドの経験しかなく,バウサイドで漕いだことがない。 ハラキリはしなかったが,遠い昔の感覚を思い出すのに,少し手間取った。 現代のオールは,もはや木製ではなくCFRP製。ブレードの形状は非対称であり,水をCatchし,またFinishし易くなっている。この形状への変更は,私自身も高校時代から期待していたことであった。
県庁から少し上流まで行き,そこでUターンして昭和大橋近くの桟橋に戻ってきた。関屋分水が完成して以来,本川大橋より下流の信濃川は静かな川面となり,絶好のボートコースになった。 私が中学生であった昭和30年代末の "千歳橋" は崩落寸前の危険な "通行禁止の木造橋"
であったが,新潟県庁が現在地(日本軽金属の工場跡地)に移転して以来,新潟市の基幹ルートとしての立派な千歳大橋となった。越後線の鉄橋やガスタンクの周辺には,今や立派なマンションが林立しており,その周辺の信濃川の両岸は芝生の土手と桜並木。散歩やジョギングをしている人がいる。素晴らしい景観だ。もはや昔の面影は全くない。 昭和大橋は昭和39年の新潟国体に間に合わせて完成された。その国体の直後の新潟地震により一部が崩落したが,直ちに改修された。私は毎日,自転車でその昭和大橋を渡り,高校に通学していた。
昨年に新築された高校合同艇庫には,高校のボート部員がたくさんいた。 みな,自分の子供たちよりも10年以上も若い人たちだ。 女子部員もたくさんいたことには,隔世の感を新たにした。 60歳をとうに過ぎた自分でも,こうして信濃川の川面でボートを漕げることは幸せ(幸運)だなと,ふと思った。 今後も,健康を保ちつつ,年代の近いメンバーの方々とボートを漕いで,いい汗を流そうと思った。
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大阪東住吉の ”放火とされた事件"
April 29, 2013
昨年,2012年3月7日の午前10時,大阪地裁で "東住吉放火事件" の "再審決定" が出た。
すでにインターネット,テレビ,ラジオで公開済みである。やっと裁判所も科学的な検証を取り上げてくれた。 ところが,検察の即時抗告により同年4月26日から大阪高裁で抗告審(三者協議)が続いている。そのため,被告とされている2人は釈放されずに,今も ”受刑者” の身である。
7,8年前に,偶然のきっかけで,私はその弁護団に参加したのだが,弁護士から手渡された今までの判決文を読み,「これは大変なことだ。人間のかけがえのない貴重な人生がこんな馬鹿げた判決(裁判官の勉強不足による)で狂わされてしまうのは許せないことだ」と確信し,火災関係の同僚研究者にも声をかけ,弁護団に協力することにした。
弁護団からの依頼を受けた火災分野の優秀な研究者による詳細な鑑定書をみると,検察官や裁判官がこの鑑定書を証拠採用しないのであれば,あるいはこの鑑定結果を否定するのであれば,では,これ以上,一体どんな鑑定証拠を出せば納得するのか,と腹立たしく思ったものである。本件は単なる事故であり, "事件" では決してない,と私は思う。
被告に対する強引で無理な取り調べの様子を弁護士から聞き,また,自白を偏重して予断に満ちた不見識と思える判決文の内容を見ると,「何としても,この二人の被告を救わなければならない」と,私は今も思い続けている。「これほどの大きな犯罪であれば,やっていないのに,やりましたと言うわけがない」などとする心証が,もし当時の裁判官にあったとすれば,それはとんでもない認識不足の誤解である。
普通の人間は,取調室にて精神的に極限まで追い詰められると(これは,れっきとした拷問であり,違法), もはや絶望の果てに諦めの境地に陥り,早く楽になりたいために,やっていないことを「やりました」と "自白" させられてしまうことを過去の多くの冤罪事件は教えている(浜田寿美男 著, 岩波新書「自白の心理学」,平凡社新書「取調室の心理学」,NHKブックス「<うそ>を見抜く心理学」)。
今までに私は,本件を含めて3件ほどの刑事裁判に関わってきた(鑑定証人として裁判所に召喚されたこともある)。 火災,爆発, 燃焼という分野を学んできた研究者の一人として,検察側からでも弁護側からでも,その分野での事件や事故の原因究明の協力依頼があれば,自分に可能な範囲で今後も協力することは自分の責務であると,私は思う。 研究者が社会貢献から逃避するならば,その "研究"
は単なる個人的な趣味でしかない。
この "東住吉放火事件" について,下記のURLが,もっともっと広く国民の中で閲覧されることを,私は願っている。
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/update/toppage/060514_010.html
http://www.jca.apc.org/~hs_enzai/
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安全安心社会:日本とアメリカ
April 18, 2013
今日の朝,自治体(新潟市)が実施する "胃がん" と "肺がん" の「がん検診」なるものを初めて受けた。昨年までは,毎年の春の恒例として職場での検診を受けていたが,退職後は自治体の検診を受ける身となった。 本人が意識していなくても,こうした検診を勧める通知が自治体から毎年届くとは,加えて,60歳以上はそれらの検診が全て無料とは........。
以前から多くの識者により言われていることであるが,自分自身がこうした検診を受ける身になると,改めて,日本の手厚い医療保険制度の素晴らしさがわかる。誰もが健康保険証を持参すれば,わずかな自己負担で,全国どこの病院にでも行ける,かつ,進んだ医療を受けられる。 考えてみれば,それは北欧と並んで日本も築き上げた世界に誇れる"近代国家の偉大な社会保障制度" といえよう。
一方,国民皆保険の制度にも銃規制の制度にも強固な反対者が大勢いるのがアメリカである。自分の身は自分で守るべし,個人に対する国家からの規制は出来る限り排除するべし,とする "独立精神に満ちたアメリカの開拓者魂"
を尊ぶ国民性は今も健在のようだ。当然の結果として,日本の車検制度や自賠責保険の制度などは,アメリカ社会には到底受容されないであろう。将来もそれはアメリカには出現しないであろう。
約20年前,私は大学の研究員としてアメリカの地方都市にいた。私達一家にとって,楽しくまた貴重な体験の多い日常であった。物価は安く,近所の人々は親切であり,自宅の周辺にはリスやウサギが顔を見せ,日常生活は平和そのものであった。たまには近所の人々と庭でバーベキューとビールのパーティ。子供たちは,夏は毎日プールと夜のホタル取り。秋のハロウィンでは友達とともに仮装して近所をめぐり,キャンディ,お菓子,ガム,チョコレートなどを山のように持ち帰ってきた。
しかし,時おり,新聞やテレビでアメリカ社会の厳しい現実を知らされることもあった。 その筆頭が,人々の医療費負担の問題と,銃による事故や事件である。子供たちがハロウィンを楽しんでいた時,留学生の服部君がルイジアナ州で射殺されるあの事件が起きた。
日本の20倍以上の国土の中で,出身国籍,宗教,人種などが異なる3億人以上の人々が住む "モザイク国家"。それがアメリカである。そのため,子供たちは "人種差別の禁止" を学校で厳しく教え込まれている (子供たちが通っていた小学校の体育館には "Respect Others !" のスローガン。また,PTA会報のサブタイトルは "Make the Difference !" であった)。
普通の日常生活や職場では "差別" を感ずることはない。アメリカ社会は,意欲と能力のある者に,経済力,人種,出身国,年齢,性別,宗教などに関係なく,勉学,昇進,起業などの機会を広く用意している度量の大きな温かい社会でもある。 大学,大学院生には多くの奨学金が用意され,さらに,支払った授業料は税額控除の対象となる。社会の貧困層の人々には無料で食事が出され,医療もなされる。 だが,
ノーベル賞受賞者を何十人も輩出し, コンピュータ社会での優れたアイデアと技術で起業して億万長者となる者が続出する一方で,KKK団のような極端な人種差別主義集団が存在し続けるのも, アメリカ社会の現実である (アメリカ社会にはWASPである "上流階級" が厳然としてある。 また,成人には白人優位の潜在意識が根底に厳然として存在する,と私には思える)。
世界最高の医療技術と設備を持つ国で,無保険であるために十分な医療が受けられない人々が大勢いること,銃による惨事とそれによる死傷者がいかに多くても,銃の所持を厳しく規制する法案が最終的にはいつも廃案となること,これらの事実はアメリカという "モザイク国家"
の運営の難しさをつくづく思わせる。 国民皆保険の医療制度と銃規制の制度が国民的合意のもとに確立されることによって,アメリカ社会は名実ともに世界に誇れる素晴らしい社会になれる(その2つが欠けているうちは,アメリカ社会は画竜点睛を欠いている),と私は思う。 国民皆保険の医療制度と銃の不法所持禁止法の両方を達成した日本社会は,その点だけを言えば,アメリカに対して,いや世界に対して大きく胸を張れる
"安全安心社会" であると私は思う。
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工業高等専門学校
April 6, 2013
1985年(昭和60年)に36歳で高専に着任した時,私にとっての最初の衝撃(と落胆)は「その資格が無いと思われる者が教授や助教授の職位に就いてい る」ことであった。 教員の中に,研究業績のまともな審査を受けて採用された者が誰もいない。単に縁故紹介で採用された高専教員の集団はまさに "生活互助会" の姿であった。教員に研究の義務も転勤もない高専とは,ここまで教員を転落させるものかと,暗澹たる思いに駆られたものである。将来のエンジニヤを夢見て入学した高専の学生が気の毒に思えてならなかった。
高専に着任した直後から,こんなところに勤務していることが空しくなり悩んでいた頃,私は運良く機会を得て,家族を連れてアメリカへ脱出した。 職員全体の親睦会総会だの新年の賀詞交歓会などには,ただ一度だけ,着任時に「新任者の義務」として出席したのみで,結局,定年に至るまで欠席していた。
職場におけるコミュニケーションのあり方として,本来はそれは良くないことと自分でも思うが,こんな生活互助会の会員にさせられることが馬鹿らしくて出 席する気になれなかった。
戦後の高度経済成長期における理工系人材不足への対応策として,中卒者を対象とした「即戦力養成の5年制職業訓練学校」として工業高専が1961年に創立されたが,以来30年前後も,どの工業高専でも,まともな研究業績審査もないウサン臭い縁故紹介による教員の採用が横行していたようだ(私自身は採用時に業績審査を受けた)。
まともな研究経歴を持たずして単に縁故や紹介で高専教員に採用となり、法的には研究の義務なし,とされる高専にそのまま20年も30年も住み着いたらどうなるか。それは言うまでもあるまい。学生の不成績や不勉強を嘆き,彼等を叱責する一方で,授業のある時間以外は、同僚と囲碁に興ずるか世間話で暇をつぶして一年を過ごす "ベテラン教授"
が高専に少なからず誕生するとしても、無理からぬことであった。 勤続年数は長いが研究業績の無い教員を,年齢,勤続年数,クラブ指導, 校務分担などの "実績"により "教授" に昇格させる, という措置も無理からぬことである。「勤続30年以上,研究論文ゼロ」の ”高専名誉教授” が多数輩出されるとしても、無理からぬことであった。
研究を諦め(もともとその経歴がない)悟りを開いた教員にとっては,高専はまことに居心地の良い楽園である。年齢や職位に関係なく,採用と同時に全教員に電話付きの個室が与えられ, 40歳近くになれば誰でも助教授, 50歳近くになれば誰でも教授。仕事の中に "競争"
というものが全くない。その上,転勤なし,研究の義務なし,リストラなし。学生は勉学の意欲なし(大学入試がなく,さらに,必修科目でも単位取得の義務がない。そのために,高専の卒業者の大半に高卒の学力さえ身についていない)。こうした楽園に安住した高専の教員であれば,研究など放棄し,学内政治や教員の人事,各種委員会の新設,学生管理規定の改訂などの雑用に熱心になり,さらに "生活互助会"
の中に,山の会,釣りの会,ゴルフの会,囲碁の会,などの "仲良しクラブ" を作り,"人生を楽しもう" とする者が続出するのは当然である。 現在は定着している「学生による授業評価アンケート制度」の導入は,以前は,いつも古参教員の反対にあって結局は廃案となった。 なお,これらの点は「愚者の楽園」と揶揄されている大学であれば,そこの教員も同じである。(筒井康隆 著「文学部
唯野教授」)
縁故紹介によるいい加減な教員採用を認可し,更に,教授や助教授への昇任の認可もしていた当時の文部省の高専行政(専門教育課)の無責任さが,改めて問わ れなければなるまい。「教師に研究の姿勢がなければ,良い教育ができない」ことを,当時の高専行政の担当者は知らなかったようだ。それがもたらした禍根の
責任は極めて重大と言わなければならない。しかし,今日に至るまで,高専行政の担当者にはその反省がない。頬被りを決め込んだまま,自分の在任中には決して,高専制度の重大な矛盾の解消には手を付けようとしない。
法的には,今日でも,高専の一般教育(高校教育)の教員資格に高校教員免許は不要であり,専門学科の教員資格でも学位取得は "必須" ではない(大学の教員資格でも,法的には学位は "必須" ではない。しかし,理工系教員の場合,実際には学位は "必須の採用条件” である)。 中卒者を対象とする "即戦力養成の5年制職業訓練学校" を建前として,「法的には,高専教員には研究の義務はない」としている一方で,今日では専攻科の担当教員資格として学位の取得や相応の研究業績を高専教員に要求している,という高専行政のデタラメさ。「大学設置基準を満たさない場で,研究の義務なしとされる教員が大学課程の教育と研究を担当する」という高専専攻科の重大な法的矛盾。これらについて,高専行政の担当者は今も頬かむりを続け,逃げている。学校教育法による50年以上も前の旧態依然とした高専設置基準は,現在も変わっていない。
そのため,優秀な能力を持ちながら,家庭の経済的理由により大学進学の道を閉ざされて高専に入学した学生達が,私には着任当初から気の毒に思えてならなかった。「高専だけで人生を決めるのは早すぎる」と,私が在職中に,毎年,学生に向けて強く訴え続け,また,学生の胸中を察して励ましていたのはそのためである。これらの私の意見は,卒業生の話では "名著" として語り継がれていたとのことである。
創設以来今日に至るも,高専の実状は入学者の能力や期待に到底応えられる状態ではない。 私が1995年に「工業教育協会誌」にて「今日の高専の課題」を公開したのはこうした経緯による。
それに対して,大学の学長,高専の校長,大学や高専の多くの教員から身に余る賛同の意見をいただき,心強く思ったものである。 インタネットに公開されている,高専問題についての私の一連の論文も良く読まれているようだ。今でも時々,思い出したように賛同の意見が来るが,今まで
に批判や反論が一つも来ない(水面下では,あれこれの苦情が出ていたようだ)。 西日本のある高専では,私の論文のファイルが教員の間に回り,大きな反響を呼んだとのことだ。
今日の高専における専攻科開設の利点は,大学院が存在しない高専の教員にとっては研究の協力者(専攻科学生)が存在するために研究がはかどること,さらに,専攻科は "大学教育の場"
であることから,教員採用時における客観的で厳正な資格審査(研究と教育の業績)の内規が各高専に定着したこと,特に専門学科の教員の場合,学位の取得が必須であることに加えて,職位に相応の研究業績がなければ採用されないこと,またさらに,学内の既存の教員も研究業績が不足であれば昇格できないことが学内のコンセンサスとして,どの高専の中
にも定着したことであろう。そのため,私が知る限り,最近の十数年の間に,どの高専でも教員の力量レベルが格段に向上しており,研究業績,研究費獲得,社会活動,学外との共同研究などに著しい活気が見られる。まさに隔世の感がある。今日の高専には若い優秀な教員が大勢いる。彼等の心意気がいささかも減ずることなく維持されることを,私は祈るばかりだ。
高専の学生にとっては専攻科の開設は,学費が国立大学の半分であることと,大学院を自由に選べること以外には,その利点がないと私は思う。15歳の入学者を7 年間も同じ高専に閉じ込めておくことに "教育上の利点" などがあろうはずがない。成長期にある本人の視野が狭くなる。その上,"高専の専攻科卒" を "正式な大学卒"
とは認めない大手企業が今もある(その企業からは大学卒レベルの求人情報が来ない)。 既に30年も前に,工学教育の中心が大学院修士課程に完全に移行したのが今日の日本である。よって,私は自分の研究室の専攻科学生の全員を, 就職させずに大学院へ進学させた。
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外国人研究者との共著論文
April 5, 2013
昨年,ある英語圏の面識のない若い研究者からメールが来た。それによると,彼は3年前に博士号を取得し,彼の研究テーマが,私が長年取り組んできた研究テーマ に近いので,博士論文の中で私の論文をたくさん参考にしたとのこと。 最近,その研究についての Review paper を作成したが,それを International Journal
に提出したいので,私に共著者になってくれませんか,とのこと。
この若い研究者のために,私はそれを快諾した。しかし,メールに添付されてきた彼の初稿を見ると,Review paper にしては Paper survey (彼の勉強)が全く不足なことが一目瞭然なので,「まずは,以下の論文をよく読んだほうが良い」として10篇ほどの論文を紹介して返信した。 実は,それ
らの論文は,それぞれが大部で,かつ重要なものであり,かつて,私自身が読みきるのに大変に苦労させられたものである。
早速,論文の紹介を感謝する旨の返信が彼から来たが,その後,しばらく連絡が途絶え
た。 おそらく,彼も四苦八苦して,それらの論文と格闘させられているに違いない,と私は思っていた。「Review paper が作成できることは,その分野の研究内容を正確に概観できる力量があることを意味する」ことを,若い彼はよく分かっていなかったようだ。
その後,彼がたくさんの論文を読んで勉強させられたであろうと思われる結果をもとに改訂された "第二原稿" がようやく送られてきた。 しかし,50ペー ジ以上にも及ぶその原稿には,彼の理解不足と英語の間違いが多いために ( 彼の名前を見ると中近東からの移民らしく,そのせいか,英語文がやや ”ぎこちない”
),その第二原稿の査読のために私は10日間くらい奮闘させられてしまった。ようやくその第二回目の査読を終えて訂正原稿を返信した時には,やれやれと思ったものである。自分も駆け出しの若い頃は,恩師にこのような面倒をかけていたのだろうな,とふと思った。
インタネット時代のおかげで,国の内外を問わず,原稿の送信や返信が, Real Time で出来る。便利な時代になったものだと,いつも思う。 私達の論文はこの4月に公刊された。
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退職,そして今後
April 3, 2013
特任教授としての延長期間が終了し,完全退職の身となった。今後はやりたいことが自由にできる,と思うと何とも言えない解放感がある。一方,今までの生活における時間スケジュールを在宅のままで維持することの義務感も感じている。
私は,通常,朝5時半に起き,7時10分に家を出た。電車の中にいる60分を含めて自分の研究室まで90分だ。電車の中では本を読んでいた。電車通勤を始めて以来の5年間,往復の通勤により毎日2時間の読書時間が自動設定されていた。これは貴重な時間だったと,今も思う。たくさんの本が読めた(語学,環境保全問題,物理学関係,冤罪事件関係,などが多かった。小説を読んだことはない)。また,電車内で,それまで未知であった人と知り合うこともできた。毎日のこうした2時間の読書時間を退職後も自宅にて設定し,自己啓発を続けることは,自分に課した義務として以前から予定しており,今後も固く守ろうと思う。
自分のHomepageの引越し作業のために約3日かかった。その完了を知人たちに知らせると,返信の中でいろいろな感想をいただいた。先日は,小学校時代からの友人(山登り大好き男)から電話があった。「お前はもう暇になっただろうから,今後は俺があちこちの山を案内する」とのこと。 もともと予定していたことだが,私は社会人のローイングクラブに入れていただき,高校時代の心境に戻り,信濃川の川面で同世代のおじさん達とともに良い汗を流そうと思う。また,私は30年以上,週末や休日の午後には10 km前後のランニングをしているが,今後はそれが毎日できることになった。さらにまた,もともと好きだった国際協力の仕事にも積極的に参加したい。そのために,今まで,英語はもちろんのこと,スペイン語,ポルトガル語,フランス語,ロシア語などを "かじって" 来た。
かなり以前から,私は定年後に自分のやるべきこととして "学び直し" を決意していた。即ち,学び残してきた(自分として努力不足の反省がある)分野の再勉強である。 高校時代から,数学,物理,英語などが私は大好きであった。生物,世界史,日本史,国語も面白かった(その割にはなぜか成績がイマイチで,特に国語や古文,漢文は惨憺たる結果であったが.......)。それらへの私の興味を沸き立たせ,今日に至るまで私に勉強の意欲を維持させているのは当時の良き教師達だと思う。大学院時代も良い教師達に出会えた。その多くは輝くばかりの秀才であり碩学であった。彼等からいただいた勉強への興味と意欲は,私にとって一生の宝であり財産と言える。
A student is a lamp to be lit, and not a bottle to be filled. 私はこの格言が大好きである。30年以上の教員生活の中で常にこれを座右の銘とし,心がけてきた。それは今までに私自身が良い教師達に出会って来たためと思う。 退職した今日,私は少しずつ "学び直し" を開始している。「本来,勉強は面白く楽しい」のである。野口悠紀雄氏も多くの著書の中で,いつもそれを強調している。
私の父は,定年退職後,直ちに油絵の道具一式を買い揃え,自宅の2階の部屋を自分のアトリエとし,たくさんの絵を画き始めた。展覧会に出品し入選しては喜んでいた。 若い頃に好きだった油絵制作が,戦争(負傷した父は傷痍軍人となった)や,その後の日常の仕事で中断させられていたのが心残りで,"退職後は油絵制作を再開するぞ" と, 密かに強く決意していたのであろう。父が残した多くの作品のいくつかを私はもらってきて自宅の部屋の壁にかけてある。